デッドマン
ふたぁぐん
プロローグ:善意の嘘
春の雪解けにはまだ早い晩冬、水田に水を引こうとする一体の老人がいた。
まだ太陽が顔すら出していない早朝のことだ。
空は青みかかり、吐いた息は白くなる。
「おぉ、タカシか……大きくなって」
羽宮を見つけた老人は顔をほころばせる。
「じいさん、元気か?」
タカシと呼ばれた男——羽宮は優し気に答えた。
ただし内心は少々複雑な気持ちになる。
羽宮はタカシではない。本物のタケシは見たこともなく、書類上でその名前を確認したことがあるだけだ。
この老人は重度の認知症であった。
早朝になると家から抜け出して近隣を徘徊。
真冬であるにも関わらず、田んぼに張った水の量を確認するために、毎朝こうしてここに来ている。
「おぉー……なんだってぇ? すまんのぉ、みみが遠くてよく聞こえんくてよぉ」
二人が会話を続ける傍らで、近くの用水路がガラガラと喉を鳴らした。
融雪によって用水路を流れる水量は思いのほか多い。
降り積もった雪は用水路と地面の境界を曖昧にし、傍目には真っ平な白い雪原にしか見えなかった。
老人は羽宮にゆっくりと近づいてくる。
腰は海老のように曲がり、顔には手拭いを巻いている。腰を労わるように後ろで手を組み、のそのそと雪の上を歩くのだ。
――相変わらず危なっかしい老人だ。
羽宮は老人を労わるように手を添えた。
「すまんのぉ。歳をとるとどうにもいけねえ」
しわくちゃの顔はますます笑顔になった。
本人としては、都会に引っ越した息子に久しぶりに会えたことが余程嬉しかったのだろう。何度も頷くような仕草をしている。
自分が別人であることを伝えるような無粋なことはしない。
どのみち、ここで否定してもそれすら忘れてしまうのが認知症というものだ。いずれ忘れてしまうにせよ、一時でも本人が幸せそうにするのであれば息子として振る舞ってやるのも仕事の内——。
羽宮はいつものように柔らかい表情になると老人の耳元に口を寄せた。
そして大きな声を張り上げる。
「危ないからお家に帰りましょう!」
言わんとすることが伝わったのか「おうおう」と言いながら、またしても頷いた。
腰が曲がっているせいで自分よりも一回りも二回りも小さく見える。
よちよち歩きの子供のように、覚束ない足取りで歩き始めた。
道路の端に積み上げられた雪。
白線が見えるかどうかという境界の内側をゆっくりと歩く。
付き添いながら歩いていると、老人はふと足を止めた。
そして羽宮に顔を向けると驚いたように言った。
「おぉ、タカシか……大きくなって」
息子を見つけた老人は顔をほころばせる。
――またループした。
羽宮は苦笑いしながら、大きな声で答える。
「じいさん、元気か?」
「ああ……ああ! 元気だとも」
老人は笑った。
こんなやりとりをするのは何度目だろうか?
