第50話 脚下の汚泥 【西野蓮華 視点】



扉が開かれ、私は背を押される。よたよたとオフィスへ入ると皆の視線が向けられ、再び緊張が走る。


「お、おは、おはようございます......ご迷惑おかけしま」


「おいおいさっき言っただろーが。耳ついてんのかよオマエ。良いから動け仕事しろ、ほら」


そう言いながら指差す私の机。そこには花の入った花瓶が置かれていた。


「なんだ、死んだかと思ったのに」


ぼそりと誰かがそう言った。いつもの私なら、無感情にそれをよけ仕事をし始めただろう......いつからか感覚が麻痺していた。それも仕事の内。


人付き合いが苦手な私が悪い。基本的に喋ることが苦手で、口下手な私だから、気に食わないんだろう。だから、これくらいの嫌がらせは仕方がない。


働くというのは、その全てに耐え抜いて我慢し続けるということ。


身を削り、精神を摩耗させ、命を削りお金を貰う。そうして世界は回っている。そう思っていたんだ......ほら、奥の席では私よりひどい仕打ちを受けている社員がいる。


だから、私はまだマシなのだと。


「お?西野君じゃないかぁ!心配したんだぞ〜!」


「......課長、すみません、ご心配おかけしました.....あの、すみませんが後ほどお時間いただけませんか」


パンパンと私の肩を叩き笑いながら課長は言う。


「はっはっは!私も君と話がしたいと思っていたんだよ!今から話しようか!ほらそこのソファに腰掛けてくれ」


「はい」


テーブルを挟み対面で座ると、先に課長が口を開いた。


「あー、あれだなぁ。ほら、君は頑張り屋さんだよなぁ」


「......?」



「いやいや、ストレス溜まってたんだろう?今回の事は仕方ないさ。今まで君を頼りっぱなしだったからなぁ。はっはっは」


気味が悪い。今までこんな風に人を労った言葉をこの人から聞いたことがなかった私にはそれが不気味に思えた。


「それ、退職届?うち辞めて次どこでなにするね?ん?」


「......とりあえず、少し体を休めてから考えようかと」


「とりあえず、か。君いくつだっけ?もう30近いんじゃなかったか?」


「......それが、なにか」


「いやあ、その歳で辞めるとか勿体ないなと思ってね。それに今は仕事探してもなかなか無いぞ〜?あってもキツくて辛いモノばかりだろう。正規雇用なんてウチを辞めたら絶望的だと思うがねえ?」


「......すみません、決めたことなので」


声が震える。怒鳴られた記憶が脳裏に過り、一言一言返す度にビビってしまう。


「いやいや、冷静になろうよ西野くん。ウチはまだ優しい職場だと思うぞ?君、ミス多いだろう?そんな君がここで働くのが無理なら、他の企業に行ったところですぐに辞めるのがオチだよ。それにね、一度辞め癖がついた人間はまたすぐに辞める。そうして転々としたあげく高齢のニートとかになるんだ。私はね、そうした人間を多く見てきた......君にはそうなってほしくないからこうして言っているんだよ」


「......」


......苦しい。人員がいなくなる事だけを危惧している。それはわかっているのに......。


お前には、どこにも行く宛が無い。そう言われているようで、じわりと麻痺した心の底から恐怖が滲んでくる。


「んんん。そうだな、ここは厳しく言っておこうか。大切な社員のためだからな。心を鬼にして言うぞ......お前の居場所はここだ。お前は、他では使い物にならない......自分でもわかっているだろう?どんなに努力しても、頑張っても、無駄だ。ここでしか価値が無い......だからここで頑張れ」


無価値。ずっと言われてきた......私は、無価値。


そういえば、これまで上手くいったことなんて何も無かった。それに、これだけ苦しくても続けてこられたのはこの会社だったからかもしれない。


ここを辞めたらどこも拾ってくれない。確かに、そうなのかもしれない......。


「まあほら、とりあえず溜まってる仕事を片付けて。少し落ち着いて考えろ」




◆◇◆◇




「......で、引き継ぎできずにまるめこまれてもーたのか」


私はしょんぼりしている蓮華さんに紅茶を差し出し、そうかそうかと頷いた。まあ、そらそーなるか。そこで言い返せるくらいなら会社辞めようだなんて思わねーし。


「......」


黙り込む蓮華さん。虚ろな瞳は両手で覆ったカップの中を見つめていた。


「ところで、これから皆でごはん食べるんだけど、蓮華さんもどう?」


「......え?」


「ほら、美心がコラボ配信したでしょ?それの打ち上げをこれからするの」


「ああ、岡部さんも出てた......」


「うぐっ」


「?」


「あ、いや......そう、それ。みんな時間無いからちょっとした軽い打ち上げなんだけど、蓮華さんもどう?」


「......いえ、私は関係ないので」


「いやいや、関係あるよ」


「?」


「これからVTuberになるんだ。皆と仲良くしといて損は無いよ......まあ、損得の話じゃないけど」


「......場違い感が」


「そう?知らないの忌魅子の仔さんと七海さんくらいでしょ?ふつーの食事会だと思えば全然だよ。それに美心も蓮華さんがいたら喜ぶしさ」


「......そう、ですかね」



「そーだよ!!ごはんたべよーよ!!」


「!?」


ガバッと後ろから抱きしめる美心。今まで隣の部屋で配信をしていたが、終わったらしく忍び足で蓮華さんの背後に移動していた。伏◯甚爾もびっくりの気配の殺し方である。


「ね?蓮華ちゃん、良いよね?」


「......うん、わかった」


少し困ったような表情で蓮華さんは折れた。





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