「ミミズク、二羽並びて。」補遺
玉手箱つづら
【佐藤登場回】有隣堂しか知らない締め技の世界【プロレス回】
有隣堂で展開されるあらゆる商売を賑わせた第二次ゆうせかバズだったが、救えていなかったものがひとつだけあった。
プロレス回である。
誠品生活日本橋店長にして重度のプロレスマニアである佐藤貴広。膨大な数のプロレス雑誌コレクションを携えて、彼が展開するプロレス談義は決して退屈なものではなかった。いや、間違いなく面白かった。
しかし──再生数は伸びなかった。
二百万人いるはずのチャンネル登録者の一割……いや、一割すら、プロレス回を再生しなかった。
「有隣堂しか知らない締め技の世界~」
プロレス回を──佐藤を、救わねばならない。ドライ漬物たくあんと同じくらい、プロレス雑誌も売れるように……。そんな気負いがなかったと言えば嘘になる。
そんな奇跡を起こせるのは、この時まさに大波に乗っていた、ゆうせかだけだったのだから。
「書店をプロレスで私物化した男・佐藤貴広さんでーす」
「よろしくお願いします」
「えーと、ですね……大丈夫ですか、今日」
「? 何がですか?」
きょとんとする佐藤に、いや再生数ですよ、とブッコローは笑った。佐藤は小さく頷いた。
「大丈夫です、今回は」
「ほんとかなあ……」
「きっと再生してもらえると思います」
爽やかな顔で根拠のない自身を振りまいて、佐藤はプロレス談義を始めた。
卍固め、三角締め、コブラツイスト──古い雑誌を愛おしそうに開き、写真を指で示しながら、締め技の美学、その攻防の魅力を語った。
往年のレスラーたちの話題にはブッコローも興奮して、佐藤とともに思い出話に花を咲かせた。
「つまり人体の構造を熟知した彼らが繰り出す締め技はある種の芸術であり、そしてそこには哲学もある、ってことですね?」
「そうです。締め技は相手の体を壊すためのものではなくて、痛みを通して、戦い続ける意志を相手に問うものなんです」
「なるほどぉ。タップするかしないか……そこには自分との戦いもある、と」
「その通りです」
すっかり熱を帯びてしまっていたブッコローは、ふぅ、とひとつ息をついて顔を上げた。
……そして、見た。
二人の熱量にまるで付いてこれていないスタジオ。困ったような顔のプロデューサー。モニターに映る、小さな、己と佐藤。
しまった、と思った。
ブッコローまで夢中になって語ってしまったことで、長いことカメラを回したのに、まるで取れ高を回収できていないのだった。天下のMCにあるまじき凡ミス。普段ではあり得ないこの失態は、きっとたまった疲れのせいでもあった。
ブッコローの額を汗が伝った。照明の明かりが、白く、まぶしく感じられた。
「……ちょっと、やってみてくださいよ」
「えっ」
ブッコローの呟きに、佐藤は意味を捉えかねて戸惑った。ブッコローは畳みかけるように言った。
「佐藤さん、僕に何か技かけてみてください」
「ちょっと、大丈夫それ」
「大丈夫大丈夫」
思わず口を挟むプロデューサーに、ブッコローはパタパタと羽を振って応えた。
「結局実践して見ないと分からないんだから。見てる人たちにもプロレスの良さを伝えないと」
ひと思いにやってくれぃ、とおどけて、ブッコローは佐藤の前に横たわった。佐藤はまだ逡巡していたけれど、待ち構えるブッコローの姿に、それじゃあ、と言ってしゃがみ込んだ。
「鳥に掛けるのは初めてですけど……」
そう言って、ブッコローを持ち上げその下に入り込み、背中に曲げた膝を添え、足と頭を掴んで引いた。
「ぐっ! ガッ……」
思わず呻き声が漏れた。
天を撃つ、お手本のような弓矢固め。力を押さえてはいたけれど、それでも十分なほどに、テコの力学はブッコローの体を軋ませていた。
「……タップ?」
「のっ、ノー……! ノータップ!」
意思を無視してのけぞっていく体。吐き出したままうまく吸えない息。想像以上の痛み、苦しみがブッコローを襲った。
けれど──。
「あの、もう……」
「いやっ……まだ! まだいけるっ!」
力を緩めようとする佐藤を、ブッコローが制止した。まだ。まだまだ。朦朧とする意識のなかで、ブッコローは自分の言葉を反芻していた。
タップするかしないか……それは、自分との戦いだ──。
それは、何を得る戦いでもなかった。
「ブッコローさん!」
「まっ……だぁ!」
ただ、ここで歩みを止めれば、引きさがれば、今までのすべてが無意味になるような……そんな予感に支配されていた。
身を粉にしてきた十年間も、それまでも、すべてが──。
──タオルが、宙を舞った。
そうしてそれは、弓なりになったブッコローの顔に優しく降りた。背中の下の力が抜け、ブッコローの体が佐藤の腹に落下した。佐藤が、安堵の息をつくのが聞こえた。
「ま……だ……」
ブッコローは起き上がれなかった。どうにか体を横にひねり、顔に掛かったタオルを落とすと、明滅する視界の中で、哀しそうに自分を見ている渡邉と目が合った。渡邉は何も言わず、ゆっくりと、首を横に振った。
タオルは、渡邉が投げたものだった。
「……ごめんね、佐藤さん」
それだけ言うと、ブッコローは気を失った。
寝不足も合わさっての気絶で幸い大事には至らなかったが、ブッコローには二週間の休養が言い渡され、動画の更新は、一月のあいだ週二回に戻された。
ブッコローの休養中、プロデューサーはずっと、何かを思いつめたような顔で、パソコンの画面を見つめていた。
そして言うまでもないことではあるが、「締め技の世界」はお蔵入りとなり、二度と日の目を見ることはなかった。
「ミミズク、二羽並びて。」補遺 玉手箱つづら @tamatebako_tsudura
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