43話
交易街を出航して一週間間近くが過ぎた早朝。
登りかけた太陽に照らされる船は、朝凪の海をかき分けながら、ゆっくりと進んでいた。
未だ雨の滴るマストには、数人の冒険者がよじ登り、魔術によって必死で帆を膨らませている。
甲板の方々で掛け声の響く一方、船尾近くへ用意された一室では、天井吊りのベッドでアルギスが眠りこけていた。
(……ん?)
不意に感じた視線に、アルギスはパチリと目を開けて、軋みを上げるベッドから身を起こす。
そして、目元を擦りながら顔を横向けると、部屋を区切る帆布の前には、既に革鎧を纏うマリーが立っていた。
「おはようございます。アルギス様」
「ああ」
マリーへ気のない返事をしたアルギスは、凝り固まった首を回しながら、絨毯の敷かれた床へと足を下ろす。
そのまま壁際の窓へ向かうアルギスを、マリーは音もなく追いかけて、しずしずとマスクを差し出した。
「……昨晩は少々揺れましたが、お加減は如何でしょう?」
「問題ない。それより、今何時だ?」
海岸線を望む窓から目を逸らすと、アルギスは振り向きざまにマスクを受け取って、豪奢な椅子へドカリと腰を下ろす。
眠たげにあくびを噛み殺すアルギスに対し、マリーは安堵の表情を浮かべながら、ポケットへ手を差し込んだ。
「かしこまりました。現在は……」
魔道具を取り出したマリーが時間を伝えようと口を開いた時。
2人の会話を遮るように、室内へ遠慮がちなノックの音が小さく響き渡った。
「――起きてますかぁ。お食事が、そろそろ出来上がりますよぉ」
2人が振り返った扉の奥からは、続けざまに野太い男の声が聞こえてくる。
程なく、再度コツコツと扉を叩く音が響くと、アルギスは持っていたマスクを身につけて、席を立ち上がった。
「どうやら、朝食の時間のようだな」
「……はい」
はたと途切れた会話に肩を落としたマリーは、立ち止まったまま、扉へ向かうアルギスの背中に頭を下げる。
落ち着かない様子で奥へ控えるマリーをよそに、アルギスは簡素な木製の閂を外して、勢いよく扉を引き開けた。
「やあ、アンドレア船長。いい朝だな」
「ええ、おはようございます。雨もすっかり上がりまして」
部屋の中からアルギスが顔を覗かせると、アンドレアは外した三角帽子を胸に当てながら、へつらうように背中を丸める。
一方、妙に愛想の良いアンドレアに目を細めたアルギスは、部屋の外へ踏み出しながら、半分に割られた金貨を取り出した。
「忙しいだろうに、いつも呼びに来てもらって悪いね」
「いえ、いえ。特別室のお客さんは、私自らご案内して当然ですよ、ええ」
手元で弄ばれる半金貨へチラチラと目線を落としつつも、アンドレアは優しげな声を掛けるアルギスに首を振り返す。
白々しい物言いに口元を吊り上げると、アルギスは背後のマリーを一瞥して、隠すようにアンドレアの手を握りしめた。
「嬉しいことを言ってくれる。では、行くとしようか」
「はい!なんと、今日は牛を一頭潰しましてねぇ!――」
そそくさと近づいてくるマリーを尻目に踵を返したアンドレアは、帽子を被り直しながら、満面の笑みで歩き出す。
鼻歌交じりで前を歩くアンドレアに対し、2人はぐらつく床をしっかりと踏みしめて、狭い通路を進んでいった。
(今日で、もう6日になる。そろそろ着いても良さそうなものだが……)
通路を照らす船の照明がゆらゆらと揺れる中、アルギスは見飽きた光景にため息をつきながら、梯子のような階段を登っていく。
