起きていて見る夢
森本 晃次
第1話 時代背景
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和四年二月時点のものです。今回は実在する場所を暈してみたり、実際の漢字表記とは微妙に変えてみたりしています。そこもこの作品のミソになりますので、注意して見てみてください。
松阪史郎が、大学三年生の頃というと、まだ、昭和の時代だった。なんと言っても、40年近く前の話なので、文化も違えば、科学の発展のおかげで、昔主流だったものは、歴史から姿を消す形で、当時の人間が今の令和の世の中に飛び出してくれば、本当に未来の世界を見ていると感じるだろう。
ただ、昭和の時代に考えていた未来予想とはまったく違うものに違いない。
1970年代のマンガや映画などでは、21世紀の未来というと、車が空を飛んでいたり、コンピューターが主流で稼働していたり、さらには、タイムマシンができていたり、ロボットやアンドロイドが稼働していたりなどというのが、未来予想だったはずだ。
その中で実現している。いや、想像以上に発展しているのは、コンピューターの発展だけである。
令和4年の現代でも、車は空を飛ぶことができず、タイムマシンの存在もない。ロボットも、単純な命令を聞く程度のものはあるが、人工知能を搭載したアンドロイドのようなものはできていないのだった。
何しろ、1970年代から、
「未来の主流交通網」
と言われてきたリニアモーターカーですら、まだ全国のどこにも開通していない。やっと、開業計画のメドが立った程度で、この40年というもの、何をやってきたというのだろう。
ただ、タイムマシンやロボット開発には、結界ともいえる大きな壁が存在し、それを解決するのは至難の業だと言われてきた。
本当であれば、30年なら30年という期限を設け、その間に必死になって研究をして、できなければ、その時に考えるくらいに計画性があればいいものを。中途半端に、問題点だけに恐怖して、結局、研究費用を無駄に何十年も垂れ流しにしてきたということになるであろう。
タイムマシンなどの問題とされる、
「タイムパラドックス」
さらに、ロボットの問題とされる、
「フレーム問題」、
「ロボット工学三原則」
と呼ばれる問題が、結界なのである。
タイムマシンの場合は、パラドックスの考え方があることで、開発ができないというよりも、
「してはいけない」というものとしての問題であった。
ロボット工学の場合は、実際に動かしてみると、
「矛盾が引き起こす無限という問題に人工知能が対応できない」
という問題に、解決方法が見つからないのだ。
それぞれに、どこかで研究はなされているのだろうが、解決に近づくだけの開発が一切発表されてこない。
「できない」
という理論は、論文などになり、世界での通説になってきているが、
「できる」
という方は、まったく表に出てこない。
できないという論文に対しての反論などできるはずもなく、それぞれの大きな問題を、果たして、詳細部分から潰していけばいいのか、それとも、大きな理論を打ち崩すための強力な考え方を論理づけるしかないということなのであろうか?
とにかく、このままでは、
「開けてはいけないパンドラの匣」
を開けてしまうということになりかねないのだ。
古代ギリシャで伝わっている、
「パンドラの匣」
一体、どのように考えられたのだろうか?
