第29話
さて後日談。
あの日から須藤は希と清水さんの前には姿を表さなかった。風の噂では、夏休み明けには学校を辞め、この町から出て行くそうだ。
希曰く、学校では「あんな優しい先生がどうして急に?」や「良い先生だったのに……」という言葉を聞いたそうだ。
人間、裏表が存在するものである。裏の性格は本当に信用した人間か、利用価値を見いだせる、自分よりも下の立場の者にしか見せない。
僕たちは、たまたまその標的になっただけ。須藤的には希だけだったようだが。
正確に悪が裁かれないことには少しモヤっとした
むしろ、及第点であったことに感謝をしたい。
あの日、僕は一つだけ読みを外していた。須藤は強姦未遂が起きた日、もちろんその場に最初から待機はしていたものの、襲撃者の一人を刺してはいなかった。あくまでも僕の予想ではあるのだが、一度人を刺したことのある人間が、僕が刺された時にあのような顔をして取り乱すだろうか。おそらく、刺したのは他の襲撃者の誰かだろう。しかし、刺すように計画したのは須藤だ。故に、僕が怪我を負わせたのはお前だ、と言った時に反論はできなかったのだろう。
だからこそ、あの日に須藤が刃物を所持していたことは単なる偶然でしかなかった。一つの選択のミスで、全てが水の泡と化すことになっていたかもしれないと思うと、少しゾッとしてしまう。
あの日はひたすらに長かった。そのせいか、それ以降の日々はもったいないくらい早く過ぎ去ってしまう。
一件以降、須藤さんは遅れた受験勉強により一層、精を出しているようで、なかなか構ってもらえなくて希的には嬉しいような、悲しいような複雑な気分らしい。しかし、清水さんの話をしている時の彼女は、いつもよりもよく笑う。
僕と希はというと、あの事件以来、少しだけぎこちなくなったものの、三日も経てばすっかり前の通りで、特に波風の立たない日々を過ごしていた。
「花火大会行くよね?」
窓の外で太陽が水平線の遥か彼方へと沈んで行こうとしている最中、いつものことだが、食べ物を含んだまま行儀悪く彼女が口を開いた。
「んー、そう言えば毎年の恒例だったな」
「そうだよ。八月の三十日。いつも思うけど、なんで三十一日にやらないんだろうね」
「僕が生きてる時は十五日だったけど、今は三十日なんだ」
「昔はそう言えばそれくらいだったかも。それこそ、十年前はね。せっかくだからあの公園で見ようよ!」
「まあ、特に予定も無いし、いいよ。花火、僕も見たいから」
十年前、僕は最後の花火を暗闇の中で過ごした。なんのいたずらか、確かに花火を見ることを僕は何よりも望んでいるのかもしれない。
たとえ、一緒に見る相手がかつての恋していた人でなくとも。いや、むしろ今は希と見たいと心の底から思っている。
認めない、気づかないつもりでいたが、あの日雨が止んだ公園で彼女を抱きしめてから、溢れる想いが止まらない。愛しくて、本当は今すぐにでも彼女を抱きしめたい。
長いこと消え失せていた一つの感情が、顔を出しては引っ込んでくれない。
甘酸っぱくて、苦しくて、苦くて、苦しい。
それでも、必死にその思いを口に残った米粒と共に味噌汁で飲み込んだ。
口に出せば、僕も彼女も辛いだけだ。消費期限付きの恋など、誰が好むだろうか。
「浴衣着なくちゃなー! いや、その前にダイエットしないと」
「きっちりおかわりまでした後にそれ言う?」
「あ、明日からだよ! 今日はいいんだよ」
彼女は慌ただしく食器を片付けだす。僕も立ち上がり、片付けを手伝う。二人で食器を片し、彼女が皿を洗い、僕が拭く。毎日の日課だ。
彼女はその後、すぐに風呂に入る。女性にしては短いであろう三十分前後でいつも出てくる。その間、僕は窓際に座り、すっかり暗くなった外を眺め、蛍のようにぼんやりと浮かび上がる町の明かりに意識を染める。
彼女は風呂を済ませた後は、少し勉強をして、早めに布団に入る。もちろん、僕は眠気を感じられないため、ここからは一人の時間だ。しかし、外で一人で夜を明かすのと、この家で夜を明かすのでは時間の進みが全然違う。
徐々に消えゆく蛍の光。完全に消え去った後は、ひたすらに真っ暗で、町全体が夜の空気に包まれるのを窓を開けて感じる。前に夜道を散歩してみたことがあったのだが、その時は警察にバレて大変な目にあった。もちろん、僕は息切れなどを感じることはないため、逃げ切れたのだが、頻繁に警察の手を煩わせるわけにはいかないので、それ以降は控えるようにしている。
代わりに早朝、東の地平線が焼けるように色づいてきた頃、僕はそっと家を出て、朝の散歩をする。この町の少ない良いところの一つは空気が美味しいことだ。
海は家から小さく見えど、歩いて十分はあるにも関わらず、深呼吸をすると気のせいか微かに潮の匂いが鼻腔をくすぐる。潮の匂いと朝特有の澄み切った空気、それと山々に囲まれた青々しい香りが混ざり合い、僕の好きな匂いになる。
きっと、こんな贅沢な思いをしている幽霊は僕くらいだろう。
たっぷり小一時間ほど町中を闊歩して帰ってくると、ちょうど彼女が起きてくる時間だ。
「ただいまー」
念のため、小さな声で玄関を開けると、彼女は既に起きていたようで、リビングで座ってスマホを弄っていた。しかし、妙に違和感。彼女の顔は引きつっていた。
「どうしたの? 朝から」
「いや、ちょっと問題発生」
申し訳なさそうに苦笑いをする彼女は、スマホの画面を僕に向けながら言った。
