4. ヨハネによる福音書 十二章二十四及び二十五節
「――聖体となるためには、この息子を贄に捧げなければなりません。」
衝撃的な告白に、セルジオは狼狽えた。
自身の過ちによって帰らぬ人となった息子を、罪滅ぼしにはならないが、せめて一番の思い出の場所で安らかに眠らせてあげたい、その一心で向かった先で自身の為に犠牲にしなければならないのかと。
その表情を見て神父は続ける。
「お気持ちは痛い程よく分かります。
しかし我々に残された時間は多くありません、そしてこれを成し遂げる事ができるのは今や貴方しかいないのです」
そう告げると神父は、煙を閉じ込めた様に中で蠢く銀色の液で満たされた小瓶を取り出した。
「これは父上からの最後の預かり物です、貴方が重大な決断に迫られた時、これを飲んで判断しなさいと私に託してくださった物です。」
得体の知れない小瓶に思わず眉間に皺を寄せるが、他に手段は無いと悟り、栓を開け一気に飲み干した。
視界が歪み、酷く酔い潰れた晩のような吐き気に晒され、平衡感覚を失った彼は思わずその場で膝を付く。
波の様にうねる床の木目が、暫くして元の形に戻り顔を上げると、懐かしい香りが鼻をくすぐる。
そして窓から刺す眩しい光に目が慣れるとそこには白板の前に立ち、教鞭を振るう自分と楽しそうに授業を受ける孤児達がいた。
綺麗に剃られた髭と、顎まで伸ばしウェーブのかかった黒髪、何より恵まれない者にも手を差し伸べる事に誇りを持っていた頃の自分だ。
「言葉というのはただ使えればいいわけじゃない。使い方を間違えば簡単に人を傷つける刃物にもなるし、正しく使えば自分の想いを色んな形で伝える素晴らしい物になる。」
親に棄てられ、最早生きる意味も失いかけていた頃が嘘かの様に、目を輝かせながら話を聞く孤児達の顔を見て伝える。
「もし将来、自分に好きな人が出来た時、好きという言葉も詩人のような伝えられたら、格好良くないか?」
時間を見つけては話を聞かせ、未だ見たことのない外の世界に思いを馳せる事の素晴らしさを知った孤児達には夢の様な話だ。
教会の窓から刺す陽射しより眩い笑顔で溢れかえる。
「はい、先生!」
一人の子が元気よく手をあげる。
「どうした、ニコラ」
肩まで伸ばした赤髪の子が立ち上がりセルジオに問いかける。
「先生は自分のお嫁さんに、どんな言葉で好きと伝えたんですか?」
所々から黄色い歓声が湧き起こる、セルジオは照れ臭そう頬を指でかいて笑い。
「それは君に、好きな人が出来た時にこっそり教えてあげるよ。」
各所から不満の声が噴出したが、それを掻き消すように、正午の時間になった事を伝える鐘の音が響き渡る。
「おっと時間だ、ちゃんと復習を忘れないように、それとシスターや神父様を困らせる様なことはしちゃダメだぞ。」
「はい、先生!」
蜘蛛の子を散らすように扉から出ていくのを見届けると、入れ替わるように神父とシスターが中に入り、在りし日のセルジオに歩み寄り頭を下げる。
「セルジオ様、いつもありがとうございます。
あんなに楽しそうな子供達の姿を見る事ができるのは貴方のおかげです。」
あの頃の神父だ、今より活気に満ちている。
「いえ、私は自分が力になれる事をしている迄ですから。
寧ろ、いつもこの場を貸していただけている事に感謝しています」
一連のやり取りを微笑みながら見ていたシスターが違和感に気付く。
「セルジオ様、目にクマができていますが、しっかり睡眠は取られていますか?」
「最近、職務の方も忙しくなって、少し寝不足気味です。
もう少しすれば、山場も超えて落ち着く筈ですから。
それに、父上の教えにはどうしても私は背けないもので。」
心配そうに見るシスターを誤魔化すような笑顔を浮かべながら、荷物を纏め支度する。
「ではシルベン神父、そしてシスターオクタヴィア、仕事があるので私はこれで」
これ以上詮索するのは失礼だと感じた神父達は別れの挨拶を告げる。
「どうかお身体には気をつけてくださいね。神の導きがあらん事を」
「神父様もお身体にはお気をつけて、神の導きがあらん事を。」
急かされる様に去るセルジオの背中を見て、シスターは呟く。
「あんなに無理をされていては、いつか身体を壊してしまいます。」
「少しはその他者へ労る気持ちを、自身にも向けてくれるといいのですが。」
その呟きに頷きながら答える。
そして白く光が照らす扉に、吸い込まれる様に入って行ったかと思うと風景が変わり、息子ネストルフとサムエルが将来について話し合う場面に変わった。
「サム、君は何になりたいの?」
貧しい家庭の両親に奴隷として売られるも、売値が付かず捨てられた所を、教会に引き取られた黒人の子サムエルは答える。
「僕はここの神父様になりたい。同じ様に捨てられてどこにもいくところがない人にも、生きる希望を与えられる人になりたいんだ、君は何になりたいの?」
次は君の番だと問いかける。
「僕も父さんみたいな立派な騎士になりたい、でも父さんは止めるんだ。
危険な目に遭っても命を賭けて子供達や国を守るのは父さんの役目で、僕は生まれつき体が丈夫じゃないから別の道を探して欲しいって」
「父さん、いつも一人で抱え込んで無理する所があるから、もし倒れそうな時はお母さんと僕で支えて欲しいってお爺ちゃんや神父様から言われるから、一緒に騎士になって国を守ればお父さんも楽になるかなって思ったんだけどなあ」
残念そうに答えるネストレフに、サムエルは少し意地悪に試す様な質問をする。
「もし騎士になって一緒に戦ってさ、目の前で君の父さんがとても強そうなやつに襲われてたらどうする?」
ネストルフは少し考えた後に微笑んで答えた。
「その時は僕が命を賭けて守るよ、いつも人のために全力を尽くしなさいって口酸っぱく言ってきたのは父さんだから。
自分じゃない誰かのために命を使うのは最初は怖いし馬鹿らしいって思ってたけど、いつも自分の事は考えないで誰かの事ばかり気にかけてる父さんを見てたらさ、そういう生き方ってとても格好いいんだって思えてきたんだ、言葉を器用に語る詩人より、不器用でも一生懸命に生きようとする父さんの方がね。」
なんという事だ。
いつも自分ばかりが人を救い、導く立場にあるのだと盲目的に信じていたばかりか、他者を不安にさせ、息子からも守りたいと言われるほどに心配される始末であった自分を恥じる。
どの騎士よりも気高き志を持って育った息子を、自身のその傲慢さによって殺してしまったのだと強く悔やんだ。
そしてこの傲慢さこそ、巡礼によって贖わなければならない罪であり、再びこの情景を現実にする事が、自身に課せられた使命なのだと決起したセルジオは、元の光景に戻った途端立ち上がる。
雨の中、捨てられた犬のような顔つきの男は最早何処にもいない、決意によってかつての騎士としての誇りを取り戻したセルジオは、神父に歩み寄り伝えた。
「覚悟はできました、私を聖体にしてください。」
神父は安堵したように頷き、すぐさま準備に取り掛かる。
――ネストルフ、そしてオリガ。
どうか、もう少しだけこの不甲斐無い父に力を貸して欲しい。
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