緑化公園へ向かう大通りには、渋滞の長い列ができていた。怪異の姿はどうやらないらしく、誰も彼も平和そうに――否、イライラとした様子でハンドルを握っている。彼らは一様に前方を気にしており、中に気の短いものが混じっているのだろう、クラクションの音まで鳴り響いていた。まあ、苛立つのもわからないではない。車の列は大雪の日でもこうはならないだろうというくらい、先ほどからびたりと止まって数ミリも動かなかった。


 弓月はそんな行列を横目に走っていた。住宅街はとっくの昔に遠くなり、そろそろ緑化公園までの距離を示す看板でも見えてこようかという頃合いだ。この辺りには怪異はでなかったらしいことを確認しながら駆けていると、前方に黒山の人だかりが見えてきた。耳をすませば微かに警笛らしき甲高い音が聞こえる。走るスピードを緩めて近づいてみると、緑化公園に続く道の途中に警察車両が横向きに停められているのが見えた。警察官も何人かいて、人だかりを押しとどめたり車の列にサインを送ったりしている。が、本人たちも事情をよくは知らないと見えて、通行人に詰め寄られた婦警が明らかに困った顔で迂回を呼びかけていた。


 長身を活かして辺りを見まわしてみると、四つ辻の三つまでは車の列で埋まっていた。立ち往生の原因はどうやらこれらしい。しかし、どうしたものか。弓月は考えた。緑化公園に向かうにはこのまま道なりに北上する必要があるのだが、それにはこの警察官たちを突破しなければならない。この衆目を前に強行突破は褒められた方法ではないだろう。うっかりカメラに収められてネット上でさらし者にされるというのは、携帯端末の普及台数が増えたここ数年の悩みである。盟友殿のように空をひとっ飛びなどという手を採れればいいのだが、残念ながら己にはそんな都合のいい手段などなかった。


 はて、と首を捻ったところでポケットの中の携帯端末が震えた。表示された名前を見て即座に応答する。はい、と言う前に相手が怒鳴った。


「今どこ!」


 志朗だ。さっと周囲を見て信号機の案内板に目を留める。そのまま読み上げると明らかにほっとしたような息づかいが聞こえた。


「領域! すぐ来て!」

「はっ! 承知しました」


 通話はすぐに切れた。背後になにか雑音のようなものが聞こえた気がしたが、まさか戦闘中か。青ざめて左右を見渡したとて状況が変わるわけもない。腹を括るしかあるまいと自身に言い聞かせ、弓月は人と人のわずかな隙間に体を捻じ込んだ。強引に押しやった女が非難の声をあげながらたたらを踏み、背後から手をかけた男が迷惑そうな声をあげるが構わない。大事なものはひとつだ、すでに心に決めている。


 人垣さえ抜けてしまえばあとの警備などザルもいいところだった。警察官の横をすり抜けて数瞬後、慌てた声が背後でしたかと思うとわずかに数歩追いかけてきたようだったが、警察車両を軽々と飛び越えて目の端に緑を捉えた頃には足音もざわめきも遠いものになっていた。


   *


 これは選択を誤ったと思った時にはもう遅かった。


 領域のある川べりが見えてきたところで志朗と里莉は足を止めた。遊歩道の辺りか、もう少し手前の駐車場出口の辺りだろうか。正確なところまではよく見えなかったが、怪異たちの姿があった。数は十字路と同じくらい、戦意のほどはよくわからない。とはいえ、彼らの根城の目と鼻の先であることを考えれば、通してくださいはいそうですかで済む可能性は極めて低いと思われた。


 低い声でどうするか尋ねられ、志朗は答えた。


「奇襲すればいけると思う」

「わかったわ。さっきと同じ感じで行きましょう」

「ああ、背後は任せてくれ」


 囁きあい、駐車場の管理小屋や精算機の陰に隠れながら進んだ。ギリギリまで接近し、互いに頷きあう。直後、低く駆け出した里莉に志朗は続いた。遊歩道に走りこんだ時にはもう一体目が斬り伏せられている。道幅が人がすれ違える程度と狭かったのが幸いしていた。怪異たちがおのおの得物を手に駆けつけようとしても、互いが邪魔で身動きが取れないのだ。焦るあまりに抜刀に手間取るものまでいて、戦いは終始有利に運んだ――ように思われた。


