【短編】女日記

善根 紅果

女日記

 簀の子すのこ(外廊下)に紀友則きのとものりと、御簾みす(すだれ)を下ろし、几帳きちょう(姿を見せないように、布を掛けて垂らした木枠きわく)を並べた内に居る女房にょうぼう(侍女)は、数を言い合っている。


「三の十二」

 女房は、黒の碁石ごいしばんに打ちながら、数を言う。


 並べた几帳の内、他の女房(侍女)たちは、黒と白の碁石が並ぶ盤を覗き込んでいる者、ほころび(几帳きちょうに掛けて垂らした布の隙間すきま)に扇を掛けて、御簾の向こう、浅緑の無紋むもん模様もようのない)の束帯そくたいこうぶりけた友則をき見ている者もいる。


 童殿上わらわでんじょうして(行儀ぎょうぎ見習いのため、宮中に上がった子どもが)、たわぶれに、大人の装束しょうぞくを着せ掛けられたような、いとけな顔様かおざま(幼い顔立ち)と、小さやかな身様みざま小柄こがらな体)。


「三の十三」

 御簾の外に居る友則は数を言いながら、そば(横)を向き、簀の子すのこ(外廊下)の先を見る。


 耳敏みみとき(耳の鋭い)紀友則は、此方こちに近付いて来るきぬの音(衣擦きぬずれの音)を聞いている。――「足音」と呼べるほどの音は、友則でさえ聞き分けられない。


 御簾の内、女房は友則の言うままに白の碁石を打つ。それから黒い碁石を取り、碁盤を見つめる。そして、打ちながら言う。

「四の十二」


 紀友則は、御簾の方を向くと、ゆうに(優美に)微笑んだ。

「また負けてしまったな」


 いとけない(幼い)笑み顔を、女房どもは頭を突き合わせ、几帳きちょうほころび(隙間すきま)に扇を掛け、袖を掛け、御簾の向こうを透き見て、つつめく(ひそひそ言う)。


「あな、いみじ(マジヤバ)」

「いと、うつくし(めっちゃ、か~わ~い~い~)」

「あれで、東宮亮とうぐうのすけと同じ年齢よわいなんてねえ…」

こそ(それな)。きみ(友則)の父や、祖父が、東宮亮とうぐうのすけと同じ年齢よわいあやまち(まちがい)でしょう」

「あの人、私が出仕しゅっしを始めた(宮中に勤め始めた)頃にも、あのまんまで、いたのよね…」

「それは幾十いくそ年頃としごろ(何十年前)のこと――」

としの頃(数年前)よ。此の頃っ」


 つつめく声(ひそひそ声)も、耳敏みみとき友則は、よく聞こえているが、側向そばむき(横を向き)、簀の子すのこの先を見やる。


 簀の子すのこの先、緑の無紋むもん模様もようのない)束帯そくたいに、こうぶりを着けた、そびゆる(すらりと背の高い)紀貫之きのつらゆきが、巻子かんす(巻物)の三巻みまきを載せた硯蓋すずりぶた硯箱すずりばこすずりすみや筆を入れる道具箱)のふた)を持って、やって来る。



 まなこは、夜の闇がくちを開いたように黒く、細い鼻、薄い唇、年齢よわい・二十九に、つきづきしい(ふさわしい)ひげを生やしているが、「女にてたてまつらましき」――女にして見てみたい、というわけの分からない言葉が似合いの顔様かおざまは、紛らわせようもない(ごまかしようもない)。



「道真に書物ふみを持て来たのか、きの御書所ごしょどころの預かり」

 友則が、わざとがましく(わざとらしく)呼んだ「きの御書所ごしょどころの預かり」という官名つかさなを聞いて、うちつけに(突然)、女房ども(侍女たち)が几帳きちょうごと押しいでて、御簾のきわに、ひしめく。


 顔のみを几帳の内に隠して、きぬそですそかさね(重ねて着た衣の色)の白、青(緑)、淡青あわあお(薄緑)、淡紅あわくれない淡朽葉あわくちは(薄い橙色)がにおいやかに、こぼれ出る。


