かつてヴィクセンと呼ばれた者たち

雨天紅雨

魔導書喰らいの次元書庫

第1話 はじめての魔導書

 どのような理由、事情があっても、あるいはなくても。

 どんな意志があって、意図があって、あるいはなくても。

 開かれたのが魔導書であったのなら、魔術書であったのなら、それは彼ら――本が読者を選択したのだ。

 ゆえに。

 彼がその魔導書を開いたのは、必然だと言えよう。

 魔術書と魔導書には、大きな違いが存在する。

 魔術の本と、魔に導く本では、明らかな違いがあるのはわかるだろう。魔術師が術式の研究をするため、メモを取るだけで、それは魔術書になりうるが――魔導書は、一般人を魔に堕とすことさえ可能とする本である。

 大半の魔導書には、記した魔術師の存在が、意志が、魂が刻まれていることが多い。

 完成した魔術を誰かに使わせるために、あるいはその魔術こそが自分だと示すために。

 人格の上書き。

 著者の魂そのものが自分の中に入るのなら、まともに抵抗できる人間はいない。魔術師ならば、想定した上で防御策を施し、それを防ぐことは可能だろうけれど、これもまた、事前知識を持って、かつ、どんな魔導書でどのような仕組みが存在するのかを事前に知っていた方が、成功確率は高い。

 選ぶのが魔導書ならば、主導権も読者にはないようなものだ。


 彼が手に取ったことは必然であり。

 彼が本を開いたのは偶然ではない。


 しまった、と思っても遅い。手に取った瞬間、もう本を開くのは定められていると言っても良い。

 魔導書とは、それだけ危険なものだ。

 それをわかっているからこそ、彼女は家に戻った時、平然な顔をして読んでいる弟子を見て、どう反応すべきか迷った。

 慌てるべきか、呆れるべきか。

「おかえり」

「――何やってんだい、あんたは」

 いや怒るべきだなと思い直した彼女は、彼の頭を殴った。

「いってぇな……」

「あたしは言ったはずだね?」

「おう、聞いたぞ。俺が魔導書を読んだらどうなるのか、試すための本が届いたから、準備をしてくる――そう言って家を出た」

「その通りだ、忘れてないようで何より。じゃ、お前は勝手になんで読んでる?」

「八歳の悪ガキを前に、宝物を置いて家を出るのが大人のやることか? こっそり読むに決まってンだろうが――いてぇ!」

 今度は強く殴っておき、準備が徒労に終わったことはともかく、彼女は疲れたように書庫の椅子に腰を下ろした。

「――で、どうだい? あんたの次元書庫ライブラリは、魔術書だけじゃなく、魔導書も本棚に入れちまったか?」

「うるせえジジイと一緒にな」

「……あ?」

 何を言っているのか、さっぱりわからなかったが、すぐに。

「魔導書に仕込まれた著者の魂ごと、取り込んだのか?」

「それは調査中だ、――ジジイが」

「あんたのことだろうが……」

 頭が痛くなってきた。

「実際、その本はあたしにも読めるか?」

「魔術書であっても、横からの覗き見は不可能だって教えてくれたのは師匠だろ。ほかの魔術書が基本的に複写であるのと違って、魔導書はどうも、飲み込んでるらしい」

 左手でぱたんと本を閉じれば、彼の手から書物自体が消えた。

「人間を一人飼ってるイメージだが、俺への負担はほとんどねえよ。今のところジジイが慌ててるところだし、そのジジイがどこまでできるかも、調査中。俺への干渉も含めてな」

「面倒の少ない魔導書を選んだあたしへの評価は?」

「頭が撫でて欲しいなら、もっと近くに来てくれ」

「感謝しろって言ってんだよ馬鹿弟子」

「それはいつもしてる。ありがとう師匠、そろそろ腹が減った」

「我慢しな」

「それも、いつもやってる気がする」

 口の減らない少年である。昔はこうじゃなかったのに。

「問題があるなら早めに言いな」

「おう。頼りにしてるぜ、師匠」

「ったく……」

 料理の準備をすると言って部屋を出た彼女を見送り、また彼は本を取り出して目を落とした。


 自分が混乱した時に、ああパニックに陥っていると自覚できるのは、生前の生き方によるものか。

 まず、彼がやったのは、覚えていることと忘れていることを区別することだ。

 魔術のことは、忘れていない。

 彼はある種の結界、箱を作り出すことに人生を奉げた魔術師である。

 果ては、一個世界でも作れるかもしれない――それが見えた時には、もう、己の命の方が短いことも理解できた。

 だから、魔導書に己の魂を入れたのだ。

 命を奉げたのだから、魔導書の完成と同時に自分は死ぬ。つまり、魔導書そのものが完成したかどうか、それを確かめるには、こうして現実に自分が生まれるしかない。

 人の躰を手に入れるはずだった。魔導書の本質は、読んだ人間の躰を乗っ取ることにある――意識、魂の複写を行うことで、結果的にそうなる。

 もちろん、誰でもそうなるわけではない。相性が良く――これは魂の順応性ではなく、魔術特性センスが似ている、あるいは上書きしやすい相手であるはずなのに。


 ――この結果はどうだ。


 ここは図書館のようだ。それほど広くはないにせよ、家に本棚が置いてあるほど狭くもない。鏡はなかったので、知っている術式で水を用意し、己の顔を見てみるが、老人のようではあるけれど、懐かしいとも感じず、それが己であると認識はほとんどできない。

 それもそうだろう。

 自分の躰の情報など、最初から除外しているし、それよりも術式情報の方がよっぽど重要だ。

「おい、誰かいるのか?」

 声をかけても返答はないが、何度か口を開いて言葉を繰り返しながらも、周囲を歩いてみる。

 束縛は感じない。外に出ようとは思わないが、不自由に感じる部分は今のところなかった。

 誰かに憑依した感覚は、ない。まるでこの図書館に取り込まれたような気分だ。

 ――ならば。

 そうだ。

 この本棚の中に、もしかしたら自分の魔導書が存在するのかもしれない。

 ならば探すかと、そう思ったら。


 目の前が明るくなって、思わず目を細めた。


「よう」


 第三者の声に慌てて振り向けば、そこに。

 少年が足を組みながら、本を読んでいた。

「――誰だ」

「お前の魔導書を読んだ本人だ。結論から言えば、お前は次元書庫ライブラリに飲み込まれ、カタログに載った」

 取り込まれた、という感覚が正しかったのだと認めるのと同時に、自分が地面に立っていないことに気付く。

「……霊体か?」

「あっちから意識だけを呼んだら、どういうわけか、透明になってるな。俺は認識できているが、――ああ、なるほど」

 少年は小さく笑う。

「俺が形を作ったのか、それともジジイの魂に形がついたのか、調べることはできなさそうだな」

「あの場所は、お前の術式か」

「厳密には違うな。ジジイ、とりあえず深呼吸を一つしろ。俺の知ってる限りは話すつもりで、こっちに呼んだんだ。あっちでがやがや話されるのも、うるせえからな」

 何かを言おうとする前に、彼は言われた通りに深呼吸を一つして、それから小さく笑った。

 深呼吸。

 まさか、自分にそんなことができるだなんて、笑い話だ。

「聞こう」

「お前をここに呼んだのは、俺の術式だ。とはいえ、俺は魔術師であると胸を張って言えるほどじゃない。理由の一つとして、次元書庫は俺の術式じゃないからだ。そうだな……やや難しい物言いになるし、詳細をすべて俺も把握してねえから、俺のことは司書だと思え」

「つまり、書庫の整理をして、本を並べ、来客に対応する――か?」

「そうだ。ただ殺風景だろ、あそこ。実際に俺が足を運ぶのは、今のところ難しくてな。それで師匠に頼んで、お前を選んだ。魔導書がどうなるのかも知りたかったし、箱庭を作るお前なら、調査もできるだろう、なんて目論見だ。ところで」

