ゾンビになったら一番最初に噛んであげるからね
浅瀬よすが
ゾンビになったら一番最初に噛んであげるからね
「私がゾンビになったら、月子ちゃんを一番最初に噛んであげるからね」なんてのたまっていたくせに、本当にゾンビなったら早速別の女を噛もうとしていたのでぶん殴ってやろうかと思った。
本当に恋人を殴れるわけもないので、ひまりが襲おうとしていた女の方を持っていた金属バットで殴りつける。女が地面に倒れてモゾモゾ動いている。実はゾンビは結構脆くて、リーチのある武器だと簡単に倒せる。
「それは浮気なんじゃないの?」
いくらゾンビだろうが、別の女を噛もうとするなんて。私の憤慨なんてわかっていないのか、ひまりはゾンビになってもいつもの癖できょとんと小首を傾げている。二度とでないようにやっぱり顎をかち割ってやろうか。一瞬考えて、でもそうしたら私のことも噛めなくなるからやめておいた。
世界が一変したのは突然だった。ある日を境に爆発的に流行したそれは最初、何だかよくわからないままにニュースが報じている謎の病気と言う印象だった。人間が凶暴化する嘘みたいな病気なんて、画面の向こう側だけの話で自分たちには関係ないのだと誰もが思っていた。
それが一週間もするうちには、国の機関が麻痺するほどのパンデミックになっていた。感染者に噛まれると、噛まれた人もまた感染してしまうのだ。こうなると映画のようなゾンビパニックだ。避難指示が出始めた頃にはもう道路にはゾンビが彷徨き始めていて、一時は、なんだ、こんなことで世界なんて終わってしまうんだとぼんやり思った。ひまりと二人で終われるならそれも悪くないなとも思っていた。
なのに、ひまりはゾンビになってしまった。夜に咳をしていて、朝になったらもうそうなっていた。
ゾンビになったひまりは、リップを塗らなくても色の付いた唇も、色白ですぐ赤くなる頬も、ミルクティーベージュに染めた髪も、太陽の下で明るい茶色に見える綺麗な目も、全部が生気を失ってくすんでしまっていた。サンダルの先に見えるピンクの偏光ラメのペディキュアだけが、ひまりの体で鮮やかに発色している。
噛まれなくても一部の人は何処からか感染してしまうらしい。ひまりは手洗いはちゃんとするがうがいはしないタイプだったから、それが良くなかったのかもしれない。しっかり言っておけば良かった。ひまりは素直だから私の言ったことなら聞いたのに。
ゾンビになったら一番最初に私を噛む予定だったひまりは私に襲いかかりはしなかった。なのに他のゾンビや人間のことは追いかけた。どうにかして私のことを噛ませようと試行錯誤したけれど、無理やり口を開かせて指を突っ込もうとしようが、私が半狂乱で泣き喚こうが、ひまりは頑なに私だけ噛もうとしなかった。
こんな世界になっても、暫くすれば生きるために人間は順応する。ゾンビの中にも積極的に襲ってくるタイプや何もしてこないタイプがいることが最近わかってきたらしい。SNSは偉大だ。国がインフラを放棄しなかったおかげでもある。
ゾンビは傷が治らず、身体が壊れれば動かなくなる。だから人間を殺すのと同じように殺せた。私でも金属バットをフルスイングすれば小柄で細身のゾンビなら倒せる。脅威には変わらなかったが、ゾンビ自体の対処法は確立されつつあった。
一方で、最初の感染経路とゾンビになった人間の治療法は未だ何の手がかりもく、ゾンビになった人間を駆除していく方向に世論は傾いていた。
ひまりと私は高校で出会い、同じクラスになってすぐに意気投合した。とにかく気が合って、明日には忘れるようなどうでも良いことで毎日教室の床に倒れるくらい笑えた。
明るくて人懐こいひまりはクラスメイトや先生に部活の後輩、私の親、果ては食堂のおばちゃんからも好かれていた。最初はひまりが他の人たちと話しているのを見るのが嫌だった。私の知らないひまりがいるのが寂しくて泣きそうになった時に、ひまりのことが好きだと気づいた。
ひまりを他の人間に取られるほど怖いことはなかったから「ひまりのことが好き」と素直に言えた。放課後の教室で、ひまりは目をまん丸にして驚いた後、すぐに大喜びで飛びついてきて「私も月子ちゃんのこと好き! 私の彼女になって!」と私をめいっぱい抱きしめた。
私の心臓の音ばかり耳に届いて煩くて、ひまりの手が震えていたのに後で教えてもらうまで全然気がつかなかった。私ばかりが好きなんだと思ってた。
いつまで経ってもあの美しい日を記憶から再生できる。
