きみの忠実なる逆境
海道ひより
罅
「コーラル美術展すごかった〜! すっげ感動した!」
「ゲージュツ? 全然分からんけどさ、大賞のやつ見たらアットーされちゃったぁ」
「分かる分かる、なんつーか私らとは見てる世界が違うって感じだったわ。だからさぁ――」
興奮した様子で騒いでいる派手な装いの女性二人とすれ違った。陰鬱な顔の俺とは違って、はしゃいで、楽しそうに笑っている。彼女らは芸大生や美大生ではないだろう、むしろ無縁そうに思える二人組が圧倒されるというのは……。
美術館に向かう足が焦燥で速くなる。人の間を縫って、たまに強行突破しながらコーラル美術展の展示エリアに足を踏み入れた。客は誰も言葉を発さないものの、人だかりは相当なもので静かとは言い難い。作品を観賞する以前に展示ルートを辿ることすらも一苦労だろう。
人を押し退け掻き分け、時間を要したが、やっと目的の絵を見つけることができた。
「ぁ……」
額縁の横に『優秀賞』の札がつけられた水彩画は、俺が描いたものだった。
それは他の有象無象と同じように流し見だけされて、それだけ。立ち止まる人は俺以外にいない、その絵を注視するものなんていなかった。
呆然としていると二、三枚先の絵の前にいる客達から感嘆の声があがった。そちらの方に目を向けると一際大きな人だかりができている。美術展という空間なのに、あの絵の前だけざわめいているのが異様に思えた。
震える足で、その絵の前に立つ。そして絵を見た瞬間に――俺は絶望した。
圧倒なんてものではない。その絵は俺と同じ夕暮れを描いた水彩の風景画だというのに、比べ物にならない程に力強く威圧的で、自分なぞ王の御前に立たされた小市民だと思わされてしまう。全ての蓄積が、経験が、無意味な努力だった。この『大賞』作品の前では。
自分の胸を今すぐ引き裂きたくなって、人にぶつかることも厭わず走りだした。迷惑そうな視線を感じるが、お前達がどう思おうが俺は止まらない。梅雨が明けたにも関わらず、重たく湿った外気が肌にまとわりついたが、俺は駆けるのをやめない。
清らかなるさざ波の音が耳に、夕日に照らされたきらめく海面が目にとびこんでくる。美術館から程近いこの海は常に静寂で、俺の好きな場所だった。だから絵を描く場所に決めていたし、描いた絵はここがモデルだ。
大好きな絵、大好きな場所で最期の勝負をして、その結果が『優秀賞』だ。
よくやったと言う人もいるだろうが、その言葉は慰めにもならない。俺は大賞を、一番をとりたかった。
ローファーを脱ぎ、靴下も脱いで、裸足で砂浜を歩く。波打ち際に来ても足を止めることはない。冷たい海水がふくらはぎを濡らす。一歩一歩が重たいのは、きっと海水のせいだけではなかった。
「死ぬって、どんな感じなんだろう」
あの絵は俺の人生をかけたものだ。技術、時間、愛情の全てをかけた。だから、もしもダメだったら――あの絵を遺作に死のうと決意していた。
「それを知るには早すぎな人生じゃねー?」
膝上まで海水が来たところで、後ろから声をかけられる。あまりにも近い距離で聞こえてきたものだから、思わず足を止めて振りむいた。短いスカートから伸びる白い足を海に沈めて、俺のすぐ後ろに立っているのは美術館の前ですれ違った女性二人組のうちの一人だった。彼女は俺の顔を見ると、ニカっと屈託なく笑う。
「え、なに……」
「なにって、死にたがりボーイを助けにきただけだが?」
ほれほれと彼女が俺の手を取り、沖とは逆方向の陸地に向かって引っぱった。細腕からは想像できない力に引きずられるが、俺は死にたいのだから助けられるわけにはいかない。抵抗して手を剥がそうとこちらも抵抗するが、全く意に介さない様子で歩いている。
「ちょっと、離してください」
「お! トーキングならぜんぜんオッケイ、でも寒くなるかもだし砂浜ついてからねー」
「ちが、話してじゃない。離してって言ってるのに……!」
