第22部 ki

 気づいたときには、衣服は乾いていた。自分がそれを望んだからかもしれない。いや、そうではなく、どちらかといえば、濡れている衣服を拒んだからだろうと、シロップはすぐに気づいた。見たくないと思うことで、人はその存在を認めなくなる。そうやって自分のことを守るのだ。


 なんだか、最近、アンニュイだな、と思う。


 アンニュイという言葉の意味は、もう、果てしなく遠くまで一人歩きしてしまっていて、もとの位置が分からなくなりつつある。


 形だけで生きている言葉。


 それでも、それがそこにあることだけは変わらない。


「帰ろう」立ち上がって、シロップは言った。


「ドウヤッテ、カエルノデスカ?」デスクが応える。


「何か、ワープとか、高速移動とか、できるでしょ?」


「ヤロウトオモッタコトガナイノデ、ワカリマセン」


「ビルの上から飛び降りたら、案外本当に飛ぶことができたりしてね」


「ヤッテミタイノデスカ?」


「やってみようかな」


 砂浜に転がっているデスクを抱えて、シロップは歩き出す。針葉樹と思える木々が遙か向こうまで続く砂浜を、彼女は歩いた。涼しいを通り越して冷たい風が、前方から吹きつける。石畳の地面とゴム製の靴底の相性は悪く、地を踏んでも滑るようで、あまり進んでいる気がしなかった。


「静かだね」とシロップは言った。


「エエ」とデスクが応える。


「なんだか、今は優しい気持ちで、応えてくれるだけで、嬉しいような気がする」


「ソウデスカ」


「うん」


 前方に通常より一回り大きなドアが出現する。団地の玄関のドアのように金属で出来ていた。表面にポストが付属している。シロップはドアの把手を掴んで捻った。ドアは高い音を立てて開き、彼女を飲み込むと、一度だけ低い音を轟かせて閉まった。


 ドアの先は自室。


 シロップはベッドに倒れ込む。


 水分は乾いても、塩分は残っているようで、髪も、顔も、なんだかざらざらした感じだった。純粋に気持ちが悪い。このまま眠ってしまっても良かったが、一度気にし出すと、汚れを落とさないことには気が済まなかった。


「あああああ」と奇声を上げながら、シロップは身体を起こす。


「ドウサレマシタカ?」


「お風呂に入ってくる」彼女は言った。「もう、沸いてる?」


「ワカシマショウカ?」


「迎えに来る前に沸かしておいてよ!」


「ヤツアタリデスカ?」


「そうだよ」シロップはデスクを睨みつけて言った。「私、今、貴方に八つ当たりしたい気分なんだから」

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