エブリナイト・ノッキングハンマー

柏望

災難な人

「死ね。死ね。死んで償え」


 父の名前を書いた藁人形に釘を打ち付ける。お母さんを捨てた裏切り者を許せなくて、丑の刻参りで毎晩呪っている。


 最初はすごく怖かった。零時をとっくに過ぎている、誰もいない神社の森の中にたった一人でいるのだ。自分の足音さえも誰かが追ってくるように聞こえた。恐ろしくてしかたなかった。


 でも、もう四度目だから。


「死んじゃえ。死んじゃえ。死んじゃえ死んじゃえ。死んでしまえ」


 久木永太という名前のど真ん中に深々と釘が刺さっていく。汗が目に入るのも。釘を打った時の木槌の反動で腕がジンジンと痛むのも。もう気にならない。


 あの人がいてくれたなら、お母さんは壊れずに済んだのだから。


心晴こはるはお母さんと来てくれるよね』


 一振りすれば鈍い音がして、指の先から足の裏まで衝撃が伝わる。


『ねえ。心晴も私のことダメな母親だと思ってるんでしょ。本当のこと言ってよ』


 木槌が自分の手や腕に当たってもやめられなくなった。昨晩は釘が木にめり込むまで呪い続けた。きっと今晩もそこまで続くだろう。


『なんで私を笑うんだ。私がお前になにをしたって言うんだ。パパに言われて見張ってるんだろ。出てって。出てけ。消えちまえ』


 離婚するまでにお母さんはいっぱい苦しい思いをした。支えてあげたかったから、一緒に家を出たのに。


 家を出て二人暮らしが始まってからのお母さんはとても寂しそうで。日々できることは減っていって、仕事も休職してしまった。泣いたり怒ったりするとき以外は気だるげに寝転ぶことしかできなくなっていた。


 家族が揃っていた頃が、夢にも浮かばないほどすべてが変わってしまった。


「お前が。お前が。ちゃんとお母さんのそばにいてくれれば。お母さんは。今だって。優しい人のままだったのに! 」


 数か月ぶりに外へ出たお母さんはそのまま警察に捕まった。逮捕はされなかったけど、措置入院になって帰ってこない。お医者さんの判断で、面会もできていない。


 お母さんは強い人ではなかったかもしれないが、こんなに苦しまなくてもいいはずなのに。離婚なんかしなければこうならなかったのに。お父さんが、もう少しだけ優しければきっと今は違っていた。だから呪う。


  喉が涸れても木槌を振り続ける。涙で前が見えなくなっても腕が止まらない。丑の刻参りをして何になるのかなんてわかっている。わかっているけれど、他に何をすればいいのかわからないからやるしかない。


 ひょっとしたら。お父さんが本当に呪われて死んでくれるかもしれないから。


 上着に入れてあるスマホが震えだす。今晩の丑の刻参りもこれで終わりだ。もっと木槌を振っていたいけれど、唇を嚙んで我慢する。しかたない、自分で決めた時間なんだから。


 初めて丑の刻参りに挑んだ時は、釘を幹に刺してすぐ逃げた。でも、二回目以降は歯止めが利かなくなってしまった。


 丑の刻参りを成功させるためには、家を出てから一定の時間が経過するまでに帰らなければならない。だからアラームをセットして、その時間になったらすぐに引き上げるようにしている。


「体育あったんだっけ。すぐ寝ないと」


 名前を書いた藁人形を木に打ち付けても、心は軽くなったりしない。でも、先の見えない生活は、頼れるものがなければ崩れ落ちてしまいそうで。気づくと、丑の刻参りが唯一の生き甲斐になっていた。