 女房ども(侍女ども)は、つつめくのも(ひそひそ声で言うのも)忘れて、はしたなく(みっともなく)声を上げる。


「あなたが、きの御書所ごしょどころの預かりだったのですかっ」

「ただのやせ男(やせっぽち)かと」

「黙んなさいあなかまよ。あんた、思ったことが、そのまま、口から出てるわよっ」

女日記をんなにっき、いつも心ときめき(胸がドキドキ)しております」

竹取物語たけとりものがたりも読みました」

「今は、女日記の続きが、心許こころもとなくて心許なくて(待ち遠しくて待ち遠しくて)」


 女房どもは、女日記のつねの(毎回の)始めを、声を合わせて読んでみせる。

をとこも、すなる日記ををんなも、してみと、するなり(男が書くものである日記を、女も書いてみようとするのです)」


 紀友則きのとものりは、笑みこだる(爆笑する)。


女君をんなぎみと、きらきらしい男君をとこぎみらの恋の数々」

 どの男君が好みかと、女房どもは話し始める。


 女房どもはみずからの声で、みみふたがれて、紀貫之きのつらゆきが、伏し目で、足音もなく、御簾の前を通りすぎて行ったことも、友則が後を追って行ったことも、気付かない。


 貫之は巻子かんす(巻物)を載せた硯蓋すずりぶた硯箱すずりばこすずりすみや筆を入れる道具箱)のふた)を持ち、簀の子すのこ(外廊下)を、伏し目のまま、歩き、端を折れて(かどを曲がって)、柱の陰で立ち止まり、振り返った。

「どうして、官名つかさなで呼んだのですかっ」


 小さな声でおめく貫之が持つ硯蓋すずりぶたの上の巻子かんす三巻みまきを、友則は次々に取り上げ、題簽だいせん(題名)を見ながら、笑み笑み(にやにや)、言う。


「今まで、そらおぼめきして(知らんふりして)、女房にょうぼうども(侍女たち)の御簾の前を通っていたのか」

書物ふみを持って、歩いていても、此方こちに見向きもしません」

 貫之の答えに、友則は笑みこだる(爆笑する)。

「そうだな。ただのやせ男が、書物ふみも持て歩くさまなど、女房どもは見向きもしないな」


 友則は、硯蓋すずりぶた巻子かんすを置いて、笑み笑みとした顔様かおざまで、貫之を見上みあぐ。

「『女日記』の次の男君おとこぎみは、碁の上手じょうずというのは、どうだ~」

「――私が書いているのではありません……」

 貫之は、耳敏みみとき友則にしか聞こえないほどの、かそけき声で言う。


 友則は、わざとがましく(わざとらしく)幽けき声で返す。

人違ひとたがえ(人まちがい)が嫌ならば、まこと(本当のこと)を言えばよいではないか」

「言えません」

 かそけき声で貫之は、言い閉じた(断言した)。


「女日記を、女が書いていると知れれば、まことの物語(本当の話)のようではありませんか」

 消えりそうなほどかそけき声で、貫之は言う。

「男を幾人いくたりかよわせているなんて(恋人が何人もいるなんて)、男の私が書いているならば、作り物語(作り話)と、皆、思いますが、女が書いていると知れれば、真と思われてしまう。それも『女日記』などと名付なづけば(題が付いていれば)。」


 貫之は長息ながいき(溜息)をく。

「家でたわぶれて(ふざけて)、竹取たけとりおきなの物語(竹取物語)の続きを書いて、うえまで出して、赫夜かぐや姫を月に帰したくらいならば、よかったのですが…」

「手(筆跡ひっせき)が、と妹は同じだからな~」

「同じ父に習いましたからね…」

 かそけき声で貫之が言う。

 貫之は、もう一度、長息を吐くと、向き直り、歩き出す。友則も付いて行く。



 「女」と貫之がまぎらしていたものを(ごまかしていたものを)、友則が「妹」と言ってしまったことを、何方どちも(二人とも)気付いていない。



 東宮とうぐう曹司ぞうし(皇太子の住居すまい)のかかげた御簾みす(巻き上げたすだれ)の内、文机ふづくえが二つ、向かい合って置かれているが、しとね敷物しきもの)に座っているのは東宮亮とうぐうのすけ((皇太子に関する役所・東宮坊とうぐうぼう次官じかん)・菅原道真すがわらのみちざねだけだ。



 深緋ふかひ(濃い緋色)の浮線綾ふせんりょう文様もんようを織り出したきぬ)の束帯そくたい(正装)に、こうぶりを着け、年齢よわい・四十九につきづきしい(ふさわしい)いかめしいしわす顔に、つきなく(ふさわしくない)伸び足らない薄いひげ



