郷愁

 ……会話が途切れて黙々と異臭の漂うスラム街を進んでいく。廃材で造られた建物群がひしめき合うばかりに視界は良くなかったが細い路地を抜けてソラはぼんやりとこの街を把握していった。


 かつて摩天楼だったころの建物が、舗装された道だとか、廃棄された壊れかけのビルだとか、そういったものが土台になっているらしい。


 路地を抜けた先はひび割れた巨大な架橋の下だった。市場のようで、無秩序に屋台が乱立している。衣類、銃器、得体のしれない干し肉。見渡せば見渡すほどなんでも売られている。行き交う人間もそれなりに多かった。


 ソラは自身の衣服と他人のボロ着を見比べて肩を竦める。異物感を自覚して嫌々ながらもレイルのコートを力強く握り続けた。進めば進むほど見たくないものまで視界に入っていく。


 傷だらけで腕のない半裸の男。痩せ干せた身体の子供。険しい喧騒。そんななか不自然なくらい穏やかな声が響いていて、ソラは目を惹かれた。すぐに理解できないものを見る目へと変わる。


 白一色の衣で顔まで隠した集団。全員が深く美しい紫の双眸だけを覗かせて、薄汚れた空に両腕を振り仰いでいた。紫紺に煌めく杖が地面を鳴らす。彼らの足元で数名の男女が深々と跪く。


 ソラの脚が震えだす。見ているとどうしてか背中が焼けそうなくらい熱くなって、視界が酷く霞み揺れた。


 少女の異変に気付いてか、レイルは足早にその場を通り抜ける。決して白衣の集団に顔を向けようとはせず、棒立ちして彼らの声に耳を傾けようとしていたソラを強引に引っ張っていった。


 声が届かない距離まで移動するとソラは我に返ったように首を傾げた。胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感に顔をしかめる。


「あの人達はなに? その……変な感じがするんだけど」


「《十三の紫》とかいう異界から来た自称神を信仰対象にした破滅主義集団だ。それ以外のことは知らないし、関わりたいとも思わない」


『あんなカルト野郎共はどうでもいいんだよ! いや、ありゃ女か? まぁどっちも肉だ肉! 飯屋だぜお嬢ちゃん』


 乱雑に屋台が立ち並びごった返した架橋下を進みゴミ溜めを踏み越えて地下階段を下りた。点滅する電灯に照らされて一際喧騒が激しく、怒号に混じって獣の唸り声も響いてくる。ごった返す人混み。紛れてスリをしようとしてリンチにされる少年。血と汗が飛び交っている。


 彼らが何を見て盛り上がっているのか気になって、ソラは足りない身長を補うように何度か飛び跳ねた。そのたびに銀の髪が煌めいて白いワンピースがふわりと靡く。かなりの視線が移り替わっていたが人目を気にかけるよりも好奇心が勝っていた。


 苦戦しながらも喧騒の中心が見えてくる。灰色でぬめり気を帯びた四足獣が二匹。互いに花弁状の大顎を開けて威嚇していた。傷だらけの身体。


 闘っている? 興味がさらに惹かれてつま先立ちをしたり飛び跳ねていたが、我に返るみたいにレイルに視線を感じ取って……沈黙した。すぐに無表情になって誤魔化すみたいに思ってもないことを尋ねる。


「まさかあれを食べるの?」


『煮込みが美味いぜ』


「馬鹿を言うな。あれはただの闘獣場、ようは賭場だ。俺達が寄るのはその奥だ」


 人混みを掻い潜って地下通路にひしめき合う屋台群が視界に入る。低い天井。密閉空間のなかむわりと鼻の奥まで満たす油と血と泥の臭い。とても飲食を取り扱う店とは思えなかった。それでも周囲には地面に直座りして得体の知れない揚げ物を食べている人が散見できる。


「……あんたは食べるの? 機械なのに」


「俺には口の機能がある。顔に近づけると勝手にエネルギーに変換できる。食べる必要はないが……ずっと何も口にしないと自分が誰だか分からなくなるから嫌いだ。生物は食事をする。俺はそういう存在でいたい」


「……そう。そんなに人間っぽくいたいなら顔でも描いてみたらどう?」


「いい案かもしれない」


 ――冗談で言ったのに。無感情な声ゆえにレイルが冗談を返したことを分からずにソラは苦い顔を浮かべる。話を逸らすみたいに屋台を一瞥した。


「よう黒い旦那! 今日は別嬪連れじゃねえか。そっちの気はないと思ってたがどこで買ったんだ? いくら払ったら俺にもヤらせてくれる?」


 錆と油で汚れた屋台。野犬の肉を捌く髭面の男が意気揚々とレイルに声をかけた。ソラに下衆な目線を向けて、対抗するみたいに少女は軽蔑を込めて睨む。


「悪いが彼女はそういう用途じゃない。通りすがりに触ってみろ。誰が相手でも俺は武力処置をとることになる」


「ジョークじゃねえか。それで? 注文はとっとと頼むぜ。じゃねえと会話料請求するぜ」


 ナマズ、鯉、どぶねずみの唐揚げ。焼き犬。焼き亀。知りたくもない干し腕。習った記憶もないのにソラは商品の値段やら説明を読むことはできた。違和感に首を傾げつつも、肉に蝿が集ってたり、黒く変色してるのを見て気持ちが魚に偏っていく。


「……この魚はどこで取ったの? 川なんてなさそうだけど」


 ソラの困惑顔に店主は頬を赤らめながらしたり顔でマンホールを指差した。――魚はやめよう。亀も嫌だ。すぐに心変わりして、何を頼めばいいかわからずにレイルを見上げる。が、プライドが逆撫でてそのまま視線を【肉の剣】にズラした。


「えっと、剣さん? 何がオススメなの?」


『オススメはドブネズミの唐揚げだぜ。犬は硬すぎるからダメだ』


「じゃあ……それをお願いします」


 レイルも同じ物を頼んだ。すぐに店主は揚げて時間が経ったであろう肉塊に鼻が麻痺するぐらい黒いソースをかけて手渡してくる。


 ソラは恐る恐る顔を近づけたものの、どこかから酸っぱい臭いがして口にするのを躊躇った。本当にこれを食べるのか疑問に思えてきて、レイルと【肉の剣】を僅かに視界に入れる。


『旨ぇ! 旨ぇッ! オレの世界じゃーよー! こんな味がある肉はねえぜぇッ! 何度も喰ってもこの店のドブネズミは最高だチクショー!』


 ぐちゃぐちゃ。ペチャピチャとグロテスクな咀嚼音を鳴らして【肉の剣】はぺろりと食べ終えていた。物足りないのか足元に唾液を垂らして巨大な瞳が爛々と周囲を見渡している。


 レイルに至っては頭部装甲に唐揚げを近づけた途端、音もなく手に持っていたそれが消失していた。人間らしさの欠片もない。視線に気づいてソラを見下ろす。


「――親を殺した人間の施しなんて受けたくないかもしれないが、食べないならいずれ衰弱するぞ。それは誰も望んでいないことだ。死んだら俺を殺すこともできない」


「……ッ。そういうつもりで躊躇ってたわけじゃない」


 ヤケになるみたいにソラは頬張った。濃いソースの味。肉の臭み。油。とても美味しいと言える品物ではなかったが。


「――――懐かしい味がする」


 なぜか涙が出た。


「どうかしたのか?」


 表情も抑揚もなかったが、その分レイルはソラの僅かな変化に注意を凝らし続けていた。ぼたぼたと涙を流したわけでもなく、ただ蒼い瞳が僅かに潤んだ程度だったのだが、不安視するように顔を覗く。


 ソラはすぐに顔を背けた。視線を合わせたくない。どんな想いをして馴れ馴れしく接しなければいけないのか分からなかったし分かりたくもなかった。


「なんでもない。目が染みた。……多分、ソースの所為」


 違う。そんなことで泣かない。自分で口にした言い訳を自分で否定して、記憶の齟齬に歯を軋ませる。得体の知れない違和感が怖くなってきてソラは隠すように涙を強く拭った。


「もう大丈夫。早く案内してよ。パパを殺すように依頼した奴らのとこに。私が本当の外を見るキッカケをくれやがったところに」


 押し込めるようにドブネズミの肉を食べきって、獰猛な視線でレイルを見上げる。のっぺりとした黒い装甲が点滅する電灯に照らされていた。反射すらなく光を呑みこんでいる。


「わかった。すぐに向かおう」

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