スパークリングレモネード

ヤチヨリコ

1

 はじめてスパークリングレモネードを飲んだとき、頭に電流が走った。


 それが炭酸の刺激によるものなのか、またはレモンの酸っぱさによるものなのか、いまいち覚えてはいないが、それ以来、私はレモネードが好きだ。私の名前が檸檬れもんだというのもあって、人からは「名は体を表すものね」とよく言われる。


 それ以外にも、頭にびりりと電流が駆けるときがある。

 ――小説を書いているときだ。


 ペンで原稿用紙にインクをにじませると、ばちっと火花が弾ける。そして、一行、二行と書いていくごとに、電圧は増していく。


 良い表現、良い展開が思いつくと、すごい。激しく痺れて、感電してしまう。


 「完」の文字を書き込み、ペンを置くと、そこでようやく電撃の猛追は終わるのだ。


 この刺激が欲しくて、小説を書いている。


 ***


 小説を書き始めたのはいつ頃からだったか。

 記憶にある限りだと、小学6年のときにはもう書いていたように思う。


 当時、私は一人で文芸誌を作っていた。例えば、小説はもちろん、図書室に新しく置かれた本への書評や、身の回りのことを題材にしたエッセイなんかを、自分で書いて自分で掲載していた。


 内容も自分本位なものである。特に人に見せようと思わなかったので、読者の自分が満足すればいいと思っていた。たまに人に見られたとしても、見た人は大概感心して「すごいね」と言うだけだったので、人に見られて困るような酷い出来ではないのだと思った。


 中学に上がると、人に読まれるのを意識して書くようになった。読ませるつもりはないのだが、読まれてもいいように書こうと思って、書いた。


 クラスメートのあの子が読んだら、どう感じるだろう。

 担任の先生が読んだら、どう思うだろう。


 休み時間や放課後に、勉強するふりをしてノートに書いていた。


 教室で書いていたので、クラスメートの話し声がよく耳に入ってくる。

 ときには、彼ら彼女らが話していた内容をもとにして作品を書いた。


 毎年、担任にだけ小説を書いていると話した。入学したとき、当時の担任に話したので、その後も話さないと気がすまなくなったというだけのことなのだ。大した理由もない。惰性だ。


 クラスメートには話さなかった。「あなたをモデルにして小説を書いています」と伝えたら、どういう反応をされるかわからなかったからだ。私だってやられたら不愉快だし、もう書くなと言いたくなる。


 それに、作品の内容にまで干渉されそうで嫌だったのもある。自分をモデルにしているのだからこうでなければダメだ、と私が考えた物語へと無神経にずかずかと入り込んで、ああしろこうしろと言われるのが耐えられなかった。


 クラスでは、小説のことを隠して、それなりに過ごしていた。友達と趣味の話題で盛り上がったり、好きな歌手の新曲に熱狂したりする、そんな普通の毎日を送っていた。

 小説のことを隠している後ろめたさはあったけれど、それでも学生であることを満喫していた。学生時代特有のモラトリアムを味わっていた。


 中3のとき、担任に小説を書いているのを伝えると、彼はノートを見せるように言った。私がノートを渡すと、担任はノートをぱらぱらめくって「ずいぶんとたくさん書いているのですね」と感嘆の声を漏らした。


「一晩だけ貸してください。明日感想を言います」


 翌日、担任は私にノートを返すと、こう言った。


「中学生にしてこのような文化的な活動に励んでいるとは、素晴らしいですね。そうだ、校長先生や他の先生方にもお見せしないと。あなたの素晴らしい活動のことを、もっと多くの人に知ってもらわないといけません」


 だから、少しの間だけこのノートを貸して欲しい、と。


 最初は職員室で話題にしたらしい。

 自分のクラスにはこういう生徒がいる、と。

 すると、他の先生が「読みたい」と言う。

 担任は又貸しし、借りた先生もまた別の先生に貸す。


 ノートが帰ってきた頃には、「続きが読みたい」と廊下で声をかけられたり、職員室に呼び出されて「他に作品はないの」と言われたりするようになった。


 友達から「どうしたの?」と尋ねられても、私は「なんでもない」と答えるしかなかった。


 「どうかした」のは先生たちのほうじゃないか。私じゃない。


 私の胸には困惑が広がっていた。

 何故、ノートに書いた自分を満足させるためだけの小説が、ここまで評価されるのか。訊きたいのはむしろ私だ。


 あれよあれよという間に話はどんどん大きくなっていった。

 ノートを読んだ校長先生が「素晴らしい! こんなに優れた才能を持つ生徒がいたとは!」と驚愕し、私のことをほめたという。そして、作品を学校の広報誌に載せたいという話になったのだそうだ。