俺の声はまるで届かず、引きずられるまま砂浜に戻されてしまう。やっと手を離した彼女は額に浮かんだ汗を腕で拭って、一息ついた。
改めて彼女の姿を見る。金色のゆるっとしたロングヘアは染めているのだろうか、しかし地毛と言っても納得できそうな顔立ちは、日本人から離れているように見えた。ヨーロッパ系とのハーフか? それから、よく見なくても身長が高い、百八十はあるだろう。百七十五センチの俺は見上げる形になる。それでも威圧感を感じさせないのは彼女の体つきがあまりに華奢だからだ、どこに俺を引きずる力があったのか謎でしかない。
見た目だけでも個性豊かな彼女だが、特に目を引くのは紫を基調とした派手なメイクだった。紫色の睫毛は棘なのかと言いたくなるくらい上を向いている。
「どしたん?」
「いや、その……なんでこんなことしたんですか」
「こんなとは?」
はて、と全身で傾げる彼女は本気で分かっていないようだ。
「なんで、俺を助けたんですか」
「そのことー? いやいや、人が死ぬぞーって感じで海に入っていったらさぁ、普通に止めるくない?」
どうやら相当な『お人よし』に絡まれたらしい。運が悪いとしか言いようがないけど、人がいるいないを気にしなかった俺も計画性が無さすぎた。
どうしたものかと反応に困っていると、彼女は勝手に話し始めた。
「あーしさぁ、さっきコーラル美術展に行ってたんだ。そこで見た海の絵がキレーでさ」
「海の、絵」
「そうそう! んで海ってどんなんだっけ、そういや海って近かったよなーって感じで見にきたんだ」
あのコーラル美術展は海を題材にした作品展だ。だから彼女が言う『夕方の海の絵』が、俺の作品だとは限らない。それでも、聞かずにはいられなかった。
「その作品って、大賞のやつ、ですか」
あの大賞も夕方の海の絵だ。どうせあちらの作品のことだろう、だって彼女はすれ違ったときに大賞作品を賛辞していたではないか。なんで自分から傷つく必要がある。
やっぱり言わなくてもいいです、と俺が言いかけたのを、目を輝かせた彼女が大声で遮った。
「あんたも見に行ってた感じ⁉︎ でもあーしがコレって思ったのは違うんだな!」
想像していた答えではなかったことに驚いた。そういえば見ている世界が違うとは言っていたけど、それは褒めているわけではなかったのか? それなら、いったいどう見えていたのか。興味を持ってしまった俺は言葉を選んでいる様子の彼女の話に耳を傾けた。
「大賞のやつは確かにスゲーって思ったけど、描いてる人の〝人間〟を感じないっていうか」
むむ、としかめ面になる彼女を見るに、気にいらなかったのは本心なのだろう。尋常でない作品だったのには違いない、けれど彼女はそこだけに注視せず、絵の向こう側にいる作者が気になったのか。そこに人間を感じないという意見はよく分からないけど、性格が読み取れないとかそういったことを指しているのかもしれない。
「だから、あーしは優秀賞の方が好きだった! なんか生きてるって感じがして」
「生き、てる?」
「そそ。描き殴ったとかじゃないと思うんだけど、いっそコワイくらいだったじゃん?」
描いた絵を怖いと言われたのは初めてだった。今までは繊細、力が無い、印象が薄いと散々な言われ方をしていたから、もはや褒め言葉に感じる。
――いいや、実際に褒め言葉だ。だってあの絵は俺の全てをこめた命の作品だ、鬼気迫るものがあって当然だ。その理解を得られたことがとても嬉しくて、俺は彼女に礼をした。
「ありがとうございます」
作者として、どうしても感謝を言いたかった。唐突な言葉に面食らった彼女は「なんで?」と戸惑っていたが、俺が絵を書いた本人であることを伝えるとこれまた大きく驚いて、感激して跳ねている。
「城ヶ崎
「名前、知ってたんですね」
「たりめーよ! あーし絶対ファンレター的なやつ出そってねぇ!」
ほら! と見せてきたスマホの画面には、俺の名前だけがメモアプリに書かれていた。俺は出展回数が少なく無名だ、名前だけあってもファンレターを送るのは難儀するだろう。彼女にとって、俺とここで会えたのは僥倖だったのかもしれない。