 巻子かんすを載せた硯蓋すずりぶた硯箱すずりばこすずりすみや筆を入れる道具箱)のふた)を持つ紀貫之きのつらゆきは、おもてを伏せて(顔を伏せて)、御簾の外、座る。

きの御書所ごしょどころの預かり、巻子かんすを持て参りました」

 そのそばを、紀友則は立ち歩き(立ったままで歩き)、御簾の内に入ると、菅原道真の前の文机ふづくえしとね敷物しきもの)に座る。


 東宮はるのみや(皇太子)が座るべき所に、心もなく(考えなしに)座る友則に、道真は笑む(苦笑する)。

女房にょうぼうども(侍女たち)が騒がしいのは、君が来ていたのか」

「女房どもを騒がせていたのは、(私)ではなく、きの御書所ごしょどころの預かりだぞ」


 道真は、貫之の方を向き、言う。

「いで(どうぞ)、れ」

かしこみます(失礼します)」


 貫之はおもてを伏せたまま(顔を伏せたまま)、膝行いざりる(座ったまま、ひざを進めて入って来る)。道真は、差し出された硯蓋すずりぶたの上の巻子かんす三巻みまきを受け取り、みずから(自分)の文机ふづくえに置いた。


「他に誰もいないのだから、くつろげ(堅苦かたくるしくするな)」

 貫之に言ったのは、友則だ。道真は笑みて(苦笑して)、貫之に言う。

「友則の言う通り。くつろいでかまわない」

かしこみます(失礼します)」

 貫之は強々こわごわしく(堅苦しく)言うと、おもてを起こした(顔を上げた)。


 道真は前を向き、文机の上の巻子を見下ろした。

書物ふみを届けてもらったのだが、東宮とうぐう(皇太子)は、かしらが痛むと、おっしゃられて、大殿おおとのもられている(おやすみになっていらっしゃっている)」

いつわみ(仮病けびょう)だ」

いな…」

 たちまちに言い閉じる(即座に断言する)友則に、道真は言いわずらう(言い悩む)。

昨夜よべも深くまで(遅くまで)、東宮大夫とうぐうのだいぶと、遊びが過ぎたようで…」



 東宮大夫(東宮坊とうぐうぼう(皇太子に関する役所の長官ちょうかん)――藤原時平ふじわらのときひら

 二十三歳でありながら、四十九歳の道真より上位かみなのは、関白かんぱく(天皇の亡くなった補佐役ほさやく)・藤原基経ふじわらのもとつね一男いちなん(長男)だからだ。



「いずれ、世をおおさめになられるのだ。遊びではなく、政治まつりごとに心を掛けてもらいたいものだが…」

わらわ(子ども)に、世を治めよ、政治まつりごとをせよと言うのが、あやまちだ(まちがいだ)」

 言いわずらう道真に、友則は言い放つ。


 紀友則の言う通りだ。

 しかし、菅原道真も、紀貫之も、口閉じたままでいる。

 と言えば(肯定すれば)、幼いうええて、政治まつりごとを思うままにする藤原氏をとがむ(非難する)ことになるからだ。

 御簾の内、他に誰もいなくても、藤原氏を咎むことを言えないのだ。




東宮はるのみや御心地おんここちたいらかになりますように(お体が良くなりますように)。――内御書所うちのごしょどころに戻ります」

 貫之は他に言うことも思いつかず、両手で硯蓋すずりぶたを持ち、膝行いざりようとする(座ったまま、ひざ後退あとずさりして出ようとする)。


「内御書所は、いとま(ひま)が多いものか」

「えっ」

 道真の問いに、貫之は惑って、座り込む。


 それを見て、友則は笑う。

「さがなき(意地悪な)言い方をするな、道真」

 道真に言って、友則は貫之の方を向いた。

「作り物語を手遊てすさびに(ひまつぶしに)書けるほど、内御書所は、いとまがあるのかと、道真は聞いているのだ」

「それはっ、」

「そんなことを聞くということは、道真、作り物語など読んでおるのか」

 友則は、貫之の答えを聞かず、道真に向いて聞く。


「読んではいないが、女房ら(侍女たち)が読む声が聞こえる」

「それは『読んでいる』のと、同じだ」

「内御書所では、書いていません。作り物語は、家で、いとまある時のすさびびです」