高校卒業と共にひまりと一緒に暮らす前にはお互いの両親に挨拶に行った。朝ごはんを吐くほど緊張して行ったのに、こちらが心配になるくらい話はとんとん拍子で進んだ。大学でも私とひまりが恋人同士だと公言していた。学友たちは飲み会にいつもセットで呼んでくれた。社会は私たちを難なく受け入れて、概ね上手くいっていた。ひまりと私には未来があった。一生涯を幸せに隣で過ごせた可能性が確かにあった。
現実はフィクションよりグロテスクで最低だ。何もかも。
ところでひまりと私の家はゾンビが闊歩する世界において最強の立地だった。6階建アパートの4階、階段横の通りに面した部屋。ベランダから隣の店舗の屋根にすぐ出られ、咄嗟の時も逃げられる。コンビニが多いし、品揃えの良い業務用スーパーもある。何よりホームセンターが近いため武器や籠城するための道具を揃えるのに困らない。
ひまりと一緒にいようと決めてすぐ、向こう10年は暮らせそうなだけの必要品は簡単に拝借できた。少数だが私と同じように避難しない考えの人間たちはいて、インターネットで生きていくだけの情報も手に入った。
ちゃんと世界は回っているのに、私たちはいずれ終わってしまう。
ゾンビになるのは人間だけではない。
近所のゾンビ犬たちのボスは斜向かいの一軒家で飼われていたロングコートチワワのチョコちゃんだ。生前(?)は脱走癖と誰彼構わない吠え癖で幅を利かせていたが、ゾンビ犬になった今も悪知恵と気の強さは健在だ。チョコちゃんに大概のゾンビは敗北しているため、ここ三丁目付近にはゾンビはほとんど闊歩していない。ひまりもしっかり負けそうなので一応隔離している。
チョコちゃんはひまりのことが好きだったが、私のことは嫌いだった。チョコちゃんだけでなく、大体の動物はひまりのことが好きで私のことを嫌った。ひまりが「月子ちゃんが無愛想だからだよ」と言うから、通りすがりの野良猫に笑顔を見せて近寄ったのに、死ぬほど威嚇される私を見てひまりも死ぬほど笑った。記憶の中のひまりはいつも笑っている。
ひまりは私が動かした通りに動くので、私が眠る時も一緒のベッドに寝転がしている。セミダブルのベッドはひたすら寝相の悪いひまりと、寒いと布団を奪い取りに行く私とだとあんなに狭く感じたのにひまりが微動だにしないだけで随分広かった。
眠る前にいつも考える。
ひまりは本当にひまりなんだろうか。冷たいゾンビに成り果てたひまりの魂は、もうとっくに天国に行ってしまったんじゃないだろうか。だとしたら私と過ごしているひまりはもう、もう。
不思議なことにひまりの体は生温く、心臓はゆったりと脈打っている。
ひまりが元通りになるなんて夢を持てるほどお気楽ではないし、現実逃避もしない。それでもひまりの存在を無くしてしまうのはひどく躊躇われ耐えられない。
動かないひまりは眠りもせず、ただじっと私を見ている。
あの時、バイトもサークルも研究室も無い土曜日、ひまりが見たがっていたB級ゾンビ映画をレンタルビデオ屋で借りて、ポップコーンの種とジュースと酒を大量に買い込んだ。最高の夜にしてやると張り切り過ぎて塩味とキャラメル味とチョコ味まで作った。ひまりはポップコーンが跳ねるのを、私の後ろから抱きついてちゃっかり避難しながら喜んで見ていた。別の部屋に逃げないでくっついてくる甘えたなところが可愛かった。
ひまりは映画の中でもB級ホラーと呼ばれるジャンルが特に好きだった。CGが使われていないのも、ちょっと無理がありそうな演出も面白いらしい。私はそう言うのはよくわからないけど映画を見ているひまりが百面相するのが好きから、それを見たくて毎度ひまりの見たい映画に付き合ってしまう。
その日のひまりのチョイスは意外で、私にとっても面白かった。いつもは緑のゲロ吐く映画とかを見せてくるのに。
中盤に差し掛かり、ゾンビに襲われて捕まった屈強な男が噛まれてしまう。フィジカル最強ゾンビの完成だ。屈強なゾンビが主人公達に襲いかかりあわやと言った場面でひまりは言った。
「私がゾンビになったら、月子ちゃんを一番最初に噛んであげるからね」
いつもの冗談めいた言い回しに私は適当な返事をした。ちょうど映画が主人公がゾンビから逃げ切れるかどうかの佳境だったからと内心言い訳して、気恥ずかしかったからちゃんと答えられなかっただけだった。
「一番最初に道連れにして」「私をひとりにしないで」「よすがを失ったのに生かさないで」「早く殺して」どんな言葉ならひまりは聞いてくれるだろう。私をひまりと同じにしてくれるだろう。
その記事を見つけたのは、朝から日課のSNSでの情報収集の時だった。
要約すると「個体差はあるが、感染者達は本能、もしくは強く残る記憶に基づいて行動している可能性がある」と言う内容だった。
もしそれが本当ならひまりの魂は、欠片でもひまりの中にきっとちゃんと残ってる。それだけが希望で、だからこそ私は私自身に絶望した。だってそれなら、私は私のせいでこんなことになっている。ひまりは素直で優しいから、私の自業自得だ。
あの時、あの土曜日の夜、私が「ゾンビになるくらいなら死ぬよ」なんてつまんない返しをしたせいで、ひまりは律儀に私を噛まないんだろう。
本当にこんなことになるなら、指切りして「絶対最初にゾンビにしないと針千本飲ます」とでも約束しておくんだった。それくらい平気で愛しているのに。一人で生きてなんていられないのに。
「ひまり、大好きだよ。一生好きだよ」
誓ったところでひまりは興味なさそうに瞬きするだけだった。
夢を見た。
行ったことがない向日葵畑の真ん中に私たちはいた。
「月子ちゃん!」とひまりが私の名前を呼んで向こうから駆け寄ってくる。去年の夏に買った麦わら帽子のリボンが走るのに合わせ揺れている。そんなに走ったら転ぶよと言う前に、案の定顔から転んだ。ひまりは運動神経が良いのに鈍臭いところがある。
「ひまり!」
私は何故かその場から動けなくて、ひまりを案じて名前を叫ぶ。ゆるゆると起き上がったひまりは土に塗れて、もう前のひまりじゃなくなってしまっている。
満開の黄色い向日葵の中で、色の死んだひまりが突っ立っている。ゾンビになってからひまりは静かだ。ひまりは可愛らしい顔の造りをしているから、無表情だって顔色が青くたってよだれが出てたって可愛いけれど、けど私はひまりの笑った時にきゅっと細くなる目が好きでたまらなかった。今のひまりだって愛してる。けれど前のひまりが恋しい。
辺りを見回すとどんどん向日葵が萎れ枯れていく。ひまりと私を残して世界がぐるぐる回り出す。どんどん混ぜ込まれて、私が殴った女のゾンビも散々世話になったホームセンターもチョコちゃんも教室も土曜日の夜の風景も私たちを置いて消えていく。
最後に私とひまりだけが茶色い地面に立っている。
「月子ちゃん。もう一回聞くね」
ひまりの口が動く。
夢から覚めた。
もう一回やり直さなきゃ、とだけ覚えていた。
あの日の残りのポップコーンの種を棚の奥に見つけた。馬鹿みたいに買い込んだのでまだまだ余っている。賞味期限切れのそれをフライパンに入れて火にかけると、意外とよく跳ねてちゃんと出来上がった。キャラメルやチョコレートなんて気の利いたものは用意できなかったが、塩なら備蓄が沢山ある。
今回はひまりが火傷しないように避難させておいた。ひまりは素直に従う。
何やかんやあり死闘を繰り広げ無事にレンタルビデオ屋から借りてきたゾンビ映画を再生する。
見るのは2回目だったが、その映画はやっぱり面白かった。襲い来る映画のゾンビは血みどろで、所々腐り落ちていて恐ろしい。隣に座ったひまりの方が綺麗な姿をしている。画面でゾンビが人間を襲って食う。前はチープな演出に手を叩いて喜んでいたのに、ゾンビになったひまりは笑わなかった。ひまりは言葉を発しない。
「ひまりがゾンビになったら、一番最初に噛んで欲しいよ」
あの日「私がゾンビになったら、月子ちゃんを一番最初に噛んであげるからね」と言ってくれた時に、本当はこの言葉が浮かんでいたのに言えなかった。
夢で願ったって今更だ。今更過ぎて、こんなのただの自己満足で、ひまりにとってはもう何の意味も無い。二人のこれからはどうにもならない。分かっているのに、言わずにはいられなかった。ひまりがゾンビになった日から頭がおかしくなりそうだった。巻き戻してほしかった。
フィクションよりも現実の方が何もかも嘘みたいだ。
ひまりと私には未来があったのに。食パン一斤でフレンチトーストを焼きたかったし、36時間耐久映画鑑賞会もしたかったし、あの日の土曜日の夜みたいな時間を二人で何百回重ねて生きたかった。「ずっと」を夢見ていたかった。
私たちはもうこれ以上ないくらい停滞している。過去は変えられないし、未来は見えない。ひまりはもうきっと元に戻らないし、私はひまりを殺せない。どうにもならない今をだらだらと延命することしかできない。
それがひまりにとって幸福なのか辱めなのかすらも、もう私には分からない。
「ひまり」
名前を呼ぶ。反応がないひまりにキスをする。ぬるい身体を抱き寄せる。
それでも絶対にひまりは私を噛まないから、それがひまりの愛なことだけは、どうしようもなくわかってしまう。
ゾンビになったら一番最初に噛んであげるからね 浅瀬よすが @nekochankawaii
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます