第3話
これから、日陰干しと天日干しをして電気窯で焼くまでに一週間かかる。この段階ですでに嬉しい。佐島には焼き上がってからの方がいいだろうと言われそうだが。
肩は凝ったし目も痛むが、達成感に胸が高鳴っている。
俺は粘土をラップに包んで片づけ、汚れの飛び散ったフローリングの床を拭き、最後に粘土のついた手を洗った。
俺の衝動ではじまり絶頂に達して終了した作陶は、佐島の無気力に取って代わられる。佐島はどっと五十代ぐらいに老けたようで、身体的疲労と空腹を訴えさっき買った水を冷蔵庫から取り出し喉を潤す。ミニ冷麺も取り出して椅子にも座らずに、立ったまま食べるためプラの皿にからしとマヨネーズを投入する。もらった割り箸でむさぼり喰い、からしに一瞬顔を顰めたが、マヨネーズを少し足してマイルドにして平らげた。
佐島のため息が一つ。
《どうした?》
俺が尋ねると佐島は不思議なことを考え出す。
「金がなければ生活保護だって受けられる。実際には働き盛りの二十代だと厳しいが、生きる権利ぐらい行政も与えてくれる。馬鹿みたいだ。人間はアニマル、つまり動物が二足歩行したにすぎないのに、金を稼がないと食にもありつけないなんて。野生動物のように、誰かに噛みついて息の根を止めてそれを食うという単純明快な食欲の満たし方ができたらいいのにな」
人間はアニマル、確かにな。欲求のままに行動するのは楽しいだろう。陶芸に関してもそうだ。
佐島は酔っぱらいのようにくだを巻いて不満を言った。
「俺は手を泥まみれにしてやったんだ。ロクロのせいで目も回って気分が悪い。吐き気がする。お前の趣味は金にはならない」
佐島は自分の本当のやりたいことを分かっていないな。
ベランダの窓から覗く晴天を佐島は睨みつける。一月や二月が懐かしいのだろう。
「陶芸は金にならないと分かっているのに」
《でも、俺がやってるのを止められない。お前も好きなんだろ、陶芸。金なんか欲しくないと思っているのもお前の方だ》
佐島は残った水を冷蔵庫に戻し、ミニ冷麺のプラの皿もプラ入れ用ゴミ箱に捨てた。自分の一挙手一投足に嫌気が差しているのか、顔が青い。
《もう一度回してみたらいい。金になるかやってみるんだ》
佐島は面倒くさがった。俺が床も綺麗にし一度片づけてしまったので、もう一度机の上に色々広げるのが億劫なようだ。それに時間が惜しいと考えている。何をそんなに慌てているのか佐島自身分かっていない。俺は佐島が脳裏に桜を思い描いていることに気づく。
「内定の取れない俺には時間は無限にあるに等しい」
いや、お前の心配ごとはそれじゃないし、感極まっていやしないか? 佐島の自虐的な笑みに俺は仕方なく頷いてやる。佐島は気をよくして話し続ける。
「もう一度はじめからやるのも構わない。一つ皿を作って、片づけてほかにどんな用事があるんだD?」
《用事ならあるだろう。今日は許せないものを見た。桜だ》
佐島はベランダの窓を凝視する。桜は一本も見えないが、もし見えていたら燃やしたくなるような苛立ちが募ってもおかしくない。佐島は歯ぎしりする。
佐島は作陶より桜に心動かされていた。いや、心乱されている。
俺は世話の焼ける佐島のため、先ほどの工程でキッチンのテーブルに新聞紙から粘土板までセッティングする。黙々とこなす一連の動作に佐島はまた一つ感傷に浸る。
「Dが持っている熱意だけど、全教科で活かしてくれればって進学するときに担任の教師に言われた。中学の担任だったかな。もう名前も憶えていない」
《田中先生》
俺は早くも粘土を取り出し、荒練りしながら教えてやった。俺の記憶力は自分を酷評した先生に対しては冴えている。
