ドレッシング・マウス

桑鶴七緒

第1話

まだ朝日が出ないこの時間に目を覚ましてリビングのカーテンを開けて、低くゆがむように流れ伸びていく雲を眺めていた。今日はどこへ行こうかと予定もないのに無理にでも出かけようと考え始める。

手に持っているスマートフォンを開いてメールの受信欄を見ていると、行きつけのスナックで先日出会った彼の事を思い出していた。ある事について声をかけようとしたが、初見の人間に対して唐突に自身の事を話すにはまだ早すぎると思い、あの時は言葉を濁したのだった。


僕の中にある他者とは違う性の相違。


回避したいものを回避できないという無限にループしているようなものに追われているようだ。ただその中でも特に欲しているのは彼。どうにかして振り向かせたいのだが本当の僕を知らせてしまうときっと落胆させてしまうであろう。この非力で愛情の中の渇望ともいえるひと握りの願い。それでもこの僕に、どうか今の僕に気づいてくれないだろうか。



「○○さん、診察室にお入りください」


自宅に隣接する両親が経営する内科医院の受付の窓口で僕は事務員として患者の対応をしている。今日は水曜日というとこもあり午前で終わろうとした。最後の患者の会計が終わり受付の精算やカルテの整理が片付くと深くため息がつき、それを耳にした他の事務員が微笑していた。


「まだ週の半ばですよ、もう疲れたの?」

「昨日が患者の数が多かったんでなんかようやくひと息付けそうだなって」

「先生……お父様に気づかれないようにしないとね」


父もここの医院を開業してから二十年近くは経つ。同じ内科医である母とともに二人三脚で営んできて、付近に住む人たちからも信頼を受けている場所という事もあり、僕にとっても二人には尊敬しているところもあるのだ。

更衣室で着替えて医院を出てから一度自宅に立ち寄り母が作ってくれた昼食を摂る。


「父さんこれから西華病院の診察?」

「ええ。うちに来てご飯食べてから行くわ。かけるはこれから出かけるの?」

「うん。気晴らしに近くに行こうと思って」

「この間みたいに突然夜に出かけたりしないでよ」

「今日はしないよ。友達がさたまに俺と飲みに行きたいって連絡来るから、その時はまた事前に言うから」

「悪酔いするまで飲むなんて、はしたないからね。ほどほどにして」

「わかったよ」


それなりの人付き合いは許してほしいと思っている。いくつになっても甘えているわけにもいかないことはわかってはいても、まだ自分には帰る場所がないと困る事さえある。

僕には消したくても消えない過去の罪を背負って生きている人間という不徳のレッテルがある。それをいかにして付き合いながら平穏に生きていけるかを常に考えている。


確かに逃げたくなる時だってあると言えばあるが、陰影は切っても切れない魔が差すような存在だ。解毒剤にでも溶かして消し去りたいくらい手を染めたいという思いを抱くが、神は安易には許そうとはしてくれないのが現状だ。母が言うように僕はまだ子どもなのかもしれない。



国会図書館のくすんだ匂いが好きでよくここに足を運ぶことがある。照明もちょうどいいくらいの静かな暗さがあり、陽の光を遮断するように来館者の心にランプの灯が灯ると自分の時間に合わせてくれているような速読が心地よい。

以前から借りたかった教育心理学者の書籍を手にして席に着き、わずかに聞こえる腕時計の秒針を聞きながら、食い入るように読み始めていった。


三時間ほど過ぎて別のフロアに移り、娯楽本のある所へ移動して男性のファッション雑誌のコーナーに目を通していると見慣れないある雑誌を手に取ってみた。

表紙には短髪で髭のはやした男性二人が寄り添いこちらに目線を送っている。何かの成人雑誌かと思い中を開いていくと、同性愛者の性事情の内容が書かれた記事やグラビアモデル並みの熱視線を見せつけるかのように男性同士で艶めかしいポージングをとっている写真が次々と飛び込んできた。時に裸体も上がっていてあまりにも生々しかったのですぐに雑誌を閉じて冷静さを装うとしたが、最後まで見てみたいと言う欲が出てきていた。


僕は記憶が正しければ高校生あたりの頃だと思うが、性の対象が男性だという事に気がついたのが多感な時期だったのは間違いない。女性を好きになりたくても何も感じないのが変だと思い、当時親しくしていた同級生の男子生徒に好意を持ち告白したのがその事の始まりだった。

当然彼には気色が悪いと言われて遠ざけられた。ただ卒業するまでの間はお互いに周囲には話さなかったのが不幸中の幸い的なものがあった。


医学部の大学に進学し軽音のサークルで知り合いになった男性がたまたま自分と同じ同性愛者で僕の事を受け入れくれたのが最初の恋人の笹原だった。その頃からだった。彼の紹介で同性愛者や両性愛者など出入りをしているバーの存在を知り出入りするようになっていったのも。


その彼も慣れている人だったのかその時から酒を覚えて、悠々と親密な交流に発展していったのもその快楽を覚えていったのも、当時の彼から教えてくれた。日中は勉学に励み夜は彼との蜜愛を密かな楽しみとして日々明け暮れていったのだった。

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