この老人のせいで……いや、老人おかげで羽宮の生活リズムはすっかりと朝型となってしまった。日が出る前よりも早く家を出て、毎朝ここで老人に会い、彼を家に送り、それから他の仕事をこなすために車に乗る――もはや生活リズムの一部と化していた。
――そろそろ頃合いだと思うが……。
今日で一ヵ月と一週間。
長年の経験からいって、この老人の習慣に付き合うのも、もう少しで終わりという気がした。
老人の家族から依頼されたことがきっかけで、こうして真冬の水田にくるようになったわけだが、手間がかかるだけで危険なことは一切ない。せいぜい足を滑らせて大事にならないよう気をつけるくらいだ。
この程度の難易度なら新人でもできただろう。
一瞬、羽宮は浮かない顔をした。
若い時からバリバリで経験を積んできた羽宮ではあるが、この先、この業界の仕事を誰が担っていくのかと、ふと不安に思ったのだ。
新人が入ってこない。
これは他の業界にも言えることだが、日本からはもはや若い人が消えつつある。若い人が生き残っているのは、東京や大阪といった都市圏や地方中心都市ぐらいだろう。
それこそ、この業界で働けるだけの覚悟と資格がある新人は金の卵扱い――。
未来を憂いた羽宮は、白い息を吐きながら歩いた。
いつもと変わらない帰路についた二人。
老人の顔を時折、伺いながらゆっくりと家を目指した。
ある時——もう少しで老人に家に着くだろうというタイミングで老人が口を開いた。
「すまんかったのぉ……タカシ」
顔は羽宮に向けなかった。
歩きながら、ぜえぜえと透明な息を吐きながら言う。
「昔はよくおめえのことを殴ってしまった。あのころのおれは馬鹿なやつでよお……少しでも酒飲むとすぐに暴れて……。おめえにやあ、本当に悪かったと思ってる――ごめんよ……」
いつものように快活な声ではなく消え入りそうな声だった。
道路に向かって顔を俯かせながら、トボトボと歩いている。
「いいんだよ。オヤジ。俺は気にしてないよ」
ハッと息を呑むのが分かった。
顔をあげて、羽宮のことを見る。
最初は驚いたような表情を浮かべていた老人の顔は、すぐに見たこともないほど満足気なものに変わった。
「早く、帰ろう。母さんが飯を作って待ってるよ」
老人は何度か満足気に頷くと、自分の家の門に向かって道を横断する。
その時、羽宮の背後でドサリという音がした。
後ろに振り向いてみれば、道路に雪の塊が落ちていた。どうやら松の木から雪が落ちたようだ。
ちょうど太陽が顔を出した。
日の出。
暖かな太陽が顔を出し、日光が濡れたアスファルトの道路に差し込む。
再び、正面に顔を戻した時、老人は姿を消していた。
こうして一体の霊は天寿を全うした。
死因:凍死、溺死。
認知症を患い、徘徊癖があった彼は、自身が所有する農地の近くの用水路に足を滑らせて転倒。降雪と人気のない早朝ということもあって、彼がすぐに発見されることはなかった。
当日は降雪が発生しており、彼が呑み込まれた用水路は雪で覆われてしまった。
防災行政無線による呼びかけ、地元消防団による捜索が行われたが、ついに彼が見つかることはなかった。
彼の死体が見つかったのは、行方不明になってから数日後のことだった。
それから彼の家では怪奇現象らしきものが発生。
死亡者の報告を受けてから、現場を訪れた羽宮は家族から依頼を引き受けた。
毎朝、彼が死んでしまった用水路へ足を運び、彼が成仏するのを待った――。
――これで良かったのだろうか?
羽宮はハンドルを握りながら考える。
恐らく、あの老人の霊はあと数日も経てば、魂の寿命を終えて自然と成仏していたことだろう。
改めて活動記録を確認してみれば、彼が無くなってから今日で37日目。
もう一週間か二週間もすれば、寿命がつきて自然と成仏していたはずだ。
それにも関わらず、認知症を患っていた老人が平均よりも早く成仏してしまったのは羽宮の嘘が原因だったからかもしれない。
老人とその息子との間で何らかの確執があったことは、薄々分かっていた。
家族に話を伺った時——初めて荒垣家を訪れた時に気になってはいたのだ。
――息子は葬式にすら顔を出さなかった、と愚痴を言っていた。
偶然とはいえ、羽宮が息子のように振る舞ったことが、老人の心につっかえていた、わだかまり――未練を解消することに繋がったのだろう。
だが、それは真実ではない。
あれは演技であり、老人の息子が彼を許したという嘘をついただけだ。
本人は認知症を患っていたから、そう思い込んだだけで、現実は——。
『次の交差点を左折してください』
カーナビ代わりに使用するタブレット端末の案内指示に従いながら、霊媒師は次の霊がいる場所へと車を走らせた。
フロントガラス越しに見える空は灰色。
雪の結晶がガラスに降ってくると水滴となって溶けた。
霊媒師が次に向かうのは——。
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