第129話 Le Tombeau de Couperin(2)
手を引かれるがまま案内されたのは、一階のおくまったところにある大きな扉の前。
くるみが軋むドアを引くと、そこは音楽室くらいの広々としたワンルームだった。
窓に下がる厚手のカーテンと、天井から吊られた硝子のシャンデリア以外に、調度品らしき物は見当たらない——真ん中に悠々と存在するグランドピアノを除けば。
黒々と光を吸い取り、まるでそれ自体が至高の芸術品であるかのように佇むピアノを見て、妙に懐かしい気持ちになる。
「くるみって音楽歴は何年……っていうかどんな曲弾けるの?」
「今は習い事はしてないけど。中学のときの発表会は『革命のエチュード』だったかな」
「中学生ならそれでも十分にすごすぎるって」
どうやら腕前は聞くまでもなかったらしい。実力は折り紙つきのようだ。
許可を取り、鍵盤を叩いて音の具合を確かめる。
寸分の狂いもない完璧な調律である。
「私、この組曲ならプレリュードとリゴードンを練習したことある。碧くんは
「……僕が
それを聞いてくるみはくすくすと笑う。
「あら、ずいぶんな自信家」
連弾は、一つのピアノを二人で弾く。向かって左の低音が
負けず嫌いなくるみだが物申してくることはなく、一緒に椅子に座って楽譜をぱらぱらと捲り、曲の展望を確かめる。
ラヴェルはフランスの作曲家だ。クープランの墓は、彼が二十世紀前半に生み出したピアノ組曲。第一次世界大戦で亡くなった知人の追悼のための曲で、どれもかなりの難曲揃いで知られている。もちろん華やかに演奏するのはもっと至難の業だ。
「早さは楽譜のとおりで。もう何年も練習してないけど、まあがんばるよ」
「うん」
椅子を引き、座る。
ためらうように、美しい黒と白の並びに指を乗せ、ペダルにそっと足をそえた。
連弾は、ふたりで一つ。もちろん同じ曲を二人を弾く以上、息を合わせる練習が必要だ。曲の入り始め、早さや細かな表現、速度——。
だから今から始めるこれは、綺麗に弾けなくてもいい、ちょっとしたお遊びみたいなもの。それでも碧が
たとえお遊びでも、ここで退けば対等でいられないと思った。
そしてこれは、自分を励まし労ってくれた彼女への、礼でもある。
ありがとうなんて在りふれた言葉じゃなくて、行動で示したかった。
隣を見れば、沫雪みたいに澄み渡った眼差しとふれあう。
ぎゅうっとしたわだかまりを抱えたまま、小さく頷く。くるみにも分かりやすいようややおおげさに手を持ち上げ、まっすぐに下ろし——そして彼女もまたこちらの動きに同調するように、鍵盤を叩いた。
きらきら——。
四手で奏でられた重厚な和音が、魂を震えさせた。
碧の手によって久しぶりに紡がれたのは、あるいは二人の手によって初めて生み出されたのは、ずっと真夜中だった世界にようやく光が差したみたいな……そんな音色だった。
甘美なしびれを残したまま、しかしもう演奏は始まっている。忘我しそうな自分を奮い立たせ、半ば勝手に動いていた己が手とくるみの主旋律に意識を集中させた。
聴衆はもちろん誰もいない。
それでもきらきらと、音の粒が光のシャワーのように降り注ぎ、自ら輝くように紡がれていく。
時折、ふたりの手が限りなく近くなったり、互いに交差したりするも、一糸乱れぬほどにあわさった息で、寸分の狂いもなく衝突もなく曲は進行する。
多分ひとりなら弾けすらしなかっただろう。けれど今は大丈夫だと思えた。それは、くるみがいるから。
〈比翼の鳥〉
そんな言葉が、何の脈絡もなく浮かび上がる。
——そうだ。これはまるで、互いに支え合って空を翔ぶ鳥だ。
なめらかに織り成されていく
ああ、と不意に気づく。
人はきっと、言葉に出来ない感情を大切な人に伝えるために、音楽を生み出したのだと。
やがて曲は、終わりを惜しむような音の残響を最後に、来たる静寂を迎えた。
拍手をする人はいないが、それでよかった。
そしてもう、心はとうに決まっている。
——話をしよう。
一世一代の大事な話だ。
よく考えて本当のことを、真実を、全てくるみに話そう。たとえ嫌われたっていい。本当のことを伝えられるなら、もうそれでいい。
高いところにある窓には、少し気の早い真昼の月が浮いている。まるで、子供の頃に集めて空き瓶に詰めていた硝子の玉みたいだ。
隣にいるくるみが、静寂を破った。
「私はあなたにはなれないし、あなたも私にはなれない。辛いことや悲しいことを肩代わりもできない。……けれどこうやって一緒にいて、大丈夫だよって伝えることはできる」
耳に染み込む美しいささやきで。
「私が
そんな妙なる天使の音楽みたいな声が、いつだって好きだった。
「私が大丈夫だってことを、あなたが歩道橋で証明してくれたみたいに」
もうひとつ……その瞳が、好きだ。
雪の結晶みたく儚げで、どんなときも曇る事のない気高さがあって、それでいてあらゆる赦しを与えるようにどこまでも深い慈愛を湛えた、甘く焦がれるヘーゼル。
「——それを今度は私が、証明してみせる」
いつだってそこから滲み出る眩さに惹かれ、憧れてきた。
今もまた、どうしようもなく。
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