ややあって、甲板下の階まで上がってきた3人は、階段脇へ佇む、端を金属で補強した大扉へと足を進めた。
「ささ、お掛けになって」
天窓から光の差し込む船長室へ2人を招き入れると、アンドレアは未だ湯気を立てる朝食の用意された丸テーブルの椅子をいそいそと引いて回る。
甲斐甲斐しく2人の前にグラスを並べるアンドレアに対し、アルギスはマスクを付けたまま、平然と椅子へ腰を下ろした。
「ああ。失礼」
「いえ、いえ。どうぞ、お連れさんも」
「では、失礼します」
アンドレアが上機嫌にグラスへ酒を注ぐ傍ら、マリーもまた、慣れた様子で椅子に腰かける。
それからしばらくの間、揃ってテーブルについた3人が食事を楽しんでいた時。
不意に顔を上げたアンドレアが、マスク姿のまま料理を食べ進めるアルギスに、顎髭を撫でながら口を開いた。
「しかし、お客さんの仮面は何度見ても不思議ですねぇ。一体、どういう仕組みなんです?」
「さあね、私も友人から貰ったものだ。詳細などわからんよ」
まじまじと顔を眺めるアンドレアをよそに、アルギスはマスクの顎を開いて、切り分けた肉を口へ放り込む
しかし、はぐらかすような返答に片眉を上げたアンドレアは、肘をつきながら、テーブルへ身を乗り出した。
「へぇ、ご友人から。……ちなみに、それはどういったご縁の?」
「本当に、それを、聞きたいかね?」
アンドレアの問いかけにピタリと動きを止めると、アルギスは持っていたナイフとフォークを置いて、ゆっくりと顔を上げる。
無言で首を傾げるアルギスに、アンドレアは愛想笑いを浮かべながら、誤魔化すように料理の脇へ置いていたボトルへ手を伸ばした。
「い、いやぁ、ただの世間話なもんで。無理には……」
「ふむ。では、時に船長」
溢れんばかりに酒の注がれるグラスを眺めていたアルギスは、カツカツと指でテーブルを叩いて注意を向けさせる。
抑揚のない呼びかけに冷や汗を流しつつも、アンドレアはボトルを置いて、恐る恐るアルギスへ目線を戻した。
「はい、なんでしょう……?」
「あと、どの程度でミダスへ着く?」
ビクビクと返事を待つアンドレアに対し、アルギスは気にした様子もなく、天窓を見上げながら質問を重ねる。
飄々としたアルギスの態度に目を瞬かせると、アンドレアは肩の荷が降りたように息をついて、並々と酒の満ちたグラスへ口をつけた。
「そうですねぇ……。詳しいことは航海士に聞かんとわかりませんが、もうじきだと思いますよ」
「……そうか」
曖昧な返答に天窓から目線を逸したアルギスは、歪みそうになる表情を抑えながら、再び食事へと戻っていく。
やがて、3人の前に並んでいた料理が無くなり始めた頃。
天井上の甲板から、けたたましい鐘の音と慌ただしく駆け回る足音が聞こえてきた。
「――持ち場につけぇ!」
「港へ近づいたみたいだ。すいませんが、お先に失礼しますね」
途端に表情を引き締め直したアンドレアは、ナプキンで口元を拭って、早々に椅子から立ち上がる。
赤茶けたコートを手に出口へ向かいだすアンドレアに対し、アルギスは涼しい顔で背もたれへ寄りかかった。
「おや?我々は手伝わなくていいのか?」
「ええ、すぐに戻りますんで、お客さんたちは好きに休んでて下さい。では、ごゆっくり!」
忙しなくコートを羽織りつつも、アンドレアは帽子を胸に当てながら腰を折って、部屋を飛び出していく。
程なく、バタリと扉が閉まると、アルギスとマリーは何事もなかったかのように、ナイフとフォークを取り上げた。
(さて、ミダス商業同盟国とは、どんなところかな……?)
