第8話 彼女

放課後になるまで永那ちゃんとは話さない。

それは“”になっても変わらない。

こちらから彼女に話しかける隙なんてないし、彼女も起きていると友人たちに囲まれてこちらに話しかける隙がないみたいだった。

でも、頻繁に目が合うようになった。

目が合うたびに微笑んでくれる。だから私も微笑み返して、2人だけの秘密を共有しているかのような感覚になる。

心なしか、彼女の起きている時間が長くなった気がしてる。

私と付き合い始めたからかなあ?と、少し自惚れる。

私の休み時間は、特に話し相手もいないから、いつも読書の時間になる。

こだわりがないから、図書館の本を片っ端から読むことにしている。

今はちょうど恋愛小説を読んでいる。前までは恋愛に興味がなかったから、「ふーん」くらいしか感想が出てこなかった。

でも最近は何かの参考になるかと思って、真剣に読んでいる。


「永那~」

佐藤千陽さんが永那ちゃんを背後から抱きしめる。

佐藤さんは背が低くて、自然と上目遣いになっている。

目下、私の悩みは彼女だった。

私には“付き合う”ということが、まだあまりよくわかっていない。

恋人になったらどうするのか…例えば、周りの人に公表するのか秘密にするのか、友人とのじゃれ合いをやめるのかやめないのか、どのタイミングで2人きりで話せばいいのか…そんなような取り決めが、どんな風に2人の間で行われるのか。

あるいはそんな取り決めなんていちいちしなくて、自然と分かり合えるものなのか。

恋愛に疎い自分が、今まで誰の話にも関心を向けてこなかった過去の自分が、少しだけ憎い。

私は佐藤さんが永那ちゃんにベタベタと触れるのは、正直嫌だ。

そのことを“”の時に永那ちゃんには伝えた。でもその時「私だって、されたくてされてるんじゃない」と彼女は言った。

本人もされたくてされているわけじゃないなら、きっとどうすることもできないのだろう…と、自分を納得させようとするけど、なかなかこれが難しい。


私も佐藤さんみたいに、永那ちゃんに抱きつきたい。

いくら恋人同士になったからと言って、付き合いの長さで言えば、私よりも圧倒的に佐藤さんのほうが永那ちゃんといる時間が長い。

だから、2人のじゃれ合いに割り込んでまで、私が永那ちゃんに触れることなんてできるはずもなかった。それはあまりに不自然すぎる。

誰かの反感を買うようなことは、なるべくしたくない。

しかも、いざ話せる時間がきても…つまり放課後になっても、私は体育祭の準備で酷く忙しくしていた。

授業が終わると、永那ちゃんが話しかけに来てくれるのだけど、まともに話せる時間がなかった。


唯一、私達の関係が恋人同士なのだと実感できる時は、永那ちゃんから毎日連絡がくることだ。

体育祭の準備でヘトヘトになった状態でスマホを見ると「おつかれさま」という文言がいつも最初にある。

たったその一言で心が軽くなるから不思議だ。

「今日もあんまり話せなかったね」と、ひとすじの涙を流している絵文字が添えられる。

「体育祭が終わったら、2人でたくさん話そうね」と言われた時は思わず大きく頷いた。そして「準備頑張るぞ!」と気合が入る。

1日の始まりには「おはよう」と連絡がくる。

まだたったそれだけだけど、それだけのことがたまらなく嬉しい。

1人の時間にそのやり取りを何度も見返しているほどに。


「昨日の夜嫌な夢見て、それから全然眠れなかったの~。なぐさめて~」

佐藤さんが甘えるように言う。

「あれまー、それはかわいそうに」

永那ちゃんは困ったように笑いながら、彼女の頭を撫でた。

見たくないものを見てしまって、つい本で顔を隠す。

でも気になって、やっぱり見てしまう。

佐藤さんが嬉しそうに頭を撫でられていた。撫でられ終えると、撫でられた部分を自分でも軽く撫でて、口をすぼめながら嬉しさを噛みしめるように笑っていた。

目がキュルッとしていて、女の子らしい…と言えばいいのか…。つい守りたくなる存在という雰囲気が溢れ出てる。

私は…あんなに可愛らしくあれないな、と胸がチクリと痛む。


永那ちゃんと佐藤さんは同じ中学出身だったらしい。

佐藤さんが「永那にくっついてきた」と自慢げに話していた。

佐藤さんは、自分が誰よりも永那ちゃんのことを知っている、自分が誰よりも永那ちゃんとの付き合いが長いのだと、胸を張ってよく言っている。

そのたびに永那ちゃんにデコピンされて、「痛い~」と言いながら永那ちゃんに抱きついている。

2人は電車通学組で、毎朝一緒に通っているらしい。

正直、それも羨ましい。

そのことを付き合い始めてから思い出して、2人で遊んだ時に永那ちゃんが私の家まで送ってくれたことを申し訳なく思ったりもした。

それを彼女に言ったら「私が穂と一緒にいたかっただけだよ」と返されて、蕩けてしまいそうになった。


休憩時間の終了が近づくと、永那ちゃんは席についた。隣の席で漫画を読んでいる女子に話しかけている。

その子も私と同じように、友達が多い方ではない。でも永那ちゃんがいろんな話題を振ってくれるからか、楽しそうに笑っている。

私も隣の席だったら…と、何度思ったことか。

永那ちゃんは、誰に対しても分け隔てなく話しかけてくれる。

起きている時間が短いから交流の時間は短いけれど、彼女は相手の好みを理解して会話を紡いでいく。

男女関係なく。

だから彼女はモテる。それに対して抗議するように、佐藤さんが「また永那は人を沼に沈めてる」と頬を膨らませて不貞腐れていた。


そう考えると、なぜ彼女が私を“”に選んでくれたのか、不思議に思えてくる。

他の人と私には、どんな差があったのだろう?と。

たまたま私が思いつきのいたずら(実験)をして、たまたまそれが彼女のツボにハマったから?

自分の魅力に全く自信がなくて「ハァ」とため息が出る。

そもそも私の魅力って何?

そんなことを考えていると、ふいに視線を感じた。そちらを見ると、彼女と目が合った。

優しい笑みを浮かべてくれる。

それが嬉しくて、私も微笑み返す。

チャイムと同時に教室の扉が開き、先生が入ってくる。

それを合図に私達は、せっかく交わった視線をそらした。

彼女は寝る体勢になって、私は教科書とノートを開く。

私達の触れ合いは、これだけ。たった、これだけ。

正確には触れ合いとも呼べない。

ギュゥッと締め付けられる胸の痛みを知らないフリして、授業に集中する。


***


中学と違って保護者を呼ばないから、体育祭は平日に行われる。

体育祭前日の午後は授業がない。

各クラスから選出された体育祭委員の人たちと共に、生徒会メンバーが体育祭の準備に取り掛かるからだ。

作業は滞りなく行われた。

テントを立てたり、教員用のパイプ椅子を並べたり、競技用の道具を出したりする。

会場が作り終えられたら、応援団や選手宣誓の練習も行われる。

生徒会メンバーも進行の模擬練習を行う。開会式や閉会式、選手宣誓の流れ、競技中の実況、体育祭中に流す音楽、得点の付け方の確認などなど、やることは山積みだった。


そして翌日、快晴のなか、生徒会長を中心に体育祭が始まった。

大学受験のために、9月頭で生徒会長を含めた3年生は引退するから、この体育祭が最後の大仕事と言える。生徒会長が快く引退できるようにするためにも、大きな失敗をすることなく体育祭を終わらせたい。

今朝は永那ちゃんから応援のメッセージも貰って、私はやる気満々だ。

永那ちゃんは障害物競争と二人三脚に出場する。二人三脚の相手は佐藤さんだと知って、頭で理解はできても、つい羨ましくて「ハァ」とため息が出る。


「空井先輩、もう疲れちゃいました?…それとも珍しく緊張ですか?」

隣に座る日住君が笑う。

「あ、ごめん。大丈夫、大丈夫」

「緊張してるなら、手に人と書いて飲むと和らぎますよ」

そう言って、彼が私の手を取る。

私の左手を開かせて、右手の人差し指を掴むように手を握られる。

そのまま、人という字を指で左手のひらに書く。

その仕草が子供が大人に字の書き方を教えてもらう時のようで、少し恥ずかしくなる。

書き終えたら、私の左手が口元に運ばれた。

彼に言われた通りに、手のひらの“人”を食べた。

もちろん、実際に手を食べたわけではなく、空中でパクリと食べる仕草をしただけだけれど…。

そっと彼の手が放されるまで、つい手元を見つめてしまった。


後ろに座っている生徒会のメンバーがニヤニヤ笑いながら「こんな時にイチャつかないでくださいよ」と言った。

私とは反対側の、日住君の隣に座っていた、日住君のクラスメイトでもある金井かねいさんも「そうですよ」と賛同した。

「空井先輩は副生徒会長なんですし、しっかりしてください」と怒られてしまった。

金井さんからは少し嫌われているのか、よく手厳しい意見を言われることがある。

「ごめんね」

次の副生徒会長は日住君か金井さんだと踏んでいる。もしかしたら2人とも副生徒会長になるかもしれない。

最終的には生徒会長が決めるので、どうなるかはわからないけれど。

生徒会長は1人だけど、副生徒会長は2人選出される。現に私の他にもう1人、現在3年生の副生徒会長がいる。その人は今私の隣に座っている。

「イチャついてるわけじゃないんだけどな…」と小声で主張するけど、金井さんにはキッと睨まれてしまった。

私の隣に座る日住君と副生徒会長が苦笑している。


そんなやり取りの最中にも、体育祭は進行していく。

生徒会長の挨拶が終わり、校長の挨拶ももうすぐ終わりそうだった。

次は選手宣誓だ。これは毎年運動部の部長が行っている。今年は陸上部の部長だ。

それが終われば、私達はバタバタと忙しくなる。

生徒会のメンバーには、私のように2競技参加する人もいれば、1競技だけという人も、全く参加しないという人もいる。


全く参加しない人には、生徒への呼びかけ係を担当してもらう。これが1番大変だ。競技参加者の確認をして、整列させる作業。

参加者が見当たらなければ探しに行かなければならない。これは各クラスから選出された体育祭委員を頼ることも多い。時間までに見つからない場合は不参加として実況係に報告しに行かなければならない。

1競技、2競技参加予定の人は、設備機器係(マイクや音楽などの調整係)やゴールで得点の記録をする係だ。これは交代で行っていく。

実況は生徒会長と副生徒会長の担当。人の名前を呼ぶ時に間違えないようにしなければならないから、呼びかけ係とは違う意味で緊張感がある。

そのうえ、私の場合は現場で人が足りなくなった時に臨機応変に対応することも求められているから、常に状況把握していなければならない。

基本的に実況は3年生が行うので、あまり私の出番はない。何かしらの問題が起きて、3年生が実況できなくなった場合の予備要員だ。なんなら、全てのことに対する予備要員と言ってもいい。


湿った風が吹く。

生徒会のメンバーはテントの下でパイプ椅子に座っているから日陰にいるけれど、校庭に座っている生徒たちはみんな暑そうにしている。

赤組のクラスと白組のクラスが交互に並んで座っているから、正面から見るとなかなか圧巻だ。

私のクラスは赤組。

ふと自分のクラスに目を遣ると、遠くにいるはずなのに、永那ちゃんの姿が1番に目に入った。ダルそうに姿勢を崩して、手を後ろについている。

あれはきっと、生徒会長の話も校長の話も聞いていないだろうなあと思って、笑うのを必死に堪えた。


選手宣誓が始まる前に、全員が立ち上がる。

永那ちゃんも、ちゃんと立ち上がっている。

短髪で清潔感のある、陸上部の部長が選手宣誓を始めた。

緊張感と高揚感が入り交じるなか、私達はトランシーバーが手元にあるかを各々確認した。

選手宣誓が終わり、生徒会長がマイクを持って戻ってくる。

各クラスの体育祭委員が、指定された待機場所にクラスメイトたちを誘導していく。

生徒会のメンバーは各々自分の役割を全うするために走り出す。

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