異端鬼異聞禄
愚者
第一部
第1話 口伝
コツン。
小さな音を立てて空になった茶碗が板の間に着くと、続いて目の前の囲炉裏から小さく火が
旅支度の男は、その
夜を迎えたばかりの空は黒く大きな雲に覆われ、その黒く重そうな雲の合間を、鈍い
辺りは、今にも消えて無くなってしまいそうな陽を飲み込む様に、真っ暗な闇が
その火を囲む四つの影。
囲炉裏を真ん中にして、
その二人の背の向こう側に、囲炉裏からの赤い明かりですらも届かない薄暗い土間で、この家の主人の女房にしては随分と若そうな女が、明かりに背を向け、腰を落として暗がりの中で黙々と
小屋は八畳ほどの広さの板の間が一間と土間だけの、室内をぐるりと薄い板で乱暴に囲った、隙間だらけの粗末な物で、近くの麓の村からも離れ、山の中で一軒だけ、ポツリと立っていた。そこに住むと
只、そんな粗末な家の様子に不釣り合いな
一瞬。
目の眩む光が闇を切り
囲炉裏を囲む四人がその様子に顔を上げる。
と、直ぐに薄暗い闇が戻り、次に小屋を揺らす程の雷鳴が乱暴に空から叩きつけられた。
「きゃぁああっ!!」
女児の怯える声に痩せた男と旅人が目を向けると、女児が耳を
間をおかず。
又、囲炉裏で火が爆ぜた。
それを合図にするように、陽焼けが似合わない痩せて神経質そうな男が、はにかむ様な笑顔で口を開く。
「やはり降りましたか。通り雨かも知れませんが、今夜はもう遅いことですし、やはり泊まっていかれるのが良い」
そう言われた旅人は頭を下げて言う。
「お心遣い感謝いたします」
それは、その白い肌に似合う、爽やかで美麗な声だった。
その言葉に安心した様で主人は微笑んでから続ける。
「嫌々、無理に
そう言いながら、主人は旅人の後ろに置かれた大きな葛籠に目を向ける。旅人も視線だけその葛籠に送ると、こう答えた。
「
「——と、言うと」
主人の合いの手に促されて、旅人は照れ臭そうに答えを続ける。
「下手な芸を見て頂いて、路銀を稼いでおりまして…」
「これは旅の芸人様でしたか」
と、主人は驚いた様子で少し大きな声を上げる。
「嫌、御見受けしたところ、随分と良いお着物でこの様な山道を歩いておられたので、驚いてはいましたが。嫌、私等の様な者が見かける旅芸人とはあまりに格好が違っていたので、…これは驚き。もしや京の都などで芸を披露されておられたのではないですか?」
そう聞かれた旅人は、顔を伏せ首を左右に振るだけで
「
と答える。その答えに主人は又、驚く。
「嫌々、京に呼ばれるなど
その大業な誉め言葉に少々困った様子の旅人は、話しをすり替える様に主人の後ろを覗き込み聞く。
「それにしても、随分と立派な品をお持ちの様で」
旅人の言葉に今度は主人が振り返り、自分の後ろにある書見台と袋綴じの山を見た。
「お恥ずかしい、この襤褸小屋には似つかわぬ物ですな。嫌、昔の家にあった物や聞いた話しなどを書き留めたものでして、大層なものではございません。飯の種にもならぬ事で、これの
主人はそこまで言うと、自分を恥じる様に頭を
「嫌、嫌、解ります。好きばかりはどうしようもありません。私も父が芸事をやっていた為に今の芸を仕込まれたのですが、最初の内は嫌で嫌で仕様が無かったです。それでもやっている内に、皆様に喜んで頂いたり、褒めて頂けたものですから、いつの間にか芸事が好きになり、今や己の生きがいとなってしまいました。それで結局は、寝ても覚めても芸の事ばかりを考えてしまう様なこの有様。ご主人様のお気持ち分かります」
その慰めを受け、主人は小さく笑う。
「嫌、お言葉染みますな。それでも貴方様はその芸で身を立て、京にまで
そう、重ねて自分を恥じる主人の態度は、旅人を閉口させてしまう。
囲炉裏で火が小さく爆ぜ、責める様な激しい雨音が聞こえている。
最初は興味津々で聞き耳を立てていた子供たちが、居心地悪そうに二人を見る。その視線に気づいた主人が、気を取り直す様に口を開いた。
「どうでしょう、一つ簡単な芸でもお見せ頂けないものでしょうか。嫌、この様な山里から離れた場所では、面白い話しに触れる機会もございません。ご迷惑かとは思いますが、貧しき者達への
銭の無い芸事で生きる者達が、世話になった礼に芸を見せたり、
「嫌、私も好きなのですが——。私のせいでしょうか、この子らもその様な話しが大層好きなようで」
旅人はその主人の言葉を受け、自身の右手に座る子供達の方を見た。
目を大きく見開いてこちらを見る女の子と、頬の赤い小さな男のその様子を見た旅人は、小さく息を吐き、その顔を天井に一度向けてからゆっくりと顔を伏せた。
——昔々。
それは、それまでの爽やかな声が嘘の様な、低く、地から絞り出されたような声だった。
やはり通り雨だったのだろうか、地面や屋根を激しく叩いていた雨音はいつの間にか止んでいる。格子窓から入ってくる風が冷ややかに囲炉裏の火を揺らすと、
揺れる赤い陰影の中で、まるで謳う様に節を付け
昔々、遠キニ
ソレ
天ト地ト人ノ世ニ大災ヲ呼ブ。
民、
皇、臣ニ問ウ。
「
「
「
「
問ワレテ、
一ツ、
一ツ、
一ツ、
一ツ、
「
皇、四ツノ戦ノ君ニ
四ツノ戦ノ君、是ヲ
「
其々、
そこで息が入る。
失われた顔の影、その
・
暗く重い雲は途切れることなく天上を隠し、その夜の暗闇は途切れることなく続く。
一度止んだはずの雨は又激しく降りだし、今度は止むことを忘れたかの様に降り続き、
激しい雨音の中、その絞り出す様な声はまるで獣の咆哮であった。
その瞬間、旅人の白く濁った体液が女の中で弾ける。
放出の快感と嫌悪を充分に味わった旅人は小さな息をはいてから、乱れた着物から露になった女の
若い女の成長し切らぬ
旅人の異様に力が強いその両腕から解放された若い女は、まるで糸の切れた人形細工の様に、冷え切った
女の左の首筋から肩にかけての肉は
乱れた襤褸の着物は、若い女の腰に何とか纏わりついているだけ。それからむき出しの引搔き傷の付いた内腿には、白と赤い体液が混じりあい、
旅人はその場に立ち上がると、
雷鳴と稲光に浮き出す薄暗い小屋の中。
旅人が立つ土間からほんの少し高くなった板の間には、乱れた襤褸襤褸の
乱れた茣蓙の上には、さっき自身がその命を奪った二つの小さな遺骸が横たわっている。
足元のその二つの遺骸を見下ろす痩せた男。
その男の顔がゆっくりと旅人姿をしたモノの方を向く。
そこには、
鬼は
男は腰を抜かした様に膝から崩れ落ち、目に涙を浮かべながら呟く。
「
鬼は、ゆっくりと男に向って歩き出す。
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