5

 抑えた、だがこの場には不釣り合いな高貴な声に、ティアレは思わず顔を上げた。

 ほつれた紺の髪が顔にかかっても、目を見開いたまま、鉄格子の向こうに立つ人の姿から目を離せなかった。


「殿下……」

「顔色が悪いな。当たり前か」


 付き人を従えた王子ベルンはいくぶんか翳りの濃い苦笑を浮かべた。それがこの暗い牢のせいなのか、そうでないのかはわからなかった。


 ティアレはかすかに唇を震わせた。体を起こしそうになったのを、堪えた。

 ――助けてくださいと、醜く縋ってしまいそうだった。

 そんなことをすれば最後の矜持さえ失ってしまう。

 せめて誇り高くあれと何度も厳しく諭してくれた父は、失望に失望を重ねるだろう。


 一度唇を引き結び、助命を乞うかわりに、言った。


「――申し訳、ございません」


 頭を垂れた。解けかかった長い髪が、ぱらぱらとこぼれ落ちる。

 ――女神の声が聞こえないことを、隠匿してきた。力を失いつつあることも。

 それは事実だった。

 たとえ志がどうあったところで、結果は変わらない。

 強く口を閉ざし、それ以上の言い訳を封じた。


 しばらく、王子の背後で付き人が持つ火のかすかな音だけが響いた。

 やがてベルンは言った。 


「お前のそういうところが、嫌いではなかった。お前なら愛せると……思ったよ」


 静かな声が、ティアレの胸を深く刺した。

 厳しく糾弾されることも、罵られることも覚悟していた。だがそれよりもずっとずっと、ベルンの言葉が心を穿つ。

 ――迎えるはずだった未来。輝かしい将来。

 それは確かにあって、だが決定的に失われたのだと、突きつけられるようだった。


「わかっているだろう。私の伴侶は奇跡を持つ聖女でなければならない。そしてこの国が必要としているのも、力を持った聖女だ」


 ティアレはこみあげるものを噛み殺しながら、はい、と震える吐息まじりにそれだけをこぼした。

 目の奥が刺されたように痛み、喉を締め上げられているような苦しさを感じた。

 

 自分は、ベルンを失望させた。役に立てなかった。

 脳裏に、あの輝かしい少女の姿が浮かんだ。


「ジェニアは、女神が我が国に与えた恩寵だ。あれほどの力は類を見ない」


 ベルンの声にかすかな感嘆がまじる。

 その響きが、ティアレの胸を鋭く切り裂いた。痛みと衝撃に耐えられず、とっさにベルンを見た。


 だがベルンの目に、先日まであった親しみや熱はもうなかった。

 ただ厳しく突き放すような――それ以外にあるのはほんのわずかな憐憫でしかなかった。


「聖女の力を失ったお前に、伴侶としての価値はない」


 赤毛の王子ははっきりと告げた。

 ティアレの体は震え、同時に大きく眩暈がした。切り裂かれた胸の奥で血が流れ、体を支える力が流れ出ていってしまうようだった。


 す、とかすかにベルンの呼吸の音が聞こえたかと思うと、次に聞こえたのは厳しい声だった。


「本来なら死罪に値するところだが、お前がつかの間とはいえ、癒しの力を持って王族に仕えたのは事実。ゆえに罪を減じ、国外追放処分とする。――二度とこの地を踏むな」


 ティアレの視界は滲み、歪む。ベルンの厳しい声が頭に響く。


 ――一瞬、目が合ったように見えた。


 殿下、とティアレはかすかに呼んだ。

 立ち上がろうとしてよろけ、暗い床にたたきつけられた。


 ベルンはもう振り向かなかった。踵を返し、牢の出口へ――光のさすほうへと戻っていく。

 重く、扉が閉じられる音が響く。

 そうしてまた暗闇に取り残される。


「……っ」


 ティアレは胸をおさえ、うずくまった。

 溢れた涙が頬を濡らし、嗚咽で息が乱れる。


 そうして、かつて《星の聖女》と呼ばれた女の嗚咽が暗い牢の中に長く響いた。




 強烈な日差しに、ティアレの目は眩んだ。


「早く行け」


 立ち眩みを起こしていた背を突き飛ばされ、よろけて転ぶ。

 とっさに振り向いたときには、刑吏は馬車に乗り込み、馬の嘶きと共に来た道を戻っていった。


 ティアレはふらつきながら立ち上がる。周りにあるのはわずかばかりの草と、砂色の荒地だった。国境付近だろう。

 持ち物は何一つない。あるのは自分の体と、薄汚れた麻の服だけだった。


 しばらく、呆然と立ち尽くす。


 どこへ行けばいいのか、どうすればいいのかもわからない。

 戻ることは許されない。たとえ戻ろうとしたところで、この足で行くことは無理なことはわかる。


 ふいに、がさりと草が揺れる音がした。

 ティアレはびくりと肩を揺らし、振り向く。


 だが草むらから現れた獣に、金の散った目を見開いた。


「ア、ズ……?」


 灰色の狼が近寄り、頭をこすりつけてくる。

 生き物の温もり。柔らかさ。

 長く触れ合っていなかったそれに、ティアレの視界が歪んだ。


 こらえきれずに崩れ落ち、狼の首にすがった。

 やがて他に誰もいない荒野の中、声をあげて泣いた。

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