第136話 恋人だけが知る言葉(2)


 駅から少し離れたところの町中華を出た後のこと。


 すっかりお腹いっぱいになり、ありがとうございましたーと店員に見送られた引き戸の外で、くるみがこちらの手を握りながらうかがうように名を呼んだ。


「ねえ碧くん」


「うん?」


「……あの。明日なんだけど」


 言われなくても分かるのは、明日が夏休み明け——学校が始まる日ということ。


 目をぱちくりさせて続きを促すと、くるみはおずおずと提案してくる。


「一緒に学校に行ってもいい?」


 もじ、と空いた手の指を口許に持っていきながら、くるみはびくびくしつつ続ける。


「もちろん嫌なら大丈夫なんだけど、できれば一日一緒にいられたら……嬉しいなって」


 くるみの通学路から一本外れたところの道半ばに碧の家はある。距離自体もさほど遠くない、むしろ他の生徒の大多数が電車通学なのを考えると近いくらいだ。


 が、もちろん一緒に登校したことは一度もない。


 彼女がややうかがうような表情なのは、夏休み前のあの大混乱がぶり返すことを——そしてそれが碧の迷惑になるんじゃないかと苦慮しているのだと思う。


 碧のスマホに、喋ったこともない上級生や隣のクラスの奴らなどから鬼のような友達追加と怒涛の苦情が届いたことはもちろんくるみには言っていないし、クラス連中の集まりで記者会見したことも伝えていないが、いろいろ巻き込まれていたこと自体は、ある程度は察していたのかもしれない。


 けれど、告白受諾が本当に成立した以上、隠す必要はもうない。


 むしろくるみの隣に堂々と立って、碧が彼氏であることを全校生徒に知ってもらわなきゃならない。学校でみんなの妖精姫スノーホワイトとして崇められているくるみに彼氏ができたと、その目で確認するまで信じられない——というか信じたくない人も多数いるだろうから。


 なら明日は勝負の日になるはずだ。


 そしてもちろん、彼女からの可愛らしいおねだりな以上、碧は断るはずもない。


「いいよ。どのみち僕らのことは公表されてるみたいなもんだし」


 前々からくるみ一緒に学校行きたがってたもんね、と言うと、彼女はぱっと目を輝かせ、こくりと頷いた。


「うん! 学校でも堂々とお話しするの……夢だったから。すごくうれしい」


「休み明け早々、みんなびっくりするだろうな」


「……その、嫌じゃない?」


「くるみが彼女になった喜びに比べたら何も気にならないよ。何かは言われるだろうけど」


「碧くんがどれほどすごくて格好いいかをいっぱい説明するから、大丈夫」


「それはそれで照れませんか?」


 冗談かと思ったが、彼女の目はわりと真剣まじだった。


「碧くんが本当の姿も見てもらえたあの事件で、少しはみんなの評価が正されたと思うし。びっくりついでに碧くんが他の人に取られちゃわないようにちゃんと見てなきゃ」


「そんな物好きいるかな?」


「それ、私を物好き扱いしてることに気づいてほしい」


「あ。ごめん。えっと……くるみは見る目があるなあ??」


「よろしいです。はやく明日にならないかな」


 恥ずかし半分でよく分からないまま訂正すれば、さっきの心細げな表情はなくなり、くるみはすっかり上機嫌だ。


 やっかまれるのは目に見えているけれど、碧もくるみが他の男子生徒からの告白で教室から呼び出されてるのを見かけてやきもきさせられたり、同じ教室にいるのに話せずメッセージでこっそり会話したりと散々もどかしい思いをしてきたので、そういう問題がなく隣に居れるというのは、嬉しかった。


 それに碧は、今までいろんな国籍の人と友人になったことがある。ゆえに謙虚さを忘れず対話を試みさえすれば、相手が誰であろうと世の中ほとんどの人と打ち解けられることを碧は知っていた。


