めがねの暗殺者
ちょこっと
めがねの暗殺者
日が短くなりつつ、夏の空気を引きずる夕暮れ。足元の赤黒い日差しが家の前まで続く。眼鏡の内側が、汗でくもる。ぼんやりとした目まいは、暑さのせいか、視界のせいか。
「あっつ……、帰りましたよ」
我が家は玄関と脱衣所まわりには冷房が効かない。帰宅後最後の汗を一絞り。夕餉前は、炊事場で妻が、風呂支度で夫がそれぞれ、というのが、我が家の夜ルーチンの始まりだ。
「ただいま。とりあえず、お風呂入れたよ」
いつものルーチン。始まる、はずだったのだ。
「かえったよ。どしたの?」
食卓のテーブルに俯く妻。なんだろう、この異様な雰囲気は。消えない違和感は。
クーラーの効いたリビングに漂う、酸っぱく焦がしたような匂い。
テーブルの上には……
「これ」
フローリングを染める、夕日の赤。
エプロンを濡らす、赤黒い何か。
前髪で隠れた先の、虚空を写す黒。
「ねぇ。これ、なに?」
「え、えっと」
「何か答えなさい」
「……眼鏡、ですかね」
鋭い眼光で夫を睨みつけながら、
ケースに入った、メガネを突き出した。
思えば学生の時分、どちらからともなく付き合いはじめて。
付かず離れずを繰り返し、気づいたら結婚することになって。
気の使えないのんびりな夫と、気にしいでせっかちな妻。
幾度の小競り合いを乗り越えたはずだった。
「どういうこと?」
「あー……」
結婚した時に、3つお願いされたことがある。
浮気しない。
悲しませない。
それから、
「なぜ。このメガネが。うちにあるか。と、聞いている」
「…………」
勝手に眼鏡を買わないことだった。
フェチを公言し、メガネグッズを買い漁り、あらゆる眼鏡情報を蒐集する女。
それが、恐るべき妻の、愛すべき習性の一つ。
「あなたに買い与えたのは、カムロのボストン。増永眼鏡のツーポイント。
それから」
流れるように夫の眼鏡ラインナップを詠唱する。
ケースから取り出した眼鏡をゆっくり広げる。
「OWNDAYSのフルリム。これ、今まで持ってないセルフレームっぽいやつで、カジュアルで普段使いしたいっていうから、軽量で形状記憶のブルーライトカットを選んだの」
「そ、そうだったね」
怒涛の情報圧以上に、怒りのオーラが肌を刺す。
「それが、これだった。そうでしょ?」
「うん」
「じゃぁ、今掛けてるのは?」
どうしよう、とっても面倒なことになった。
リビングが、いつも以上に冷たく感じる。目の前が、なんだか回って感じる。
「私が選んでない眼鏡をかけて、こっちを見てる。なんてことは……」
一たび、眼鏡の話をすると異常なこだわりを見せる。
以前、新しい眼鏡が欲しい、とこぼしてしまったときは、連日眼鏡屋巡りをする羽目になった。掛けては写真を撮り、別の店で掛けては写真を撮り。
都合2週間かけて、ようやく一本が決まったのだ。
最後の写真に写る自分の目は、今見ても死んでいる。
そういうところが、愛おしくもあり。どうしようもなく面倒なところでもあった。
「これ、ですね」
掛けている眼鏡をはずして、ゆっくりテーブルに置く。
妻はそれを、丁寧に、かつ素早く手に取る。
「これもOWNDAYS」
「同じ、ですね」
「同じじゃない!同じじゃないわよ!」
二つの眼鏡が並べ、妻がすごんだ。
どちらも同じメーカー、同じフレームのはずで、
「OWNDAYSのこのフレームはカラーバリエーションが4つ。その中に、紺と黒があるの」
「は?あ、そうなんだ」
「それに、こっちはブルーライトカットの非球面だけど、こっちはノーマルレンズでしょ」
「えぇ……ちょっと、わかんないかな」
「そりゃわからないでしょうね」
並べると、少しだけ色味が違うのだった。
しまったな。色なんて気にしてなかった。
「それで?なんで2本あるの?」
「うーん」
「いい加減答えなさい」
「はい……。たしか」
たしかあれは、三日前。
いやっていうほど人が溢れる朝の新宿駅。眠気と必死に戦いながら、ホームを降りて乗換電車に向かうタイミングだった。
バチンッ。ごめんなさーい。
急に殴られたような衝撃に、目の前が真っ黒になる。
痛みをこらえながらあたりを見ると、迷惑そうな顔で遠巻きにこちらを眺める通勤客しかいなかった。
すれ違いざま、カバンでもぶつけられたか。下手人と思われる者は見当たらず、理不尽な痛みだけが残る。
朝からツイてない。少し腫れたおでこをなでると、なんだか違和感があった。
「あれ、ない。メガネない!」
改めて見回すと、階段の下に、無残にレンズの割れた、それを見つけたのだった。
「なに、じゃあ朝壊されたってわけ」
「そう。なんていうか、災難だった」
「ふぅん。それで?」
おぞましいオーラに、目を合わせることができない。
なぜこんな目に合うのか、めまいが段々ひどくなっている気がする。
「我慢して仕事場まで行ったんだけど、全然仕事になんなくて」
「そりゃそうでしょ」
「だから、中抜けして眼鏡屋にいった」
眼鏡の修理には全く詳しくないが、眼鏡の違和感はすぐに眼鏡屋に行け、と普段から口酸っぱく言われている。
