異端鬼異聞禄

愚者

第一部

第1話 口伝

 コツン。

 

 小さな音を立てて空になった茶碗が板の間に着くと、続いて目の前の囲炉裏から小さく火がぜる音がした。

 旅支度の男は、そのけそうなほどに白いてのひらを静かに合わせると、目を閉じて虚空に頭を下げてから、ゆっくりとした息で「御馳走様ごちさおうさまでした」と呟いた。


 格子窓こうしまどの外は暗い。

 夜を迎えたばかりの空は黒く大きな雲に覆われ、その黒く重そうな雲の合間を、鈍い黄金色こがねいろの光が走っている。その光に地を照らすほどの明るさは無い。

 辺りは、今にも消えて無くなってしまいそうな陽を飲み込む様に、真っ暗な闇が闖入ちんにゅうしている。それに追いやられた弱々しいは、格子窓の隙間から逃げ込んできているだけで、粗末な小屋の中で頼りになるのは、赤々とした熱を発する囲炉裏の明かりだけだった。


 その火を囲む四つの影。


 囲炉裏を真ん中にして、上座かみざにこの家の主人らしき痩せた男が座り、その主人の右手に、男にしては珍しいれ髪の旅人。その旅人の又右手、つまり下手しもてに子供が二人座っている。二人の子供は、一人が十を越えた位の女の子。そして、その隣にまだ頬が赤い男の子が、年長のすがりつく様にその身を寄せる。

 その二人の背の向こう側に、囲炉裏からの赤い明かりですらも届かない薄暗い土間で、この家の主人の女房にしては随分と若そうな女が、明かりに背を向け、腰を落として暗がりの中で黙々とおけの水で茶碗を洗っていた。

 小屋は八畳ほどの広さの板の間が一間と土間だけの、室内をぐるりと薄い板で乱暴に囲った、隙間だらけの粗末な物で、近くの麓の村からも離れ、山の中で一軒だけ、ポツリと立っていた。そこに住むとおぼしき者達が着る物は、長く同じ物を着続けたせいなのか、つぎはぎが目立つ随分とくたびれた代物。

 只、そんな粗末な家の様子に不釣り合いな書見台しょけんだいと、是又、誰が読むのか結構な量の袋綴ふくろとじが主人の後ろの暗がりに、大事そうに積んであった。


 一瞬。

 目の眩む光が闇を切りく。


 囲炉裏を囲む四人がその様子に顔を上げる。

 と、直ぐに薄暗い闇が戻り、次に小屋を揺らす程の雷鳴が乱暴に空から叩きつけられた。

「きゃぁああっ!!」

 女児の怯える声に痩せた男と旅人が目を向けると、女児が耳をふさぎ、その懐に小さな童子を隠すように身を縮め、女児の胸に強く顔をうずめている姿があった。その二人の姿を見た男と旅人の顔がゆるみ、二人顔を見合わせると声を上げて笑う。

 間をおかず。

 襤褸ぼろ小屋の屋根を激しく叩く雨音が鳴り、囲炉裏を囲む四人はあきれた様に真っ暗な天井を見上げた。

 

 又、囲炉裏で火が爆ぜた。


 それを合図にするように、陽焼けが似合わない痩せて神経質そうな男が、はにかむ様な笑顔で口を開く。

「やはり降りましたか。通り雨かも知れませんが、今夜はもう遅いことですし、やはり泊まっていかれるのが良い」

 そう言われた旅人は頭を下げて言う。

「お心遣い感謝いたします」

 それは、その白い肌に似合う、爽やかで美麗な声だった。

 その言葉に安心した様で主人は微笑んでから続ける。

「嫌々、無理に足留あしどめ頂いてこんな粗末な小屋においで頂いたのは私の方ですから——。所でその葛籠つづらは?」

 そう言いながら、主人は旅人の後ろに置かれた大きな葛籠に目を向ける。旅人も視線だけその葛籠に送ると、こう答えた。

めしたねで御座います」

「——と、言うと」

 主人の合いの手に促されて、旅人は照れ臭そうに答えを続ける。

「下手な芸を見て頂いて、路銀を稼いでおりまして…」

「これは旅の芸人様でしたか」

 と、主人は驚いた様子で少し大きな声を上げる。

「嫌、御見受けしたところ、随分と良いお着物でこの様な山道を歩いておられたので、驚いてはいましたが。嫌、私等の様な者が見かける旅芸人とはあまりに格好が違っていたので、…これは驚き。もしや京の都などで芸を披露されておられたのではないですか?」

