柿ノ木川話譚3 ー栄吉の巻ー

如月芳美

第一章 馘

第1話 馘1

 柿ノ木川かきのきがわの郷に美しい季節が巡ってきた。厳しい寒さが過ぎ、木や草が芽吹く季節である。ここ柏原かしわばらの町もちょうど桜が咲き始めた。

 この時期になると河原を散歩したくなる。ここではたまに子供がしじみ獲りをする姿を見かけるが、まだ水が冷たくて入れないだろう。

 柿ノ木川沿いには五つの町がある。一番下流、海沿いの潮崎うしおざきでは、もう桜は散ったと聞いた。そして最も上流の木槿山むくげやまは梅が終わって今は桃が満開らしい。桜にはまだ早い。

 真ん中に位置する柏原の町には、柿ノ木川の支流である椎ノ木川しいのきがわがある。この川が柏原の真ん中を通っているので、町の人々は小舟を使った水上運輸にも頼ることができる。そのお陰で柿ノ木川の郷は潮崎に次ぐ大きな町として栄えている。

 この椎ノ木川も、もう少し上流に行けば町中を通るのだが、この辺りは下流でもうすぐ柿ノ木川と合流する少々辺鄙へんぴなところだ。だからこそあまり人も通らず、花もたくさん咲いていて散歩にはもってこいなのである。

 だが、そういうところは往々にしてあまり素行の良くない連中が出没する場所でもある。

 そして案の定というべきか、栄吉えいきちの目はゴロツキに絡まれている品の良い初老の男性を捉えた。

 金にならない仕事はしたくないが、見てしまったものは仕方がない。見て見ぬ振りができるほど器用な男ではない。栄吉は大きな背負子しょいこを横に下ろすと彼らに近付いた。

「年寄り相手に元気な兄さんが二人がかりってのはみっともねえな」

「なんだ、おめえは」

「そりゃあ聞かねえ方がいいと思うなぁ。あっしの名前を聞いて無事で帰った奴ぁいねえ」

「爺さんはすっこんでな。怪我す……」

 最後まで言うことなく、そいつはひっくり返った。

「あっしは爺さんじゃねえ。まだ四十四だ」

 言いながら、頭の片隅で「四十四なら十分爺さんか」などと妙に納得する自分もいる。

 いきなり現れた漬け物石みたいな親父に相方を一瞬で倒されたもう一人のゴロツキは、目の前で起こったことが理解できないのかポカンと口を開けたまま見ていたが、不意に我に返った。

「てめえ、何しやがる」

 栄吉は「向かって来るのが悪いんだからな」とボソボソ文句を言いながら、そいつの顎に掌底を入れた。もちろん軽くだ。本気でやったら死んでしまう。おつむを少し揺らしてやれば勝手に倒れる。

 少し手加減しすぎたか、そいつはさっきひっくり返ったヤツ共々すぐに起き上がって来た。

「この爺ぃ、許さねえ!」

 茹で蛸のように真っ赤になって頭から湯気を出しながら掴みかかって来る。栄吉は溜息をつきながらもその手を捻り上げ、もう一人の脾腹に拳をぶち込む。

「はぁ、めんどくせえ野郎だな。手加減てなぁ難しいんだぞ」

「痛ててててて、放せ! 放せよ!」

「もうちょっとやると折れちまうかな」

「やめろ、放せ、助けてくれ」

 仕方ねえなとばかりに手を離すと、二人は「覚えてやがれ」と取ってつけたような捨て台詞を吐いて逃げて行ってしまった。

 せっかくのいい気分が台無しだ。帰ってたら一杯やりたいところだが、薪割りが終わってねぇ……栄吉は二人の逃げて行った方を見ながら溜息をつく。

 尻もちをついたままの年寄りに手を貸そうとして、栄吉は「あっ」と声を上げた。

「あんた天神屋てんじんや彦左衛門ひこざえもんさんじゃねえかい?」

「これはこれは栄吉さんじゃありませんか」

 彦左衛門は立ち上がると丁重に礼を言った。

「栄吉さんが通りかかってくださらなかったら、骨の一本や二本、折られていたかもしれません」

「今日はたまたま買い物の用事があったんでね。それよりあんたとゴロツキってなぁ随分とおかしな組み合わせじゃねぇかい。何かあったのかい?」

「それはもう」

 彦左衛門はがっくりと肩を落とした。

「私は天神屋をいきなりくびになったのです」

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