《黒紅》序 - 参

「無礼なのは、きみの方だろ……」


 黒紅くろべにはそう言いながら、眠気眼をごしごしと擦りつつ、寝台の上で居住まいを正す。

 ぎしり、と寝台の脚が軋む嫌な音がした。しかし、黒紅は特段気にも留めず、未だに眼を擦りながら、横目で件の人物を不満気に睨みつける。


「それで、俺の睡眠を邪魔した無礼なきみはさ、誰な訳?」

「……瑠璃るりは瑠璃だ」


 「無礼」と、繰り返し呼ばれたのが気に障ったのだろうか。先程まで単調だった声に、初めて不満と不快と云った感情の色が混じる。

 肩よりも上で切りそろえられ、丁寧に梳かれた黒髪と、制服の上からでも分かる線の細さは女型おんかのように感じる。だが、表情の動かし方や仕草が、その神経質な繊細さにあっていない。そのような雑な所が、男型おとこの持つ妙ないい加減さに通ずる気がしないでもない。

 だが、別に男型か女型かなど、重要視する点ではない。興味はあるが、表立って聞く程の関心は無いし、聞いたところで「ふうん」の一言で会話が終わる想像は容易につく。

 返答が無い事への苛立ちからなのか、瑠璃は腕を組みながら、こつこつと、踵の高い靴を鳴らしている。不満気に此方を見ているが、自分から口を開く気配はない。どうやら、黒紅の返答を待っているようである。


「聞いたことがないな……。まあ、自分の所属先の奴以外知らないのが普通か」


 こちらを睨め付ける瑠璃に、特に臆した様子もなく黒紅は答える。「知らないのか」と云う風にきょとんと表情が変わる瑠璃。澄ました見た目と口調に反して、感情は豊かなのかもしれないのが感じとれる。

 

「知らないのか」


 表情と言葉が連動している。非常に分かりやすい。


「ああ」

「変だな。瑠璃は他の史の奴らにも、顔と名が知られている事が多い」

「あ〜」


 分かる気がする、とまろび出そうになった言葉を飲み込む。

 瑠璃色の紅を引いた唇には、考える様に人差し指が当てられており、形が整えられた爪には、同じ色の紅が塗られている。こうして視ると、身なりには気を配っている事が推察される。

 瀟洒な見た目に反して、この短時間でも分かる強引な性格は、関わると相当な印象を残す事だろう。

 しかし、今は質問したい事や言いたい事が山程あるのだ。瑠璃の一挙手一動に、一々心を動かしている暇はない。


『瑠璃は瑠璃って言うけどそれじゃ分からないんだけど』『所属史と階級は?』『どうやって部屋に入ってきたんだ』『出勤前に何で叩き起こされないと駄目な訳?』『俺が起きるまでずっと寝顔を視てたのか』――


 ぐるぐると、黒紅の頭の中では喋ろうとする内容が次から次へと溢れ出る。春の嵐の如く吹き荒ぶ思考を、瑠璃の咎める様な声が遮った。


「あまりそのように眼を擦るな、黒紅。司書の奴らは、瑠璃達のこの眼がお気に入りなのだから。壊れたらどうするんだ」


 「司書の奴ら」――その単語を聞き、黒紅ははっと息を呑む。次いで、我に返ると、無意識の内に擦っていた手を止める。


「……以前、『黒紅の眼は、墨に朱を流し込んだような色をしていて好ましい』と司書の一人がのたまっていたそうだ。瑠璃は瑠璃の眼が一番だと考えているから、どんなものかと黒紅を視てみたが――うん、たいしたことないな」


 再び、至近距離で覗き込む素振りを見せた瑠璃を躱し、黒紅は口を開く。


「――…あっそ……」


 素っ気ない一言。

 本当は、あれやこれやと問いたい事が山程あったのだが、瑠璃の勢いに気圧されてしまい、途端諸々が面倒くさくなったのだ。


「言いたい事があるのだったら、遠慮せず言ったらどうだ。心の中で思っていても口に出さないと、考えていないのと同じだと、瑠璃は思う」


 口下手であるという自覚はあるが、それは決して他人が疎ましいからではない。同僚に「黒紅は、聞き専だネ」と評される事も度々ある。

 相手が喋る性質だと分かると、自分が喋らなくても適当に相槌を打っておけば、勝手に喋ってくれるだろうという怠惰な期待をしてしまうのだ。その態度の結果、相手から負の感情を抱かれても構わない。

 他者との対話に、意味を見出せない。この場所で目覚めた時から、黒紅はそうだった。

 

「口下手で、物臭なんだ」

「随分とまあ、今の間まを省略したな。行間を読むにしても、限度があるぞ」


 稀に、こちらが自己開示を行うまで、頑なになる者がいる。

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