第二章 私の命の速さ#8
俺の幼なじみ。
美しくて、優しくて、笑顔がまぶしかった。
時々夢の中で、彼女に会っている。
あの頃のように汗だくになりながら畑仕事を手伝ったり、最後に会ったあの日から、ふいに戻ってきてくれたりだ。
俺は何度も彼女に自分の気持ちを伝えようとする。けどいつも、最後の言葉をいう前に目覚めてしまう。
夢の中であっても、本当にこれが最後かもしれないのに、と俺はいつも激しく後悔する。
それを何度も繰り返して、それでも普段の生活は続いていく。
俺は紹介された妻を迎えて、子どもをもうけて、俺の仕事は安定している。
でも、彼女の夢をみるたび、言葉に出来ない気持ちが沸き上がる。
俺は幸せだ。幸せだ。幸せだ…。三回ぐらいつぶやいて、いつもその気持ちを押し殺す。このことは誰にも言っていない。
言える訳もないが。なぜなら彼女はもうこの世にいないことになっている。
彼女は一人っ子で、彼女の両親も彼女が消えたすぐ後火事で亡くなった。その火事すら無かったことにされつつある。
もう彼女の話をする人はいない。彼女は墓さえない。
彼女のことはもう、誰も‥‥
「おとうさん?」
閉じていたまぶたを開ける。目の前には今年で六歳になる俺の娘。
「ねむいの?おとうさん、いつもはやいのにきょうはおそいね?おしごとはだいじょうぶ?ちこくしない?」
カップを握り締めたまま眠っていたようだ。彼女の夢をみた後はいつも眠さが中々抜けない。
「大丈夫だよ。マリザ、お前も朝ご飯食べたら‶しごと‶があるんだろ。」
「ある!きょうはねーおかあさんにひざかけのつくりかたねー‥」
女の子はこの歳になるととにかく喋りたがる。いつもは可愛いらしくて仕方ない娘の話も今は頭に響いてつらい。
「行ってくる。」
娘の頭をひと撫でし急いで口に残りのパンと紅茶を放り込んで玄関を出る。
「行ってらっしゃーい!」「行ってらっしゃい。」
娘の大きな声のすぐ後に同じ言葉で妻の小さい声が続く。
俺の形だけは同じ毎日。俺の心がいつもと違っても、きっと誰も気付かない。それが俺の日常だ。
「おっ、ゆでたまごか?いいなあ、最近は鶏も栄養不足でなかなか生まねえからなー!」
「食べるか?俺はあまり好きじゃないから」
「ええ?バチ当たりな奴だなー!まあ俺はありがたいしいただくぜ!」
同期のヴィアが俺の昼飯のひとつであるゆでたまごをめざとく見つけてうまく自分のものにする。
木こりの仕事はとても体力を使う。なるべく栄養のあるものを摂っておかないとてき面に自分に返ってくる。
俺の妻はそれをよく分かっていたから、卵不足の近頃でもまめにどこかしこから手に入れて昼飯に付けていてくれた。
俺はそのことに感謝していたし、今もしている。だけど、今日はどうしても食べる気にならない。
「なぁ…お前だからさ‥頼みがあるんだけど?」
「なんだ。」
「俺の奥さん…今三人目腹の中って言っただろ?だから最近‥」
「ああ分かった。行って来い。」
「お前は本当に気がきくな!ありがとうよ!一人でもいけそうか?」
「今日の木は痩せているから一人でも充分やれる。お前も知ってるから俺に頼むんだろ?」
「へっへ〰そうなんだよな!お前には本当感謝してるよ!今度お前が行くときは俺が金出してやるよ!」
「俺は行かない。」
「そうだった!お前って
「早く行け。俺のほうが先に終わるぞ。」
「おーいけねー!じゃ、また日暮れ前に!」
ヴィアは独特のステップを踏みながら町の外れへと向かっていく。
女を抱くことに何の疑問も罪悪感も持っていない、ありきたりな男。
俺もあんな風になれたら、と時折思うこともある。けれど体は言うことをきいてくれない。
妻とは二人目が生まれて以降ほぼ何もしていない。俺も妻も淡白で、子どもを作るためにしていたようなものだから、こんなものなのだろうとも思う。
けれど時々、愛情とは何なのか考えてしまうことがある。