 言いく(説明する)貫之が、こころやましい(後ろめたい)のは、内御書所でいとまある時に、万葉集まんようしゅうを読んでいるからだった。


「内御書所に戻ります。真面目まめに勤めます」

 言って貫之は硯蓋すずりぶたを持ち、御簾の内を膝行いざりると(退出すると)、立ち上がって足音もなく衣の音だけさせて行った。


 紀友則きのとものりは、菅原道真すがわらのみちざねの前の文机ふづくえに置かれた巻子かんす(巻物)を見やる。

「『日本紀にほんぎ』(日本書紀にほんしょき=歴史書)か。今、筑紫ちくしを荒らしている新羅しらぎのことをこうずる(教える)つもりだったか」


 菅原道真の、伸び足らない薄いひげに囲われた口縁くちびるが笑んだ。

 紀友則は、数(巻数)を見ただけで、書物ふみしるされていることが分かり、何を講じようとしているのかも分かるのだ。


 道真に、友則は言う。

東宮はるのみやに、こうじないのならば、も、いとまがあるのだろう。合わせないか(勝負しないか)」

「――合わせよう。持って来るよ」

 道真は出て行くと、しばしあって(しばらくして)、碁盤ごばん碁笥ごけ碁石ごいしの入ったれ物)を持って来た。


 二人は、文机を横に押しやり、置いた碁盤と向かい合う。


 菅原道真すがわらのみちざねは、世に知られた碁の上手じょうずだ。誰と打っても負けてばかりいる紀友則きのとものりが合わせられる(勝負できる)とは、誰も思わないだろう。


 道真が白の碁石を取り、盤に打つ。

 友則が黒の碁石を取り、盤に打つ。


 道真は白の碁石を盤に打ちながら、言う。

「女房らが、君が碁が弱いとあざけるから、君がまことは(本当は)、碁の上手であることを言いたくて、『私でも、なかなか勝てたことがない』と言うと、『東宮亮とうぐうのすけ(菅原道真)が碁の上手と聞こえても(有名でも)、ほどが知れる』と、いといたく(とてもひどく)おおぎの内で笑われてしまった」


「強い者が弱い者を、わざわざ負かして誇ることなどない」

 友則は黒の碁石を打つ。道真は、友則を見やる。碁盤を見下ろす友則は、その目見まみ(眼差し)に、気付いていない。

「遊びは、勝った方が楽しいではないか。女らも、勝って喜んでいただろう。――もう打ち手に詰まったか、道真」

 友則がいとけない顔(幼い顔)を上げる。きと(さっと)、道真は目見まみを逸らし、白の碁石を打つ。


 友則は盤を見下ろし、黒の碁石を打つ。

「わざとがましく(わざとらしく)勝たせるのも、なかなかに難しいのだぞ。弱い者と打っても、楽しくないだろう。勝てるか負けるかの分け目で、負けてやらねばならない」

 道真が白の碁石を打つ。友則は黒の碁石を打つ。

紀友きゆう

 道真が、友則のあざな(漢文や漢詩を書く時の別名)を呼んだ。

「何だ、菅三かんさん

 あざなを呼び返して、友則は顔を上げる。


こうぶりを得ないか」

 道真に言われて、友則は上げた両手を、みずから(自分)のかしらこうぶりに置いた。

こうぶりならば、得ているぞ」

「そうではない」


 紀友則は、菅原道真の言う「冠」が、官位つかさくらいであることを、分かっていながら、そんなことを言う。

 友則は、四十九歳になった今も、くらい(身分)もつかさ官職かんしょく)も得ず、浅緑の束帯を着て、宮中うちを思うままに(好き勝手に)、あゆありいている(歩き回っている)。


「今の私ならば、君が望む官位つかさくらいを与えられる。共に、政治まつりごとをしよう」

 道真は言う。

「君の言う通りだ。わらわ(子ども)に、世が治められるかと、政治まつりごとができるかと。しかし、まだ何も知らぬ童だからこそ、いちから教えられる。私は、今、この手で、君子くんしをお育てしているのだ。君と私ならば、孔子くじ孔子こうし(中国の思想家))さえできなかった、君子の治める世を作れる。政治まつりごとを思うがままに(思い通りに)している藤原氏を」