 丑の刻参りがあるからこそ、ご飯が食べられる。シャワーを浴びられる。お母さんみたいにいきなり暴れたりしない。今日もなんとか自分を保って生きている。


 だから、丑の刻参りのことは秘密にしてきた。家と神社を行き来する時も、怖さに耐えながら人目を避ける道を選んできた。


 もうすぐ家に着くと思ったのに。どうして夜の三時に人がいるんだ。


「お前。どうしたんだよ」


 お互い街灯の陰にいるから顔も姿もわからないけれど。丑の刻参りは絶対に見られてはいけない。ネットで見つけた説明が頭に浮かんだ。


 男性の声だけど、同級生くらいに聞こえる。お父さんみたいに大人じゃないなら、私にだってやれるのかもしれない。


「そんなカッコしやがって、なんもなかったわけないだろ」


 やつれた顔をファンデで真っ白に塗った白い服の女。ホラー映画から出てきたような格好の私に、闇の中にいる彼は驚きながらも心配しているようだった。


「大丈夫だよ。私ね、蝶野ちょうのっていう名前なんだ」


「お、おう。俺は迅だ。なんだってこんな」


「よろしく迅くん。ちょっと長いけど聞いて欲しいな」


 返事をしてみてよかった。迅くんは話を聞くつもりで警戒を解いてくれた。口調はちょっと荒っぽいけど、私を心配しているのが伝わってきて嬉しかった。


 迅くんなら事情を話したら理解してくれるかもしれない。でも、丑の刻参りはやめられない。


「お母さんがね。うぅっ」


 袖に顔を隠してよろめくフリをすれば、迅くんが駆け寄ってくれる。必死な表情の彼から視線をそらしながら、無防備な頭めがけて思い切り木槌を振り下ろす。


 鈍い音と重い衝撃が届いた。


 間違いない。ちゃんと木槌は当たっている。


「や。やったの。こんなのでいいの」 


 当たったから、彼は倒れて動かないのだ。


 ピクリとでも動いていたら、迷わずトドメを刺していただろう。でも迅くんはじっと動かない。


 死んだかどうかは確認してみないとわからなくて。死んでいることをどうやって確認すればいいのか考えるうちに、頭が冷静になった。


「嘘。一回で死ぬわけないもん。人殺しなんてこんな簡単でいいわけないでしょ」


 私は子供で女だから。迅くんは男の子で強そうだから。一回しか殴らなかったから。金槌なんて使ってないから。彼が死んでない理由はいくらでも言える。


 だからこそ、たった一回殴られただけで人が死ぬなんて信じられなかった。


 もしかしたらまだ生きているのかも。声をかけたら目を開いてくれるかも。荒くなっていく息を止めて、手を伸ばしたが。


「でも。どうするの」


 迅くんが目を覚ましたとしても、丑の刻参りのためにまた叩くのだ。ここにいること自体が、見つかるリスクにもなっている。


 あと少しで迅くんに触れる指を戻して、背中を向けて逃げ出した。


 家に着いたらすぐ白粉の代わりにしているファンデを洗い流して、シャワーを浴びる。栄養食をスポドリで流しこんだら横になって、予定通りに登校を始める。


 人を殺したかもしれないのに昨日までと同じことができていた。丑の刻参りなんてやましいことをしているからだろうか。胸が苦しいけれど、やめるなんて選択肢も考えられない。


 終礼が終わったらすぐ新しい木槌を注文した。届くまでの間、少なくとも今夜は人を殴った木槌を使うしかない。昨日の一撃で傷んでいないか確かめようとして、手にした木槌を思わず放り投げた。


 迅くんを殴った方の面が、うっすらと赤く滲んでいたからだ。


「やっぱり、殺しちゃったんだ」


 木槌を思い切り叩きつけた記憶が蘇る。藁人形を木に打ち込んでいる時の何倍も重くて冷たい感覚が鮮明に再生される。


 丑の刻参りが成功したとしても、お母さんが帰ってきても、この悪寒は一生消えないだろう。


 迅くんは倒れるその瞬間まで私の心配をしてくれた。私なんかが一撃を加えられたのも、彼がなにも疑わずに私を助けようとしたからだ。


 暗闇の中で顔は見えなかったし、声もちゃんと聞く余裕がなかった。私がはっきり思い出せるのは地面に崩れた姿と頭を叩いたときの衝撃だけ。


 暗くなっていた部屋で気づいたら手を合わせていた。


「ごめんなさい」


 迅くんを襲ったのは自分で、理由も自分勝手だけど。彼には生きていて欲しいし、出来ることなら無傷でいて欲しい。


 朝のニュースや学校に置いてある新聞で、昨晩のことを必死に調べたけれどなにも見つからなかった。クラスの噂にもなっていない。迅くんの遺体はまだ誰にも見つかっていないのかもしれない。


