あやかしの伽【コミック版配信中】

瀬戸玲/篠亜怜

呪われた花嫁 1




「ひな、おひな」



 ヒュウヒュウと冷たい風が吹く中に、自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。

 ひなは野草の茎を折っていた手を止め、立ち上がって辺りを見た。痩せた木々がまばらに生えた小高い丘の斜面。見渡す限り人どころか、小さな動物や鳥の影さえも見えない。気のせいだったろうかと再び腰を下ろす。

 もうすぐ夏に差し掛かろうという時節だが、風は驚くほど冷たく、今年はろくな山菜が見当たらない。それでも赤くかじかんだ手をせっせと動かし、食べられそうな草はなんでも摘んで籠に入れる。


 ――私にできるのは、これくらいしかないもの。


 貧しい家で両親が待っている。今年、畑にはろくな実りがない。気が遠くなるほど長い冬はたくさんの雪と氷ばかり残し、ようやく訪れた春もいつになく涼しい。父は十日ほど前から風邪をこじらせ、母はその看病をしている。なんとか滋養になるものを食べさせなければならない。しかし、家にはもう食べるものが一つもない。

 大きな畑を持つ村人なら、ある程度の蓄えもあるだろう。そこへ出向いて頭を下げ、無理を承知で施しを求める。そんなことさえできないのは、ひとえに自分のせいだ。

 ひなは深くため息をついた。

 それを思えば、冷たい風に体を震わせながら丘から丘へ、野草を摘んで回るのを苦しいなどとは思わない。いや、思えない。


 ──私さえいなければ。


 今まで何度思ったかわからない言葉だった。下を向いていると涙がこぼれそうになり、慌てて立ち上がる。頭を軽く左右に振って息を吐く。泣いている場合ではない。少しでもいい、食べられるものを探さなければ。



「おひな」



 また声がした。

 はっとして振り返る。だが、そこには誰もいない。

うんと小さい童の声。ひなは幾度となくその声を聞いたことがあった。聞くたび、すぐに声の主を探してみるのは癖のようなものだ。けれど、ついぞ姿を見たことはない。

 怖い、とは思わなかった。

 物心ついたときから聞こえる、ひなにとっては慣れ親しんだものだ。今のように十七を数える年になって初めて聞いたのなら、それは不気味にも思っただろうが。聞き親しんだ童の声は、もはやひなの一部と言ってよい。一度は救われたことさえある。

 まだ幼い頃、丘の向こうの森に迷い込んだことがあった。

 夢中で遊んでいるうちに日が暮れて、木立が濃い影を落とし、ひなは急に怖くなって立ち尽くした。来た道を戻ろうにも、どうやって来たのかわからない。おろおろ惑い歩くうちにすっぽりと暗闇に覆われ、幼いひなはその場にしゃがんで大泣きした。「おっとう、おっかあ!」と叫んで呼んだけれども、自分の声が森に反響するばかりで、村まで届くとは到底思われない。

 そんなときだった。



「ひな、おひな」



 稚い童の声。

 ひなはぱっと顔を上げた。



「おひな」



 確かに聞こえる。

 童の声は、自分を呼んでいた。



「ひな、おひな」



 声のする方向へ、半ば憑かれたように歩いた。

 声は近づいたかと思うと遠ざかり、遠ざかったかと思うと励ますように近づいた。

 そうして声に導かれ、いつの間にか、村に戻っていたのである。幼い娘を死に物狂いで探していた両親は、村の端っこにぽつんと立ったひなを見つけると、髪を振り乱して駆け寄ってきて、ぎゅうっと強く抱きしめてくれた。


 ――あのときのおっかあの胸、あったかかったなぁ。


 懐かしく思い出し、また涙がこぼれそうになる。

 ひなは何度もかぶりを振った。もう幼い子供ではないのだ。

 わかっていても、悲しい。

 あの頃は戻ってこない、決して戻ってはこないのだと思うと、胸が締めつけられるように苦しかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る