「え、てか鼓センセー若くね。何歳?」
「十七歳です、高校二年で……」
「マジで⁉︎ タメじゃん敬語いらんいらん!」
俺の年齢に驚いているが、彼女が同い年というのは俺も驚いた。少なく見積もっても成人しているだろうと思っていた、でも独特の語り口と大はしゃぎぶりを見ると、なんとなく「そう言われたらそうだなぁ」という感想になる。
「てかあーしの名前、教えてなかったや。山田サンゴっていうんだー」
「山田サンゴ……?」
どこかで聞いたことのある名前になんだったかと考えて、なかなか珍しい『サンゴ』の名前で思い出した。コーラル美術展のスペシャルアンバサダーであり、国内外問わず女子中高生を中心に人気のトップモデルだ。なるほどモデルなら彼女の外見にいろいろと納得がいく。
「よろしくねー。そんで鼓センセーはなんで死のうとしてたん?」
それを聞くんだ。単なる興味本位なのか、お人よしらしくカウンセリングの真似事をしたいのか。死ぬと決めた今となっては誰に話したっていいな、と俺は全てを話した。
「――なにをどう頑張っても一位になれない、だからもう頑張れんくなったかぁ」
「だから俺は、」
「めちゃチャンスじゃね! 逆境じゃん!」
「は?」
サンゴは俺の手を持って陽が陰る天に突き出した。雲を払うように、空を殴るように。
「逆境とか向かい風、どんとこい! だいじょぶイケるイケる、だってあーしがいけたんだしセンセー頑張り屋さんだから問題ないっしょ!」
その根拠もない自信はどこから出てくるのだろう。それに大丈夫も何も、挫折を知らなそうな〝トップ〟モデルに言われたくない。だけどサンゴの、俺の作品の方が好きだという言葉が、彼女を信じたい気持ちを起こさせる。
「次いこうぜ次!」
……彼女の前向きな姿勢は学ぶべきかもしれない。
◇◇◇
あれからというもの、お人よしのサンゴは何かにつけて俺につきまとうようになった。この砂浜で絵を描いていると言ったのがよくなかったのか、時間さえあれば俺の様子を見に来ている。描き進めている絵のモデルというわけでもないし、なんなら彼女はいない方が助かるけど。
「鼓センセー差し入れ持ってきたよぉー! プリンだぞプリン!」
「はぁ、ありがとう」
それでも邪険にするのも気が引けるし、何よりも唯一と言ってもいい理解者だ。俺は追い返すこともなく瓶詰めのプリンを受け取る。
なぜこんなによくしてくれるのか、俺はサンゴに聞いたことがなかった。おおかたファン根性なのだろうことはなんとなく伝わってくるが、あまりにも熱心がすぎる気がする。逆境という状況に興奮していたから、そういう趣味なのかもしれない。
「ねぇねぇ、今度も海を描いてる系?」
「そうだよ。……朝焼けの、海」
絵のモデルはいない、けどモチーフになるものはあった。それは夜明けを告げる、黒い海を煌めかせた楽園の太陽。
「鼓センセーなら次もスッゲーやつ描いちゃうんだろうなぁ!」
「サンゴが言うなら、そうかもね」
「デレた⁉︎」
大騒ぎしている彼女をよそにプリンを口にいれると、甘ったるい味わいが広がった。お人よしを体現したかのような柔さに〝らしい〟なぁ、なんて感想が出る。
でも、そんなところに俺は助けられたんだ。彼女の言葉ひとつひとつに一喜一憂するのは、追い風のように俺を前へ前へと生きさせる原動力になった。彼女が言うならば、彼女が言ってくれるなら、努力は報われる。そんな盲信をしていた。
だけど――何もかも、天才の前には塵芥で。
「
「彼の活躍は目覚ましいものがありますけどねぇ、同じ舞台にすら立てない他が可哀想ですな」
「あの城ヶ崎グループの息子が太刀打ちできていないのは高笑いが止まりませんがね。確か、この絵でしたか」
下卑た笑いを浮かべながら歓談している中年男性の声が、嫌でも耳に入ってくる。俺の存在には全く気付いていないのか、聞くに耐えない誹謗を振り回して俺が描いた絵を傷つけている。
もう見たくない、これ以上は聞きたくない、これ以上現実を見たくない。力の入らない足を必死に動かして、この場を早く去りたかった。展示場から早く出たかった。
なのに〝天才〟が、俺の前に立ちはだかっているのは、なんで。
「あ、まの……さい……」
その少年は肩まで下ろした長い銀髪を揺らしながら振り向いて、赤い眼で俺を直視した。
中学生か、小学生にも見える容姿は可愛らしささえ感じるだろう。だけどそれ以上に身に襲いかかるのは恐怖だ、畏怖だ。身体がこわばり、怖気で震えている。
「……」
彼は俺を見据えたまま、能面を顔に張りつかせたまま。一歩、また一歩と歩いてくる。
「……やっと、」
何かを話しかけられた気もするけど、俺はそれを聞くことはしなかった。彼の横を駆け抜けて、聞こえない振りをして、走って逃げたからだ。だって天乃才には何も言われたくなかった。
いつからだっただろう、天乃才が俺の歩く道に現れたのは。親に周囲に期待を押しつけられた頃だったかもしれないし、物心つく頃だったような気もする。どちらにせよ、あれは俺の呪いそのものだ。
電車に飛び乗って息を整えていると、スマホの通知にサンゴの名前が並んでいることに気が付いた。メッセージを確認すると、ネットニュースで大賞作品を知ったのか「よっしゃ次はどうすんよ」なんて文字面が俺を殴った。
そして、田中サンゴに、どうしようもない怒りが湧いた。
こんな感情は間違っている。俺が力不足だっただけ、俺が何もできなかっただけ、俺が、俺が……こうなることは分かりきっていた。だというのに沸騰するような怒りが脳を支配する。
『話したいことがあるんだけど、時間作れる?』
『センセーからラブコールとか明日ぜってー雪じゃんヤバ! ほな、あの海で会おうぜ!』
メッセージに即座に既読がつき、返信と一緒に『OK』のスタンプが押された。
俺は会って何がしたいのか、何を話すのかも分からなかった、ただ会いたかった。なぜ?
その答えは彼女と対峙したときに、手に滴る温もりと共に理解した。
――刺している。俺は、手に持ったペティナイフで彼女の胸を刺している。形容しがたい殺意が異様な熱を孕んで、俺を溶かしていた。
「お前が無責任なことを言うから、お前のせいだ、お前が生かしたせいでまた絶望した!」
彼女に馬乗りになり、力任せに何度もナイフを振り下ろした。その度に吹き出す血を浴びて、もはや血なのか涙なのか、どちらともつかない液体が俺の顔も彼女の顔も汚していく。だけど、なのに。
ごぽ、と口から血を吐いた彼女はとても楽しげに笑っていた。
「ぐ、ぇ……っはは! 逆境って、こういうことだよね」
「許さない、許さない……お前がいたから……!」
「ウケる! なら勝負だ、センセー!」
刺されているというのに、どこにそんな力があるのか。彼女は馬乗りになっていた俺を突きとばし、立ちあがって胸に刺さっているナイフを引き抜いた。だくだくと赤い血が流れ、白い砂浜に黒い染みを作っている。
奪われたナイフで反撃される、そう思った。しかし彼女は一切の迷いなくナイフを海に向かって放り投げ、遠投にも関わらず海面に着水させた。探すのはもう困難だろう。
ナイフを追った視線を彼女に戻すと、スマホで電話をしていた。「救急車」の単語が聞こえたから、消防に通報したのかもしれない。
電話を終えた彼女はスマホを地面に落とし、長い息と少なくない量の血を吐きながら、湿った砂浜にへたりこむ。当然だろう、血を多く流しているのに動いていられる方が異常なんだ。それでも彼女の笑顔は揺るがないのは、もはや狂気でしかなかった。
「あーしが死んだら、センセーは逆境の中で〝殺す〟ってことをやり遂げたことになる」
「なにを、言って」
「あーしが死なんかったら、殺されかけるって逆境に、勝ったとこをセンセーに見せられる」
彼女は死に体で意識が朦朧しているのだろうか、なにを言っているのか分からない。いや、俺がおかしいのか? 理解が追いつかないのを愉快そうに見ている彼女が、恐ろしくなる。
「あはは! 救急車が来るまで根性でいけっかなーって思ったけど、キツイかもしんない」
「は……?」
「ね、さっき勝負って言ったけどさー……どっちになってもあーしの勝ち確、だったわ」
そう言い残して、意識を手放した彼女はゆっくりと倒れた。あまりにも静かに倒れたから、死んだのかと呼吸を確認する。すると、とても浅いが呼吸だけはしていた。ならばとどめを刺さなければ。
彼女の首を絞めようと手を伸ばそうとして、だけどそれ以上は動くことができなかった。良心の呵責なのか、それとも「もういい」と満足したのかは自分でも分からない。
ぼんやりとした意識の中で聞こえた救急車のサイレンの音、それにかき消される海の波音に俺は身を預けた。
◇◇◇
俺がサンゴを刺した日から数ヶ月が経った。
世間ではトップモデルの田中サンゴが刺されたと、しばらくセンセーショナルに報道されていたらしい。具体的な内容はシャットアウトされているから分からない。
あの日以来、俺は病室に閉じ込められている。
ここは精神を病んだ人が入院するのだ、という説明はされた気がする。けど当時は前後の記憶が曖昧で、本当にそう説明されたのかすらも危うい。実は刑務所の中だと言われても、何も疑わずに信じるだろう。だって俺はそれだけのことをしたのだから……した筈、なんだけど。
「ぜってぇ死んだと思ったもんな。あーし強くね?」
「はいはい強い強い」
そう思っていた俺はバカだったかもしれないし、サンゴは間違いなくバカだった。
看護師が止める声を振り切って騒々しく病室にやってきた彼女は相変わらず楽しげで、特徴的な紫色のメイクは今日もばっちり決まっている。サンゴのフィジカルどうなってるんだろう。
それにしても、面会は近親のものしか受け付けないようにしているんだけどな。
「なんで会いに来ようとか思えるんだろう。普通、怖いとか出てくるんじゃないの」
「だってセンセーが入院してるって聞いてさぁ、お見舞いしなきゃーってさぁ」
サンゴが持っていた紙袋から瓶詰めのプリンを取り出して、こちらに差し出した。前にもらった記憶があるそれを呆れながら受け取ると「あーしも食べちゃお」と言いながら、紙袋にまだ入っていたらしい二個目のプリンの蓋を開けて、付属のプラスチックスプーンで食べ始めた。
あまりにも普通の光景で、それが俺の罪悪感を余計に刺激する。
「……ごめん、サンゴ」
「え、もしかしてプリン飽きたやつ⁉︎」
「違う。これのことじゃなくて……刺したこと」
「なんでセンセーが謝んの? あーしがごめんって言うべきじゃん」
はて? と首を傾げるサンゴの動きに違和感を覚えるが、一番おかしいのは発言の内容だ。徹頭徹尾、誰がどう見たって俺の方が謝罪すべき人間だろう。
「いや、俺が殺しかけたんだけど。しかも刺した理由も……」
時間経過と投薬治療のおかげなのか、あの日、あのときの自分が異常だったことを理解できるようになっていた。ただの癇癪、逆ギレ……カッとなってやってしまいました、とすら言えない。それほどまでに〝しょうもないこと〟で人を刺したんだ。
「あーしは殺されてもしゃあなしって思ってたが?」
「それは……なんで?」
「知りたい?」
途端に、サンゴの雰囲気が変わった。恐ろしい感じはしないし敵意みたいなものもない、朗らかな笑みを浮かべている。ただ――彼女の言葉を借りるなら、人間を感じないというべきか。
「聞かない方がいいみたい、っていうのは分かった」
「おけおけ、センセーがそう言うなら黙っとく!」
聞かないのが正解なのかは分からない。だけど、聞かぬが仏という諺もある。
あのサンゴが自分から話さないというのは、きっと話す必要が無いんだろう。なら俺から深く聞く必要はない……と思う。
「あ、でもこれだけは聞いておこうかな!」
「なに?」
「逆境、どうだったよ?」
なんのことかと思ったが、もしかしてあのときサンゴが持ちだした勝負のことだろうか。
俺は心が折れた逆境の中で、殺すことに何かを見出した。それはサンゴがこうして生きている以上、失敗に終わっている。
サンゴが死ななかった、殺されるという逆境を彼女が乗り越えた
「サンゴが生きててよかった、それだけ」
「センセーがデレたぁ!」
きゃあきゃあと騒ぐサンゴのやかましさに、やっぱり言わなきゃよかったかもな……と俺は小さくぼやいたのだった。
◆◆◆
一匹の白い柴犬が、精神科の入院病棟を赤い目で見ていた。
都心部から電車を乗り継ぎして三時間はかかる山奥の地に、ぽつんと建てられている病院と白柴犬の組み合わせは浮世離れした世界観を演出している。他には何もいない。
風が吹いたビュウビュウ音、それに混じって病院の自動ドアが開いた。
出てきたのは金髪の女性だった。長身痩躯で、その顔は美しいと称されるだろう。彼女は犬の姿を確認すると、眉を顰めた。
「うわ、まだいるし」
「当たり前だろう。で、鼓は」
犬が喋った、と女が認識したときには既に犬の姿はなかった。代わりに肩まで下ろした長い銀髪と、赤い目が印象的な少年が冷ややかな顔をして立っている。
「あ、そっか。そういやここの施設、結界やらなんやらで
「……鼓の様子を聞いてるんだけど」
ぷすぷす嘲笑する様子に少年が不快感を露わにすると、女は肩をすくめた。
「センセーはだいぶ元気になってた、メンヘラ犬の憑きまといが消えたからかもだぜ?」
「は? 鼓は僕に会えなくて悲しんでるに決まってるでしょ、目まで腐ってるの?」
「犬神のくせにすげーポジティブじゃん」
――犬神、それは憑きものである。古き呪術から生まれる妖、家に富と繁栄をもたらす側面も持つとされるそれが、人間の形をとって女の目の前にいる。
「あのさ。センセーを自殺とか変な考えが出るまで追い詰めて、何がしたいわけ」
「僕は鼓の〝おねがいごと〟を聞いてるだけ。家に仕える忠犬らしいと思わない? ふらついてるだけのきみと違って、ね」
「あーしはただのマレビトだかんね。そりゃご主人大好きな犬神とは在り方がちゃうけどさ」
――マレビト、それは外からやってきた異邦者である。異人、異神、過去に生きた祖先の霊とも。そのマレビトを名乗る女が、まるで普通の人間のように、いる。
「そもそも僕の方が聞きたい。なんの縁もないマレビトがなぜ僕達の邪魔をするのか」
「神様ムーヴ的な? 困ってる人がいたら助けよ〜みたいなノリ!」
「余計なお世話。きみがいなかったら、僕と鼓は憂いなく死ぬことができたのに。ぽっと出のくせに邪魔するとか、」
怨嗟のこもった犬神の声をかき消しながら、マレビトは高笑いした。刺された箇所がまだ完治していないのか、痛い痛いと身悶えしているのに笑っている。
「あっはっは! だからセンセーの身体を使ってまであーしを殺そうとしたんだ!」
「呪いたっぷりで刺したのになんで存在を保っていられるんだろう、このマレビト」
「生きてるのか死んでるのか曖昧だからじゃね、知らんけど」
「とても殺したい……」
「あ、それ鼓センセーからNGでたわ。あーしが生きててよかったって言ってくれたぜ?」
「なに言ってるの耳も腐り落ちてるの鼓はそんなこと言わない」
犬神が暗く澱んだ目でマレビトを見るが、当の本人はどこ吹く風。怨すら楽しんでいるのを見て、こいつに怒るのは無意味なことだと察した犬神は深くため息をついた。
「メンヘラ犬どしたん、センセーの話でもしてあげよか?」
「壊れちゃった鼓の話なんか聞きたくない」
「ウケる。推しの変化を認められない系のオタクだ」
ダメだ、コイツとまともに話をしようとしたら僕まで壊れてしまう。鼓の為にも早く始末しなければ――。
犬神はヘラヘラと笑うマレビトの抹殺を強く、強く、鼓に誓ったのだった。
きみの忠実なる逆境 海道ひより @pi_yo_sea
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