 ひょっとしたら迅くんが生きているのかもしれないけれど、そんな幸運を祈ってもしかたがない。捜査は秘密裏に始まっているのだろう。


 私がどんなに祈っても、頑張っても、家族はバラバラになったのだから。そう遠くないうちに私も捕まるはずだ。


 人間がたった一回だけ木槌で殴れば死ぬと知っていたら。丑の刻参りなんかしないで、私が直接お父さんを殺しに行ったのに。


「そうか。そうだよ」


 丑の刻参りに行っていたのは、私がお父さんを殺せる自信がなかったからだ。どれだけ恨んでいても、人を殺すなんてできないと思い込んでいた。でも今は違う。なんの恨みもなければ罪もない人を、木槌なんかで死なせてしまったのだから。


 もし相手が本当に憎んでいる人だったら。握っているのが木槌じゃなくて金槌とかのもっと重くて硬いものだったら。簡単にやれそうな気がしてくる。


「噂になるとかあるかもだし。準備は今から始めちゃおっか」




「やー。心晴こはるはそんなに点数を取れるのか。すごいな。志望校どこだったっけか。全然平気なんじゃない」


「そんなことないよ、お父さん。A判定だけど、滑り止めで入ってくる人のことも考えないと」


「そうなのか大変だなぁ。パパ、受験でめちゃくちゃ苦労したからなぁ」


 離婚した後もお母さんはお父さんの様子を聞きたがった。


 だから、月に一度の面会日には必ず会いに行く。妻を捨てたくせに娘とはまだ家族だと思っているような態度が憎くてしかたがない。


 今日まではお母さんのために我慢してきたけれどもう違う。


 裏切り者を殺す二度とない機会だ。万全を期す。


 考えていることを見抜かれないように、今日はお母さんの話題を避ける。私の話を聞かせて、お父さんを喜ばせることに終始した。


 二時間なんて、あっという間に過ぎるのだから。


「おっと、もうついちゃったか。心晴といると時間があっという間だ」


「嬉しいな。でも、お母さんが心配しちゃうから今日はこの辺で。ね」


「まーそうか。今日の日はさようならだ。ママによろしく。じゃあね」


「うん。バイバイ」


 最寄り駅まで送ってくれたお父さんに、笑顔で別れの挨拶をする。


 改札に行ったフリをしたあと、少し戻って駅の出入り口を見張る。しばらく待てば揚々と家路を辿るお父さんの姿が見えた。あの人の頭の中では、お互いがお互いの家に帰る時間になっているんだろう。


 私は行かない。お父さんも来ない。それぞれの家へと。帰る時間に。


「今日はこっちにおいでよって言われなかったな」


 しつこいくらいに誘われて毎回断っていたはずなのに、ないとこんなに気になるものなのか。それにこの後がどうなろうと、同じことはもう聞かれない気がする。


 私と同じで、お父さんもなにかの踏ん切りがついたんだろう。


 お母さんと一緒で、私も捨て置かれた人間になったのだ。少しでも辛さをわかってあげられるなら、悲しいことでもなんでもないじゃないか。


 小さくなっていくお父さんの後ろ姿へ、ゆっくりと一歩踏みだした。


 お母さんと離婚してからも、お父さんは引っ越しをしなかったらしい。追っている道筋は、以前の私も使っていた家への帰り道だった。


 遠くで雷が鳴っている。天気予報は曇りだったが、雨がこれから降るのかもしれない。折り畳み傘とかレインコートなんかをお父さんは持っていかない。雨が降り始めれば、頭の中は早く家に帰ることでいっぱいになるだろう。その隙を狙う。


 カッターもナイフも包丁も持ってきた。持参した刃物のどれかを、お父さんの身体のどこかに刺せばいい。刺しただけでは死なないかもしれないが、動けなくなるだろう。


 不意に襲われて無防備になった頭を、金槌で滅多打ちにする。


 たった一回殴っただけで、迅くんは死んでしまったのだ。お父さんも、ここまでやって死なないわけがない。


 雷鳴が近づいて、雨粒も落ちてきた。お父さんも上を仰いで、空の様子を窺っている。


「早く来てよ。お父さん」


 このまま身を隠し続ければずぶ濡れになってしまうかもしれないが、待つ以外に選択肢がない。逃げ道や予備の襲撃地点を念のため確認しておこう。


 振り返った暗闇に、人影が一つ佇んでいた。


「おい。なにしてんだ」


 後ろに誰もいないかはだいぶ気にしていたのに、なんで見つかるんだ。上手くいくかはわからないが、まずはこの人を始末しなくては。


 鞄にある包丁を掴んだ手が止まる。


 ダメだ。声や輪郭で男の人だとわかる。真っ向からやっても勝てるわけがない。騒ぎになれば計画は絶対に失敗する。説得するのは難しいかもしれないが、裏切り者が近くに来るまでの時間を稼がなければ。


