砂時計

藤原 汰地

第1話

 住宅街のど真ん中にあるこの小さな公園の遊具たちは、滑り台にしろ鉄棒にしろ、ジャングルジムにしろ、すべてが錆びついていて陰気臭く、小ぶりでショボい。

 公園の隅の木陰にある木製のベンチの、その黒ずんだ背もたれに、脱力しきった身体を丸投げしてあずけ、やるべきこともやらず、さきほどから貧乏ゆすりが止まらなかった。というのも理由はかんたんな話で、私は今日で一か月と三日ものあいだ、一本も、煙草を吸っていない。意志の弱い私からしてみれば、これは異例の過去最長記録だった。その晴れやかな快挙に反して、灰色の雲が重たく空を覆っていた。

「そろそろあれ、やらないとなぁ……」

 溜息がでた。大学の授業でだされた、一万字の最終レポート。成績評価の比率は百パーセント。つまり、単位をえるためにはかならず提出しなければならない。しかし身体は、いっこうに動きだす気配を見せなかった。

 締切は明日の二十三時五十九分。最悪、明日の一日を使ってやれば間に合うだろう。今日やらなくても、明日やれば……。

 大きくあくびをして、パチンコでも行くか、と立ち上がりかけたとき、あるものが目にはいった。

 公園の入り口まえの道路に立つ電柱のたもとに、ひっそりと供えられた白い花束。その左横で、小学校低学年くらいだろうか、一人の子供がこちらに背中をむけてしゃがみこんでいる。

 暇な大学生である私は興味をそそられ、ベンチから立ちあがって、ゆっくり子供の背中に近づいていった。子供は上下、真っ黒の長袖長ズボンを着込んでいる。七月も半ばを過ぎた時節にしては、どうにも暑苦しい格好に思えた。子供の後ろをさりげなく通り過ぎ、その背中越しに子供が何をしているのか確認しようと、チラッと視線をやった。

 子供は、小さな何かを両手に包むようにしてもち、それを、一心に見つめている。それが何なのかまでは見えない。

「おい。何やってんの」

 好奇心に押され、私が後ろから声をかける。すると子供は立ちあがり、こちらを振りかえった。

「これ」

 子供はおもむろに、手にもったそれを私に差しだしてくる。私はそれを右手で受けとり、「うわ」と驚きの声をあげた。

 それは小さな砂時計だった。ガラスの中央が細くくびれ、上から下へパウダー状の砂が少しずつ落下している。下に溜まった砂のなかには、どうしてそうなったのか、灰色の鼠が埋まっていた。鼠は首から下が砂に埋もれ、眉間のあたりに、柔らかそうな砂がたえずパラパラと降りつづけている。鼠は見るからに生気がなく、死にかかっていた。鼠は閉じていた瞼をうっすらと開き、「キュ……」と弱々しく鳴いた。そのとき、私はこの鼠と目が合った気がした。

「これ、おまえがやったの?」

 私の問いかけに子供は応えず、

「上の砂がぜんぶ下に落ちたとき、この鼠は死ぬんだ」と言った。

 私は砂時計に視線をもどす。たしかに、上に残った砂の量と、下の鼠の埋まり具合から見るに、上の砂がすべて下に落ちたら、この鼠は頭まですっぽり砂のなかに埋もれて窒息死してしまうだろう。

 そう思ったとき、子供は無言で私の手から砂時計をもぎとり、非常に素早い動作で、その砂時計を電柱にむかっておもいっきり投げつけた。砂時計は電柱にぶつかると同時にガラスが粉々に砕け、その破片と砂がアスファルトに散らばる。

 あまりにも突発的な事態に、私は口をボーっとあけて、しばらくその場に突っ立っていた。が、すぐ我に返り、

「なにやってんだよ、おまえ」とびっくりして子供を見た。彼は悪びれた様子もなく、無機質な声で、素っ気なく言い放った。

「だって、このままだとかわいそうだったから」

 子供の大きな瞳がこちらへまっすぐに注がれ、瞬間的に、私の存在をかたく捕らえる。そのとき厚い雲の隙間から一筋の光が射し、彼の瞳の、その潤んだ粘膜の表面を幾重にも反射した。と同時に、子供の瞳は、最も純粋な、底無しの黒い輝きを見せた。すべての色と光を吸いこんで無化し、無造作に黒へと還元する。そういった性質の輝きを前にして、私はなぜか、頭がぼんやりして、眠いというか、あるいは、夏であるのに身体の芯が寒いというか、得体の知れない感覚に襲われた。

 そうだ。鼠は、あの死にかかった弱々しいあいつは、どうなった。

 私は悪寒を振りはらうように、砂とガラスの破片にまみれた電柱の足元あたりへサッと目をむけた。すると、ちょうど花束のうえに、鼠はいた。私はしゃがんで、それをよく見ようとした。

 鼠は、花のうえにぐったりと身を横たえ、ピクリとも動かない。呼吸もしていないようだった。真っ白な花弁を、鼠の血液が赤く汚している。私はおそるおそる、鼠の小さな身体を両手に抱えた。鼠はすでに、死んでしまっていた。

 子供の無邪気な慈悲によって突然に明日を奪われずとも、いずれは砂に埋もれ、遅かれ速かれこいつは死ぬ運命だったんだ。無理やり筋の通らない言い分を自分に言い聞かせて、瞬時に気持ちを誤魔化そうとする。それでも、なんというか、やはりかわいそうなものはかわいそうだった。

 私は鼠を手に平にのせたまま、子供のほうを振りかえった。しかしどういうわけか、そこに子供の姿はない。周囲を見渡してみたが、もはやどこにも、あの子供を見つけることはできなかった。

 私は公園にもどって、鼠をベンチの横に生えている木の根元に埋める。そして電柱のところにまたもどって花束を拾いあげ、また公園にもどり、水道水で花びらに付着した鼠の血を洗い流した。

 すると雨が降りだした。私は花束を電柱のところにもどし、小走りで近くのコンビニにむかう。

 コンビニに着くと、すぐにビニール傘と、煙草を買った。禁煙していることが、なぜか急にバカバカしく思われたからだ。

 コンビニの入口近くに置かれた灰皿の横で一服し、私はさっさとアパートに帰った。そしてすぐさま明日締切のレポートに取りかかり、明日ではなく、今日中に、レポートを終わらせた。

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砂時計 藤原 汰地 @sanpachi

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