 そう聞かれた旅人は、顔を伏せ首を左右に振るだけでぐに答えようとはしなかったが、二人の話しに聞き耳を立て、興味津々で答えを待つ子供達の顔が目に入り、

みやこに居た事もありますが、大層なものではありませぬ」

 と答える。その答えに主人は又、驚く。

「嫌々、京に呼ばれるなどほまれではありませんか」

 その大業な誉め言葉に少々困った様子の旅人は、話しをすり替える様に主人の後ろを覗き込み聞く。

「それにしても、随分と立派な品をお持ちの様で」

 旅人の言葉に今度は主人が振り返り、自分の後ろにある書見台と袋綴じの山を見た。

「お恥ずかしい、この襤褸小屋には似つかわぬ物ですな。嫌、昔の家にあった物や聞いた話しなどを書き留めたものでして、大層なものではございません。飯の種にもならぬ事で、これの所為せいでお恥ずかしい事に身代しんだいまでつぶしてしまい、今ではこの様な有様。それでもどうにもこればかりは止める事が出来ず…」

 主人はそこまで言うと、自分を恥じる様に頭をいてみせる。その主人の様子を見ていた旅人は慰める様に言う。

「嫌、嫌、解ります。好きばかりはどうしようもありません。私も父が芸事をやっていた為に今の芸を仕込まれたのですが、最初の内は嫌で嫌で仕様が無かったです。それでもやっている内に、皆様に喜んで頂いたり、褒めて頂けたものですから、いつの間にか芸事が好きになり、今や己の生きがいとなってしまいました。それで結局は、寝ても覚めても芸の事ばかりを考えてしまう様なこの有様。ご主人様のお気持ち分かります」

 その慰めを受け、主人は小さく笑う。

「嫌、お言葉染みますな。それでも貴方様はその芸で身を立て、京にまでのぼられた。私の様な酔狂な者とは違いますでしょう」

 そう、重ねて自分を恥じる主人の態度は、旅人を閉口させてしまう。

 

 囲炉裏で火が小さく爆ぜ、責める様な激しい雨音が聞こえている。

 

 最初は興味津々で聞き耳を立てていた子供たちが、居心地悪そうに二人を見る。その視線に気づいた主人が、気を取り直す様に口を開いた。

「どうでしょう、一つ簡単な芸でもお見せ頂けないものでしょうか。嫌、この様な山里から離れた場所では、面白い話しに触れる機会もございません。ご迷惑かとは思いますが、貧しき者達へのなぐさみと思うて、如何いかがなものでしょうか?」

 銭の無い芸事で生きる者達が、世話になった礼に芸を見せたり、一筆ひとふでを書く事はよくある事だった。貧しい主人のそのよくある頼みに、旅人は苦笑を浮かべあまり乗る気では無い様子を見せる。

「嫌、私も好きなのですが——。私のせいでしょうか、この子らもその様な話しが大層好きなようで」

 旅人はその主人の言葉を受け、自身の右手に座る子供達の方を見た。

 目を大きく見開いてこちらを見る女の子と、頬の赤い小さな男のその様子を見た旅人は、小さく息を吐き、その顔を天井に一度向けてからゆっくりと顔を伏せた。


 ——昔々。

 それは、それまでの爽やかな声が嘘の様な、低く、地から絞り出されたような声だった。

 

 やはり通り雨だったのだろうか、地面や屋根を激しく叩いていた雨音はいつの間にか止んでいる。格子窓から入ってくる風が冷ややかに囲炉裏の火を揺らすと、うつむいた旅人の顔が真っ暗な闇の中に消えて見えた。