「なにって。雨が降りそうでしょ。傘を出さなきゃだから」


 包丁を取り出すのをやめて、傘を探すフリをする。丑の刻参りも、最初の人殺しも、上手くやった。やってしまった。あと少しというところで見つかっただけじゃないか。


 どうということもない。この逆境も乗り越えてみせる。


「しばらく雨宿りかなって思ってたけど。探したら持ってきてたじゃんってこと。あるよね」


 話しかけながら、声をかけてきた彼の様子を窺う。


 靴はスニーカー。シャツにハーフパンツの普通の格好。体格は同級生くらいに見える。怪しまれているのはしかたないけど、今すぐ襲ってきそうな様子もない。時間稼ぎなら難しくないだろう。


「私って荷物持ちなんだよ。手間取っちゃって。えーと」


「芝居なんかすんな。お前がなんかやらかすのはわかってるんだよ」


 包丁の柄を思わず握りしめた。取り出すのを抑えたのは、襲うつもりなら声なんてかけてこないのを知っているからだ。お父さんを殺そうとしている私がそうなんだし。


 今は落ち着いて、普通の女の子のフリをするしかない。


 怪しまれている理由を聞き出して、誤解だと丸め込めばいいんだ。


「どうしてそんなこと言うのかな。わかった。傘に入れて欲しいんでしょ、いいよ。近くまでなら付き合ってあげる」


「さっさと鞄から手を出せよ蝶野」


「なんで私の名前知ってるの」


「一発ぶん殴られたくらいで死にはしないけどな、文句の一つくらい出てくるんだ」


 ここまで話せば朧げな記憶でもはっきりわかる。間違いなく、目の前にいるのはあの夜に殺したはずの迅くんだった。


「それはそうだよね。ごめんなさい」


「謝って欲しいんじゃなくてだな」


 なんとか無事だったみたいで心から安堵した。でもそれはそれ。


 適当に話を合わせながらお父さんのいる方向を探ると、雨よけに荷物を頭の上にかぶっているのが見つかった。まだこっちには気づいていないようだ。わき腹がむき出しなのも都合がいい。


 あと数十秒でお父さんが来る。それまで時間を稼ぎきるんだ。


「なんか探してるな。とりあえず持ってる鞄を渡してもらおうか」


 視線で誰かを狙っているのがバレてしまった。傘を探すフリも限界だ。とうとう迅くんがこっちに向かってくる。


 逆境だと思っていた状況が、刻一刻と更に悪化していく。ここは出直すべきか。いっそ逃げるべきか。軟弱な意見が浮かんでしまう。


 お父さんがここに来るのはもうすぐなのに。


 雨粒が涙と混ざって頬を流れると、ふと考えが浮かんできた。


 時間がないということは、お父さんを殺せる時間がもうすぐだということなんだ。だからこそ、今ここでやり遂げなければならない


 家族のすべてがメチャクチャになっているのだ。辛いことなんかもう耐えられない。考えたくないし、やりたいこともない。そんな環境も気持ちも自分も嫌だ。なにか一つやり遂げて、心晴れやかになってみたい。


 お父さんさえ殺せたら、後はもうどうなってもいいから。


「見つかっちゃったしもういいか。いいよ、こっち来て」


 逃げるために使うルートは、迅くんに塞がれてしまった。だからなおさら、刺すために隠れる場所は動けない。


 止めたがってるのは迅くんなんだから、私を信じてここまで来てもらう。


「逃げようって気はないみたいだな。よかったよ」


「包丁渡すから。ちょっと大きいけどびっくりしないでね」


「そもそもなにがあったんだお前。あっぶねえな、刃物はなんかで包めよ。手とか鞄とか切るぞ」


 私に刃が向かないよう丁寧に受け取ってもらえた包丁は、家で一番大きい出刃包丁だ。嫁入り道具の一つだった重い鉄の塊は、お母さんがとても大切に扱っていたのを覚えているから。