甲板の方々から上がる叫び声をよそに、アルギスは内心で胸を弾ませながら残った料理を食べ進める。
室内だけにゆったりとした時間が流れる中。
魔術によって帆を膨らませた船は、装飾の輝く建物が奥に姿を覗かせるミダスの港へと入っていくのだった。
◇
アルギスとマリーを乗せた船がミダスの港へアンカーを下ろした頃。
森都の東端に佇む煙突の突き出した家屋では。
暖炉の中に大釜の備えられた地下室で、天蓋付きの巨大なベッドへ寝転んだメリンダと、肘掛けに止まったティファレトを撫でるエレンが向かい合っていた。
「――どうやら、彼らは無事港へ着いたようだ」
落ち着きなく向かいのソファーで体を揺らすエレンに対し、メリンダは瞼を閉じたまま、ごろりとベッドを寝転がる。
しかし、思わず席を立ったエレンは、ごちゃごちゃと紙の散らかった床を踏み越えて、メリンダへ駆け寄った。
「それで、ちゃんと入れたの?」
「たぶん入れたんじゃないか?まあ、人混みへ紛れていればそのうち入れる」
揺り起こすエレンの手に目を開けると、メリンダは素知らぬ顔で、脇の棚へ置いていたマグカップへ手を伸ばす。
まるで他人事のようなメリンダの口ぶりに、エレンは頬を膨らませながら、ベッドの脇へ腰を下ろした。
「……適当」
「仕方がないだろう。私の”眼”で見える範囲にも、限界というものはあるんだ」
カップを棚へ戻したメリンダは、不貞腐れた表情でベッドに頬杖をつきながら、自らの両目を指さす。
しかし、隠すことなく大きなあくびを漏らすと、枕元のクッションをパンパンと叩いて寝転がり直した。
「どちらにせよ、ミダスの内部を覗き見るのは無理だからね。むしろ、ここまでよくぞやったと褒めて欲しい」
「はぁ……」
ベッドの上で両手を広げるメリンダに、エレンはため息をついて、トボトボとソファーへ戻っていく。
一方、再び瞼を閉じたメリンダは、悔しげに顔を歪めながら、かけていた毛布の端を握りしめた。
「それにしても、行き先がミダスとは……。もっと、素材を頼んでおけばよかった」
「……次は、私を通さないで頼んで欲しい」
不穏なメリンダの呟きにボソリと言葉を返すと、エレンは不満を抑え込むように、抱えたティファレトを撫で回す。
恨めしげな目線を向けるエレンに対し、メリンダはどこ吹く風とばかりに、得意げ顔を浮かべた。
「ああ。次は出てきた時にでも奴を撃ち抜いてやろう」
「撃ち抜かれるのも、困る」
慌ててメリンダに釘を差したエレンは、一層表情を険しくして、ソファーから身を乗り出す。
しかし、おどけた様子で両手を上げると、メリンダは上体を起こして、エレンにニコリと笑いかけた。
「なに、ちょっとした冗談だよ。撃つ時は、あの、気味の悪い死霊を狙う」
「…………」
見当外れの返答に言葉を失いつつも、エレンは諦めたようにメリンダから目を逸らす。
悲しげに眉尻を下げるエレンを尻目に、メリンダは再びベッドへ倒れ込んで、幾重にも重ねた布団の中へ潜り込んだ。
「もしくは、ハンスが戻って来た時に驚かせてもいいかもしれないな。……ふわぁ」
程なく、メリンダがすやすやと寝息を立て始めると、エレンは肩に止まり直したティファレトへ顔を寄せる。
「……叔父様、大丈夫かな?ティファレト」
次第に涙ぐむエレンの頬を、ティファレトは遠慮がちに広げた羽で、そっと優しく撫でた。
『きっと、大丈夫だよ。それより、君も少し休みなさい』
「うん……」
穏やかな声色で言い聞かせるティファレトに、エレンは眼鏡を外して、赤くなった目元をゴシゴシと擦る。
そして、ティファレトがひょいと肩の上から飛び降りると、力尽きたようにソファーの上へ横になるのだった。
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