瞳の世界
藤原 汰地
第1話
山は濃霧に満たされている。登り始めた頃は見えていた山の頂も、麓の草原も、周囲の木々や足元に生えた草花すら、もはや今となっては何も見えず、白い靄に隠されている。
次第に、不安に駆られ始めていた。前を歩くこの幼馴染の少年の、痩せた背中だけが、私の頼りだった。
「ねえ、やっぱり帰ろうよ。こんなに霧が出てたら、途中で道がわからなくなって森の中で迷子になっちゃうよ。それに、もし無事に山頂にたどり着けたとしても景色なんて見えないよ」
口に出すと余計に怖くなった。緑に霞み、潤んだ森の奥で、獣の低い唸り声がした。「子供には無理だったんだよ」私は泣きたくなった。蒸れた植物の体臭が、土臭い霧と混じって鼻腔に絡みつき、胸が悪くなった。少年は歩みを止めてこちらを振り返り、真っ直ぐに私の目を見た。彼の若い瞳が青く光った。
「無理でもやろう。むしろできないことをやるからこそ、意味があるんだよ。できることをやってるだけじゃ普通で、そこに特別なものは何も生まれないんだ」
「なにそれ、どういう意味?」
そう尋ねると、少年は力強く私の右手を掴んだ。
「大丈夫。霧は晴れるよ」
そう言って少年は白い歯を見せ、ニコッと微笑んだ。この薄暗い森の中では目が潰れてしまいそうなほど、その笑顔は眩く、有難かった。
「ほら、見て」
つないだ手から、少年の興奮と体温が伝わってくる。私は少年の手を握る力を強くして応え、「うん……」と、小さくうなずいた。
完全に霧の晴れた山頂から、私たちは眼下を見下ろした。草原がどこまでも続き、その上を、私たちの張った白いテントがポツポツと点在している。その周りには馬や羊などの家畜が群れて集まり、茶色や白の塊を作っていた。鮮やかな無限の草原に、太陽は惜しみなく光を注いでいた。草原は際限のない生命と光に満ち、風にそよぎ、美しく黄金に輝いていた。
「なあ……。大きくなったら、僕と……」
※
――ガガガガガガガガガ!!
突如、耳を裂くようなマシンガンの咆哮が狭い屋内に響き渡った。
切れかけた蛍光灯の光は弱く、正方形の空間は薄暗い。四方を囲む灰色のコンクリートは所々が崩れ、抉られたように欠けている。
「弾を無駄にするな」
兵士の男が、髭に覆われた口元をフニャフニャと動かし、気怠そうにあくびを噛み殺して、弾を打ったもう一人に注意する。髭の兵士は胸元の内側から煙草の箱を取り出し、その一本に火をつけ、味わうようにゆっくりと煙を吐き出した。
「うるさくて眠れねえんだよ。ぜってぇ鼠かなんかいやがるぜ」
黒ずんだ灰色の床に寝そべったもう一人の兵士が、神経質そうに頭を掻き、天井に張り巡らされたダクトを銃口で指す。その男の左頬にはナイフで深く抉ったような古傷があり、それが嫌に目立った。
「ふふ……きれい……」
老婆の細くしゃがれた声に「何がきれいだって? ああ?」と、傷の兵士がからかうような口調で反応する。彼は片手で構えたマシンガンを、酷く雑な手つきで老婆に向ける。
「おい。やめろ」
髭の兵士が傷の兵士を口で制した。しかし彼は煙草をふかし、目は虚ろで、部屋の中空に彷徨う視線は傷の兵士に向けられているわけではない。
「うるせーな。冗談だろーが。あの部族のシャーマンなんだろ、このババア。いろいろ訊き出すためにお前が苦労したってのに、何一つ話さない。仲間想いな、傷だらけの魔法使い、ってわけだ。自分さえ救えない奴の何が呪術師だってんだよ! なあ!!」
そのとき「タタタタタタ」と、何かが天井のダクトの中を軽快に走り抜けた。
「ガガガガガガ!!」
傷の男は再び天井に向けてマシンガンを盛大に打ち放った。もう今度は、髭の男も何も言わなかった。何も言わず、ただ、くり抜かれて深淵の空洞と化した老婆の二つの瞳を、虚ろな目で見つめていた。
傷の兵士は何かを思いついたように床からサッと起き上がり、ゆっくりと老婆に近づいていく。彼は自分の額が老婆の額にくっつきそうなほど、老婆の顔に自分の顔を接近させた。そして血の滴るその真っ黒な穴を、彼は挑むように覗き込んだ。
「しっかし、さっきからこいつには何が見えてんだろうなぁ」
老婆は錆びた金属製の椅子に、麻縄で、あまりにも乱雑に括り付けられている。根元から切断された老婆の両手の指は、とうに渇き、もはや血も流れない。
その赤黒く骨の見え隠れするグロテスクな傷口を、傷の兵士がニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら銃口でチョンとつついた。
老婆は無反応だった。老婆の額に刻まれた深い皴は緩やかな曲線を描き、その唇は血の赤と穏やかな微笑でしっとりと濡れていた。
傷の兵士がスッと無表情に戻る。彼はまた汚い床に、どうでもよくなって何もかも投げ出すかのように、何の躊躇もなく背中から、ドスンと、音を立てて寝そべった。それはいきなり脳天を撃ち抜かれ、微笑んだまま泥の中に沈んだ、彼の弟の、あの最期の奇妙な運動に似ていた。
髭の兵士は煙草を吸い、煙を吐いて、低い声で言った。
「見えないものでも、見てるんだろう」
そのとき老婆がかすかに、何かをつぶやいた。その声はあまりにか細く、兵士たちは二人とも、老婆が声を出したことにすら、気がつかなかった。
「……うん……。………………………………。…………………………。結婚する」
瞳の世界 藤原 汰地 @sanpachi
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