15 I'll call you
保健室の前で呼吸を整える。何も考えずに飛び出してきてしまったので、高森と会って何をいえばいいか考えていなかった。
とりあえず荷物を返そうと決めたところで、部屋の中から話し声が聞こえた。取っ手に手をかけて静かにドアを開く。隙間から養護教諭の新川の顔が見えた。
「具合が悪いなら無理して体育に出なくてもよかったのに。自分の体調は自分でわかるでしょう? 調子が悪い時は無理しちゃダメよ、三上先生も困っちゃうから」
新川はカーテンの向こうに話しかけている。三上は二年女子を担当している体育教師だ。おそらくベッドに高森がいるのだろう。
「それと、何度もいっているけど、授業を突然飛び出してくるのはやめなさい。気分が悪いなら、手を上げて先生に具合が悪いですっていえばいいのよ、簡単でしょう?」
新川はため息をついた。高森の声は聞こえてこない。
「あと、爪をたてる癖もね。親御さんからもらった大事な身体をむやみに傷付けちゃダメでしょう」
いい加減にしないと傷跡が残っちゃうわよといいながら、新川が立ち上がった。
パニック障害の発作は突発的に発生する。いつどこで、何をきっかけに起きるのか本人ですらわからない。原因も対処方法も不明だ。
日常生活の中で、突如襲ってくるめまいや吐き気。この場で倒れたり嘔吐するわけにはいかないという恐怖と不安で取り乱し、正常な判断が難しくなる。
電車で出会った時の高森の様子を思い出す。目を強く閉じ唇をかみしめて、いつおとずれるかもわからない発作の不安を必死に耐えていた。爪をたてるのは、その痛みで少しでも恐怖心をやわらげるためだろう。それだけの恐怖と不安の中で、それでも毎日学校へ来ていることを素直にすごいと思う。
取っ手を横に引いてドアを開ける。新川が振り向いた。
「失礼します。高森さんの荷物を持ってきました」
「あら、ありがとう。そのイスのあたりに置いてくれる?」
会釈して部屋に入る。保健室の中は消毒液とアルコールの匂いがした。
「それじゃ、先生はしばらく職員室にいるから。何かあったら呼びなさいね」
ベッドにいる高森に声をかけると、新川は保健室を出て行った。
カーテンの向こうから小さく啜り泣く声がする。近付くと、カーテンの隙間から高森の姿が見えた。俯いて肩を震わせている。
泣くほどつらいのに、なんで体育館なんか行くんだよ。大人しく保健室にいればいいのに。
涙を拭った高森が両手で自分の頬を強く叩いた。ぴしゃりとした音が部屋に響く。
顔を上げた高森の目は真っ直ぐに前を睨んでいた。電車や放課後の教室で俺を睨んだ時と同じ目だ。
――そうか、頑張りたいのか。そりゃそうだよな。
カーテンを閉じ、深呼吸をして、咳払いを一つ。
「高森さん、ちょっといいかな」
高森が驚いている気配がした。
「驚かせてごめん。話があるんだ」
カーテンの隙間から自分の携帯電話を差し出す。
「電話するから、落ち着いたら出てくれると嬉しい」
高森が携帯電話を受け取ったことを確認して保健室を出る。校舎を回って裏庭に向かうと、保健室の窓に近い壁際に腰を下ろした。
高谷から借りた携帯電話を取り出し、自分の携帯電話の番号を押す。耳元で響くコール音を聞きながら深呼吸を繰り返した。
七回ほどのコール音の後に「はい」という高森の声が耳に届く。
「もしもし、高森さん?」
矢口ですと名乗ろうとして気付く。そういえば、まだ一度も名前を伝えていない。
「あの、
なんとなく改まった口調になってしまう。
「具合が悪くなったみたいだけど、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
電話越しに聞く高森の声は、昨日よりはっきりとして明るかった。落ち着いた様子に安心する。
「心配して頂いてありがとうございます。鞄も持ってきてくださったみたいで。さっきは挨拶もせずに失礼しました」
「いや、たいしたことはしてないよ。それより昨日話してくれたことなんだけど。さっきの様子見て、やっぱりまた怖くなったのかなって思って」
「ああ、いえ、平気です」
高森が少し声を落とした。
「さっきはちょっと失敗してしまって。体育の授業があったので、人が集まる前に早く着替えて更衣室を出ようと思ったんですけど、急ぎ過ぎてリボンが上手く結べなくて。それで焦ってしまいました」
空元気のようなかわいた笑いが混じる。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
始業を告げる鐘が校内に響く。
遠い空に雨を含んだ雲がゆっくりと広がっていくのを見ながら、携帯電話を握りしめた。
他人に踏み込むことは怖い。
けれど、恐怖と戦っているのは俺だけじゃない。
鐘が鳴り止むのを待って口を開く。喉の奥が渇いて上手く話せない。
「あのさ、高森さん。パニック障害って知ってる?」
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