しかし考えても、体を求めても辿り着かない、むしろ離れてしまう気がする‥そうなんとなく気づいてからは、この感情とは向き合うのは止めた。
妻とは表面的には仲良くしているし、子ども達も可愛い。
俺の人生は幸せで、満ち足りているんだ。
俺はこれから切る予定の木を見上げた。
いつも切り落とす木々よりひとまわりは小さいその木を、いつもの流れで計測する。
計算式で割り出した配分通りに木を少しずつ切り削る作業を進めていく。
もともとヴィアはさぼりがちな奴だったとはいえ、家を作る為の木の伐採作業はやはりいつもより遅くなる。体力も消耗する。
だからこその二人組作業を組合は推奨しているが、もともと木こりは一人でやるのが長年の常識であったため守らない奴も少なくない。
正直俺も組合に所属していなければひとりで仕事をしたい。
けれど近年は組合に入っていなければなかなか仕事を斡旋してもらえないようになってきているのが現状だ。
‥一人で作業するのは久しぶりのような気がした。
まだ若かった頃は
でも時代は変わった。今更干渉に浸っても仕方がないが。
-俺はずっと色々なことを考えていたせいで、自分が計算式を誤算し、切り方を間違えていたことに気付かなかった。
二人組制の利点のいくつか、それは作業工程に一人が間違いを起こしても確認し合い防げること、あとは、事故が起きても助けを呼べ、死ぬ確率が下がること―
ギギ…メキッ…ゴッ…
木が倒れてくる音。聞きなれているが、傾く影が予測とは違う。うつむいていたせいで気付くのが遅かった。
木が俺に向かって倒れてくる。
「くっ!う‥うわあ!!!」
途中で他の木の枝が引っ掛かり、勢いは少しそがれたが大量の木枝が降りそそぎそれが当たって転び、最後は俺のすぐ側へ轟音を響かせて倒れてきた。
森の奥の湿った場所だったので
「くそっ…」
自分の馬鹿さ加減に嫌気が差しつつ起き上がろうとする。
脚がひどく痛んだ。少し触っただけで腫れあがってきているのが分かる。
…折れているかもしれない。死ぬことは回避できたがこの状況は次にまずいことだった。しばらく仕事も出来ないかもしれない。
「くそっ!くそ…何をやってるんだ俺はっ!…‥」
自分に何度も悪態を吐いたところで状況はよくならない。
少し気分が落ち着いたところで、今出来る最善の策を考える。
そうだ、持ってきた荷物でどうにか…。
持ってきていた荷物の一通りは目では見えるがこの脚ではたどり着けない距離に置いてある。
少し悩んでなんとかそこまでほふく前進で進んでいくことを決心した。
「うっ…痛いっ…くそおっ!!」
枝は体中に当たっていたので、痛いのは脚だけではなく全身だった。体にかぶった泥が冷えていき、体力を奪うのに一役買っていた。
いつまで経っても荷物への距離は縮まらない。頭が朦朧としてきた。
俺は何をやっているんだろう。こんな時でも目の前にちらつくのは、妻や子ども達の姿ではなく、いなくなった幼なじみの笑顔だった。
俺は…本…当に……。……―
白い。目覚めてすぐそう思った。白過ぎて目が痛みを訴える。
ここは俗にいう輪廻の世界なのか。
精霊信仰なんて信じていなかったが、存在したんだな。
スッ、と誰かが息を吸う音が聞こえた。
反射的にその方向に首を動かした。
そこにはウィリアンがいた。俺の顔をのぞきこんでいるように見えた。
ああ…また夢の続きか。死んでも夢をみるのか。それともかろうじて生きていて、夢の中を漂っているのか。
「ベート…‥」
きれいな声だ。耳に心地良くて、いつもの夢よりはっきり聞こえる。
「ウィリアン…」
今日は何をする?畑を一緒に耕すか、それとも木苺を取りに行くか。
手を繋ぎたい。現実では出来なかったけど、ここでなら。
にぶい痛みが腕に
「あ!動かないで!骨折は脚だけだけど、全身の打撲がひどいのよ。」
骨…折?打撲…?何…何の話だ?
「もしかして覚えてない?切り倒した木の枝に巻き込まれてけっこうな大怪我よ。本当に、死ななくて良かった…」
ウィリアンは俺の脚に触れようと手をのばして、やめた。目は涙の粒で輝いているように見える。
だんだん頭がはっきりしてきた。これは…夢じゃない。
目が熱くなる。すぐに頬も熱くなって、のども熱く…
夢の中よりも美しいウィリアンの笑顔が、そこにあった。
食べ物をとってくると言って出て行ったウィリアンを目で見送ってから、俺は再び視線を巡らせて部屋を眺める。
白い箱の中の様な部屋で、天井近くにある窓からはおそらく夜の闇がちらついている。その他は横から出てくるドアと俺が寝ている布団の無いベッドがあるだけだった。
暗いのは窓の外だけで、部屋はなぜか全体的に白く光っている気がする。なにせ一度も見たことがないような部屋だ。
分かると一気に居心地が悪くなってくる。
ドアがシュッ、と音を立てて開く。
「‥ただいま。」
「‥おかえり。悪いな、色々と…あの、ウィリアン。」
「どうしたの?」
「この部屋は‥ウィリアンの部屋なのか?なにか、変わってるな…」
「違うわ。この部屋は…私の友人の部屋なの。」
「友人?」
「遠くの村の人で…旅をしている人で、時々この小屋を使っているから私も貸してもらってるの…」
ウィリアンはどこか歯切れが悪かった。
俺はふと我に返った。
村のお茶会で姿を消した日から十三年、どこで何をしていたのか。なぜ歳をとっていないのか。
俺はウィリアンを見つめた。ウィリアンも俺の思っていることが解ったのか、おびえた目つきで下を向いた。
「ウィリアン…ずっと、探してた。ずっとだ…」
「知ってたわ。何度もこの森の辺りをうろうろしてたものね…」
「見てたのか?どこから…」
「ごめんなさい。それは、言えない…」
俺は痛む腕を伸ばしてウィリアンの服の端を掴んだ。
「俺も、すまない。今後は一切訊かない。だから。‥俺から離れないでくれ…」
「……はやく食べてね。あ、今あんまり動けないのよね。‥はい、あーん。」
「えっ!?…あ、あー‥」
色の薄いシチューは、何だか甘い味がした。
「折れてるのか…これから…俺はどうしたら…」
「…今日はもう帰るのは無理よ。だから、何日かここにいて。…脚については早く治るように治療するから。」
「医者がいるのか?」
「医者はいないけど…私は魔女だから。」
「魔女?どういうことだ?」
「村の人達に…何も聞いてないの?」
「…」
少しは噂を耳にしたことがある。ウィリアンは、森に入って魔女にとり憑かれたと…
「正直どうでもいいんだ。お前と逢えたから…」
「…私も会いたかった‥‥」
俺は何だかウィリアンと見つめ合っているのが息苦しくなる。
「‥今日はこのままここで寝たらいいのか?」
「ええ。また明日の朝になったら様子を見に来るわ。何か必要なものある?」
「ええと…手洗いは…」
「あ、トイレは‥左に扉があって‥」
ウィリアンに肩を支えられながらもう一つの横から出てくるドアの中にあったトイレに向かうと、そこも同じく白っぽく変な造りだった。
適当にウィリアンに使い方を聞いて、済ませて、出たらベッドに座って待っていてくれたウィリアンに支えられながら再びベッドに寝かされて。
そのたびに視線が合って心臓の鼓動が速くなる。
全然なんでもない…むしろ格好悪いことなのに。
最後に、おやすみと返事をし合って、部屋全体が薄暗くなり、俺の心臓は一気に速度を落として、何か考える間も無く眠ってしまった。
次の日、ウィリアンは初めて見る「カラクリ」というものを持ってきて俺の脚に当て出した。それを使っていると脚の治りが早くなるらしい。
倒れた俺が目覚めるまでのあいだも当てていてくれたようで、昨日引きずりながらも少し歩けたのはそのおかげらしかった。
あと三日間は定期的に当て続けてほとんど歩けるまで回復させる予定…だと。
「脚の痛みはどうかしら?」
「だいぶましになった。もう歩けるかもしれない。」
「あせっちゃだめよ。」
「少し歩きたい。…お前の森をみてみたい。」
「……もう。」
試しに一人で立ってみると、よろつくが歩けそうだった。ウィリアンが自然な仕草で支えてくれる。
「大丈夫?」
「俺は木こりだ。体力だけはある。」
「そんなこと言ってるとまた倒れてしまうわよ。」
俺はよろつくふりをして少しだけウィリアンに寄りかかった。
部屋の中で寝ていた時は分からなかったが、本当に変わった森だ。
生えている木々に蝶の鱗粉が沢山塗りたくられているようだ。訊いてみたら、鱗粉ではなく妖精が落としていった魔法の粉…と言った。
「あんまり木に触れないで。」
「ああ…ごめん。」
「私が訊くのはあれなんだけど…ベートは今どんな生活をしているの?えっと…結婚とか」
「…結婚はしている。子どもは…女の子と男の子がいる。」
「そう…遅くなったけどおめでとう!絶対可愛い子でしょう!」
「ああ…可愛い」
お前の方が。頭の中に浮かんだ言葉で自分に青ざめる。
「私もね、子どもがいるの。」
俺の顔色が変わったことに気づかないのかウィリアンは笑ったまま言った。
「え…」
「私と血は繋がっていないんだけどね。それでも私は心が繋がった親子だと思ってるの。」
「その子は…どこで…」
姿が変わらないままのウィリアンの口から子ども、と言う言葉が出ることにひどい違和感を覚えながら口にする。
「…森の入り口に捨てられていたり、自分でやって来たり色々な子がいるわ。」
「色々って、‥何人いるんだ?」
「三人よ。…他にもいたけれど、亡くなってしまって‥今はその子達だけ。」
これも噂で耳にしたが、森に子どもを捨てにいっている奴がいる…と。
「…‥ウィリアンはつらくないのか。」
「つらい‥例えば?」
「例えばって…他人の子を育てるとか‥自分の子どもではないんだろう?それなのに…」
「…私の夢は結婚して、母親になって、良い家庭を築くことなの。…でも魔女になってしまったからもう結婚は無理かな…それに、捨てられた子をそのまま見捨てるなんて出来ないし。つらいと思えばすべてがつらいし、逆も同じ。
私の中のつらい気持ちは、子ども達の笑顔で帳消しされるの。ベートもそれは一緒よね。」
「ああ。」
…俺は…本当は一緒だと言い切れない。俺は逃げてきた。ずっと…
思わず溜め息が出る。
「あ、ごめんなさい。しんどいのに長く歩かせて‥もう戻りましょうか。」
変な気を使わせてしまったことを後悔するがもう遅いので質問を変えた。
「ウィリアンはどこに住んでるんだ?俺がいる小屋の近くじゃないみたいだけど…」
「少し離れた所に住んでるの‥」
「お前が毎朝来るんだから歩いていける距離だよな。せっかく再会出来たんだ。邪魔しちゃ悪いか?」
俺を支えて歩くウィリアンの歩幅がぐっと狭くなる。迷っているのは明らかだった。
「……今日の夜、考えるわ。私の住んでいる所も借り物なの。
言いたくないけれど、本当はベートに小屋を使っていることもあまり良い顔をしてないというか…」
「その貸し主に俺が会うよ。世話になっているし礼を言いたい。」
「駄目よ!」
「なぜだ?」
また暗い顔をして黙り込むウィリアンは何度目だ。深く訊かないと言ったのに、責める口調になってしまう。
妻にこんな風に言う事はなかったのに。これが、俺の本性な気がしてくる。
「あと…私の子ども達はこの森に来て以来、私以外の大人に会ったことがないの…虐待されていた子もいて、大人を怖がっているし‥」
「親なら‥子どもを守るだけでは駄目なんじゃないか。」
しまった。ウィリアンがうつむいていた顔を上げた。とっさに視線を外せなくてぶつかってしまう。
「…子ども達と話してみる。」
目に涙がにじんでみえたのは気のせいか。
ウィリアンの歩幅が元に戻って、俺は小屋へと戻る道を急いだ。
この森へ来て三日目の朝。
「子ども達も会ってくれるって。この小屋の持ち主も了承してくれたわ。」
ウィリアンは微笑みを浮かべて俺に言った。その顔は俺が見たことが無かった大人の色気を纏っていた。
「ああ…ありがとう。」
「脚はどう?」
「脚は昨日ウィリアンが帰ってから部屋の中を何周かしたよ。もう結構歩ける」
「え!私がいないときに転んだらどうするの!無理しないで‥」
「ごめん。じっとしてるのは苦手で…今日は会わせてくれるのか?」
「ええ。
俺は軽く身体をふいて、用意してくれた新しい服に着替えて部屋の外へ出る。待っていたウィリアンと共に彼女の住処を目指して歩く。
この前と同じ様にウィリアンは俺の肩を支えようとしたけれど今日は照れくさくて断った。
進むと辺りを漂う湿気は薄くなってきて代わりに木が増えていく。
ほぼ無言で進むうち木の間から白い箱の様なものが見えてきた。それは俺が泊まっていた小屋によく似ていた。
「あの小屋よ。いきなり入って子ども達が驚くといけないから、いったん小屋の前で待っててくれる?」
俺は適当に返事をして、それなりに長い時間小屋の前で待った。
すると一人はウィリアンに手を引かれて、もう一人は普通にドアから出てきた。
二人ともどうみても十代前半、一人は眼鏡をかけた女の子で、もう一人は濃い茶色の髪の男の子。二人共俺に話しかけないし目も合わせようとしなかった。
「いきなり押しかけてすまなかった。俺はベート。ウィリアンの幼なじみだ。」
俺が話したことによって女の子はウィリアンの手を掴んだまま後ろに半分隠れる。
男の子はやっと俺と視線を合わせたが睨んでいるように見えた。
「‥もう一人の子どもは?」
「中にいるよ。」
男の子がそれだけ言って、小屋の中に戻った。女の子もさっきの怯えようとは反対に、ウィリアンの手を振りほどいて小屋へ戻っていった。
「ごめんなさい。やっぱり大人は嫌いみたいで…今の子達は、女の子がアイヴァン、男の子がスーイ。もう一人は…きっと中にいるから、どうぞ入って。」
俺は自分がいた小屋と同じ種類のドアを抜けて中に入った。
内装もやっぱり同じだった。ただ俺の部屋よりもずっと広く、よく分からない物も多い。白ばかりが目立つ部屋の真ん中よりに子どもが三人集まって座っていた。
三人寄り添ってひそひそと話し合っている。正直可愛いとは思えなかった。
「あの明るい金髪の子がヘンリー。 この子達が私の大切な子どもよ。」
今初めて見た一人を含めて、ウィリアンの子ども達の紹介は終わったようだ。
明らかに関わりたくなさそうな雰囲気を出している子ども達に絡むほど俺は器用ではない。
「よろしく‥これは?ここには見たことのないものばかりあるな。」
俺はすぐ近くにあった見慣れない白い筒を指して、話を変える。
「これもカラクリで…この中に水を入れるとね、しばらくすると湯気が出てお湯に変わるの。」
「何だって?‥‥すごいな。」
…この小屋の持ち主はいったい何者なんだ?詮索しないと約束したし、あの最初のウィリアンの様子からして詳しく訊いても答えてはくれないだろう。
小屋には他にも白を主にした、たくさんの正体不明の物が置いてあった。
「とりあえず椅子へどうぞ。疲れたでしょう。」
色々と考えて立ち止まったままの俺の顔を覗き込んでウィリアンは声をかけてくれる。その困った様な微笑みを見た途端考えていた事はどうでもよくなった。
「お茶を入れるわ。」
さっき説明したカラクリを使ってお湯を沸かしているようだ。
‥本当に湯気が出ている。
「ウィリアン、お腹空いたよ。」
眼鏡をかけた女の子、アイヴァンがウィリアンの側へ寄ってつぶやいた。
「クッキーもあるけど…じきにお昼ご飯が来るわ。それまでアイヴァンもお茶飲む?」
「飲む。」
ウィリアンから先に自分のお茶を受けとったアイヴァンは俺の目の前の席に座った。
さっきは隠れていたのにもうその気はないのか。必然的に目が合って俺はアイヴァンの瞳を見ることになる。
薄い紫色をしていて、一見美しくみえるのに輝きがなかった。俺は怖くなって目を逸らした。
逸らした視線の先からお茶と数枚のクッキー
「……こうやってお茶をして話すの本当に久しぶりね」
しばらく黙って俺を見つめてから話すその仕草に、俺の心臓は痛みを訴えている。
どもってうまく返せない。ウィリアンは返事はどうでも良いのか淹れたお茶とクッキーをすすめてくる。
ウィリアンの微笑みを視界の端に何度も感じながらクッキーをひたすら
「…ウィリアン、これ‥お前が作ったのか?」
「…味が薄いでしょう?あまり砂糖が入ってないの。」
「いやっ、別にまずいわけじゃない、けど昔お前に食べさせてもらったクッキーと違う気がして」
リリリン。ベルのような音が響く。
音の正体を訊ねる前にアイヴァンが入り口のドアへ走っていく。続いてスーイもだ。俺も席を立った。
ドアが横に開いて、そこにあったのは食事が乗った白いカートだった。
「ありがとう。」
アイヴァンがカートから食事のトレーを上手く二つ持って、スーイも続く。ヘンリーもいつの間にかいた。
‥誰もいない!?
ドアの外にはカート以外何も無かった。近くの木の影に隠れたのか?
カラカラカラ…
カートが誰も押していないのに動き出した。
「そのカートはね、一人で動くの。」
何が起こっているかよく分からない俺に、ウィリアンが後ろから話しかける。
「誰も押していないのに…?」
「まるで魂を持ってるみたいよね。」
カラクリは都会の富裕層の間で徐々に広まっている高度な技術のことだと聞いていたが、ここまでとは…
それがなんで、こんな田舎の森の中に、こんなにたくさん…俺の考えは止まっても、カートは少しづつ動いて森の中へと消えようとしている。
俺の顔をじっと見るウィリアンと目が合う。俺の気持ちが分かったのか、ウィリアンは苦笑いするがやはり何も言う気は無いようだ。
「私達も食べましょう。もちろんクッキーじゃ足りないわよね?」
子ども達はテーブルの近くにあるリビングにあたるのだろうか、その白いラグの上に来た時のように三人集まって座り昼飯を食べていた。
さっきまで座っていた席にもウィリアンが俺達の分の昼飯を置く。
「……」
これも、白い。白いトレイに乗った、白い
「あの、」「初めてだと食べにくいだろうけど、栄養はちゃんとあるから」
「俺が食べていた麦の粥とかは‥」「あれも貴重なの。ちなみにお粥の中にもここにあるのを混ぜていたから大体同じよ」
「毎日これを‥」「これしかなければ食べられるわ。少量なら小麦粉とか調味料は手に入るから、たまにクッキーを作ったり‥」
ウィリアンは淡々と食べながら俺と受け答えする。‥俺も手を伸ばすしかない。
蓋を取った。白い筒の中は透明のゼリーだった。…‥味がほとんどしない。
「ごめんな。」
隣を見た。ウィリアンは沈んだ顔でペースを落とさずに食べていた。
子ども達を見ると同じ様に無言で食べていた。
…
「ウィリアン、俺は明日には村へ戻る。」
「そう…もうけっこう歩けるみたいだし、大丈夫ね。送れる所まで送るわ。」
「ありがとう。次に来る時は美味しいお菓子を持ってくるよ」
「何を言ってるの?」
「あと、先に言うがここであったことは誰にも言わない。足をくじいた後近くの村で旅人に保護されていた事にするよ。というよりそうしろってここの貸し主に言われてるんだろう。」
「……そうだけど、もう来るのはだめよ。」
「貸し主がそう言ったのか?」
「まだ言われてないけどそう言うに決まってるわ。」
「俺は簡単には諦めない。貸し主に会わせてくれないか。」
「駄目よ!」
「なぜだ。異国の者なのは分かっている。いまさら驚きやしない。」
「……」
「別の国には肌が黒かったり、全く違う言葉や暮らしをしている人間がいることは知っている。それで俺は偏見を持ったりはしない。」
「人間じゃないよ。」
俺は子どもの声に振り返った。そこにはヘンリーが立っていた。
感情が
「白い
「化 … 物 …」
子どもは自分と違う者や理解できないものをすぐに化物と呼んだりする。だからこれもそう呼んでいるんだろう。そうなんだろうが…
俺はまた振り返ってウィリアンを見た。
ウィリアンはわざと俺と目を合わせようとしなかった。
俺は話すのをやめた。残りの飯をほとんど噛むことなく飲み込んだ。
その日の夕方前には俺は森を出た。ウィリアンは俺に森へもう来ないように何度も念押ししたが俺は返事をしなかった。
俺は元の生活へ戻った。
なぜだか…今の生活の方が夢の中のようだとはっきり思うようになった。
心配して俺の様子を窺う妻と子どもの姿にいらいらするようになった。
「お前浮気してるだろ?」
ヴィアは俺のゆで卵を奪いながら言った。
「…なんでだ。」
「そりゃあさー、いきなり仕事中にいなくなって、ていうか俺もみんなにお前も一緒だったのになんでこんなことになったって責められたんだけどなー、ぐちゃぐちゃに倒れた木とお前が地面を這った後を見た時は熊にでも食べられたのかと思ったぜ!」
「それは本当に悪かった。」
「まぁ、俺もお前に代わらせたからなー謝らなくてもいいけど。でさ、何日かしてふらっと帰ってくるなり『たまたま通りかかった町の人に介抱してもらってた』って何だよそれって思ったぜ。」
「本当の事だ。」
「でもどこの町の人かも言わねえし、やっぱ女だろ?その町の女とやらとやったんだろ?」
「変なこと言うな」
「うわー顔がこええ。分かるよー分かる!お前は情が深いからな!」
「だから、」
「俺はお前のこと好きだぜ。協力してやるよ。」
「協力?」
「逢引のアリバイ作り!お前が初めてみつけた恋とやらを応援してやるよ。もちろん手間賃はもらうけどな!」
「……」
「黙ってるってことははずれてなかったか…」
ヴィアは小さい声で言っているが俺には言い返す気が起きない。
「…お前にとって女って何だ。」
「ん!?女?そうだなあ…んー…『ないと生きていけないもの』だな。どんな形でも女と関わらないと俺死んじゃう。こんな仕事してるとさー女って嫁ぐらいしか関わらなくなってくるけど、嫁はもう女にみれないしなー」
「お前子ども三人目いるだろ…」
「まぁまたそれは別だって。お前もそんなごちゃごちゃ考えるんじゃなくて、好きな女が出来たら男としてホンカイ?とげるべきだぜ!それが人生だろ?」
「人生…」
お前に人生について語られたくない、と思いながら俺はもう何も言えなかった。にやにやしながら俺の顔をのぞいてくるのを殴ることも。
数時間後に俺は、俺が倒れた木に巻き込まれた場所に立っていた。
足元には葉の水分が抜けつつある倒れた木があって、それに懐かしさと愛しさを覚えるほど俺は馬鹿になっていた。
俺は今日ヴィアと一緒に仕事をしていることになっている。あいつはいつもの店にいる。金は俺持ちだ。
「ウィリアン」
思わず呟いたその時、
「はい」
ウィリアンの声が聞こえた。俺は瞬時に周りを見る。
誰もいない…。
ばさっとカラスの羽ばたく音だけが響く。
「私は概念というものです。」
またウィリアンの声が聞こえた。何を言っているのか、どこから聞こえてくるのかも分からない。
「ウィリアン!何で出てこない!?」
「私はウィリアンの友人。あなた達の言葉だと概念と訳します。」
気味が悪かった。それによく聞いてみるとウィリアンに似た声だが違う。
「ウィリアンが小屋を借りている余所の国の人間か?」
「そうともとれます。」
「‥このあいだは世話になった。‥ウィリアンに会いにきた。呼んでくれないか」
「その前に私と話をして下さい。」
「…何だ。」
「あなたはウィリアンと性交をしにきたのですか?」
「なっ!!せ…何を言っているんだ!?」
「男が女に会いに来る理由の多くは性交が目的です。違いますか?」
「違う!俺はただウィリアンに会いに来ただけだ!」
「では、会って何をするのですか?」
「会って‥話をする。」
「何についてですか?」
「話を‥‥昔の話をする。思い出を語り合いたいんだ。」
「男は女の気を引くために特に意味の無い話をする。その先にある性交するという目的を達成するために。」
「違うっていってるだろう!!」
「本当に違うのですか?嘘をついているのではないと言えますか。」
「……」
このウィリアンの友人と名乗る奴は一体何なんだ。
俺が…俺が…ウィリアンとそんなことになりたいなんて……
俺は、たしかに若い時、ウィリアンと話した日の夜、自分を慰めたことはある。でもそれは‥若さゆえで、女を知らなかったからだ。じゃあ…妻と結婚してからはどうだった?
逆に性欲は無くなった。子どもをつくることさえ正直なんとかという有様だった。それと比例して、俺の中に住んでいるウィリアンはますます美しくなっていった。性欲の対象としてみるなんてありえないぐらいに。
「私が協力しましょう。」
俺はうつむいていた頭を上げた。
「あなたの男としての目的を果たす為に協力します。それと引き換えに私にも協力して欲しいのです。」
…姿すらみせない相手に協力するだと‥
「ふざけるな!」
「この話においてふざけている点はありません。 あなたは協力するか、しないかどちらかを答えてください。」
こいつはふざけていないのか?正気とも思えないが…
「どうして…そんなことを言うんだ?」
「そんなこととは何ですか?」
「俺とウィリアンを…結びつけようとするのかを‥」
「互いが協力し合うことでのみ、互いの目的が達成出来るからです。私はあなたに協力してほしくて、また来るのを待っていました。」
こいつは俺の心を見透かしていた?
「何が目的なんだ?何を協力しろというんだ?」
「私はこの国の文化が知りたいのです。まずは‥本が欲しいです。」
「本…?お前は、スパイなのか?」
「そうとも言えます。協力するつもりはなくなりましたか?」
「………」
こいつがスパイなら、いくつか疑問は解ける。でも、それにしてもなんでただの木こりの俺に…
考えたって何も分からないのは分かっていた。こいつはきっと俺が何日も考えたところで想像もつかないような大きな目的で動いているんだろう。それに、ここまで俺に話して何もなく帰してくれるのか?それは…無いだろう。
「…本を買う金が無い。この国では本は主に富裕層の持ち物で、奴らが読み飽きた古本が闇市で手に入るぐらいだ。それすら安くはない。」
「金…存在を知ってはいますが実物が分かりません。教えてくれますか?」
「この国の金を見たことが無いのか?ちょっと待て…」
俺はいつも持ち歩いている小さい布袋の中から財布を取り出した。向こうが金についていくつか質問してきたのでそれに答えた。
「今から使いのカラスを寄越します。カラスに硬貨を預けてください。」
「な‥盗るつもりか?」
「盗りません。一時間待っていただければ必ず返します。」
「信じろと?」
「信頼がなければ、この先私達はうまくやれないでしょう。」
もう何を言う気も失せて、俺は財布を高く掲げた。
…森の木々の高い所からカラスが飛んで来た。
あっという間に俺の財布を奪って、また森の中へ戻っていった。
「ではまた。」
ぎこちないウィリアンに似た声が響いた後、辺りは一気に静かになった。
「あ!金貨…」
近いうち、仕事帰りに村の役場に税を納めるために金貨を入れていた…つりで子ども達の菓子も買うつもりだった…
もう戻ってこないかもしれないのに俺は何をやってるんだ…自分に嫌気が差すあまり目が回っていた。
その場に座り込もうとする体を必死に動かして座れそうな大きさの石の上へと辿り着く。
もう後戻りできなくなった…いや…すでにできなかった‥。ウィリアンと再会したときからずっと‥
ウィリアンとの思い出で揺らいでいるうちに時間がたったのかカラスが戻ってきた。
俺の目の前に財布を落とす。またすぐ森の中へ姿を消した。
「ありがとうございます。財布を確認して下さい。」
とりあえず落ち着いた気分で財布を拾って中を見る。
「!!」
「
あわてて財布から金を取り出す。金貨だけじゃない。銀貨も、銅貨も、…紙幣も明らかに増えている。どれが…本物かも偽物かも全く分からない。
「どうやったんだ?……お前は…」
「これについては詳しくは答えられません。私には答えられないことが多くあります。それを了承して頂かなければ私はあなたに協力することは出来ないでしょう。」
俺は…
「ウィリアンが欲しくないのですか。」
欲しくないだと? 俺は…今までウィリアンだけを想い続けている。
「…協力する。どんな本を買えばいいんだ。」
ウィリアンを手に入れたい。旅人にも、子どもにも、渡さない。
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