 そこで一度、言葉を区切る。

「ジジイ、名前は?」

「ああ、それは覚えている。■は■■■■だ」

「――待て、黙れ」

 少年は顔を歪め、額に手を当てた。

「いいか、可能な限り一人称と自分の名前を、言わないでくれ。ノイズ混じりでまったく聞こえねえし、頭が痛くなりそうだ。拒絶されてるぜ、――世界に」

「そうか……」

 魔術を学んでいる者にとって、それは禁忌に触れている寸前であることを知っている。誰もが何かしらの研究をしていれば、そうしう仕組みに気づくのだ。

 抗えないモノがそこにある。

 世界に許されていないものは、何も、一切が禁止される。

「こんな状況が許されているなら、当面は問題ない」

「時間はあるから、そこらへんはゆっくり調査しろ。今作った経路パスは把握しておけ、こっちは基本的にいつでも来れるようにしておく。ただし、書庫で何を話しても俺には通じねえ――が、まあ、視界情報くらい共有できるようにしてみる」

「配慮は助かるが……何をさせたい」

「そんなのは後回しだ。注意事項がいくつかある」

「なんだ」

「書庫の八割は魔術書で、二割は適当な一般的な本だ。お前が読むのに問題はねえが、うるせえのがいるから気を付けろ。それから、奥――入り口があるからわかると思うが、奥にはあまり行くな。そちらは先代の領域だ」

「――先代?」

「誰かもわからねえが、俺の前に司書をやってた人の書庫だよ。俺が本を読むことで、こっちに移せるから、暇がありゃやってるし、利用者にとっては関係ねえが、俺の領域じゃないってのは理解しろ」

「ああ、わかった」

「同時に、外に出るな」

「外――が、あるんだな?」

「ある。だがもちろん、司書の領域じゃない。それも含めて、お前には頼みたいこともある」

「……調査か」

「今じゃない、今は頼まないし、やるな。そうだな……とりあえずお前が落ち着いて、かつ、そのうち来客がある。その後にもう一度、改めて頼むだろうな」

「よくわからんが、従おう」

「反抗してもいいぜ? お前の存在が消されても、俺は問題ねえよ。魔導書が取り込めることもわかったし、おそらくどんな魔導書であろうとも、あの場所ではルールを破った時点で消されるくらいに、住みにくい」

「……? お前の領域なのにか?」

「俺が許してるから問題ねえだけだ。管理してるのも俺だ。来客が、気に入らねえと言ったところで、ごく僅かに、俺の立場が上だ――が」

「なるほど、外や奥では例外か」

「そういうことだ。……とりあえず、このくらいだな。質問はリストにまとめておけ」

 わかったと言おうとしたところで。

「おう、飯できたぞ馬鹿弟子」

 女性が顔を見せた。

「いつもありがとう師匠、これからも頼む」

「うるせえよ」

「ここにいるジジイは見えるか?」

「あ? ……いや、あたしにゃわからん。魔力波動シグナルもないな」

「そうか、ならいい。俺は飯だ、ジジイは帰れ」

「わかった」

 今度こそ返事をした彼は、軽く目を閉じて今来た経路を確認すると、そちらに一歩、足を進めた。

 目を開けば、そこは先ほどの書庫だ。うす暗く、地面も石でできていて、改めて全体を見渡すと、木造の本棚が陳列されており、空気まで冷えているように感じる。

 大きな吐息を一つ落としたところで、ようやく入り口が目に入り、そこにはカウンターが存在している。そこに置かれた機械の画面に、食事が映っていた。

「なるほどテレビか」

 それならイメージしやすい――そう彼は納得するが、この時代に、いや、彼らが生きるこの世界に、テレビなんてものは存在していない。

 かつて、彼が過ごしていた時代には、あったのだ。

 そして少年が、以前生きていた世界にも。

 とりあえず、どうしたものかと、読書用の椅子に座って考えた彼は、しばらくして立ち上がる。

 魔術書以外にも本があるなら、たとえば少年の過ごす世界の常識や歴史が書かれたものもあるかもしれない。

 まずは情報だ。何よりも、今の情報が欲しい。

 そうした行動理念は、魔導書の彼ではなく、生前の彼の思考だったかもしれない。


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