《あの教師は俺が帰宅部だと追及してきた。だから俺は家で暇しているわけではないと伝えたのを忘れたのか、お前は。陶芸部があれば入部していた。あの教師は家庭訪問で俺の作品を勝手に見物してこの熱意を他に向けられないかと聞いてきた》
佐島は乾いた声で笑う。少しは腹立たしさを共感してもらえたか? 他ってなんなのかと思うだろう? 通っていた中学校は吹奏楽部の強豪校だったから、そちらに入部して欲しかったのかもしれない。もしくは、勉強をしろということだろうか。どちらもごめんだったが。
俺は二つ目の作品は湯飲みにしようと決める。陶芸がやりたくてたまらない。こねているだけで心が落ち着く。たぶん粘土をこねる速度は遅い方だろう。俺も佐島もプロではない。空気を抜くための均一な動きをユーチューブの陶芸動画と同じように再現するだけなのに、いつまで経っても練り方は上達しない。
菊練りに入る。菊練りは修行が必要と聞くが、何ができているのか、どこが悪いのかは未だに二人とも分かっていない。
俺は粘土を電動ロクロの上に置き、ある程度水で湿らせる。粘土がよれよれと動かなくなってから粘土を細長く伸ばす。てっぺんを平らにし、親指で円柱の中央に迫っていく。両親指でてっぺんの穴を深く下に掘り下げ、それから粘土を抱えるようにして湯飲みを縦に伸ばした。さらに湯呑の内側と外側で手を添えて丁寧に厚みを調整する。ほっと一息ついたら、湯飲みはお椀になろうと横に口を広げている。俺は冷ややかに自分の腕のなさに絶望し、湯飲みを細くしようと外側から触っていく。湯呑の口を整えて完成だ。大皿よりは楽にできた。
まずまずの出来に満足したので、今日はもう佐島に肉体のことは任せて消えてしまおう。最後にまた手を洗って佐島の奥に俺が消えた瞬間、電話がかかってきた。一人暮らしをしても固定電話は必ずつけろとうるさい伯父さんの命令で取りつけた固定電話が鳴っている。
佐島は手を念入りにタオルで拭き、電話をさんざん待たせてから子機に出る。
「もしもし、伯父さん?」
佐島には電話の相手は伯父さんとしか考えられなかった。
「ああ、元気にしているかダイ。内定は取れたか?」
いきなりなんの前触れもなく電話をかけて来て、佐島が一番気にしていることを告げた。腹が立った佐島は内定なんて取れるわけがないと言い返したいが、ぐっと堪えている様子だ。
「週に一度ハローワークに通ってるし、ネットで求人情報も見てる。うん、内定はまだ。でも、書類選考頑張るよ」
「まだ面接まで行っていないのか。面接なら簡単だ、リハーサルをしてやろうと思ったんだがな」
声は冷淡で、あからさまに落胆しきっていた。ため息をついていなくても吐く息の一つ一つが電話越しに聞こえるようだ。
「また、今度いい報告ができるように、頑張るよ」
佐島がまた今度という常套句を編み出したのは春になってからだ。
「大手は今若い人材を求めているんだ。お前も早く決めないと、来年二十三だろう? 企業は年を食うと嫌がるぞ」
伯父さんは今、中小企業の人事を務めている。佐島にアドバイスではなく、社会的なペナルティを説く。佐島が内心毒づいた。『社会がなんだ。俺はDが生き生きと息づくのを楽しみにしているんだ。俺は自分が自分でなくなる就職活動に辟易している』と。そうだったのかと、俺は佐島に小声で頑張れとエールを送る。
佐島の俺に対する評価は爆上がりだ。
『Dはただ根暗な俺とは違う。明るいわけではないが、夢はなくとも希望に溢れ、地道な作業も苦にせず、食事も必要としないほどにエネルギーに満ちている。無我夢中で一つのことに没頭する』
褒められると気持ちがいいものだ。
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