第19話/危険球にご注意を



 それは既視感のある逃走だった、部室から廊下に出て七海は全速力。

 昇降口はもう見えている、だが残念なことに背後には紫苑の姿が既に。

 捕まったらバッドエンドだというのに、彼は苦笑する。


(そういえば前は俺が紫苑を追いかけてたっけ……、こんな事になるなんて思いもしてなかったなぁ)


『暢気に浸ってる場合ではないぞご主人ッ!? そっちに逃げるとあの時の再現だッ! 今度は佐倉紫苑にホームランボールが飛んでくるんじゃぁないッ!! ご主人に直撃コースだ避けられないぞ!!』


(ッ!? もっと早く行ってよそれッ!? もうグラウンド出ちゃったじゃん!!)


『くっ、未来予知の乱数が――っ、このままだと今すぐ振り返って佐倉紫苑をラリアットで殺す以外に回避する未来がない!!』


(ちょいまち未来予知の乱数って――じゃなくて殺すの確定なの!? ダメじゃんホームランボール直撃しかないじゃん!!)


 どこだ、どこから来る、七海は五感を研ぎ澄ませながら走る。

 背中から聞こえる足音と唸るような獰猛な吐息、グラウンドでは野球部の練習、投げる際にユニフォームの衣擦れの音、ボールが風を切って、カキーンとバットの打撃音。

 高く舞ったボールに、突風が吹き――――。


(いや何でだあああああああああああああ!! 的確に俺の頭向かってホーミングしてんじゃん!? イヤアアアアアアアアアアア運命に殺されるうううううううううう!!)


 明日の筋肉痛がどうした事か、心臓が破れそうになって居るなんて関係ない。

 七海は文字通り必死の表情で直撃コースから外れようとするが、ボールは一秒毎に彼の頭に迫っている。

 ――もう一度やるしかない、あの時、紫苑を救った様にホームランボールを受け止めるのみ。


『やるんだなご主人ッ、万に一つの失敗も許されないぞッ! 直撃すれば即死で佐倉紫苑はその場で野球部を素手で殺戮しながら後追い自殺する未来だッ、ちなみに回避に運良く成功しても死へのルートが変わるだけだマジで成功するしかないぞ!!』


(やってやんよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!)


 一度出来たのだ、二度目だって。

 それに今の七海は、自身の持つポテンシャルを二百%引き出している。

 負ける気がしない、そう闘志を燃やす一方で背後の紫苑と言えば。


(またホームランボールが!? しかも先輩にあたるよねこれッ!? ふっっっざけんなッァ!! ――――させない、私以外の誰にも先輩を傷つけさせるもんかアアアアアアアアアアアアア!! 七海先輩を殺すのは私なんだよオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!)


 直撃まで後僅か、彼の背中までは手を伸ばしてギリギリ届かない。

 だが、このボールを手に出来れば。


(先輩にぶつけて足を止められるッ、手に入れるぞホームランボールッ、私なら出来るッ!!)


 愛、己の魂の底から絶大なるパワーが沸いてきている気がする。

 体が軽い、もっと早くという要求に足が着いていく。

 ボールはもう五メートル先まで迫っている、七海の背に手が届く。


『ご主人ッ!?』


(気づいてる紫苑の指先が触れたこのままだとボールを取られるッ、畜生なんてスピードだッ!!)


(チッ、やっぱ先輩もボールを取るつもりッ!! でも私の方が早いッ!!)


 ――後三メートル。

 七海の脳内にはシステムから更新された未来予知がビジョンで送られた。

 もはや悠長に言葉で警告している暇などない、作戦を練る暇もない。


(ならさぁッ!!)


(先輩が跳んだ! けどそれはフェイントだって読めてんだよッ!! 私だってえええええええ!!)


 ――残り一メートル。

 七海が態と当たりにいく為に跳躍、と見せかけるフェイントで実際には力強く地面を蹴っただけ。

 それを逆手に取って紫苑は跳躍、ボールと彼の間に割り込む。

 残り五十センチ、彼女の目に動揺が見えた腕の動きが間に合わずボールが直撃してしまう。


(あ、ダメだこれ、私、運悪くて死ぬやつうううううううううううう!!)


(――――読んでたよ、紫苑ならこうする可能性があるって。だから後は俺が頑張るだけだ)


 残り三十センチ、どちらも全力で走っていて紫苑に至ってはその勢いで宙に浮いている。

 遠目から見れば絶対に直撃してしまう光景、だが七海の意見は違った。

 まだ間に合う、その為に力強く地面を蹴ったのだ勢いは十二分で後は――――。


「んなろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」


「ぷぇっぷァあン!?」


 当たる、彼女がそう思った刹那に視界がぐるんと回る。

 自慢の髪の先端にスッとボールが掠める感覚、頭を暖かな手で守られている感覚、胴を強引に引っ張られている感覚。

 次の瞬間、ごろんごろんと地面に転がって。


(――――え? どう、なったの? 当たってないよね? 守って……くれた?)