幸い職場はフランクというか、ルーズというか、忙しくなければ自由度が高い。
上司に泣きついて、最寄り店の開店時間を狙って修理に駆け込んだ。
店員に事情を説明すると、じっと曲がった眼鏡を眺めた。
「直りますよ。ただ、ちょっとお時間がね」
「どのくらいかかります?職場に戻らないといけなくて」
「修理なら明日……お昼までにはって感じですね」
「あー、そうですよね」
どうしよう、替えを取りに一度帰宅するか。
さすがに面倒というか、会議に間に合うかどうか。
「でも……たしか同じフレーム店に在庫があったような」
「ほんとですか!?」
「えぇ。新品で同じ度数のレンズがあれば、30分くらいですかね」
「お願いします!」
一も二もなく飛びつくと、改めて在庫を探しに行く店員。
ほどなくフレームと値段表を携えて戻ってくるのを見て、胸をなでおろした。
「それで、視力測って今あるレンズですぐ作ってもらって……」
「壊された方は?」
「なんとなく、ついでに直してもらった」
大慌てで眼鏡屋から戻った後、職場のデスクに座った時に気づいてしまった。
これ、妻になんて言えばいいんだ。
「思い出した。そういえばあの日、増永つけてた」
「そう……。なんか、言い出しづらくって」
帰り道。家に近づくほどに、言いようのない罪悪感というか、目がくらむような引け目を感じて。帰宅と同時に自室に向かい、別の眼鏡と掛け替えたのだ。
「言ってよ。ちゃんと」
「うっ……」
「そういうの、一番いや。わかるでしょ」
「ごめん」
妻の声に涙が混じる。
しずかに、テーブルにしずくが落ちる。
「ごめん、ごめんね」
「ほんとに……、そういうのが……」
「ごめん」
思わず、立ち上がって抱きしめた。
傷つけたかったわけじゃない。ただ、傷つくのが、傷つけるのが怖くて。
「わるかった、ちゃんと言えばよかった」
「もう、ほんとに……」
胸の中で、涙を拭きながらゆっくり、呼吸を整える妻。
袖口をぎゅっとつかむ手が、とてもいとおしい。
「眼鏡、こわしても。言ってくれたら、いいから」
「うん」
「内緒に。変な気使って、そういうのは」
「わかった。もうしないよ」
「あたらしいの、二人で買いに行こう。だから、仲直りしてほしい」
「――――――ん」
しばらくして。お互い申し合せたように、静かに夕食の支度をした。
さっきまでと違った申し訳なさ、気恥ずかしさがこみ上げる。
「フォーク出して」
「わかった。飲み物も出すね」
止まっていたルーチンが、少しずつ回りだす。
二人の間の空気も、だんだんと日常を取り戻す。
ふとみると、ワイシャツには、妻のエプロンについていた、調味料か何かだろうか。べっとりついてしまっている。
「ちょっとシャツについちゃった」
「あ!もう……、しみ抜きいるかな」
「ごめんね。これ、ケチャップかな?」
爽やかな香りとともに、見たことのないパスタが運ばれてくる。
赤黒い一皿から、トマト独特の酸味を帯びたくらくらする匂い。
ほっとして、一気に吸い込んでしまったのかもしれない。
「ちょっとちがうけどね。この料理、なんていうか知ってる?」
「知らないなぁ、ナポリタンとかじゃないんだよね?」
「そう」
料理にも一家言ある妻のことだ。きっと、こだわりの一品なんだろう。
瞬きするたびに、パスタの皿が揺れ動いて見える。
しかし、今日はなぜこんな視界がぼやけるんだろう。
「あ、ちょっと待ちなさい。これ、ちゃんと選んだ眼鏡掛けて」
「あ、うん。……ごめんね」
「もう。それはいいから」
あらためて、今回修理した眼鏡をかけ――.-_―
「これ、暗殺者のパスタっていうの」
「ぇ」
「大丈夫、名前のインパクトに負けないおいしさだから」
あれ……、さっきまで、自分は。
視界が、目まいが急にスッキリしたような。
眼鏡越しのシャツは、赤黒いシミが点々としている。
「その眼鏡。もう今はない紺色なの」
「ぅ――――――」
「それを壊した翌日の朝には、もううすうす気づいてた」
すごい名前だな、とか。さすがのメガネ愛、とか。
なんだ、気づいてたのか、とか。
言葉が浮かぶ前に、どんどん消えていく。
さっきまでめぐっていたあれもこれも、零れ落ちて――――
「でも、いいの。だって、買ってくれるんでしょ?」
「。」
「だからいいの」
あれ、なんの話だっけ?ついさっきまで、たいせつな話を。
おいしそうな、ぶっそうなにおい。
「えっと」
「ほら、ごはんでしょ」
「え?」
そっか。晩ごはんの時間でしたね。
いただきます。
「いただきます」
「ん、おいしい」
いつもどおり、とってもおいしい。
つまが、やわらかい表情でこっちをみる。
「明日の休みは、二人で眼鏡選びに行くんだよね」
「そうなの?」
「そうなの」
そっか、じゃあ明日は、がんばって回らないとね。
「ちょっと強すぎたかしら。でも、勝手をしたあなたが悪いんだから」
「そこは私の眼鏡置き場なのに、ね」
めがねの暗殺者 ちょこっと @cazinside
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます