第6話
俺は車道に飛び出た。佐島が後ろから自転車にベルを鳴らされたと気づく。風が佐島の耳を切るように過ぎ去った。車じゃなくて良かったと肝を冷やしている。
《死にはしないだろ。内臓を撒き散らして死にたかったか?》
『誰が死ぬか。自殺願望はないはず――だ。というより、仮に大型車に轢かれても内臓が飛び出たりしないだろう。骨折したり、弾き飛ばされてあたりどころが悪く頭蓋骨陥没ぐらいはあり得そうだ。って今のはD、冗談なのか?』
《俺は冗談は嫌いだ。俺は最短ルートを常に取り、お前の望みを叶えるだけだ。だから、今一番重要なことを質問する。お前は何になりたい?》
問いかけると佐島の足が止まり、後方から木材を積んだ大型トラックがやってくるのを凝視している。絵に描いたような自殺願望だなと佐島自身が呆れて歩き出す。トラックはクラクションの一つも鳴らさず、時速六十キロぐらいで佐島の脇をすり抜けて行く。
「とりあえず帰るか」
動揺を抑えきれない、うわずった声だ。
《また粘土をこねるのなら賛成だが。一言言わせてくれ。臆病者》
『白昼堂々桜に火を点けて捕まる方がいいのか? それこそ馬鹿だ』
俺は陽気にキューピー三分クッキングの曲を鼻歌する。『おもちゃの兵隊のマーチ』という曲名だ。
《火が足りない》
ぽつりとこぼして、桜舞う車道を大股に歩く。俺がどこに向かおうとしているのか佐島には分からない。いいや、分かっているのに見て見ぬ振りをしている。
佐島は目をしばたく。火に興奮するような性癖はないらしい。もし、心躍る瞬間があるとすれば、粘土を窯で焼くときの完成を待ちわびる高揚感だろうかと自問自答している。
待てと佐島は声を上げそうになって、実際には上げなかった。花吹雪が佐島の頬に張りついた。鬱陶しい桜と早くさよならしたいと思っている。
《いや、桜を消せばいい》
『Dはどうしても桜を燃やしたいのか。なんの考えもなしに簡単に言いやがって』
佐島は自宅に向かって南下する。地下鉄の駅とは逆の方向だから、通行人は減る。
南H公園が近づいてきた。まだ大人は宴会気分で桜を満喫している。あの輪が許せないと、佐島は目を伏せた。このまま自宅アパートを目指すつもりか。
一人の子供が「うちに帰ろうよ」と言ったのが耳に届いた。大人は誰も相手にしておらず会話のネタが尽きないのか誰かの一言に大笑いしている。
「まだポッキーが残ってるしね。食べきらないと帰れないわよ」
母親らしき女性の声に子供がぐずった。食べ終わるまで帰れないって、どこのバラエティ番組だろうか。
佐島はアパート前を通過した。
《早くしないと伯父さんが来るぞ》
佐島にも分かっている。日が落ちる前に放火するしかないと。だが、気が進まないらしい。『放火って、明らかな憎しみの標的があるからやるものじゃないのか?』
《確かに放火の主な犯行動機は怨恨が多いらしい。俺たちは不特定のものに恨みを持つ》
俺がさりげなく佐島のことも勘定に入れたので佐島の頬が緩んだ。だが、俺はすぐに真顔に戻す。
『どれでもいいわけじゃない。やるなら、早くやってしまおう。そうだ、今もときどきごみ収集日を守らないアホがいる。そういうごみなら燃えやすいだろう』
佐島は自分の考えに身震いする。環境保護の名の下、ごみの分類が複雑化したK市でごみ出しの日を間違うなんてことは佐島だけでなく多くの市民がやったことがあるはずだ。
佐島の不安とは裏腹に、ごみ収集日ではない今日はどこも文字通りクリーンだった。
明確な憎しみの対象がある放火犯が羨ましいと佐島は思いはじめる。有名な放火事件の一つに関西圏だと史上最悪の放火事件があったが、佐島はあの事件と同じような手口でガソリンをまくことは躊躇う。威力を恐れ、ごみにマッチぐらいで十分だろうと思っている。
俺は火力については譲歩した。俺が放火するとして、規模を決めるのは佐島自身だ。
佐島は自身には陶芸の才能はないと落ち込みはじめた。桜が就職活動を連想させ、そこから本当にやりたいことを想起させる。才能がなくても佐島は陶芸がやりたいはずなんだが。俺は理解に苦しむ。ロクロを回してもっと佐島と笑い合えたら。
佐島の不安はより深く落ちくぼんでいく。
仮に美大を受験していて、合格していたとしても佐島は先がないと思い込んでいる。陶芸で個展を開くような度胸もない。焼いた作品に値段をつけて売りさばくなんていう方法もおそらく取れない。自分の作品は自分の中だけの美術館に仕舞われるだろう。だから、金が必要で就活が必須で、内定を取る必要があると世間一般の価値観に流されている。
佐島の目に涙が浮かんだ。交差点を無表情で通り過ぎる。監視カメラには映っているだろう。だからなんだと佐島は急に強気になる。
『放火はしていない。今日したことは陶芸とライターをちらつかせたことだけ。あと、父の冤罪の捏造』
俺は噴き出す。
佐島は南H公園から高速道路の高架下を通り、さらにK市の繁華街から遠ざかるべく南下する。川沿いをゆくとやがてK港に着くだろう。
