よっ!若旦那

堀川士朗

第1話


 「よっ!若旦那 第一話」


          堀川士朗



東西東西(とざいと~~ざ~い~)。


春。

歳を取ってから大学で再び学び直す人がいる。それは、これまで生きてきた人生を見つめ直しての自主的な行為だ。

若旦那、牛若彦四郎(うしわかひこしろう)も同じだった。

彼はIT系の中堅企業に就職していた。29歳の細身のハンサムな男性だ。

会社を辞め、久しぶりに大衆演劇の劇団若虎に戻ってきた元副座長の若旦那、彦四郎。

若虎一座の座長は彦四郎の父、牛若虎五郎。71歳。

こと、女にはだらしないが厳格な男で、芝居の上手さに於いては関東の大衆演劇の劇団でも指折りの役者である。

彦四郎がまだ一座の子役だった当時から、老け役の上手さで有名だった。

座員は太夫元(演芸の興業主)である座長虎五郎を筆頭に、出戻り若旦那の彦四郎、古参の女優の雪町、照明音響スタッフを兼ねる猪七、衣装も手伝う女優の愛染、入ってまだ二年目の新人の飛吉、子役の三太の計七人。

旅公演中七人は同じ屋根の下、つまりは芝居小屋の中で暮らし、寝食を共にする。

だいたいどこの劇団でもそれは同じだ。



彦四郎が座に戻って半年。

東京都北区の篠田演芸場。

夜十時。

翌日公演に向けた口立て稽古が行われていた。

板張りの舞台に車座になって座る座員たち。

子役の三太は少し眠そうにして愛染の横にちょこんと座っている。

飛吉がジュースを配ってまわる。

座長の缶ジュースにティッシュを添えてない事に対して座長、牛若虎五郎が怒る。


「この唐変木!そこつもん!俺がジュース飲む時は必ず飲み口をティッシュで綺麗に拭くの分かっていたはずじゃねいかっ!間抜け野郎!」

「そんなに怒らないでおくれよ。飛吉だってわざとやった訳じゃないから」


雪町姐さんがなだめすかす。


「いや、こいつはわざとだ!わざとこうやってドジばかり踏んで、俺のストレスなあれのあれを試してやがるんだ!」

「まあまあ」


缶ジュースを持つ虎五郎の小指が飲む時にピンと立っていて、彦四郎はそれを見てニヤニヤしている。


「後で飛吉には妾(あたし)からもきつうくお灸を据えておきますから」

「それより父さん、楽屋にグラビアアイドルの写真貼るのやめて下さいよ」

「いいじゃねえか彦四郎、別に」

「もっと隠れてやって」

「篠咲あいんちゃんは俺の心のオアシスなんだ!」

「知らないよ。力説すんなよ」


大衆演劇では、上下関係は大変厳しく、パワハラやコンプライアンスといった概念はない。

それでもまだ鉄拳制裁がないだけ、虎五郎はマシといえた。


口立て稽古。

大衆演劇の稽古には脚本というものが原則存在しない(あるにはあるが)。

芝居を立てる太夫元(虎五郎)の口承、口伝えで話のストーリー、役者各人の出番のタイミングとセリフが伝えられる。

各人、『テレコ』と呼ばれる小型のテープレコーダーを床に置いて太夫元である座長の口立てに聞き入ってセリフの相づちを打って記憶し、翌日の本番に備える。

立ち稽古はない。

この日の口立て稽古の演目は『吾妻橋情話』だった。

若旦那、牛若彦四郎は大事な店の御用金を落としてしまい大川、現在の隅田川に身投げしようとする若手代加ト吉の役。その若手代の命を助けて金を貸してやる、おこもさん(女性の物乞い)のお春の役を牛若虎五郎が演じる。このおこもさんは、実は若手代の実の母親である事が後々判明する。

人情話。

看板と言える、とても人気のある演目で虎五郎が長年あたためていた。もう幾度となく若虎一座では再演されている。

虎五郎の口立て稽古が終わる。

するとみな三々五々解散し、楽屋に布団を敷いて、明日の本番まで眠る。

彼らの日常である。



           つづく


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