小夜啼の塔
紫月音湖*竜騎士さま~コミカライズ配信中
第1話 愛している
その塔は、世界の果てにひっそりと建っていた。
窓らしき穴は見えるが、塔に入る入口はない。
無人かと思えば、夜には最上階の窓にだけ橙色の明かりが灯る。
何のための塔なのかは、誰も知らない。
いつから建っているのかもわからない。
けれども夜になると、塔の方から美しい歌声が聞こえてきた。
まるで助けを乞うかのようにせつなく、愛をささやくかのようにあまく響くのは少女の声だ。
歌を聞いたある者は心が洗われるようだと言い、またある者は呪詛のように絡みついて気味が悪いと恐怖した。
世界の果てにひっそりと建つ、灰色の塔。
夜にだけ少女の歌声が響くこの塔は、
***
「ご機嫌よう、私の小鳥」
開け放った窓の向こう、突き抜けるような青空を覆い隠して漆黒の翼が羽ばたいた。窓から差し込む光を一瞬だけ遮って、黒を纏った男がするりと部屋の中に入ってくる。背中の翼をたたんで窓辺に腰掛けると、男の影が細長い
「私がいない間、いい子にしていたかい?」
「ここから逃げ出せないのを知っていて聞いてくるの、嫌いよ」
絹糸に星のかがやきを織り込んだような、美しい銀髪をした少女だ。男の方を見もしない月色の瞳は、さっきからずっと手元の本に落とされている。
その少女の細い背中には、大層みすぼらしい翼が生えていた。所々に羽根を散らした翼は虫食いのように隙間が空いていて、触れれば容易く折れてしまいそうなほどに細く、頼りない。これでは空を飛ぶどころか、少女の体を支えることすら出来ないのではないだろうか。
そう思うたびに、男の心が歪んだ幸福感に満たされていく。
「君に贈り物を持ってきたんだ」
男がパチンと指を鳴らすと、少女の腰掛けるベッドの上に数冊の本と小さな袋が現れた。
「君は本を読むのが早いから、今回は少し多めに持ってきたよ。気に入るものがあるといいけれど」
「別に本を読むのが好きなわけじゃないわ。他にすることがないから読んでいるだけよ」
「それはよかった。君の瞳がずっと文字を追っているから、実のところ私は少しさみしかったんだよ。さして本が好きではないというのなら、その美しい月の瞳をこちらへ向けてくれないかな」
「どうして?」
「君の顔を見たいからさ」
「いやよ」
「わがままな小鳥だね」
するりと、男の指先が少女の頬をなぞる。触れる力は
かすかに肩を震わせて、少女が諦めたように顔を上げる。銀色の睫毛に縁取られた月色の瞳に、恍惚とした表情を浮かべて微笑む男の姿が映った。
髪も服も、その背の翼でさえ夜色に染まった男。気を抜けば奈落の底へ吸い込まれそうなほどに、深く、濃い闇の色だ。どんな光も呑み込んでしまう漆黒のなか、男の双眸だけがまるで夏の夜に輝く
「あぁ、やっぱり君はとても美しいね。月のように気高く、何ものにも穢されない清浄な光のようだ」
顎を掴む右手、その親指を伸ばして、少女の赤く色付く唇を焦らすようにゆっくりとなぞっていく。
「ほら、口を開けてごらん。君の好きなラズベリーだよ」
本と一緒に渡した袋の中から一粒のラズベリーを取り出して、男が少女のわずかに開いた唇にそっと押し当てる。少し強引に押し込まれた赤い果実と一緒に、少女の舌先を男の指先が弄んだ。
少女のかわいらしい唇と、完熟したラズベリー。どちらも食べ頃のように赤く、魅惑的に艶めいている。
けれど男は、その赤色に喰らい付くことはない。
少女は清らかだ。少なくとも、世の穢れに染まりきってしまった男の目にはそう映っている。
「私の小鳥」
触れて、めちゃくちゃに壊してやりたい衝動を押し殺して、男は少女の舌に濡れた指先にキスをする。その時はじめて、少女の頬にわずかな赤みが差した。
こうすることで、少女が戸惑うのを知っている。だからあえて、見せつけるように唾液を舐める。
触れ合いたいのに。触れて壊して穢し尽くしたいのに、それが怖くて手が出せないでいる。
少女は清く美しいままでいなければならない。
高潔で、無垢で、清らかで、神々しい。
本来ならば軽々しく触れてなどいい存在ではないのに、男は一目見た瞬間から少女がほしいと思ってしまった。少女の清浄な輝きに、自身の纏う澱んだ闇が一瞬で浄化されていくような気がしたのだ。
けれども所詮、男に絡みつくのは穢れた黒だ。
少女を自分だけのものにしたいと塔に閉じ込め、逃げ出さないように足枷を付けたのは男自身だ。少女を傷つけたくないくせに、傷つけることでしか思いを伝えられない。
歪んでいるのだ。
それでも男は、愛を伝えずにはいられない。
「私だけの、かわいい小鳥」
壊してしまわないように、広げた漆黒の翼で少女を抱きしめる――ふりをする。
「あいしているよ」
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