 揺れる赤い陰影の中で、まるで謳う様に節を付けながら低いかすれた声は朗々と語りだす。


 昔々、遠キニ温羅うらノ国アリ。

 ソレながキノ間、人モ獣モ殺シ、樹木ヲ枯ラシ、作物ヲ荒タル。

 天ト地ト人ノ世ニ大災ヲ呼ブ。

 民、これニ酷ク難儀スル。

 おうおおイニ是ヲ嘆キ、こころやすマザル。

 皇、臣ニ問ウ。

 「温羅うらノ災イ大変憎キ。これ、何トスルガよしカ」

 しんいわク。

 「おうノ臣下、豪ノ者多ク。是ヲリ、ソレヲ退しりぞケルベシ」

 おう、大キク頷イテカラ問ウ。

 「温羅うらヲ退治セル者ハ何処どこ

 「此処ここリ」

 問ワレテ、よつノ君ガ声ヲ上ゲタ。

 一ツ、吉備津野命きぶつのひこのみこと

 一ツ、大彦命おおびこのみこと

 一ツ、武渟川別命たけぬかわわけのみこと

 一ツ、丹波道主命たんばぬしみちのみこと

 おう、大変ニ喜バシ。

 おう、ソシテ

 「まさシク、よついくさきみ。誠ニ頼モシヤ。なんじラ是ヲ持ッテ温羅ヲのぞクベシ」

 皇、四ツノ戦ノ君ニ其々それぞれニ宝剣ヲ下賜かしサレル。

 四ツノ戦ノ君、是ヲうやまわシクいただこたエル。

 「かしこマリ、かしこマリ」

 其々、温羅うらノ国ヘ勇マシクおもむキタルトウ。


 そこで息が入る。


 失われた顔の影、そのなかの目が、その話しに目を輝かせながら聞き入る子供達の顔を覗く。恐怖と好奇の混じった愛らしい子供たちの顔を見るその目は、黒目が白銀しろがね色をしていた。



     ・



 暗く重い雲は途切れることなく天上を隠し、その夜の暗闇は途切れることなく続く。

 一度止んだはずの雨は又激しく降りだし、今度は止むことを忘れたかの様に降り続き、稲光いなびかりの雷鳴がとどろく度にその雨脚の激しさは増した。


 激しい雨音の中、その絞り出す様な声はまるで獣の咆哮であった。


 その瞬間、旅人の白く濁った体液が女の中で弾ける。

 

 放出の快感と嫌悪を充分に味わった旅人は小さな息をはいてから、乱れた着物から露になった女の両乳房りょうちぶさ鷲掴わしづかみにしていたその手を、名残惜しそうに離す。

 若い女の成長し切らぬささやかふくらみの両の乳房には、余程に強く揉まれたか、その跡がはっきりと残っていて、爪痕などはその柔らかな肌を破り、肉に届き、血が流れる。その傷から流れる赤い血は幾筋にも分かれ、その細やかな膨らみの曲線をれ、若い女の柔肌に赤い筋の跡を残した。


 旅人の異様に力が強いその両腕から解放された若い女は、まるで糸の切れた人形細工の様に、冷え切った土間どまの土の上に倒れ込んだ。そのあかく上気した顔は、白目をむき、苦悶に開いた口からは泡を吹き出し、その泡には薄い赤い色が混じる。

 女の左の首筋から肩にかけての肉はえぐれていて、赤い血が女の粗末な着物とその肌を染め、今なおわずかに噴き出し続ける。

 乱れた襤褸の着物は、若い女の腰に何とか纏わりついているだけ。それからむき出しの引搔き傷の付いた内腿には、白と赤い体液が混じりあい、あふれ、そして垂れた。


 旅人はその場に立ち上がると、履物はきもの穿なおすことも無く、射精の後にも関わらず固く起立した一物いちもつさらしたまま振り返る。


 雷鳴と稲光に浮き出す薄暗い小屋の中。


 旅人が立つ土間からほんの少し高くなった板の間には、乱れた襤褸襤褸の茣蓙ござ。真ん中にある囲炉裏に吊り下げってあったはずの鍋はひっくり返り、囲炉裏からは白い煙が立ち昇っている。

 乱れた茣蓙の上には、さっき自身がその命を奪った二つの小さな遺骸が横たわっている。

 足元のその二つの遺骸を見下ろす痩せた男。

 その男の顔がゆっくりと旅人姿をしたモノの方を向く。

 そこには、先刻せんこく囲炉裏を囲い、話しをしていた旅人と同じ着物を着た、下半身をむき出しに鬼のめんを被ったモノが立っている。

 

 鬼は白銀色しろがねいろをした目でその男をじっと見つめている。


 男は腰を抜かした様に膝から崩れ落ち、目に涙を浮かべながら呟く。

矢張やはり、本当だった…」


 鬼は、ゆっくりと男に向って歩き出す。

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