 裏切り者に絶対ぶっ刺してやろうと決めていた。


「綺麗な刃してるでしょ。お母さんに研ぎ方教わってたから、昨日から家にいる間中ずっと研いでたんだ」


「仲いいんだな」


 雷鳴が鳴り響いた瞬間、なにか言おうとする迅くんの横顔を金槌で思いっきり殴った。釘とかを打つところじゃない横の部分だから、死にはしないだろう。


 骨くらいは折れているかもしれないが。


「私なんかのこと、ずっと心配してくれて嬉しかったよ。でも、家族の問題に関わらないで」


 不意打ちはまた当たったが、迅くんは前みたいに倒れない。膝をつきながらも耐えている。驚いたけれど、流石にしばらくは動けないだろう。


 あとは裏切り者を刺しに行くだけだ。捕まるかもしれないと毎日怯えて過ごすのはこりごりだし。息の根を止めたらすぐに警察を呼んで自首しよう。


 一緒に救急車も呼べば、迅くんにかかる迷惑も少なくなるはずだ。


 ぽつぽつと降り始めた雨が、一瞬でどしゃぶりになった。鞄からナイフを取り出し、路地裏から顔を出す。


 迅くんとのやりとりで時間を使いすぎた。お父さんはとっくに目標地点を通り過ぎている。大丈夫、すぐに巻き返せる。裏切り者の背中は、走ればすぐ追いつく距離にあるんだから。


 ナイフと金槌を両手に握って一歩踏み出そうとした瞬間、小さい女の子の声が雨を通り越して聞こえてきた。


「ぱぱー! 」 


 小さな女の子の声が聞こえたとき、一瞬立ち止まった。お父さんがなぜか傘をさしているのに気づいたとき、もう一度立ち止まった。もう一度踏みだす前に、お父さんがあの子を抱きあげるのが目に入ったら、もう一歩も進めなくなっていて。


 よろめきながら立ち上がった迅くんに、路地裏へと引きずり込まれた。


「あのおっさん子供がいたの見ただろ。巻き込むな」


「私だってお父さんの子供だよ。なんにも知らないくせに」


 今すぐ戻ってお母さんの無念を晴らさなければならないのに。あの子供がどうしてお父さんをパパと呼んでいるのか聞かなければならないのに。私と入れ替わるように表通りに出た迅くんは、両手を広げたまま一歩も動かない。


「どいて。私がやらなきゃいけないの。じゃなきゃお母さんがかわいそうだから」


 金槌で何度も叩き続けたけど、迅くんはひとこえも動かなかった。身体中に何度も金属の塊をぶつけられているのだ。痛くないはずがないのに。


「黙ってないでなにか言ってよ! 」


 無我夢中で殴り続けたので、息が苦しくなってきた。一瞬動きが止まったとき、迅くんはすかさず私から金槌を奪った。


「悪い。親子だって気づかなかった」


「謝らないで。私が悪いみたいじゃん」


 悪いのは、私のお母さんを捨てたお父さんだけど。


 笑顔で抱き上げられていたあの小さな女の子から、パパを奪うこともできなかった。




「いいのか」


「大丈夫。迅くんずぶ濡れでしょ」


「もう止んでるから気にすんな」


 金槌を取り上げた後はずっと涙が止まらなかった。へたりこんで泣いている私を、迅くんは濡れないように雨から庇ってくれていた。優しい言葉とかはなかったけれど。誰かに縋れるというだけで思いっきり泣くことができた。


 お父さんはもう、あの女の子の家族になっているのだ。私と同じようにあの子にもお母さんがいるだろう。ひょっとしたら兄弟だっているのかもしれない。お父さんと、あの女の子と、二人を包んでいる家族のことが頭に浮かぶ。


 抱えてきたわだかまりは消えないけれど。透明になってしまったように触れることができなくなっていた。


 家族を蔑ろにされたから怒ったのだ。自分があの女の子の家族をメチャクチャにできるわけがない。


「ごめんなさい、いっぱい殴っちゃって」


「二度とやるなよ」


 迅くんには本当に申し訳ないと思っている。でも、家族が離れてからこんなに心配してもらったのは初めてだった。頼りたくなるのも、しかたないじゃないか。


「もう少しだけ、付き合って欲しいんだけど」

 



