2-3



「下手で当たり前じゃん。初めてなんだから」


「一番初めの時だって、オレはもっとうまくできたぞ」


「ほんとかな。さっきのあれを見たら信じられないな」


「なに!」


 久太郎はまた顔を赤くして怒鳴った。


 子犬のじゃれ合いのような口喧嘩をしている二人を横目で見ながら、久明も開始した。


 子供の頃からこの釣りに親しんでいる久明の腕はプロ級である。シングルハンドのベイト・キャスティング・ロッドを巧みに操り、岸からわずか十センチほどのところに「ディープダイバー」というタイプのルアーを放る。そのあと波紋が消えてからリールのハンドルを回し、緩急をつけて引いてくる。


 その繰り返しを数投してから、久明は何かを思いついたらしく、少し首をかしげてルアーを「ポッパー」というタイプのものに替えた。これは魚が大口を開けたような形をしていて、動かすとその口に当たった水がポコポコと音を立てて、ブラックバスの注意を惹くようになっている。


 これも湖岸すれすれに投げて、チョコン、チョコン、と小刻みに、猫をオモチャで遊ばせている時のように竿先を動かして魚を誘惑する。


 ブラックバスは小魚が溺れていると思っているのだろうが、このタイプのルアーには魚とは全く異なる形や模様のものもあるので、案外エサというよりもオモチャを捕まえようとして食いつくのかもしれない。多分肉食動物は、哺乳類でも魚類でも似たような習性を持っているのだろう。


 久明が投じたルアーが、ボートまでほんの三メートルほどの所までリトリーブされた時、突然水しぶきと共にボコン、という音がして、ルアーが水中に消えた。


「おっ、父ちゃん、来たね」


 久太郎はリールを回す手を休めて、大きく弧を描いている久明の竿先を見た。


 上流方向に突進しようとして、久明の竿さばきによってそれをいなされたブラックバスは、反転して手前に泳ぎながら、バシャバシャ、とジャンプした。尾ひれで水面を叩きながら、首を振って巨大な口からハリを外そうとする。


「すごいなあ……」


 隼人も釣りを中断して、ハリ掛かりしたブラックバスの激しいファイトを見ている。


 やがて魚は観念したらしく、おとなしくなった。久明は深緑色の魚体を持ったその魚を手元まで引き寄せて下クチビルを掴み、水中から引き上げた。


「やったー!」


 久太郎と隼人は、まるで自分が釣りあげたかのようにはしゃいだ。


「それがブラックバスかあ、大きいなあ。それにすごい口……、確かに何でも食べちゃいそうだね。おじさん、それ何センチくらいですか?」


 隼人は、初めて見る本物のブラックバスに感激しながら訊いた。


「うん、四十センチくらいあるかな」


 そう言いながら、久明は隼人に獲物を渡した。


「うわー、結構重たい!」


 と隼人が叫んだその瞬間、バスは真っ黒な瞳を光らせ、隼人の手の中でにわかに暴れだして水中に飛び込み、悠然と去って行った。


「あーびっくりした。でも思ったほど生臭くなかった」


「生きてる魚と、スーパーで売ってる死んだ魚を比べちゃダメだよ」


「そうだね」


「よし、ジャイアン、オレたちはもっとデッカイのを釣るぞ!」


「うん!」


 二人は気合をこめてルアーを投げた。しかし気合が入りすぎたのか、久太郎のプラスチック・ワームは目の前に叩きつけられ、隼人は岸辺からせり出した木の枝に引っ掛けてしまった。慌てた隼人は糸を無理に引っ張り、かえって枝に絡めてしまう。


「おじさん、木に引っ掛かっちゃった」


 隼人は申し訳なさそうな声を出した。


「そんなもの、取りに行けばいいよ。よくあることだよ」


 久明は微笑んで、ゆっくりとボートを動かした。


 隼人の投げたワームは水面から三、四十センチ程のところに、毛虫のようにぶら下がって揺れている。


「お前ドジだなあ」


 久太郎はそのワームを指差して笑った。


 と、その時、バシャ、という音とともにブラックバスがジャンプして、ぶら下がっているワームに食いついた。うまい具合にハリ掛かりしたらしく、そのバスも宙ぶらりんになった。


「あっ、おじさん! 釣れた!」


 隼人は喜声を上げた。


「えー、うそー!」


 久太郎は笑っていたそのままの顔で目を剥いた。ワームを指していた右手は、力なく下を向く。


 ボートが接近すると、だらんとぶら下がっていたブラックバスはにわかに体をくねらせ、先端だけ水面に着いている尾ひれをバタバタと動かして逃れようとするが、いたずらに水しぶきを飛ばすだけでハリは口から外れそうにない。


 久明は、大きさの三十センチ程のその魚の下クチビルを掴んでハリを外し、隼人に渡してやった。


「やったー! 釣れたぞー!」


 興奮した隼人の声が湖面に響いた。


「ジャイアン、それ釣れたっていうのか?」


 久太郎は当然面白くない。両手でブラックバスを持って大喜びしている隼人を見て、口を尖らせた。


「当たり前じゃん!」


「魚が勝手にくっ付いたんだろ」


「同じことだよ、ハリに掛かったんだから」


「ふん。その魚、大バカだよ!」


「バカでもいいよ、釣れたんだから。でも、これで釣れてないのはチョロQだけだよ」


「………」


 久太郎は膨れっ面になって下を向いた。


「まあ、まあ。隼人君は何か特別なものを持っているのかもしれないな。父ちゃんが初めてバスを釣ったのは、確か釣り場に五、六回通ってからだったはずだ。あれは東金の雄蛇ヶ池だったな」


 久明は泣きそうな顔で下を向いている久太郎をなぐさめるように言った。


「ふーん。でもおかしいじゃん、ぶら下がったワームに勝手に食い付くなんて。このバス、絶対バカだよ」


「魚に馬鹿や利口なんてないよ。大方ワームを、枝からぶら下がってきたイモ虫とでも思ったんだろう。投げたルアーが着水する前にジャンプして食いつくバスもいるくらいだから、こういうことは案外あまり珍しいことではないんじゃないかな」


「そんなもんかなあ」


「釣れるときなんてそんなものだよ。さあ、少し移動しようか」


 久明は笑いながらスマートフォンのカメラで隼人の写真を収め、スロットルレバーをゆっくりと捻って、ボートを進め始めた。



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