第5話 第二の事件
翌日目が覚めて、夢のほとんどは忘れていたが、
「もし、何かを覚えているとすれば?」
と言われたとして、記憶に引っかかっているのは、逃げ水であった。
逃げ水は、自分の頭で描いた発想がら生まれた結果として出てきたものだ。それを覚えているということは、夢の最後の記憶があるのだろうということだった。逃げ水を覚えているというのは、途中までの覚えていない内容から作り上げられた結果だということを、意識が覚えているからであろう。そういう意味では、
「夢には時系列は、存在しないものだ」
と考えていたが、実はそうでもないのかも知れない。
物理的な発想と、論理的な発想が組み合わさって夢ができているとすれば、物理的なものは、記憶の羅列であり、論理的なものは、そこから時系列に沿って、作り上げられたものだ。
物理的な記憶が夢だとするならば、論理的な記憶が現実だといえるだろう。
「現実だからと言って、すべてがリアルというわけではない。リアルだと感じるのは。それだけ、理路整然としたものを、現実だと思いたいという発想から来ているのではないだろうか?」
そう考えると。今朝見た夢は、先日お見舞いに行った彼女のことと、その彼女が記憶を失くしているということから来るものではないかと思えるのだった。
その日は、例の事件が起こってから、そろそろ一週間が経とうとしていた日だったのだ。
金曜日の週末といっても、誰かと飲みに行ったり、食事をしたりということはない。だいぶ収まってきたとはいえ、まだまだ伝染病がゼロになったわけではない。マスクをするのも日常茶飯事。街を歩いていても、誰もが怪しい人間のようではないか。
すでにマスクが日常化してしまうと、今ではマスクをしていない方が気持ち悪い。
実際に、波が落ち着いて、一度マスク着用が緩和された時、会社の人は、
「マスクをしていないと違和感がある」
と言っていた。
「どうしてですか?」
と聞いてみると、
「今までマスクをしていたせいで、急にマスクをしないで済むようになると、街をマスクなしで歩くというのは、まるで裸で表を歩いているような気がする」
という感覚になってしまったというのである。
確かにそうかも知れない。
自分も、以前、マスクをせずに表に出ようとして、
「何か違和感がある。何か下着をつけていないような気持ち悪さだ」
と思った時、
「あ、そうか。口が寂しいんだ」
と思わず口にしたが、
「これって、タバコを吸っていた人間が急に吸うのをやめた時の発言ではないか?」
と感じたのと同じではないか。
ヘビースモーカーがタバコをやめた時、昔は、禁煙するために、パイプのようなものを、口に入れていたという。噛みタバコというのが昔はあったというが、人に迷惑をかけないように、煙の出ないたばこということである。
「今でいう電子タバコのようなものであろうか?」
と感じたのだが、その人がいうには、
「電子タバコというのは、実際に煙が出ないだけで、臭いは結構強いものだ」
という話であった。
だから、今の受動喫煙防止法の中で、電子タバコなら吸ってもいいという喫茶店があるのであれば、副流煙の観点からも、決して同席してはならないと言ってもいいだろう。
いくら電子タバコであっても、換気が十分な、喫煙室で吸うべきである。喫煙ルームであっても、換気が悪ければ、密室だけに、相当ひどい状態の中で、タバコを吸っているのと同じことである。
「それならまだ表で吸っている方がいいくらいだ」
とは言いながら、表で吸うと、それこそ本末転倒である。
「しょせんは、あの政府が考えることだ」
と言ってしまえばそれまでだが、結果、
「後手後手にしか回ることができない政府らしい」
ということである。
その日、会社からの帰り道、いつもの道を帰宅していた。先日の刺傷事件があったにも関わらず、最初に1,2日間くらいは、何となく気持ち悪さがあったが、数日経つと、気持ち悪いという感覚もなくなり、今では、
「そんなことがあったなんて」
と思うほど、考え事でもしながら歩いているだけで、忘れてしまっている自分がいることにビックリしていた。
その日も、仕事のことを考えながら歩いていたので、気が付けば、事故現場の近くを歩いていても、意識はしていなかったのだ。
この感覚というのは、実に不思議なものである。
考え事をしている時も、目の前に事故があった場所だということを分かっているはずなのに、平気でいられるのだ。
おいしいものが目の前にあれば、いくら違うことを考えていたとしても、お腹が減ってきてしまうのと同じ状況なのに、実際にはまったく違う結果や反応を起こしてしまうのである。