「藁人形はこれで全部だよな。埋まってる釘までは抜けない、悪い」


「これで十分。話もいっぱい聞いてくれてありがとう」


 お父さんを許すことはできないないけど、呪うのはもうやめる。丑の刻参りで木に打ち付けた藁人形も回収することにした。木に打ち込んだ釘を、迅くんに頼んで引き抜いてもらいたかったのだ。


 藁を切ったり、釘を抜いたりするのは意外に時間がかかった。気づけばお互いの家族の話になっていて。


「母親をそんな風に思えること、尊敬するよ。家族の話なんかしないからな、話すのも聞くのも新鮮だ」


 迅くんのお父さんは彼が産まれる前に姿を消した。お母さんも中学を出る前に家を出たそうだ。父親によく似ている迅くんは、お母さんから私が耳を疑うほどに酷い扱いを受けたらしい。


「親父は指名手配犯だからな。交番に顔を見に行ったがそっくりだった。ありゃしかたない」


「しかたないって。そんな理由で許せるの」


「殴るのも殴られるのも気分が悪いだろ。出て行ったのは、お互いに幸せなことだ。よかったよ」


 悲しすぎるとは言えなかった。迅くんは本気でそう思ってるようだし。家族がいないことに悲しみを感じない自分を責めてしまいそうだったから。


 迅くんは家族という概念に思うところがあるらしい。だから私にここまで付き合ってくれたのだ。今日の出来事は彼を精神的にも傷つけてしまったに違いない。


 申し訳なさと不甲斐なさで息が詰まるようだった。


「よかったって」


「いいことだと思ってるぜ。今日のこともな」


 何気なかったからこそ、今の迅くんの言葉が嬉しい。ずっと支えてくれた迅くんに、私もなにかお返しがしたくなった。


「お礼。ちゃんとしないとね」


「気にすんなよ」


 そんなこと言われても気になるじゃないか。同じとは言わないけど、お互い家族に対して複雑な思いがある。誰も帰ってこない家にたった一人で住んでいる高校生なんて、探しても見つからない。


 運命だとか神様だとか。今まで呪ってきたものが祝福してくれたみたいで冷めた心が暖められていくようだった。迅くんともっと話したい。彼のことをもっと知りたいし、私のことも知って欲しい。


 だって迅くんは、私を逆境から導いてくれた白馬の王子様なのだから。


 ちょっと目つきとか雰囲気とか怖いけど、気のせいかもしれない。真夜中の神社なんておどろおどろしい場所なんだから。場所的なホラー要素を差し引いて迅くんを眺めると、どんどんカッコよく見えてきた気がする。


「うん。もう夜遅いし、これでお終いにしようか。お腹減ったでしょ、私の家近いからおいでよ。なんなら泊ってもいいから」


 勢いに任せてとんでもないコト言ったけど気にしない。悩むのも疲れた。しばらくは楽しいことだけしていたい。胃袋で彼氏を掴み取るとか。


 ここまで二つ返事でついて来てくれたんだ。きっと迅くんは押しに弱い。手とか袖とか掴んじゃえば逃がすことはないだろう。


 意を決して迅くんへ伸ばした指先は、彼が唐突に背を向けて歩き出したので空を切った。


「いいって。このくらい誰でもするもんだろ」


「え」


「この時間はまだ警察がうろついてるから気をつけろよ。じゃあな」


「は」


 手すら振らないで、迅くんはスタスタと闇の中へ消えてしまう。


 あんなに殴られたのにそんな軽い気持ちでやってたんだとか。ここまでついて来てくれたのにフラッと帰ってしまうのかとか。いきなり置いてかれて呆気にとられたとか。家まで送ってあげるくらいは、頼まれなくてもやってよくないとか。


 色々な思いがよぎったけど、だんだん腹が立ってきた。


 別れの挨拶ぐらい、きちんと顔を見せて欲しかったよ。


 勝手に期待しすぎたのが恥ずかしくて。誘ったのに来てもらえなかったのが情けなくて。頬が熱くなって、視界が滲む。叫び出したくなるのを手で覆って必死で我慢した。


 ジャンプし続けてなんとか落ち着くと、物騒な言葉が口から漏れた。


「殺す。絶対殺す」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

エブリナイト・ノッキングハンマー 柏望 @motimotikasiwa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