第4部 ta

 高い木の上。


 夜になってしまったから、生憎と、街の様子は見えなかった。しかし、そもそも、ここは街と呼べるのだろうかという疑問が、一瞬の内にシロップの中を駆け巡った。駆け巡ったあとで、それは消えてしまう。いつものことだった。自分が何かを考えていたことは分かるのに、肝心のその内容を忘れてしまうのだ。


「ヒトハ、イロイロナコトヲ、ワスレルコトデ、イキテイケルソウデスヨ」


 彼女の腕の中でデスクが呟く。


 シロップは答えない。


 すぐ頭の上に大きな月がある。手に取って食べてしまえそうに思えたが、腕を伸ばしても、その表面に触れることは叶わなかった。球体の表面とは、どういう意味だろうかと、シロップは考える。しかし、そうして考えたこともまた、次の瞬間には、残滓を漂わせるばかりに消えてしまった。


「私って、どうして生きているんだろう」


 呟いた声が夜空に消えていく。


「ドウシテ、トイウトイニハ、オオクノバアイ、イミガナイソウデス」


「でも、どうして、と問うことをやめずにはいられないでしょう? それが学問を支えていることは間違いないわけで」


「ガクモンヲシタコトガアルノデスカ?」


「なくはないと思う」シロップは答える。「ただ、それは、学問の定義による」


 シロップはお嬢様だから、学校とは少し距離のある生活をしてきた。というのは、本当のことなのか、それとも、たった今思いついた嘘なのか、はっきりしない。少なくとも、シロップの中では、本当とも、嘘とも、とれるような気がした。


 そう……。


 自分の正体が分からない。


 しかし、それが普通のことではないだろうか?


 自分の正体が分かっている人間などいるのか?


 それ以前に……。


 自分は、果たして、人間なのか?


「デスクは、人間?」シロップは質問する。


「ニンゲンデハアリマセン。コンピューターデス」


「でも、コンピューターは、人間に似せて作られているんでしょう? それなら、捉え方次第では、コンピューターも人間の内に数えられるんじゃないかな」


「カゾエルノハジユウデス」


 風が吹く。


 それは、まるで、月の内部から吹いてくるようだった。


 目の前で月の表面に亀裂が入る。


 真っ直ぐで綺麗なスリットだった。


 次の世界へ進む入り口のようだ。


 シロップは座っていた枝の上に立つと、月に向かってジャンプした。


 月は彼女を受け入れる。

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