タイムマシン開発においてのパラドックスというのは、自分が過去に行った時、過去を変えてしまったことで、未来が変わってしまい、戻るべき元の世界が変わってしまっていて、今の自分だけが宙に浮いてしまうような矛盾のことを、タイムパラドックスという。
過去に戻って、親を殺したり、自分が生まれてくることのない設定にしてしまうと。過去を変える自分がいなくなってしまうわけなので、過去が変わるわけがない。過去が変わらなければ、自分が生まれて、過去を変えに行ってしまう。
その矛盾が、タイムパラドックスなのだが、ここでいろいろな考え方が生まれてくる。
「果たして、自分は自分の親からしか生まれないのだろうか?」
ということである。
他の親から生まれてくるということは考えられないだろうか? もし、自分が本当の今の親から生まれてきたのが偶然、あるいは必然のどちらであったとしても、必ず、今の親から生まれなければいけないということはないだろう。
「血液型が違う」
と言ったとしても、生まれてくる自分が必ずしも今の血液型である必要はない。
「別の親から生まれてくる自分が、過去に戻るという運命を持って生まれた」
というだけのことだと考えれば、この矛盾は別にパラドックスでもないでもない。
また、もう一つ考えられることとして、
「パラレルワールド」
というものが、この問題を解決してくれるという。
パラレルワールドとは、同じ次元で、別の世界、類似世界、あるいは、並行世界が広がっているという考え方である。
つまり、過去に行って、過去を変えたとしても、影響があるのは、パラレルワールドにおける未来であって、現実の未来には何ら影響を及ぼさないという考えである。
ある意味、かなり都合のいい考えだが、これほど都合のいい考えを認めるというのは、このタイムパラドックスという矛盾を解消させるための解決法として、ありえることだと考えるからであろう。
ただ、
「どの親から生まれようが、未来が変わったとしても、過去に戻る人は生まれる運命なのだ」
と考える方が、実にありえる理屈としては信憑性があるような気がするのだ。
もちろん、他にもいろいろ考え方があるのだろうが、この二人が有力ではないかと思うのだ。
タイムマシンというものが、
「カーブになったグラフの、端から端に飛ぶことで、ワープをするという発想からのタイムトラベル」
を考えている人がいた。
逆の考え方として、タイムトラベルの発想を解明しようとして考えたのが点と点を飛び越えるという発想であるとも言われている。
まるで、
「タマゴが先か、ニワトリが先か?」
ということになるのだが、この考えは少なくとも、循環することで、元に戻り、また、反対から見るという発想であるが、それこそが、時空のカーブなのではないだろうか。
時空のカーブを一本にすることで、時空を飛び越えるのだから、当然、スピードが必要になる。
このスピードと時間の関係が、相対性理論の発想であり、
「光速で移動すると、普通に移動している人よりも、時間はゆっくり過ぎる」
という発想にいたるのだ。
それが、時空の歪みであり、その歪みが、タイムトラベルを可能にするという考えもあるのではないだろうか。
昔から、アニメなどで、タイムトラベルというと、歪んだ空間が発想される。その時にイメージされるものとして、まるで身体の中のような、内臓の中を移動しているように見えるのは、歪みを表していて、中には、サルバドール・ダリの絵のような、
「歪んだ時計がたくさん、歪んだ壁にへばり付いているというイメージ」
があるのだ。
歪んでいて、生き物の中を進んでいくイメージは、いかにも、
「カーブになったグラフを連想させるものだ」
と言えるのではないだろうか?
タイムトラベルのカギは、やはり、究極のところ、時空の歪みにゆだねられることになるのだろう。
タイムトラベルの場合は、理論的なことが、パラドックスとなって、人類への挑戦となっているが、ロボット開発の場合は、開発を行いながら、実際に証明されてきたこと。それは、かつて、小説家が提唱してきたものが大きかったりするのだ。
それが、いわゆる、
「ロボット工学三原則」
と呼ばれるものであり、その最初は、
「フランケンシュタイン」
の話であった。
この話は、大まかではあるが、フランケンシュタインという科学者が、理想の人間を作ろうとして、怪物を生み出したとされる話である。
この話が、いずれ、
「知能と強靭な肉体を持ったロボットが、いずれ、怪物となって、人間を襲ったり、支配したりするようになる」
という、
「フランケンシュタイン症候群」
というものを生み出した。
それが、そのまま伝説のように語られるようになり、その解決方法とでもいうべき、
「ロボット工学三原則」
というものを、提唱したのも、アイザック・アシモフという小説家であった。
彼は、ロボットが人間に害を与えず、理想通りの動きをするために、ロボットの人工知能に、この三原則を組み込むことで、フランケンシュタイン症候群の恐れをなくそうとかが得ていた。
だが、彼は小説家であるので、面白い小説を書くということが大切なので、この三原則を提唱したうえで、その矛盾を小説として描くという手法をとった。
この三原則の最初は、
「ロボットは人間を傷つけてはいけない。もし、傷つくことを看過できたのであれば、それを見過ごしてはいけない」
というものだ。
第一条は大原則であって、しかも、見て見ぬふりをしてはいけないということでもあるのだ。
第二条は、
「ロボットは人間のいうことを聞かなければいけない。ただし、第一条に背いてはいけない」
つまり、ロボットは人間を傷つけるということ以外の命令は聞かないといけないということだ。
第三条は、
「ロボットは、自分の身は自分で守らなければならない。ただし、一条、二条に背いてはならない」
これも、当然のことで、ロボットは誰も守ってはくれない、自分の身を自分で守るようにしないと、せっかく、高額を使って作ったロボットに、簡単に壊れてしまっては、使用者としては困るのだ。
ここで、この三原則には、大いなる結界ともいうべき、優先順位が存在する、もし、この優先順位が存在しなければ、矛盾だらけになり、せっかくの三原則が壊れてしまい、目的のフランケンシュタイン症候群の解決には程遠くなってしまう。
これが、ロボット工学三原則と呼ばれるものだ。
矛盾の一例として、
「ある星に地球人科学者数名と、ロボットが探索に行った時、人間に危害が加わる光線が発生し。最初はロボットに、確認するように命令したが、その科学者は最初それほど大事だとは思っていなかった。この光線はロボットにも危険があるので、ロボットは、人間に危害が加わらないことであり、そして自分が危ないということで、その命令に従わなあった。三条を生かしたのだ。しかし、人間はやっとその危険に気づき、ロボットに今度はきつく、排除するように命令したが、ロボットはもう従わない。ロボットに動いてもらわなければ、人間は全滅する。そこで考えたのが、捨て身の方法だった。つまり、敢えて人間が危険に晒されるということだ。そうすれば、ロボットは一条を守るため、自分を犠牲にしてでも、人間を助けるはずだというものだった。これが功を奏し、助かるのだが、紙一重だったことも、付け加える必要があるであろう」
つまりは、優先順位に基づいてできてしまった問題を、優先順位で解決するというものである。
さて、今度は、ロボット開発の問題として、大きな結界を持っているのが、
「フレーム問題」
である。
ロボット開発を行い、人工知能を埋め込んだのだが、ロボットは、その人工知能を使って動くのだが、その可能性の問題が、このフレーム問題であった。
世の中には、無限の可能性がある、たった今も、無限の可能性の中から人tsyが選ばれ、できあがっている、次の瞬間にも無限の可能性、その次も無限の可能性、つまり、無限がさらに無限を呼ぶのだ。
ロボットに対して、洞窟の前にいき、
「中に、燃料を入れた箱があるので、取ってくるように」
と命令すると、ロボットがその箱を見つけ、持ち上げた瞬間に爆発し、ロボットはバラバラになってしまった。
ロボットは、下にあるのが爆弾であることは分かっていたが、それ以上は想像がつかなかった。
そこで、箱を持ち上げると爆発するということを組み込んだ知能にして同じことをさせると、今度は、箱の前で動かなくなったのだ。頭の中が思考で無限ループを始めたのだ。
今度は、下の箱ごと持ってくればいいように頭脳を進化させたが、今度は入り口の前から、一歩も動けなくなった。
つまり、ロボットは知能が発達する分、無限の可能性を考え始めて、まったくこの場には関係のないことまで考えるようになり、動けなくなってしまったのだ。
そこで、今度は、いろいろな可能性を、パターンごとの引き出しに入れる形のものを開発しようとしたが、不可能であることに気が付いた。
「無限は、いくらパターンに分けたっとしても、パターンも無限にあれば、パターンの中の考え方も結局無限にある」
ということである。
つまり、
「無限を何で割っても、無限にしかならない」
という発想であり、それが、パターンをまるで一つの枠として捉えるということで命名された、
「フレーム問題」
というものである。
しかし、人間や、動物は、それらのフレーム問題を意識することもなく、無難にやり過ごしている。
動物などは、本能によるものなのか、遺伝子によって受け継がれた知恵がそこに存在するのか、条件反射的な本能が、備わっていることで、フレーム問題を意識させない。
人間も動物と同じなのだろうが、さらに、そこに人間独自の知能があるようで、そこからプラスアルファの解決方法が生まれてくる。だから、いろいろなものを発明し、文明という人間独自のものを発展させてきたのである。
人間や動物の脳がどのようなメカニズムになっていて、フレーム問題を無意識に解決できているのか、解明されていない。あくまでも、ずっと、解決されないまま、ロボット開発が考えられているのだが、このフレーム問題が解決できないとロボット開発は、頓挫したまま、先に進まないのだ。
そういう意味で、ロボット開発が進まない原因はここにあるのだ。
タイムマシンにしても、ロボット開発にしても、これは人間が神の領域に近づこうとすることで、そこにはどうしても超えることのできない結界があるのかもしれない。
旧約聖書の中にある、
「バベルの塔」
の話のように、万が一、開発に成功すると、
「神の裁き」
があり、
「裁かれた人間がどうなってしまうのか?」
という、今度は宗教的な話になってくるのだ。
「バベルの塔」
の場合は、塔は完全に崩壊し、神の力にて、人類がそれまで共通で喋っていた言語を、それぞれの民族ごとの言語に分けることで、世界各地に人間が分布していくということになったという。
それが、人間が世界各国に分布しているということを証明している話だったのだが、今度、
「第二のバベルの塔」
として、タイムマシンやロボットを開発してしまうと、何の証明として、人類にいかなる災いが降りかかるか分からない。
そういう意味で、ロボット開発とタイムマシンは、諸刃の剣であり、紙への冒涜に対しての挑戦なのではないだろうか。
宗教を信じていない人でも、ロボット開発と、タイムマシンの考え方には、同意することがあり、
「解決できない、人類最大で、最後の課題だ」
と思っているのではないだろうか?
それは、
「開発してしまうと最後だ」
という発想からきているものであり、この発想が、世の中に及ぼすことが、人類の滅亡に近づいていることなのかも知れない。
科学というのは、人類滅亡を自らで選ぶことにもなるということを、かつての世界大戦で知ったではないか。
そもそも、
「戦争を早く終わらせて、自国民の被害を最小限に食い止める」
という目的で開発された原爆。
もっともこれは建前で、本当は、
「ナチスドイツが原爆を開発している」
という妄想が、アメリカを原爆開発に走らせたのだ。
そういう意味では、
「アインシュタイン=シラードの手紙」
というのは、
「悪魔の手紙」
だったのかも知れない。
そこで、人類は、一発の爆弾で、一つの巨大都市が廃墟になるような爆弾を手に入れた。しかも、その後も放射能という二次災害のおまけまであるのだ。
それが、東西冷戦を引き起こし、キューバ危機にて、世界を巻き込む、
「全面核戦争の恐怖」
を身近なものとして知ることになった。
完全に、
「神なき知恵は、知恵ある悪魔を作るものなり」
という言葉そのもので、
「どんなに科学が発展しようとも、そこにモラルがなければ、どんなに知恵があっても、やつらは、悪魔でしかない」
ということである。
人間は、そんな知恵ある悪魔なのだろうか? それとも、
「血を吐きながらマラソンを走り続ける」
そんなおろかな動物なのだろうか?
話は逸れたが、人間は、核開発という、
「パンドラの匣」
の一つを開けてしまった。
今目に見えている、
「パンドラの匣」
があと二つある。それが、
「ロボット開発」
「タイムマシン」
である。あくまでも見えているものだけなのだが、今後科学が発達するにつれば、どんどん出てくるかも知れない。これこそが、
「知恵ある悪魔」
を作り出すことになるのかどうか、その大きな問題なのではないだろうか。
当時は、まだ昭和の頃、コンピューター開発もまだまだで、やっと、用紙に文字を打てるようになった時代だった。
1960年代の特撮などを見ていて、科学の最先端を走っているはずの、地球防衛軍基地で、コンピューターがはじき出した結果を出してくる装置が、パンチ穴の開いた紙テープだというのが、明らかな時代錯誤に思えた。
当時は違和感なく見ていたが、今見ると、違和感以外の何物でもない。
しかし、何に違和感があるのか、すぐに分かるものではないだろう。それだけ、頭が固くなっているのかも知れないと思うのだった。
科学が神への冒涜という考え方と、紙一重なのは、
「長所と短所」
という考え方に似ているのかも知れない。
松阪の大学時代は、そんなことばかりを考えている青年だった。当時はどこまで解明されていたが、今となっては忘れてしまったが、当時の本や雑誌で、そういう情報を得るのが好きだった。
当時は、一般的にパソコンなどは普及していない。パソコンなどという名前も存在しなかった時代である。だから、何か疑問があれば、今のようにネットで検索するなどということはできなかった。
そもそも、どの本を見れば、調べたいことが載っているかということすら分からない。まずは、広辞苑などで調べてみたり、本屋や図書館で、専門書を調べてみる。本屋に、検索機能があるわけでもないので、本棚を実際に見て、上から本の背を舐めるように見て探すしかないのだった。
少々の都市にいけば、大きな本屋もできている。その頃になると、大きな通りなどに、駐車場付きの本屋もできてきて、チェーン店かしていた。雑誌なども豊富で、結構利用者が多かったと記憶している。意外とそういう本屋に、知りたいことを書いている本屋があったりもしたものだった。
当時は、まだレコードが存在した時代で、レンタルレコードの店などもあった。
一時期、著作権の問題などでもめたりしたが、それも著作権法が確立されたりしたことで、著作権にはうるさくなったが、レンタル系の会社も、その法律さえ守っていれば、営業ができるという、市民権を得ることができたのだった。
「レコードとカセットテープ」
これが、その時代の音響を支えていたのである。
昔のレコードやカセットには、
「A、B面」
という両面が存在し、どちらも、ひっくり返して聞いていた。レコードの針を落とした時に響く、
「ブチブチ」
という音、あれが懐かしいと思っている人も少なくはないはずだ。
自分で、レコードから好きな曲を編集して。オリジナルカセットを作るのも、流行りだったものだ。
カセットテープを歩きながらでも聞けるという画期的な、
「ポータブルカセットプレイヤー」
が出たのも、その頃だったのではないだろうか?
それを思い出すと、皆ヘッドホンをつけて歩いていたのを思い出す。今のように、耳に当てる形のイヤフォン形式ではなく、頭から掛けるタイプのものだった。今でも、たまにファッションとしてつけている人がいるが、昔のがそのまま伝承されているのかどうか、ハッキリとは分からなかった。
また、時代的には大きなブームを呼んだものが数々出てきた。一世を風靡しただけで、下火になっていったもの、それを元祖にして、今でも形を変えながら、生き残っているものさまざまである。
一世を風靡したものとして記憶にあるのが、
「テクノポップ」
という音楽ジャンルであった。
シンセサイザーなどを駆使した、最新の音楽で、今でもあの頃の音楽を聴いている人も多い。
そして、その当時を元祖にするものが、
「テレビゲーム」
のブームであった。
今でこそ、家でテレビに繋いだり、ポータブル端末でゲームができたりするが、昔のは、テーブル形式だった。
テーブルの上が液晶画面になっていて、座った時足の上に来るあたりに、コントローラーがついている。
当時、爆発的な人気だった、
「インベーダーゲーム」
何度も復刻しているが、そんなゲームも今の社会では、若者だけでなく、中年クラスまでもが熱中するものであった。
まるでマンガの文化のようで、世代、性別問わず、親しまれているものとしての人気は根強いものである。
松阪の大学時代というのは、実にそんな時代だった。思い出しただけでも、まったく違う文化だったが、今に通じるものも結構あったというのも、印象的だ。
もっともっと、いろいろあったのだが、思い出していると、それこそ時間の感覚がマヒしてくる。とりあえず、記憶はこれくらいにしておこう。
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