第7話 真相と真実
それだけに、警察の焦りも尋常ではない。社会問題になったことで、世論の風当たり、さらに、警察庁からの圧力など、トップはトップで大変であった。
そのうちに、事件は急転直下に向かうことになるのだが、それが警察の捜査によるものなのか、それとも、世論や社会の圧力からきたものなのか、あるいは、本当に偶然のたまものだったのか、その解釈は難しいところであった。
まず最初に分かってきたこととして、第一の被害者が誰であるかという、一番肝心なことに対してのことであった。
ただ、これは被害者が意識を取り戻したわけではなく、思いがけないところから、
「彼女を知っている」
という人物が現れたことだった。
その人は男性で、第一の事件発生から、2週間近くが経とうとしていた時のことだった。警察に訪ねてきたその人は、
「私の同僚が、行方不明になっているみたいで、最近の通り魔事件があったことで
少し気になりだしたんです」
ということだった。
その人は、女性で、
「どうして、もっと早く名乗り出てくれなかったんですか?」
と刑事がいうと。
「彼女は、旅行に行きたいからということで、殺人未遂の事件が起こる2日前から、一週間分の休暇を取っていたんです。土日を絡めると、10日間くらいの休暇になるので、私は彼女が旅行中だと思って、今度の事件をまったく意識もしていなかったんです」
と、彼女はいうのだった。
「そうなんですね。そういう事情でしたら、疑いを持たれなかったのも無理もないことだと思いますが、それなら逆にどうして、今になって名乗り出てくださったんですか?」
と刑事が聞くと、
「実は、彼女が旅行に行くとまわりに公言していた場所とは、まったく違う場所のパンフレットは、彼女の机に立てかけてあったんです。それで何かおかしいと思ったんですよ」
と彼女がいうので、
「でも、それだって、彼女が行き先を迷っている時に貰ってきたパンフレットだっただけで、ただ持っていただけなんじゃないですか?」
と刑事が聞くと、
「普通の人ならそうかも知れないんですが。彼女は極端なほどに、終わったことや、ボツにあった企画の資料は、絶対に帆損しておかなければいけない資料以外は、すぐに捨ててしまう人だったんです。その徹底ぶりには、会社の人間も閉口するくらいです。そういう人って結構いたりするものではないかと思うんですよ」
と彼女はいった。
「確かにそういう人は少なからずいるというのは聞いたことがありますが、そんなにそのパンフレットがあるのに違和感があったんですか?」
と警察が聞くと、
「そうですね。そのパンフレットは、少なくとも彼女が旅行先を決めて、予約したと言っていた日よりも前には見たことがなかったんです。旅行先もすべて決まって、予約を済ませた状態で、初めてその場所に立てかけておくなんて、不自然じゃないですか?」
と、彼女は言った。
「なるほど、そういうことであれば、不自然極まりないですね。あなたが不審に思うのは無理もないことだと思います。でも、そうなると、いろいろ不自然なことが他になかったのかということが、私には思えてならないんです」
と刑事はいうと、
「それは分かります。でも、それ以外にはなかったんですよね」
と彼女は言って、黙り込んだ。
「彼女は、どうして、その一つだけの違和感を残したのだろう? 不注意で残してしまったのか、それにしては、普段は絶対にしないようなことを、しかも一つだけしてしまったということで、そこに作為が考えられないだろうか?」
と、刑事は感じていたのだった。
彼女はそこまでは想像もしていなかったが、刑事が何かを怪しんでいるというのは、肌で感じた。急にびくついた気分になったのも、無理もないことだ。
それだけに、刑事の方としても、それなりの確信めいたものがあった、もし、これが入院している彼女と行方不明の女性が同一人物であれば、事件は急転直下で解決に向かうのであろうが、刑事はその時、
「表面に出ている事実だけを見て、判断してはいけないのではないか?」
と感じたのだ。
そして、いよいよ、二人の女性が面会することになった。
会社の同僚という彼女の話では、行方不明になっている女性は、山口鈴江という女性ではないかというのだ。彼女は真面目な女性で、真面目というのは、男性関係での浮いた話はないという意味の真面目さであったが、その代わり、いつも一人でいるというのだ。
「友達がいるという話もほとんど聞かないので、会社の人も、鈴江さんが旅行に行くと言った時は、一瞬、拍子抜けしたようで、それは私にも言えたんだけど、それだけに、皆ホッとした気持ちになったんです。少しくらい浮いた話がないと、真面目はいいんだけど、会話にもならないし下手をすれば、仕事にも支障をきたすレベルだったので、旅行にでも出て、それで恋愛でもしてくれればって思っていたんですよ。だから、皆快く送り出したという気持ちだったと思うんです」
と彼女は言った。
なるほど、彼女の立場からすればそうなのかも知れない。同僚に浮いている人や孤独に苛まれている人がいれば、何となく気になってしまい、仕事が手につかないと感じる人もいることだろう。そういう意味で、旅行に出ると言ったのを聞いた時、安堵したのだろうと思うと、彼女がホッとした顔、そして、行方不明になった鈴江という女性が明るい表情になったというイメージ。顔は知らないけど、目に浮かんでくるような気がしたのだ。
そんな話を聞いていただけに、刑事も、事件解決の足掛かりになるかも知れないという思いと、被害者の身元が判明することへの単純な安心感の両方を一気に味わえるかも知れないと思うと、ワクワクしたものだった。
二人は病院に到着し、先生の許可を得て面会すると、まず、彼女が懐かしそうに、ベッドに寝ている彼女に抱き着いたのだ。
いくら、刺し傷は浅かったとはいえ、命に別状はないというだけで、刺されたことに違いはないし。実際に手術までして縫合しているのだから、いきなり抱き着くと、傷口が痛みはしないかと思って心配になったが、それには及ばないようだった。
それよりも、彼女の行動を見て、
「これで、被害者の身元がハッキリしたのは間違いない」
と感じたのは確かなのだが、ただ、それだけでは、彼女の記憶がハッキリするとは限らない。
身元の判明という一つの目的は達成されたが、被害者の精神的な復活という意味では、まだ何も解決しているわけではなかったのだ。
「鈴江さん、皆心配しているんですよ」
と、彼女がいうと、鈴江と呼ばれた被害者は、まだキョトンとしていて、
「私は、鈴江というの?」
と彼女に聞いた。
彼女はその言葉を聞いて、ハッとなったようだ。
「世間のウワサで、被害者の女性が記憶を失っているという話を見たんだけど、私の顔を見ると思い出してくれると思っていたのに、そうでもなかったようね」
と言って、落胆を隠せないようだった。
彼女は、それ以上、余計なことを言うようなことはしなかった。テレビドラマなどでは、記憶喪失の親友を病室に訪ねたりすると、必死で思い出してもらおうとして、記憶を失っている女性に、詰め寄ってしまい、医者から止められるというようなシーンを見ていたので、そういう状況を想像していた刑事だったが、拍子抜けしてしまった。
「案外と冷たいものだな」
と感じたほどだったが、後で先生に聞くと、
「意外とそんなものですよ。それほど、人間同士、仲がいいというわけではないようですし、特に今は、コンプライアンスや、個人の問題に関しては、干渉してはいけないという風潮がありますからね。皆さん、知ってるようで、その人のことを知らなかったんだと思い知らされる人もいるようで、下手をすれば、それが家族だったりするのを、医者として何度も見てきましたので、やるせない気持ちにさせられることも結構あります」
と言われたのだ。
「じゃあ、彼女のあの態度も、冷めているわけではなく、正常な反応だとおっしゃるんですか?」
と刑事が医者に聞くと、
「ええ、そうですね。相手のことを自分は知らないのに、相手だけが自分のことを知っているという状況を考えてみてください。患者にとっては、これほど心細いことはないんですよ。見舞いに来た人は、自分が相手を分かっているから、相手も安心だと思うかも知れませんが、それも一種の人間の傲慢さだといえるのではないでしょうか?」
と、冷静に答えるのだった。
「この女性は、よくここまで考えられるな? よほど、自分のことよりも、相手のことばかりを気にして生きてきたんだろうな?」
と刑事は感じた。
なるほど、優しい解釈をできる人だということは分かった、だが、いつも相手のことばかりを気にして生きている人が、果たしていつもいい性格なのかどうか、時と場合によって、違っているのではないかと刑事は感じた。
普段から、人にばかり気を遣っている人間は、絶えず相手の顔色を伺うことがくせになっているのであって、自分からそういうことを思えるような生まれつきの優しい性格でなければ、人に気を遣っているのは、人の顔色を伺ってい聞いているということになり、今までの人生でずっと苛めを受けていて、相手の顔色を伺わないと、生きてこれなかったという人もいるだろう。
だから、そういう人の意見は結構するどく、
「多元的にものを見ることができる人ではないか?」
と思うようになってきたのだった。
ひょっとすると彼女には、鈴江の記憶が喪失していて、今になっても、まだ記憶が戻ってこないのも、分かる気がするのではないかと思う。何かショックなことがあって記憶を失ったのだとすれば、それは、外的な理由で失ったわけではなく、自分の中の潜在意識が、「記憶を失ったままでいたい」
と思っているからであろう。
そんなことは、誰よりも医者が分かっているのではないだろうか。
医者は、鈴江の記憶喪失を、そんなに重たいものだという話をしたわけではない。ということは、逆に言えば、
「私たちなら、彼女の記憶を呼び起こすこともできるだろう」
と思っているのかも知れない。
それでも敢えてそれを口にしようとしないのは、そこに医者として踏み込んではいけない領域があるからなのか、それとも、記憶を無理やり取り戻させることが、却って患者を苦しめることになるということを容易に想像ができるからなのかも知れない。
刑事はそんな風に感じた。
彼女の知り合いを連れてくれば、記憶が戻るだろうと考えた刑事の思いは、脆くも崩れ去った。だが、そのおかげで、分かったこともあった。
「彼女は記憶を取り戻したくないと思っているんだ」
ということであり、その気持ちが意識的なのか、無意識なのかは分からないが、無意識だったとすれば、そこに事件に関係のあることが潜んでいて、
「今、鈴江という女性は、現実逃避という意味での、起きていて見る夢というのを、見ているのかも知れない」
と感じたのだ。
夢というのは、たぶん、
「現実ではない」
ということすべてを夢だと感じるのだとすれば、
「現実に近い夢なのか、それとも、眠っていて見る夢に近い夢なのか、果たしてどっちなのだろう?」
と考えていた。
現実に近い夢であれば、覚めるのを待つしかないが、眠っている夢に近いのであれば、一度目を覚ますという行為が起こったとこるで、初めてその一環として目を覚ますことになるだろうから、少なくとも、本人が眠っている夢という意識を持つことで、目を覚まそうとする意識がなければ、無理なことだった。
その意識を持たせるためには、待っているだけでいいのか、何かの治療行為が必要なのかが問題になってくる。
もし、先生の思いが、
「彼女の記憶喪失というものが、自ら封印しようとしている意識であり、その意識は尊重されるべきだと考えているのであれば、医者という観点から、彼女の記憶を無理やりにでも引き戻すことはしないだろう」
ということにあるのだとすれば、刑事はどうすればいいのだろう?
事件解決ということが目標であれば、彼女にばかり関わっていては進展しないということにもなる。
だが、今のところ、手掛かりになりそうなことは、彼女の記憶が戻ることであり、そこに一縷の望みをかけているとすれば、それはそれで無理のないことであろう。
医学的観点と、警察として、市民の不安を取り除き、自分たちの威信を取り戻すことで、地域の治安を保たたせるためには、今は彼女の記憶の復活しかないのだと、刑事は考えていたのだった。
捜査の方は、記憶喪失の彼女の正体が分かったことで、少し変わってきた。
実際に殺された女性との間に直接的な関係があるわけではなかったが、ある男性を介することで、関係があることが証明されたのだった。
その男性というのは、曽根川という男で、以前、痴漢犯罪者として検挙されたことがあった。
ただ、初犯ということと、警察の取り調べに素直に応じたことで、起訴するまでには至らず、不起訴処分として、逮捕歴が残っていた。
その時の被害者というのが、殺された斎藤優美だったのだ。
彼女が数年前、通勤電車の中で痴漢されたとして騒ぎを起こし、まわりが、その状況から、犯人を曽根川だと決めつけて、警察に突き出したのだ。
ただ、捜査資料を見ると、彼はかたくなに否定していたのだが、さすがに状況証拠がここまで揃っていては、言い逃れができる立場ではなく、その時の取り調べを行った刑事から、
「このまま否認しているだけでは、どんどん事情が悪くなって、君を現状証拠だけでも逮捕することができるし、このまま起訴だってできるくらいなんだよ。さっさと認めてしまって、楽になった方がいいんじゃないか? 今だったら、情状酌量で、起訴されることもないからな」
という誘導尋問に引っかかって、白状したのではないかと思うような調書が残っていたのだ。
確かに曽根川は、起訴されることはなく、刑事罰も条例違反にも問われなかったが、運悪く、その時の事情を見ていた会社の人間がいて、
「警察に逮捕されるような人間を置いておくわけにはいかない」
ということで、解雇されたのだ。
彼の会社は地元の中小企業で、それなりに融通だって利きそうな感じだったが、見ていた人の心証がよほど悪かったのか、懲戒解雇とまではいかず、名目上は、
「依願退職」
であったが、実際には、解雇と同じであった。
そのまま会社にとどまっても、飼い殺しが確定していると言ってもよかったからだ。
その時の曽根川も、ある程度世の中を甘く見ていたのかも知れない。
「依願退職ということであれば、すぐに他の会社が見つかる。こんな社員を信じようともしないような会社、こっちから願い下げだ」
と思い、辞めたのだ。
なんといっても、彼を庇ってくれる人がその時は誰もいなかった。彼に人望がなかったと言ってしまえばそれまでなのだが、それ以上に、コンプライアンスには厳しい会社だったあということだろう。社員一人の感情なんかよりも、世間体の方が大切だった。そんな会社に居座り続けることは、彼のプライドが許さなかったのだ。
確かに、彼はあの時、女性の身体に指が触れていて、心地よい気分になってしまったことで、手を自分から離さなかったというのは事実である。
しかし、積極的に障りに行ったわけではないので、事実をそのまま話しただけなのに、警察は、信用してくれなかった。
会社では誰も彼の見方はいない。警察も、最初から犯人扱い。
「お前がしていようがいまいが、こうやって現行犯で逮捕された以上、素直に認めてしまえばそれでいいんだ。あまり時間を取らせるんじゃないよ」
と心の中で呟いていたことだろう。
状況証拠は揃っていて、現行犯なのだから、言い逃れができる立場ではない。
しかも、彼としても、手を離さなかったという後ろめたさがあることから、警察に余計な嫌疑をかけさせることになったのだから、彼のそんな性格は、味方になってくれる人がいなくても、それはそれで仕方のなかったことなのかも知れない。
それにしても、実際に痴漢行為と呼ばれることをされたわけでもないのに、よくあのラッシュの中で声を挙げられたものだ。それだけ自意識過剰な女なのか、
「痴漢は許さない」
と日ごろから思っているのか、普通であれば、恥ずかしくて声を挙げられないというのが普通なのに、ここまでの態度をとる女性は、それだけ勧善懲悪の考えが強いのか、それとも、男性に対して、嫌悪感を日ごろから持っていて、生理的に受け付けられない感情にあったのか。あるいは、痴漢行為をネタに、美人局的なことがしたかったのか、ではないだろうか。
この時は、想像していたよりもまわりが騒ぎ立てたので、目論見は外れたが、声を挙げた以上、彼には犯人になってもらうしかないという状況になってしまい、後には引けなくなったのかも知れない。
もし、美人局だとすれば騒がれるのは、本当は困る。なぜなら、警察で事情聴取を受けて、彼女が被害者という認定を受ければ、それ以降の、
「活動」
がしにくくなるというのが、本音ではないだろうか。
彼が、半分認めてしまったのは、いくつか理由があるだろう。
「手が彼女の身体に触れていたのは事実なので、良心の呵責に苛まれた」
という、一種のやさしさからだという考え方、もう一つは、
「ここで認めたとしても、実際に意識して触っていなかったわけなので、そんなにひどいことにはならない」
という楽観的な思い。
そして、
「下手にゴネて、このまま拷問のような取り調べが継ぐ気、留置されてしまうのが怖い」
という思いなどが、頭の中で交錯したのだ。
テレビドラマなどで、殺人事件の取り調べのように、拷問に近い、恫喝や自分を認めたくなくなるような誹謗を浴びせられ、精神的に病んでしまうと、トラウマになってしまうということを思えば、この程度のことは、大したことはないのだろうが、捕まってしまうと、そんな余裕はなくなるのだ。
警察からは、寛容ではあったが、結果的に、ひどい目に遭ったのは、この女と、まわりの偽善者の連中である。
一番腹が立つのは、本当は彼女ではなく、何の関係もないくせに、ただその場に居合わせただけで、ヒーローにでもなったかのような気持ちになった連中である。別にやつらは、何かいいことをしたわけではない。ただ、たまたまその車両に乗り合わせて、たまたま、事件が起こったことで、野次馬のごとく騒ぎ立てただけではないか。それも、その他大勢でである。
だから、もし逆恨みをされることになっても、本当にされることはない。その他大勢の中にいただけなので、自分だけピンポイントで覚えているわけもないという思いもあるだろう。
だから、
「一番目立つような行動をしなければいいんだ」
というだけで、
「今日はいいことをした」
という自己満足を与えることになるのだ。
そのせいで、彼の人生はメチャクチャだった。会社は首になる。知り合いからも、まるで犯罪者を見るような目で見られる。話題に触れることはないのだが、それだけに、鉄板の上に乗せられた、火であぶられているかのような気分であった。
「俺は一体、誰を恨めばいいんだ?」
と考えると、覚えている最初に騒いだあの女である。他の人は結局皆当事者ではないということで、集団でしか騒いでいない。しかし、あの女は、何を思って自分を突き出すようなことをしたのか、とにかく最初にあの女が騒がなければなんでもなかったわけだ。
女の方からいえば、
「男女雇用均等法のおかげで男女平等と言われるようになったのに、自分がここで声を挙げずに泣き寝入りはできない」
という思いと、
「声を挙げれば、まわりは、痴漢された自分に絶対味方をしてくれる」
という思いから、勇気をもって、声を挙げたというだろう。
曽根川という男は、最近のセクハラなどの、
「女性が強い」
という風潮に怒りを覚えていて、
「セクハラや痴漢犯罪など、女が強くなったことで、冤罪が多くなるだろうし、男女雇用均等法を盾に、スチュワーデスや、婦警、看護婦などという女性に対する名称をまるで差別用語のように言って、言わなくなるような風潮が、嫌で嫌で仕方がなかった」
と感じていたのだ。
まさか、自分が痴漢の濡れぎぬを着せられることになり、警察に連行されるようなことになるなど思ってもみなかった。そういう意味でも、最初に声を挙げた、大した被害があったわけでもないあの女を恨むのも、無理もないことだろう。
というのが、警察の、
「犯人が曽根川だった時の、犯行動機なのではないか?」
という見解だった。
ただ、不思議なのは、被害に遭った彼女が、自分を証明するものを、どうして何も持っていなかったのか? ということである。誰かが抜き取ったのだとすれば、いつ、何の目的で抜き取ったのか? まさか記憶を失うことまで予測できるわけはないので、きっと何かの理由があったのだろう。今のところ、警察は深く考えていないようだった。
曽根川と、第二の被害者の間には、深いつながりがあった。元々二人は婚約をするのではないかと思われたほどの仲であったが、何が理由なのかということは、何となくとしては、皆分かっているかのようであったが、決して口にしていなかった。皆何かを恐れているかのようで、刑事はそれを、
「曽根川という男の呪縛」
なのではないかと思っていた。
実際に曽根川という男に遭ってみたが、
「どうにも捉えどころのない男」
というイメージが深かったのだ。
捉えどころのなさは不気味な雰囲気を醸し出させ、不気味さから、
「この男、何をするか分からない」
というオーラを感じさせ、それがひいて、
「怒らせると、何をされるか分からない」
と思わせたのだ。
痴漢騒動の時の、どこか弱弱しい感覚はもうなかった。そもそも、この男は開き直ると、無類の力を発揮するのかも知れない。あの痴漢事件にて、あの男は覚醒したのだという人がいたが、まさにその通りであろう。
「眠れる獅子を起こしてしまった」
あるいは、
「開けてはいけないパンドラの匣を開けてしまった」
などと、言いようはいかようでもあるが、実際にやつの近くにいる人間は、そのオーラによって、やけどもするし、夢の中でうなされるという人間も少なくはない。
「まるで悪魔のごとくである」
とまで言われ、それまでやつの仲間だと思われていた連中も、次第に遠ざかるようになっていた。
それなのに、やつは、自分から離れていく連中に恨みを持ったりはしなかった。
「俺から離れていくやつは、いくらずっと俺を慕ってくれていたとしても、最後の決断の時には、この俺を簡単に見限って、何の罪の意識もなく、寝返るに違いない。そんなやつらを引き留めておいたとしても、最後には命取りになるだけだ」
と言って、離れていく連中を追いかけたり、後ろから狙い撃つようなことはしなかった。
「そんな連中は、どうせ、そのあとは罪の意識に苛まれて、この世の地獄を見ることになるんだ。人を裏切るということはそういうことだ」
と曽根川は、絶えず言っていた。
まるで悟りを開いたかのように聞こえたが、まさにそうなのかも知れない。彼は、元々大物であり。覚醒さえすれば、まるで神の領域に達するくらいの考えだって持っていたに違いない。
その覚醒をもたらしたのが、例の痴漢騒動だったのだ。
それまで気が弱い方で、
「ただただ穏便にこの世を生きていければそれでいいんだ」
とばかりに思っていた。
「趣味であったり、生きがいなどは、一つ持っていればそれでいい。たくさんのことを望んで、どれも手に入れることができないくらいであれば、一つで満足するに越したことはないのだ。欲をかけば、ブーメランとなって自分に返ってくる。そんなブーメランに首を吹っ飛ばされる光景を、想像であっても、見たくないと思うのは道理ではないだろうか?」
と考えるようになっていたのだった。
そのことを、この世で知っている人がいるとすれば、それは、殺された斎藤優美ではないだろうか?
だから、第二の事件で、一番の容疑者とされている曽根川は、前述を真実だとするならば、
「彼は絶対に犯人ではない」
と言えるのだ。
それを、真相を求めたいという警察が、真相という言葉に執着し、真実を見ようとせずに、浅くその事実を結びつけただけで見たならば、犯人を、曽根川だと思い、それ以外の発想がないままに、間違った捜査を繰り返していくに違いない。
そのことを分かる人間がいるとすれば、神の領域に至るのではないだろうか?
つまり、
「真相を解明しようとするのではなく、真実を見極めようとする目」
というものを持っている人である。
果たして、そんな人間が存在しているのだろうか? しょせん、
「人間が人間を裁くなどというのは、恨みが恨みを生むという、真実しか作り出せないに違いない」
ということなのであろう。
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