 友則はみずからの冠に置いていた両手を下ろし、身を乗り出し、右の手を伸ばした、道真へと。浅緑の右袖が、盤の上の白と黒の碁石を引きずらないように、左手で引き上げて。


 やわらかな指先が、道真の口縁くちびるふたいだ。


きみは、ただ一人だけだ」


 言うと、友則は手を、道真の口縁くちびるから離した。



 吾が君――私の帝。

 田邑帝たむらのみかど文徳もんとく天皇)のいちみや(第一皇子)である惟喬これたかが帝となったならば、紀友則きのとものり大臣おとどとなっていただろう。

 惟喬は帝になれなかった。わらわ(子ども)ですらない、生まれて間もない嬰児みどりこ(赤ん坊)に立太子りったいしみことのりくだされた(皇太子になった)。



 碁笥ごけ(碁石のれ物)から、碁石を取ろうともしない道真に、友則は言う。

「道真の番だぞ」

「私は、口惜くちおしくて(くやしくて)ならないのだ。あんな生公達なまきんだち(若い未熟者みじゅくもの)に、君が、よりにもよって歌であなづられた(ばかにされた)ことが」


 腹立はらだつ(怒る)道真に、友則は笑む。

「貫之は、(私)が『四十よそぢあまり(四十歳過ぎ)』と、九つも数を忘れたことに、腹立っていたなあ(怒っていたなあ)――あのうたげ宴会えんかい)に、道真も、いたのか」

人伝ひとづてに聞いた」




 三月の除目じもく官職かんしょく任命式にんめいしき)があった夜。

 よろこび申し(官職が得られたことに対するお礼)のうたげに、紀友則きのとものりは、紀貫之きのつらゆき凡河内躬恒おおしこうちのみつね壬生忠岑みぶのただみねて(連れて)、まぎれ込んでいた。

 友則は除目の夜は、そうやって飲み食らい、歌を求められれば、詠み、かづけ(ほうび)をもらい、時には、女房にょうぼう(侍女)や、時によっては、姫や妻と、共寝ともね(夜を共に)しようとして、貫之に引きずられて家に帰るのが、つね(いつものこと)だった。



つかさたまわらず(官職を得ることなく)、年齢としは、いくらばかりにか(いくつくらいに)、なったのか」

 御簾の内から、れた声が聞いた。


 今夜このよる召人めしうど夜伽よとぎをする侍女)に、しだれかかる(寄りかかる)藤原時平ふじわらのときひらに、御簾の外から紀友則きのとものりは答えた、酔い痴れた声で。

四十よそぢあまり(四十歳過ぎ)になったのだ」


 時平は声高こわだかに笑みて(大声で笑って)、友則に歌を詠みかけた。

「今までに などかは花の咲かずして

    四十年よそとせあまり 年切としきりはする」


 今までに どうして花が咲かないままで

 四十年余りも

 年切りをして(実が実らずに季節を終えて)いたのか


 友則は時平に詠み返した。

「はるばるの数は忘れず ありながら

   花を咲かぬ木を 何に植ゑけむうえけん


 遥々はるばると長い間

    春の数は忘れることなくあったのに

     花の咲かない木を 何に植えたのだろうか


 「花」と詠みかけられて、わざとがましく(わざとらしく)「花の」と、友則は詠み返した。


 時平は気付きもしない。


 「木」は「紀」に、「花」は「栄華えいが(栄えること)」に、「植え」は「飢え」に、「数」は「定員かず」に、ことばが掛けられていることを。


 

 遥々はるばると長い間

 春の除目じもく官職かんしょくの任命式)の

 つかさ定員かず

 忘れることなくあったのに

 栄華を得られない紀氏は

    何に飢えたのでしょうか



 紀氏が何に飢えたのか。――紀氏の皇子・惟喬これたかが、帝となることだ。



 貫之は腹立つ(怒った)。

四十よそぢ余りじゃないですう。数を忘れているではありませんかあ。四十よそぢ余り九つ(四十九歳)でしょお。もう五十いそぢ(五十歳)ですゅよぉぉぉ」

――酔い痴れた貫之も、歌の本意ほい(本当の意味)には気付かなかった。




 道真は、白の碁石を盤に打った。

「私が君に勝ったら、官位つかさくらいたまわってくれ(もらってくれ)」

(私)の、美しい(かわいらしい)かしらに合ったこうぶりたまわってくれよ」

 友則は黒の碁石を盤に打つ。




――わざとがましく(わざとらしく)友則は、道真に負けることはなかった。

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