 担任から話を持ちかけられたとき、私は断った。


 読まれても困るようなことは書いていない。かといって、それが不特定多数に読まれたいかといえば話は別だ。そもそも、自分が楽しむために書いているだけなのだから。


 担任は不服そうに「そうですか。作者であるあなたの意見を尊重しましょう」と言って、そのまま引き下がった。


 後日、校長先生が直々に教室へやってきて、「君のことをぜひ表彰したい」と私の肩を叩いた。担任は「今度は断るんじゃないぞ」と言いたげな顔で、こちらをにらむ。


 校長の手が熱っぽく感じた。

 この体温が、気持ち悪い。


 大事なところを素手でべたべたと触られたように不快だ。


 だけど、断ったらどうなるかわからない。

 それが、怖い。


 私の心のうちを知ってか知らずか、担任は心底嬉しそうに「よかったな」と笑う。


 私も「ありがとうございます」と笑った。

 自分でもわかるほど、引きつった微笑であった。



 一学期の終業式の日に、私は表彰されることとなった。


 私が「表彰されたくない」と本音をこぼしても、誰も取り合ってくれなかった。親も親戚も、周りの大人は「滅多にないことなんだから」と言って、私のことを叱った。


 当日には、作品を朗読してほしいと言われた。

 そうでなければ、広報誌に載せる、と脅された。


 蝉が鳴く。梅雨が明ける。

 テレビのニュースが「今年の夏は猛暑になりそうです」と言う。


 終業式の日が近づけば近づくほど、恐怖は増していった。


 今夜眠ると明日が来てしまう。

 明日が来れば、終業式だ。


 恐怖心からか、終業式の前日はろくに眠れなかった。

 それに、明日が来るのが怖かった。


 全校生徒の前で作品を朗読する。

 それはまるで、自分で自分の作品を汚すようなかんじがした。私だけのものだった物語が、私が朗読することで聴いた人の物語になる。


 聴いた人はどう思うだろうか。

「つまらない」「退屈だ」

 そんなふうに思うだろう。だって、私がそうなのだから。


 私の考えがすべてではないのはわかっている。けれども、こういう集会のときのスピーチで心動かされたという人間はそうそういないだろう。たいてい、早く終わらないかとただただ退屈に聞いているだけだ。


 それが、自分の物語を、自分の生み出した我が子を、この手で殺すように思えてならないのだった。


 そして、終業式当日を迎えた。


 登壇するとき、処刑台へ歩を進めたと錯覚した。階段の一段一段を上るごとに、我が子を手にかける瞬間が近づくような気がして、生きた心がしなかった。


 一礼し、校長先生から賞状を受け取る。もう一度頭を下げ、振り返る。壇下には、大勢の人が私の顔をじっと見ていた。


 ノートを広げる。


 ――ああ、私はどうしてこんな残酷なことができるのだろう。

 こうなるのであれば、最初から小説を書いていると言わなければよかったのだ。いや、小説なんか、書かなければよかった。


 ページをめくる手の動きがぎこちない。

 声が裏返ったり、早口になったりする。


 時折、はなをすする音がした。

 泣きたいのはこっちだった。けれど、泣くわけにもいかない。


 淡々と朗読を続ける。


 最後に、ページを閉じて一礼する。

 それから、喝采が私の頭に降り注いだ。


 頭を上げるとき、私は笑えていただろうか。

 心の底から笑えていたとは、思えない。



 夏休み明け、私は誰からも『先生』と呼ばれるようになっていた。そこにはからかいの意図もあったと思うし、本気で言っていた人もいたと思う。どちらにせよ、私は『先生』と呼ばれたくはなかった。本来『先生』と呼ばれるべき立場の人たちも、私を『先生』と呼ぶ。そんな馬鹿な話、あっていいわけがないのだ。


 夏休みが明けてすぐの、学校の広報誌に、私の作品全文が掲載されていた。許可も出していないし、掲載すると言われてもいない。


 担任を問い詰めると、「ああ、それは私が推薦しました」と悪びれずに言った。


「なんで、勝手にこんなこと……!」


 爪が手のひらに食い込む。

 拳を強く握りしめすぎたのだ。


「それなら、これで覚えなさい。これは有り難いことだ、と。社会に出たら人から評価されることなどないのですからね」


 それを聞いて、思った。


 ああ、そういうものなのだ、と。

 大人とは、社会とは、そういうもの。


「それに、私に小説を書いていると教えたのは、あなたでしょう。読まれたい、評価されたいと思っていなければ、言わないはずです」


 つまり、私が悪いのだ。私が担任に小説を書いていると言わなければ、こんなことにはならなかった。私が担任にノートを見せなければ、こんなことにはならなかったのだ。


 以来、私は誰にも書いた小説を見せることはなくなった。

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