俺は歩き疲れて足が痛くなってきた。いっそ埋め立て地にあるK空港まで行こうと佐島が提案するが冗談が過ぎるだろう。無人運転の電車に乗る金がもったいないことは自分が一番分かっているだろうに。
佐島は潮風が鬱陶しく、粘り気のある臭気に感じている。心地よい空気などないんだとぼやく。地球上のどこにいてもこの就職できなかったこの二年間は閉塞感がある。俺はそんなことは気にしないと言ってやろうとしてやめた。佐島の怨念なくして俺は活発に行動できない。
佐島は汗ばんできて歩く速度に辟易した。足は俺が操っているのかと疑っている。
そうかもしれないな。
佐島の靴底が熱を帯び、足裏をアスファルトが反発すると佐島は感じているのかもしれない。大きな倉庫を横に望み、そのまま港の方に向かうので俺は足の向きを変えてやる。左足を軸にピボットターンする。遠心力で佐島の魂は投げ出されそうになっていた。
『D、急にやめてくれよ』
俺はO球戯場の小道を通る。ここもわずかながら桜が咲いている。自転車に乗った主婦が桜に見とれて脇見運転。まったく、春は厄介だ。春の交通安全運動は三月の桜の時期にやった方がいい。
そうこうしているうちに広大な敷地のO浜公園に到着した。高速道路にぐるっと囲まれた芝生の公園だ。
『一体、こんなだだっ広いところでD、お前何をするつもりなんだ』
俺は人目も憚らずそっと寝転んで空を仰いだ。ピクニックに来ていた親子がビニールシートを片づけて帰って行く。午後三時。何かを始めるには億劫な時間だ。
佐島はさきほどの遠心力を気にかけている。佐島のために俺が佐島のハンドルを握るだけだ。怖がることは何もないはず。
佐島は草の上で仰向けになっていると、人間も野生だった時期があるのだろうかと悩んでしまう。が、蒼穹がそんな不安も飲み込んだ。春にしては薄雲の合間にはっきりとした蒼が見える。あの一番濃い群青色の向こう側が宇宙だと思うと、早く地球なんか隕石で潰れてしまえと限りなく可能性がゼロの空想している。隕石は五年に一回は日本に落下しているのに、当たった人の話は聞いたことがない。案外、『地球滅亡』は映画の題材では珍しくないのに、実際には非常に起こりにくい現象のようだと佐島はうつらうつら考える。
《人間も野生に還るべきだ》
『野生ってなんだよ――』佐島はふてくされる。
身体が重いらしいく重力を肌で感じている――。
惑星の上に乗っているのか、地球のコアに引き寄せられているだけなのかと佐島は思案する。佐島のシャツを通して俺の背中に芝生の葉の尖って痛い感触が伝わってくる。
佐島が野生動物になったら、弱肉強食の世界で負けるだろう。ライオンやイノシシと戦うというのではない。人間同士で争うことも将来的にないとは言い切れない。佐島の腕っぷしは強くないし、そもそも腕力の『わ』の字も知らない痩躯なので、争いには向いていない。だから明確に春という抽象的なものを目の仇にできる俺を羨ましがる。
「ああ」佐島がため息をついたが、声らしい声は出なかった。ひゅうという小さな喘鳴が零れる。口の形をしっかり『あ』に形成していないからだ。
《お前には声があるが》
『Dにはない?』佐島が口で呼吸し、胸が大きく上下する。
《早く歩ける足もある》
佐島は早歩きが好きではない。息が切れて動悸を感じるからだ。
《行け》
『仕方がないな』
《春を殺しに》
佐島が動かないので、俺は背中に突き刺さっていた芝生の草から離れて起き上がる。
佐島はお願いだからもうやめて欲しいと思っているに違いない。涙が目元に浮かんでいた。何が悲しいのか。
俺は満面の笑みで足を繰り出し駆け出しているんだから、悲しいはずがない。二度三度と軽快に回ってみせる。佐島は俺のことをふざけたお子さまかと、怒鳴る気力もない。
何度も回転したことで佐島の目が回っている。佐島の目に飛び込んできたのは陽炎で霞む高速道路、O球戯場の小道、青い芝生。それらがずっと周りを回り続けているのが俺にも見える。佐島はロクロに乗せられた粘土を思っているはず。ロクロの上はもっと速い。遠心力により濁った水滴を飛ばす粘土。押し広げられたり引き上げられたりする中で、余分なところは最後にはこそげ取られる。
佐島は転倒する。お互いに痛覚はなく、佐島は俺から引き離される。俺は平然と元来た道に舞い戻っていく。佐島は慌てて身体を立て直した。とはいえ、佐島は俺から放り出されてしまった。
『Dを客観視したいと願ってきたけど、これじゃ幽体離脱だ』
《けっこうなことじゃないか。さぁ、どこから放火しようか?》
放り出されたといっても、佐島は俺の中にいた。放り出された幻を見た。そうしないと、俺が肉体の権利を得たことを納得できないんだろう。俺の肉体が大股で闊歩すれば、佐島の足もそれに従っている。はじめから佐島は俺だったのだから仕方がない。だが、まだ佐島は内なる声で俺に命令を下すことができるはずだ。
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