 ——くるみに恥をかかせないように、しっかりしなきゃな。


 そう静かに決心していると、ゔゔっとポケットのスマホが震える。


『Es ist schon lange her!(久しぶりー)』


 くるみに目線で合図し、歩きながら通話に応じると、掛けてきたのはルカだった。


「Was ist denn los?(どうかした?)」


『Du sagtest, du würdest mich im kommenden Herbst besuchen. Dieser Anruf zur Bestätigung.(今度の秋ごろに遊びに行くって言ってたじゃん。その確認の電話)』


「Es geht mir gut.(僕は構わないよ)」


 碧が手を握ったままでいるせいか、くるみは隣にいたままだ。


『Ich sage dir dann Bescheid, wenn ich ein Datum festgelegt habe. Und die Freundin, mit der ich vorher reden durfte?(じゃあ日程決まったら言うよ。で、前に話させてもらった彼女は?)」


「Hier.(ここにいる)」


『Wenn ich mich recht erinnere, gehen Sie und sie auf dieselbe Schule?(確か同じ学校なんだっけ?)』


 首肯すると、ルカがどこかにやにやしてそうに言う。


『Als ich dich neulich anrief, sagtest du, sie sei hübsch. Ich freue mich auch schon darauf, sie persönlich zu sehen.(こないだ電話したときお前、くるみさんのこと可愛い可愛いって言ってたもんな。僕も実物見るの楽しみなんだよ)』


「Weil sie wirklich hübsch ist.Verliebe dich nicht in sie.(だって本当に可愛いし。惚れないでよ)」


 文脈的にも今言っておくか、と碧は最新のニュースを伝えることにした。


「Kurumi wurde meine Freundin.(僕くるみとつき合うことになったから)」


『Ha, ernsthaft? Herzlichen Glückwunsch.(え、まじ? おめでとう)』


 それから彼にしては珍しい日本語で。


『じゃあ彼女さんによろしくね』


「ありがとう。秋に待ってる」


 日本語で返し、電話を切ったのでスマホをポケットに戻し——


 ぎゅ、とつないだ手を握られた。


 見れば、くるみは頬を赤らめて押し黙っている。


 ぼーっと上の空なようでいて、恥じらうように伏せられた瞳は、かたくなに碧を映そうとはしない。


「……あ」


 ここで碧はようやく、自分の大きな失敗やらかしに気づく。


 そうだ。前回の電話の時と違い、今はくるみはドイツ語を習得しているのだ。


 さすがにネイティブの会話を余すことなく聞き取れてはいないようだが、反応からして要所ようしょを拾い上げていることは確実で。本人に聞かれていることを忘れてすっかり惚気てしまったので、さすがの碧もこれには動揺で口角をひきつらせた。