 あっと思った時にはなにか小さな光るものが怪異たちの背後から飛び立っていた。淡いオレンジ色の中に小さな人影を認めて志朗は焦った。幻日人げんじつびと、幼い頃に見たきりだが、その時手を握ってくれていた弓月が教えてくれたのだ。別名は惑わし火。夜道を一人歩く人を見つけると提灯のように揺れてそれを惑わす怪異だが、その機動力と飛行能力から怪異たちの間では伝令代わりに使われることがあるのだという。


「其は矢!」


 とっさに放った言葉である。ろくなイメージを纏わせられなかった矢は志朗の頭上に生じはしたものの、ひょろひょろと情けない軌道を描いて目の前の地面に落ちた。幻日人はと見れば、光の通ったあとが細いオレンジの線を曳いて領域のほうへ消えていくところだった。


「下がれ、里莉!」


 そう叫ぶ間はあった。里莉は背後をちらりと確認するなり志朗の前まで下がってきて、追ってこようとする怪異の鼻面に剣先を向けた。その、水玉模様のロバに似た怪異が深追いを避ける。どうしたの、と里莉が言ったが志朗には答えることができなかった。おそらく増援が来るとは思ったのだが、それがどれほどの数でどのように襲ってくるのか、自分たちはどうしたら有利に立ち回れるのかがまるきりわからなかったのである。


「一旦、広いところへ」


 囁いて志朗は駐車場のほうへ移動しようとした。怪異から目を離さぬまま、里莉が不審そうな声をあげる。自ら有利を捨てる愚行に思えたのだろう、言葉を重ねようとした時だ。真横から影が伸び上がったかと思うと片腕を掴まれていた。目の端で里莉が太刀を振るって拘束から免れたのが見えたが、それ以上は追えなかった。勢いよく掴み上げられ、ごきんと嫌な音が肩からした。一瞬、目の前が真っ赤になる。それでも叫んだ。


「其は盾! 守りを!」


 言葉足らずだったが一番馴染んだイメージだ。金属壁は志朗を掴み上げる怪異の腕を真下から打ってくれ、放り出される形とはいえ、なんとか自由になることができた。しかし、体は弾みをつけて回転している。上下がわからなくなったと思ったとほとんど同時に、右肩から膝にかけてが強烈な痛みを発した。目から涙がこぼれる。うずくまりそうになった体を無理矢理に伸ばし、つい今し方ぶつかったと思われる駐車場の柵を潜った。しゃにむに手足を動かす頭上で金属を叩く音がし、なんとか駐車場へ這い出たところで振り返ると、ロバが悔しげに刀を持ち上げている様が目に入った。その背後にはわらわらと新手の姿がある。己の名を呼ぶ里莉の声が聞こえたが手一杯らしく、駆けつけてくる様子はない。とにかく距離を取らねばと下がった背中がすぐに車と思われる金属の感触にぶつかった。


 わずかな間、そうして志朗と怪異たちは見合い、志朗が身を捻って車伝いに駆け出すと同時に怪異のほうでも柵を跳び越えて躍りかかってきた。車と車の間をジグザグに走りながら志朗はズボンのポケットを探った。携帯端末を取り出して短縮の番号を叩く。どこかでキン、キンと金属の噛みあう音がする。里莉がまだ戦えている様子なのは僥倖だった。


「弓ちゃん! 弓ちゃん、今どこ!」


 自分で自分の目玉がぎょろつくのがわかった。振り向くことさえ惜しい。電話の向こうから声が聞こえて、それが妙にほっとして足がもつれそうになる。片手で地面を捉えつつ、目に留まった角を危うく曲がってなお走る。


「領域! すぐ来て!」


 それ以上は息が上がってきて言えなかった。携帯端末を耳に当て続けることも難しく、手の中で握りしめたまま走り続ける。なにか使えそうなイメージ。頭の中を引っかき回したがもうごちゃごちゃになっていた。びゅっとなにかが耳元で音をたてる。


「壁!」


 身を捻りながら叫んだ弾みでついに地面に投げ出された。振り仰いだ先には鋼の壁のかわりに透明な天蓋が現れていた。まるで温室みたいな華奢な硝子ドームだ。その向こうから刀が落ちてくる。パキンと心許ない音をたてて天蓋は崩れ去った。再度、白刃のきらめきが天を指し――振り下ろされる時はなぜだかひどくゆっくりだった。目を逸らすこともできず、立ち上がることもできない。転がったまま、そのひどく美しい軌跡を見ていた。


