第8話 彦左衛門2

「坊っちゃんは無類の女好きでございまして。お内儀を娶って主人になったというのに、お内儀では飽き足らず柏華楼はっかろう通いばかりなさって」

 柏華楼……柏原唯一の遊郭である。

「しまいには女中にまで手を出す始末。それで私が『天神屋の主人の自覚が足りません』とお小言を言う羽目になるのですが、それがまた煙たがられまして」

 まあ、そりゃあ煙たがられるだろうな……とは言えずに栄吉は相槌を打つ。

「坊っちゃんは大旦那様が大きくした天神屋を継いだだけで、何も苦労をなさっておられません。ですから大旦那様の苦労など何も知らず、何不自由なく大きくなられた。お店のお客様も先代の頃からのお得意様でして、坊っちゃんの代になってからの新しいお客様は本当に数えるほどしかおいでになりません」

「でも先代が隠居してからもう十一年になるんだろう?」

「そうなのです、坊っちゃんがお店を継いでから私は『坊っちゃん』と呼ぶのをやめて『若旦那様』とお呼びするようにしたのです。自覚を持っていただかないといけませんので。ですが、十一年間何もしておられないのです。でもそれを言いますと、また番頭がやかましいと言って店を空ける。もうどうにもなりませんので私が店を回しているようなものでございました。それでも大旦那様が隠居しているうちはまだ良うございました。大旦那様が五年前に亡くなってからはもう若旦那様のやりたい放題でございまして

「そうは言っても五年前なら主人も三十六だろう? 坊っちゃんと言っても遊び盛りの子供とはわけが違う」

 だが、彦左衛門はゆらゆらと首を横に振るだけだ。

「そんな分別は未だについておりません。先代がいなくなり、目の上のたんこぶが私だけになったのでますます羽を伸ばされるようになりまして」

「それでますます彦左衛門さんのお小言が増えたと」

「幼い頃は遊び相手になっていたので兄のような感覚だったかもしれませんが、若旦那様が元服する頃からはただの小うるさい番頭でしかなかったのです。もしかすると先代が隠居する前から、私には天神屋を出て行って欲しかったのかもしれません」

「そんな以前からの話なら、どうして今頃になって彦左衛門さんを追い出そうとしたりするんだ?」

 彦左衛門は力なく笑うと「お内儀の悋気ですよ」と言った。お内儀の悋気とはまた、どうやっても結びつかないような話が出てきた。

 しかし、ヤキモチ程度なら可愛いが、悋気も酷いものになると人殺しに発展するものもある。なかなかに侮れない。

「あんた、裏切りはご主人が隠居しないことに関係すると言ったが、隠居しない主人とお内儀の悋気とあんたが追い出されることと、どう関係があるんだ?」

「そりゃあもう、大ありですよ!」

 彦左衛門は急に元気になった。というよりこれは怒っているのだろうか、この男が怒っているのを見たことがないので今ひとつわからないが、よく考えてみれば彼はいつも笑顔なのであって悲しげな表情や困った顔など人前で見せたことが無いのだ。

「お内儀はとんでもない悋気持ちなんです。旦那様が天神屋の主人でありながらあまりお店に顔を出さなかったのはお内儀のせいでもあるのです。手前味噌ではございますが、天神屋は柏原きっての呉服の大店、妙齢のご婦人方や未亡人、嫁入り前の若い娘さんがお客様としていらっしゃいます。旦那様はあの通りの女好きですから、美しいお客様がいらっしゃいますと喜んで自らお相手をなさるのです。そして男性や年寄りは我々お店の者に任せてしまいます。それをお内儀が見ていて面白い訳がございません」

「そりゃ悋気持ちでなくたって面白くないわなぁ」

「でしょう? なのにお内儀は悋気もちなのですよ。どうなるかは察しが付くというものでしょう」

 女性客は彦左衛門に任せて主人には男性客をあてがうようにお内儀が采配を振るのだろう。

「そうなりますと今度は若旦那様が面白くない。それでお店をほっぽり出して、柏華楼に通い詰めることになってしまったのですよ」

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