「お父さん、今日帰ってくるって」
彼女の父親が帰ってくるとなれば、もうこの家に僕がいていいはずがない。久しぶりの我が家に娘が見知らぬ男と住んでいるなんてバレようものなら、一悶着起きることは目に見えている。
「父親が帰ってくるなら、僕はお暇するよ」
「うーん、確かに幽霊くんをお父さんに見せるのはちょっぴり――いや、ものすごーくまずいかな」
「そりゃ、自分が留守の間に男を連れ込んでいたってなったら、すごいショックだよね。もちろん、何もなかったとしてもね」
「いや、それももちろんあるんだけど……。とにかく、幽霊くんがお父さんに会うのはまずいんだよ。三日だけ帰ってくるって言ってるんだけど、どうしたもんかなぁ」
「だから、僕が三日間どっかに言っておけばいいんだよ」
「えっ、いや、うーん……幽霊くんはすぐに消えちゃいそうだから、目を離したくないんだよ」
歯切れ悪く答える彼女。何かと何かの間で葛藤しているようにも見える。
「ここまで一緒に居たんだから、消える時くらいしっかり言うよ」
「そうじゃなくて……。うがー! もうっ! 決めました、旅行に行きます!」
「はい?」
彼女の突拍子もない発言に思わず語尾が伸びる。
「旅行だよ! もしくは、駆け落ち。幽霊くん、どっか行きたいところないの?」
「君はこの前行って来たばっかりだろ? それに久々の父親との再開じゃないか。家族水入らずで過ごしなって」
「お父さんはちょっと顔見せれば十分だよ。それより、私は幽霊くんと思い出を作りたいの! あっ、でも私はお金ないから、旅費は全部幽霊くんのおごりね! もうそろそろお父さん来ちゃうから、駅で待ってて。私はお父さんと少し話してから行くから!」
僕に喋る隙を与えずに早口で言い切った彼女に気圧され、僕は背中をグイグイと押されるがままに外へと追い出された。
玄関の前で突っ立って居たら、ただの不審者なので、仕方なく彼女の言う通り駅にトボトボと向かう。
「行きたい場所か……」
正直、急には出てこない。
未練など、あったとすれば彼羽のことくらいなのだ。生前、特に行きたかった場所などなければ、やり残したことも思い当たらない。なんせ、何の欲もない生活から急に突き落とされたのだから。
幽霊って、現世に未練が残っているから存在していて、未練が無くなれば勝手に成仏するものだと思っていたけど、どうやらそれは違うらしい。もしくは、まだ僕に自分でも気づけない未練があるのか。
駅に着き、特にすることもなくぼんやりと行き交う人々に目を向ける。大きな荷物を持った旅行客。和やかに会話をしながらゆっくりと歩く老人たち。虫かごを持って元気に駆け回る小学生たち。
「みんな、生きているんだよなぁ」
そんな当たり前のことを呟く。でも、当たり前ってなんだろうか。生きていることが当たり前なのだとしたら、今の僕は当たり前じゃない何かで、でも実際にここに存在している。行き交う人々から見ても、確かに僕はここに存在するし、彼らから見れば僕はいわゆる当たり前の存在なのだ。
「何ぼんやりしてるの?」
気がつくと、彼女が横で僕を覗き込んでいた。彼女にしては珍しい薄い生地の白ワンピースに腰の高い位置に巻いた細い黒ベルト。白い素足を見せるサンダル。黒いポシェットを肩にかけ、手元にはスーツケース。
「本当に旅行に行くんだ」
「そう言ったでしょ! ほら、行く場所決めた?」
「うーん、どこでもいい」
「私だって、どこでもいいんだから、こんなときくらいエスコートしてよね」
行きたいところ。正直、場所なんて関係なくて、彼女と一緒に居られるのならどこでもいい。でも、強いて行きたい場所をあげるとするなら――
「じゃあ、東京に行きたいかな。ベタだけど」
「幽霊くんにしては意外な場所をチョイスするね。てっきり、近場を挙げてくるんだと思ったよ」
「別に明確な理由があるわけじゃないよ。でも、生きてたらきっと、高校を卒業して東京の大学に進学して、そのまま向こうで就職しているんだろうなって思ったら、東京に行きたくなった」
生きていたらなんてネガティブな表現にも関わらず、彼女はニッコリと満足げに頷いた。
「ちゃんと行きたいところあるじゃん! 私も東京なんて中学校の修学旅行以来だよ。なんか、ワクワクしてきたね!」
田舎の人間にとって、東京は未開の地であって、自分達には高校を卒業するまで縁がない場所だと思ってしまう。テレビで毎日のように目にする東京の景色はとても輝いて見えて、田舎育ちの僕らはそこでの生活に憧れている。
たぶん、生きていたなら僕は東京の大学に進学していただろう。そして、テレビの中のような綺麗な生活とまでは行かなくとも、都会の喧騒に身を染めていたはずだ。
そう考えると、途端に東京に行きたくなった。
「幽霊くん、早くー! 電車来ちゃったよ!」
気がつくと、彼女は既に改札前で先走る気持ちを抑えられないといった様子で手を振っている。
そんな無邪気な彼女に嬉しさ混じりのため息が出る。
「まだ切符買ってないよ」
僕と彼女の最初で最後の短い旅行が始まる。
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他サイト様主催スターツ出版大賞最終選考作品の加筆・修正版です。
旧名「夏色リバイブ」
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