 ああ、と志朗は思った。めちゃくちゃ痛いんだろうな。痛くて痛くて、今度はそれを抱えて生きるんだ。視界の外側から影が落ちてきて、端から黒く焦げていく。志朗は目を閉じた。また迷惑かけるな。ごめんな、全、弓ちゃん。


「雛君!」


 そんな声が聞こえた――と思った直後、断末魔の声が轟いた。恐る恐る目を開けてみた頭上では黒い霧が半球を描いている。そうと認識した志朗が口を開き駆けた途端、続けざまに悲鳴があがった。背後から熱い温度を持った腕がまわってきて抱え上げられる。放り出された手足を思わずジタバタとさせるのも構わず、腕の持ち主は志朗を背後にかばって半身を引いた。


「弓ちゃん!」

「遅参、申し訳もございません」


 見上げた横顔が妙に頼もしく見える。弓月は斜に構えたまま、黒霧を繰って怪異たちを追い立てているようだった。霧でまったく向こうが見通せないが、その向こうからわめき声だのうめき声だのが聞こえてくる。


「あっ、里莉! いるから! 気をつけて!」

「承知しました」


 くっと弓月が拳を握って引く動作をした。と同時に、ぱったりと悲鳴がやむ。するすると霧が弓月の左半身に吸い込まれ、その全てが消えたあとにはなにも残っていなかった。あのロバの怪異も、増援で現れた怪異たちもいない。駐車場には何事もなかったかのような静寂が満ちていた。それを確認したからだろうか、弓月は志朗を下ろしてくれた。


「お怪我はありませんか?」

「ちょっと転けたけど。たいしたことないよ」

「……申し訳ありません」


 謝られた意味がわからなくて首を傾げると、弓月は叱られた子犬のようにますますその広い肩をすぼめた。


「御意に逆らい、奴らを斃してしまいました」

「仕方ないよ」志朗は呟いた。「殺すか殺されるか。そうでなきゃ収まらない事態って奴みたいだし。俺もそのつもりで何人かやっつけちゃったから」


 なんとも言いがたい顔をして弓月は志朗を見下ろしている。大丈夫という言葉のかわりに志朗は少し笑って見せた。


「助けてくれてありがとう」

「八千原君!」


 高い声が聞こえてきて見まわすと、里莉が駐車場奥の茂みから駆け寄ってくるところだった。その手には抜き身の太刀がある。


「良かった。そっちも無事だったか」

「ええ、あなたこそ」


 見たところ怪我もなさそうである。もはや慣れた手つきで太刀を鞘に収めながら走り寄ってきた里莉は、弓月の姿を認めるとちょっと頭を下げた。応えて弓月も頭を下げる。


「そういえば、全は?」と志朗は尋ねた。

「こちらに携帯端末を届けに来たあと帰りました。危機的状況になったら呼んで欲しい、とのことです」


 少し困った顔になった弓月を見て、なんとはなしに交わされた会話を想像した志朗は笑った。まったく自由勝手気ままなカラス様のしそうなことである。ひとり、全の存在を知らない里莉が首を傾げて笑う志朗を不思議そうに見ていた。


   *


 ともかくも双方の見聞きしたことをすりあわせてみたところ、弓月が難しい顔になって腕を組んだ。


「首領が何者か、わかっていないんでしたね。おそらくはかなりの大物だと思います。あの怪異――蛾王と言うんでしたか、あれは以前は仏道を護持するものであったはずです。それが大災害を経たことで怪異になった。仏教といえばこの国では根強い信仰がありますから、もともとそれなりの力を持っていたはずです。怪異に堕ちたとしても力のほどは変わりないでしょう。それほどの怪異や、それより格は落ちるとはいえ多数の怪異に妖気を供給し、なおかつ彼らの姿が唯人ただひとに見えるほどの力まで与えているとなれば」

「でもさ」と横から志朗は言った。「そんなに強い怪異に弓ちゃんや全が気づかないってことあるの?」

「そうですね……それまで黙殺にも値しない雑魚だったものが、何らかの影響を受けて急激に力を手にすればあるいは」

「里莉が聞いた話だと、四月の時点でおまじないは既にあったんだよな?」

「ええ。それより前のことはわからないけれど」と里莉は応えた。

「病院の怪異は、手下が集まったのはここ数ヶ月のことだって言ってた。だとすると、首領が力を手に入れたのは四月あたりからこっちってことか?」

「私や盟友殿の感覚に引っかかるギリギリの線で力を蓄え、そうなる直前で行動を起こしたのだとすれば理屈としては通ります。もっとも、ご存じの通り、現在の怪異は個人的な存在です。通常ではそれほどの変化が起こることは考えづらいですし、そんなに繊細な微調整ができるとも思えません。しかし、領域の側に村雨流星の姿があったことを併せれば、ない話でもなくなるかと存じます」

「そのムラサメリュウセイって、どんな怪異なのかしら?」


 里莉の疑問に志朗と弓月は目配せしあった。


「怪異じゃないんだ。たぶんだけど」と志朗が言うとさらに里莉は首を傾げた。

「怪異じゃないなら人間なのね?」

「人間と言うには規格外です」

「前に事件があったって言ったことは覚えてるか? 村雨はその容疑者っていうか、むしろ教唆した奴っていうか。そんな感じでさ」

「じゃあ、とにかく悪い奴ってことなのね」

「悪いと言い切るのも……結果的にはそうなのかもしれませんが」


 なんとも言いがたい顔で弓月が唸った。


「村雨とは一度戦ったきりだけど、なんていうかな、本人が悪事を働くってタイプじゃないんだ。むしろ焚きつけるタイプっていうのかな。その辺にいるなんでもない奴でも不満や嫉妬、怒りは悲しみって感情は持ってるわけじゃないか。村雨はそういうのを増幅して、なんでもなくしてしまうんだ。怪異が個人的なものってことは、感情と想像力がイコール怪異になってるってことだ。もちろん、想像はしてても怪異になるほどじゃない感情っていうのが大半だよ。だけど、村雨の手にかかると変わってしまう。具体的な怪異として現れることもあれば、想像をはるかに超えたなにかになってしまうこともあると思う」

「だとしても」腕を組んで弓月が言った。「今回の奴の目的はなんなのでしょう」

「前回は恐怖の大王、ひいてはアンゴルモアを呼び起こそうってのが狙いだったよな」

「今回はいまいちわかりませんね。怪異を育て、その怪異が手下を集め、手下は住宅街や駅周辺を襲い、中には一般人を殺したものまでいる。けれど、これがなんになるんでしょう。いまいち規模が小さいといいますか、奴らしくないように思えます」


 たしかにと頷いて志朗は顎に拳を当てた。そこへ里莉がこっそりと尋ねる。


「ねえ、あんご……なに? なんのことかしら?」

「そ、そうだな。すっごく面倒くさい怪異と思ってくれ」


 答えに窮して志朗はともかくそう答えた。


「いえ、もしかするとそうではないのかもしれません」弓月が呟いた。

「どういうこと?」と志朗は首を傾ける。

「そもそも、前回の奴はになることを予測して動いていたんでしょうか」

「してたんじゃないのか? でなきゃあんな……なあ」

「お言葉ですが。私にはむしろ、奴は興味の塊のように思えてならないのです。幼子が蝶の羽を棒きれで貫いてみるようなものですよ。結果、蝶が飛べなくなってしまうと予想して子供がそうしますか? いいえ、子供はただそうしてみたいんです。そうしてみて、蝶がどうなるのか試してみたいだけなんです。今回も前回も、奴は騒動の周囲で右往左往する我々や人間や怪異たちを眺めているに過ぎない、私にはそんな気がします」

「それって、弓ちゃんの勘?」

「いえ、実感といったほうが近いです。奴とは二度戦ったことになりますが、その二度とも奴は笑っていたんです。私がなにをするのか、どんな選択をするのか、自身の障害にならないことを知った上で掌に乗せて愉しんでいるような、そんな印象を受けました」


 志朗と弓月は揃って領域のほうを見た。守りを務めていた怪異たちは弓月が斃したし、騒ぎのおかげで人もいないので、夕刻を過ぎようかという時間帯にしては川べりは静かなものである。


「いるかな?」と志朗が言った。

「お守りします」と弓月は答えた。


 歩きだした志朗のあとに弓月が続いた。里莉はしばらく物言いたげにつま先で地面を弄っていたが、思い直すように息を吐き出すとそのあとを追った。

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