「あの、これはですね」


「……碧くん、前からそういうふうに思っててくれてたの?」


「いや……まあ、うん。ごめんつき合い始めたことも勝手にルカに言って」


 否定するのもあれなので頷くと、くるみは頬に赤さを残しつつも美しく笑った。


「あなたが彼女って言ってくれて、そっかあー今は彼女でいいんだってなったから、それでいいの。……ね、彼氏さん?」


 どこか悪戯っぽい口調で、それでも幸せを訴えかけるように言うと、くるみはどこか控えめにそろりと身を寄せて、ぽてりと肩にくっつく。


 ちなみにドイツ語で三人称ではなくガールフレンドという意味での彼女を〈Freundin〉と言うが、もう解説する余裕は碧にはない。


「……そういうのずるい」


「じゃあ碧くんは、私よりもっとずるくなったらいいんじゃないかしら?」


「僕がずるくなったらくるみが困る」


「ふふ。困らせてみても、いいのにね?」


 くすくすと上品に喉を鳴らす、天使のような美しい笑みが、今ばかりは悪戯する妖精ピクシーに見えるのはどんな幻覚か。


 惚れた弱みという言葉があるが、それが恋人関係になったあともずっと有効だということを、碧は初めて知った。


「そういえば僕くるみに、好きってまだ言われてないな」


 線路沿いに差し掛かって、がたんごとんと各駅停車の電車が走ると同時にふと呟けば、隣を歩いていたくるみが瞳をぱちくりさせた。


「だよね?」


「確かに言われてみれば……なんというか、ほかのことでいっぱい気持ちを伝えてたから、まだきちんと言えてなかったかも」


「言ってくれないの?」


「い、今?」


 くるみは頬を淡く染めてきょろきょろした。


 むろん、学校帰りの小学生やらベビーカーを押したお母さんやら、買い物帰りの主婦まで、平和な住宅街の歩道は、ちらほら人が歩いている。


 それを知っていて碧はとぼける。


「嫌?」


「だ、だって街中でいうの……恥ずかしい」


「あはは。秘密のやりとりするためにドイツ語を覚えたんじゃなかったっけ?」


「すぐそうやってからかう! いじわる」


 頬を風船にしつつ、それでも照れたような響きの可愛らしい反抗ににぱにぱ笑ってしまうんだから、自分も相当浮かれているんだと思う。


 しかし時計を見ると残念ながら、ロスタイムの期限が迫っているのだった。


 明日の登校に備えて、碧にはまだやることがある。にしても、またしてもいいところで解散しなきゃならないのは、時の女神に嫌われているのか。


「じゃあ僕この後行くところあるから。家までは帰れそう?」


「うん。次の踏切でお別れでもいい?」


「わかった」


 なるべくゆっくり歩いたが、すぐに線路の切れ目は現れる。


 立ち止まって、くるみは名残惜しそうに手を離した。


 なかなか動こうとしないのは、自分からさよならを切り出したくないんだなと察したので、碧のほうから言う。


「じゃあそろそろ行くね。くるみも帰り気をつけて」


「……うん」


 それから、別れがたい表情で彼女が踏切を渡りきったところで、警笛が鳴り始めた。


 晩夏の大気に浮かぶ綿あめ雲をまっぷたつに切るように、あるいはふたりをさえぎるように降りていく遮断機の向こうで、控えめに手を振るくるみにこちらも振り返し、くるりと踵を返したところで——ポケットの中身が鳴った。


〈ごめんなさい ちょっと忘れ物しちゃった〉


〈どこ? さっきの店? 一緒に取りに行くよ〉


〈今戻るからそこで待っててくれる?〉


 十秒ほど不思議な間をおいてそう送ってきたくるみは、こちらに背を見せたまま。


 カンカンカン——


 不意に振り向いたくるみと、眼差しが交錯する。


 潤んだ瞳、そしてどこか悩ましげというか迷うように見えるその表情は、いつになく色香があってあまりに可愛くて——次の瞬間、ばっと急行電車が視界をふさいで、遅れて訪れた突風にシャツが一気にはためいた。


 がたんごとん、音と振動で足下が揺れる。


 今までで一番長く思えた三十秒を待ち焦がれ、静寂と共に、やがてくるみは戻ってくる。


 ぐぐっと背伸びをして、輪っかにした掌を組むのは、何か言いたいことがあるのだろうか。それでもちょっと届かないので、その差はこっちが腰を屈めて埋める。


 こちらの耳朶にふれるかふれないかのところまで近づいたくるみは、碧にしか聞こえないくらいに、本当に小さく一言ささやいた。



「——————」



 甘い耳打ちに、碧は言葉も出せず、動きを止めた。


「じゃあまた明日ね、碧くん。……朝お家まで行くから、お寝坊しちゃ駄目だからね?」


 碧の返事を待たずに、今度はぶんぶん大きく手を振りながら。


 言い逃げとばかりに一目散に踏切を引き返して去っていく彼女の後ろ姿を、呆然と見送りながら、碧は耳に残るささやきをもう一度転がした。



 ————碧くんのこと、大好きです。これからも末永くよろしくおねがいします。



 電車が走り去った後も体が揺れている気がしたのも、太陽が雲に隠れたのに体が火照っているのも、きっと理由は分かっていた。

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