(あっぶねぇえええええええええええッ!! マジで間一髪だったぁ!!)


『――見事なりご主人ッ!! 今回はどちらかに必ずボールが当たらなければならなかったッ、ああッ、髪の毛の先でもボールが当たった事に変わりないッ!! この場限りではあるが命の危機は、バッドエンドは回避されたぞご主人ンンンンンンンンンンンンンンンンンン!!』


 言語化すら出来なかった一瞬の思いつき、ボールが当たる未来を成立させながら、どちらも軽傷で済む冴えたやり方。

 七海は成し遂げたのだ、己が大怪我をせず、紫苑に怪我ひとつさせずに。

 ――腕の中の彼女は、胸の中がときめきで溢れ。


(ううううううううううっ、か、カッコイイっ、うわーっ、うわあああああああっ、なんでこんなカッコイイんだよ七海せんぱああああああああいっ!!)


 体を張って助けられた、当の紫苑が愛という名の殺意を向けていたにも関わらず。

 完敗にも程がある、敵わない、力では絶対に勝てない、その事実はとても甘美な味で。

 脳がバグってしまいそう、とけてしまいそう、愛おしさでどうにかなってしまった。


「先輩……ありがとうございますぅっ!!」


「どうも、怪我はないかい?」


「はいっ! 七海先輩のおかげで傷一つないですううううううう!!」


「んじゃあ、俺の上でべったりしてないで立とうか。グラウンドにいるって事を忘れないでね」


 立ちましゅううう、と瞳を恍惚に光らせ紫苑は立ち上がった。

 そしてすぐさま七海に手を貸し、彼が立ち上がるや否や熱烈に抱きつく。

 ぎゅー、ぎゅー、と言いながら彼の胸板にほっぺたをすりすり。


「…………顔に怪我がないか見せてよ」


「はーいっ、どーぞどーぞ見てくださいって!」


「ついでに目を閉じて」


「がってん! …………うん?」


「はい隙あり、――チュッ」


「ッ!? ふぇっ!? えっ、せ、先輩今き、キス……っ!?」


 七海にキスされた瞬間、紫苑は全身を茹で蛸のごとく真っ赤にしながら、己の唇を震える指先で触る。

 胸のときめきが収まらない、呼吸をする度にきゅんきゅんと甘い痛みが全身に広がって何も考えられなくなる。

 狡い、こんなのは狡い、井馬七海が佐倉紫苑の王子様だと運命が告げているよう。


(うっしフリーズしたな! これで安全に逃げられる!!)


『…………ご主人? いつか腹を刺されて死ぬぞ??』


(え? また死の未来予知が増えた!? なら速攻で逃げなきゃ!!)


 油断大敵だったと七海は逃走を決意、惚けている彼女を残すのは少し怖いがここは確実な逃走を取りたい。

 七海は駄目押しとばかりに、今度は紫苑の額に口付けを。

 びくんと体を震わせ、塗れた瞳で彼女はぽぉーっと彼を見つめる。


「怪我がなくてよかったよ、じゃあまた明日ね」


「はいっ、先輩また明日でーすっ! ……………………せんぱい、かっこよかったぁ、愛されてる、私、愛されてるぅ」


 紫苑は七海の背中が見えなくなるまで見送って、はたと気づいた。


「…………………………あれっ?? もしかしてぇ……逃げられたぁああああああ!!」


 なんて迂闊、完全に手玉に取られてると彼女は色ボケしたまま唇をわなわなと噛む。

 このままと愛のままに七海を殺せない、ならばどうすればいいのか。

 力では甘美な敗北を得た、己に残っている武器は何か。


「――――よし、力以外で攻めようっ! いざ行かん先輩のおウチ~~っ!!」


 そうと決まればと、紫苑は走り出して。

 先に学校を出た七海は彼女の尾行を警戒し、遠回りして帰っている。

 ならば、どちらが先に彼の部屋に居るなんて問いは不要で。


「……………………おい、おい? なんで先に居るんだよ紫苑!? しかもそんな格好でさぁ!!」


「おかえりなさーい先輩っ! お風呂とご飯とぉ、わ・た・し、どれにしますぅ!!」


 帰宅した七海が己の部屋に入るとそこには、裸エプロン姿の紫苑の姿があったのであった。


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