それを思うと、
「何が違うのか?」
と感じるのだが、そこにあるのは、
「意識の捉え方」
ではないかと感じるのだ。
つまり、意識には2種類あると言われている。もちろん、大きく分けてのことであるが、そのうちの一つは、
「顕在意識」
というものである。
顕在意識というのは、表面に出てきた意識のことであり、論理的な思考・理性・知性・意思・決断力のことだと言ってもいいだろう。
考えたことを判断し、決断することを行う意識が、顕在意識である。
また、もう一つは、
「潜在意識」
と言われるもので、無意識と言い換えることもできるだろう。
基本的に、
「人間の中に潜在している能力を引き出す力」
というものを持っている意識だと言ってもいいかも知れない。
いわゆる、
「超能力」
というものを引き出すのだ。
人間の脳は、一部しか使っていないという。残りの部分は、潜んでいる能力。つまり、
「潜在能力」として、誰もが持っているが、それを使いこなす術を持っている人が、少ないので、
「超能力」
という表現で、あたかも、能力自体を持っている人間が希少価値だということになるのは、そもそも考え方が違っているということであろう。
潜在能力と、それを引き出す意識としての潜在意識と、本能では、
「同じものではないか?」
ということであるが、そこは違う。
本能というのは、生まれつき持っているものを、ある行動に駆り立てるものだということであり、潜在意識というのは、あくまでも無意識なので、無意識であっても、意識であることには変わりがないので、本能とは別のものではないかということである。
つまりは見えているものであるにも関わらず、意識していないように感じさせるということなので、潜在意識のなせる業。つまり、夢と同じようなものではないかということで、一種の、
「目が覚めた状態で見る夢」
というのと同じことではないかと考えられる。
おいしいものが目の前にあり、それをおいしいと反応するのは、あくまでも、条件反射であり、条件反射は、意識的に行動するものではなく、先天性のものではない、後天性のものという意味での、
「無意識の行動」
という意味で、これも潜在意識の一つである。
夢などの潜在意識のなせる業とは、また違った意味での無意識の意識であり、
「夢は、超能力のような潜在能力の一つだといえるのではないか?」
と少し難しくはあるが、考えられることの一つではないだろうか?
家路を急いでいると、途中から、いつもと雰囲気が違うのを感じた。例の数日前に杭瀬が目撃した、刺傷事件のあの場所に、人が群がっていたのだ。
思わず、何か、デジャブを感じた。そのデジャブというのは、
「きっと何かがあったんだ」
と感じたことが、
「この間と同じ刺傷事件ではないか?」
と思ったからで、なぜそう思ったのかというと、あの時と同じ、鉄分を含んだ臭いを感じたからだった。
鉄分を含んだ、この異様な臭い、どこか暖かさのあるこの臭いが、血の臭いであることは、子供の頃から、よくケガをしていたことで知っていたのだ。
気を付けて遊んでいるつもりでも、肝心なところで甘く見てしまうのか、ふと気を抜いてしまった時に、よく出血するようなケガをしたのを覚えている。
彫刻刀を使って、家で、木工細工をしていた時、今から思えば、削ろうとしていたその先に指を置いていたという、普通なら考えられないようなことをしていた。
それは、そうでもしないと、うまく切れないからで、途中までは、
「そんなことをしては危ない」
という意識を持っていたはずなのに、
「もうすぐ、出来上がるんだ。ここさえ削ってしまえば」
という、緊張の緩和が油断を誘発し、さらに、最後の一頑張りだという意識が強く、指が無意識に、危険に晒されていることを意識しなかったのだろう。
「バチが当たったのかも知れないな」
と、考えた。
何しろ、杭瀬というのは、
「子供の頃から、集中していれば、他のことがまったく目に入らない」
という性格であった。
長所でもあるのだが、一歩間違えれば、これほど危険なことはない。
よくいうこととして。
「長所は短所の紙一重」
という言葉もあり、得意分野と、苦手な分野が、紙一重であったり、実は背中合わせだったりもする。
背中合わせということは、隣が見えていないだけで、実は紙一重のところにいるということでもあるのだ。
だから、集中力が高いことが、杭瀬にとって、有利に働くこともあるが、逆に危険なことも多かった。
つまりは、いいことも多いが、一歩間違えれば、命取りにもなりかねない。
「一発逆手を狙えるが、一つ間違えると、再起不能になってしまうリスクを伴っているもろ刃の剣だともいえる」
ということでもあるのだ。
鉄分を含んだ臭いを感じると、あの時、なぜ彼女が刺された現場を見たわけでもないのに、犯人と思しき人間が持っていたものを、瞬時にして、
「あれはナイフだ。あのナイフであの人は刺されたのだ」
と感じるわけもなかったはずだ。
実際に刺されていたのだから、犯人と思しき人間が手に持っていたのは、十中八九ナイフであろう。
あの時、想像が的中したことで、今回も、
「何かの事件だとすれば、今回も刺傷事件に違い合い」
と思ったのだ。
だが、この人だかりと、異常なざわつきは、この間、杭瀬が目撃した時のような程度のものではなかった。
群衆のざわつきも尋常ではないし、その様子を見ていると、口々に何かを囁いているが、
「俺は聖徳太子ではないので」
と思いながら、群衆の人にでも集中して、会話の一部でも切り取ろうとしたが、無駄だった。
それができなかったということは、それだけざわつきが尋常ではないということであり、こんな時のざわつきも、初めて感じたことではなかったのだった。
ざわつきの正体が何であるのか分からなかったが、子供の頃の記憶がよみがえってきたことで、
「もう救急車が来ることはないのではないか?」
と感じたのだ。
というのは、
「救急車は、死体を運ぶということはしないからだ」
ということであった。
人だかりを見ていると、近づけなかった。だからと言って、横目に見ながらでも、避けるようにして、そこを迂回して帰ることもできなかった。前に歩くことができなかったからだ。
しかも、後ろに下がることはもっとできない。そんな状態にありながら、その場で何が一番嫌なのかということを考えると、人だかりの人間たちに発見されることだ。
「一人が自分を見つければ、皆がこっちを振り向くだろう。そんなに集中する視線が、まるでナイフで刺されたかのような痛みとなり、その場で、ハリネズミにされてしまう」
というような感覚に陥りそうなのが、怖かったのだ。
足に根が生えたかのように、身動きが取れない。だが、そこで立ちすくんでいれば、誰かに見つかるのも必至である。見つかってしまうと、自分が一番恐れていることになるのは分かっている。完全に悪循環を繰り返していたのだ。
ただ、
「しょうがない。前に進むしかない」
と思った瞬間、足が急に軽くなり、自分の意志に関係なく前に進んでいた。
「なんという皮肉なことなんだろう?」
と思いながら、目の前を、自分の目から離れて、魂になった自分が、先に進んでいくのが分かった。
誰か一人がそれに気づいたのか、こちらを振り返った。皆の視線を、浴びることはなかった。その視線が浴びせられたのは、魂になって歩いている自分だったからだ。
自分が後ろから見ていて、今にも消えてしまいそうな自分なのに、前から見ている人たちには、魂になった自分しか見えず、今ここで思考を働かせている自分を見ることはできないようだった。
「まるで、夢を見ているようだ」
と考えると、またしても、デジャブを感じたのだ。
「確かに夢の中で、もう一人の自分を感じたことは何度もあった。しかし、そのもう一人の自分というのは、これほど恐ろしいものはない」
と感じていた。
その思いは、目の前を群衆に向かって歩いている自分も感じているような気がした。
もう一人の自分が群衆の中に入り込むと、今までその様子を見ていた自分の目に、白い閃光が飛び込んできて、一瞬ではあるが、完全に目をつぶってしまった。
そして開けたその瞬間に、自分が、その群衆の中で埋もれてしまったのを感じた。
「うわぁ」
と、思わず悲鳴を上げて。必死で自分の顔を隠そうとしているのを感じた。
だが、妄想していたような、皆の痛い視線を浴びることはなかった。その視線は完全に死んでいて、ただ、こちらを見ているだけだった。
「一体、どうなっているというんだ?」
と、自分で勝手に妄想しているだけの世界を、自分で、コントロールできていないことに気が付いた。
だからこそ、一回魂が抜けてしまった自分に、もう一度魂が戻ることで、恐怖のど真ん中に置き去りにされてしまった自分を感じることになってしまったのだった。
群衆は、完全に上から目線で、杭瀬を見下ろしてから、皆寸分狂わぬ状態で、踵を返して、そこに倒れている人に視線を寄せた。
その瞬間、それまで凍っていた時間が氷解したのだ。
いや、凍っていたという時間というのも、後から感じたことで、
「氷解したから、凍っていたと感じた」
という、完全に、まるで後出しじゃんけんをしているような感覚になっていたのであった。
そして、死体を見た皆は、またさっきと同じように、ざわざわし始めた。相変わらず何を言っているのか分かる感じではなく、目の前に広がってる輪の中に誰かが倒れているのを、ずっと見下ろしていた。
「そうか、見下ろしているというのは、皆そこに横たわっている死体を見ているような目でこちらを見るから、あんな冷めたように見える目しか感じなかったに違いない」
と感じたのだった。
見下ろしたその先にあるものは、確かに死体だった。その死体の顔は断末魔に歪んでいて、二度と声を発することのできない口が、だらしなく開いていた。
カッと見開いたその目は、どこを見ているというのだろう? きっと、この目は犯人を見たはずなのに、物言わない姿になってしまった状態を警察が見ると、これほど複雑な気持ちになることはないだろう。
「犯人の名前を言えるだけの命が残っていれば、敵は討ってやることだってできるんだぞ」
とでも言いたいのか、それを思うと、警察に対して、かなりの偏見を持っている自分を感じるのだった。
警察がやってくるまで、確かに杭瀬の時間は止まっていた。再度その時間が動き出したのは、パトランプの光が見えて、サイレンが聞こえた時だった。
最初は、一瞬、パトカーだとは思わなかった。救急車だと思ったのだ。
しかし、その違いが分かったのは、身体に寒気を感じなかったからだ。この間、救急車に乗って、彼女を病院に運んだ時、救急車が近づいてきて、最初に感じたのが、寒気だったのだ。
その寒気が今日はなかった。だから、この音がパトカーだということに、すぐに気づくことができたのだ。
今日の相手はパトカー、しかも、今日はこの間と違い、まわりにはたくさんの人がいる。そして、目の前に転がっているのは、苦しんでいる人間ではなく、二度と何も感じることもなく、凍り付いてしまった一体の遺体だったのだ。
そこに出てきた刑事は、この間のコンビだった。群衆には慣れているのか、すぐに場輪張りを張って、後から少し遅れてきた鑑識が、被害者の検死を行っていて、警察と一緒に、あたりを捜索していた。
野次馬は、縄張りの外に出され、警察の様子をじっと見ていた。だが、次第にその人たちも縄張りから離れていき、家路を急いでいた。
警察が介入してきてから、誰も何も言わなかった。パトカーのサイレンや、その場の慌ただしく喧騒とした状況に、すっかり飲まれていたと言ってもいいだろう。
まるで刑事ドラマを見ているようで、その状況に、野次馬も、これが夢なのか現実なのかということを、理解できないでいるような感じがするのだった。
厳かに、しかも、実に形式的に進む警察の捜査は、本当にドラマを見ているようだった。それこそ、マニュアル通りだと言ってもいいだろう。
「やはり、警察は公務員なんだな」
と思わせるには十分だったのだ。
若手の刑事が、杭瀬に気づいたようだった。目が合ったので、思わず頭を下げたが、刑事も目で挨拶をしただけで、杭瀬のことを、ただの野次馬としてしか見ていないようだった。
あらかた、あたりの捜査が終了すると、今度は遺体見分を鑑識に訪ねていた。ハッキリと声が聞こえたわけではないが、その様子から見る限り、まったく表情に変化がないことで、
「見た通りの見解でしかないんだな」
としか思えなかった。
ということは、
「死因は、刺殺。そして死亡推定時刻は、ついさっきだ」
ということだろう。
今度は縄張りの外に出されていない二人の男性がいたが、刑事がその二人に事情を聴いているようだった。その様子を見る限り、どうやらそこにいる二人の男性というのが、
「死体の第一発見者」
というところであろうか。
話を聞いている様子も変わったところはない。死体がうつ伏せになって倒れていて、背中を刺されているところを見ると、後ろからの不意打ちだったのだろうか? 凶器であるナイフは刺さったままで、血があたりに噴き出していないことから、犯人も返り血を浴びていないということだろう。
たぶん、ナイフをそのまま残しているということは、凶器から指紋が出るはずもないと思われた。通り魔殺人であろうが何であろうが、凶器であるナイフを持ち歩いているという時点で、犯人に計画性があったことは明らかである。
そんなことを考えていると、刑事は、フッとため息をついて、二人を返した後、今度は踵を返して、杭瀬のところにやってきた。
「これは杭瀬さんじゃないですか?」
と、先ほど気づいていたくせに、この白々しさは一体なんだというのだ?
ここにもまた警察というものの、あざとさがあるのかと思うと、
「もう、俺の知ったことではない」
と思い、杭瀬は露骨に嫌な顔をして、さぞや、露骨に嫌がっているのだろうと、自分で感じたのだ。
刑事もまたため息をつき、
「なんとも、嫌われたものだな」
と感じているのではないかと思うのだった。
思い出してみれば、ここで記憶喪失の女が襲われた時、まわりには誰もいなかった。それも、同じ時間、そしてほぼ同じ場所、日にちがそこまで経っているわけではないので、環境、つまり、日の長さも、そこまで違うわけではない。
それなのに、前の時は目撃者が自分だけで、今回がこんなに野次馬がいるというのも、何かおかしな気がした。
そもそも、この場所にこれだけたくさんの人がいるというのも不自然なことだし、
「今日、何かが行わえているのだろうか?」
とも考えられるほどだった。
逆にいえば、犯人が猟奇犯であれば、
「被害者は誰でもよかった」
などという、理不尽な犯罪なのかも知れない。
とにかく、同じ時間の同じ場所でのここまで違うというのは、前述のイベント系によるものなのか、それとも、曜日によるものなのか?
確かに、今日は金曜日、前の時は、週の途中だったということで、比較的、月曜日と金曜日は、人通りが多いかも知れないとは思うが、通常の金曜日というだけでは、これほどの人手というのは不自然だった。
後から聞いて分かったことだが、この通りの奥にある個人がやっている美術館に、サークルの仲間を集めて、イベントがあったという。
ということは、彼らは、バス停から、住宅街を抜けてきたわけではなく、これから住宅街を抜けて、バス停に向かうところだったということだろう。
それであれば、見たことのない人たちばかりだったというのも理解できるというもので、その時は、まだ何も分かっていなかったのだ。
わざわざこちらにやってきた刑事は、
「杭瀬さんは、この方をご存じですか?」
と言われた。
杭瀬が覗き込むと、これもまた知らない人だった。
「いいえ、知りませんけど、どうして私に聞くんですか?」
と、そっけなく答えた。
「いえね。前の時も伺ったんですが、ここは毎日の通勤路だというじゃないですか。あなたならご存じかと思いまして」
というので、
「じゃあ、第一発見者の人は?」
と聞き返すと、
「知らないと言っています。ちなみに、あの二人に見覚えは?」
と聞かれ、
「いいえ」
「そうですか。どうやら、この先でイベントがあって、皆さんその帰りだというので、このあたりは皆さん馴染みがないようでですね」
「じゃあ、その皆さんと言われる人は、被害者の身元を知っていたんですか?」
と聞くと、
「いいえ、それは知らなかったといいます。どうも、今日はイベントがあったということもあって、被害者も、目撃者も、誰も面識がないというのも、困ったものです」
「それこそ、通り魔か何かでは?」
というと、
「それも十分に考えられることだとは思いますが、ただ、通り魔だとすれば、ナイフを突き刺したまま逃げるというのも、何か不自然な気がしてですね」
「だって、返り血を浴びるわけだから、それを思えば突き刺したままだというのと、変わりはないのでは?」
「いや、そうでもないんです。凶器を現場に残しておくというのは、犯人にとって不利なんです。捜査の段階で凶器から、それは入手であったり、所有していること、そして、ここに持ってきていることなど分かってしまうと、もし万が一捕まった場合、その後の裁判などを考えると、凶器は残しておかない方がいいと考えたのではないかと思うんです」
「実際にそうなんですか?」
「ハッキリとは分かりませんが、今までは、そういう犯人が多かったように思います。実際に、この間の殺人未遂事件では、凶器を持ち去っていたでしょう?」
と刑事は言った。
「あの時は、私に見られたと思ったからでは?」
というと、
「あなたが言ったんですよ。犯人は凶器を手に持っていたとね」
と刑事は言った。
まさにその通りであるのだ。凶器を手に持っていた。だが、それが本当に凶器だったのかどうか。ハッキリはしていない。それなのに、杭瀬は断定的なことを言った。それが少し気になったのだ。
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