日常生活

藤宮史(ふじみや ふひと)

第1話

 人生のなかばから、話は突然はじまる。この話は、別段べつだん特異とくいなところもなく、淡々と今日は昨日のつづきで、つまらなそうに続くのである。今は平成の御世みよ、森内閣から小泉内閣へ政権交代し、しかし、実際あれだけ批判的なを向けられていた自民党政権はそのままで、ここ十年来の不景気な経済状況はかわらず、いや、段段に悪くなって、失業者も自殺者も増えているのであるが、景気回復の掛け声ばかりで何も遅々として進んでいない。


 男が、駅前にひとり立っている。駅前は、東京の阿佐ヶ谷あさがや駅前で、その駅のショーウインドの前に立っている。ウインドの中を見ている。割合熱心に見ているようだ。          

 駅前は、夕刻のあわただしい頃になっていて、そこも行きう人々の気持ちのありようのまま喧騒けんそうのなかにかっている。街頭がいとう演説えんぜつのかすれてきとれない大音量が喧騒けんそうをきわだたせた。

 男は、男とうのは私のことで、人生の半ばも私のことであった。私は今年三十七になる。頭にも早くも白いものがチラホラしだした。白髪しらがえるのが、すこし早い気がする。しかし、白いものが混じると、それなりに苦労をしてきたようで、わるい気もしない。なんだか貫禄がついたんじゃないかとか、知性的に見えるのでは、とも思う。しかし、また、年齢以上に思われたり、言われたりすると嫌な気もする。白髪がもとで、若い世界から追いられ、仲間はずれにされては困る。また、時として若いと言われると、随分と気持ちがいい。最近はそう言われなくなって久しいので尚更なおさら言われると気分はいいのである。では何故なぜ、白髪がそれほど気になるかと云うと、白髪は、多く老いと死を聯想れんそうさせるからで、まだまだ私の死期は遠い気もするが、ほかに死ぬはずの人がたくさん列をなしているのだろうが、やはり気持ちはよくない。人間だれしも死ぬのであるが、死ぬのを明日延ばしにして生活している。死にたくないのである。すくなくとも、今は死にたくないのだ。では何時いつ、死ぬのであるのか。

 話がれてしまったが・・・・・若いと言われると、気分がいい。大概たいがいいい。上手うまめられれば、なおいい。しかしまた、白髪頭しらがあたまで若いとうのもへんな話で、禿げ頭でいるよりは若い。死から遠い気もする。生命感があるかもしれない。白髪頭は、すくなくとも白髪を黒く染めれば、黒くなる。元に戻る。しかしまた、禿げ頭もカツラや植毛で元にもどる。勿論もちろん双方そうほうともに贋物にせものではある。生命感も何もあったものではない。が、しかし、白くなった頭髪を黒く、抜けた毛を元通りに植える気持ちの張りに生命感はあった。


 ショーウインドのなかには、漫画家 永島慎二氏の単色木版画が額にいれて懸けてある。木版画は全部で十二、三点あるのか、壁にびっしり詰めて懸けてある。またウインド内の幅のせまい床には永島慎二氏の漫画本が五六冊置いてある。

 永島慎二氏は、六十年代、七十年代始めに特に活躍注目された人生派漫画家で、瘋癲(フーテン)、ヒッピーなどと精神的なつながりがあった。その頃、漫画雑誌「ガロ」や「コム」に描いていて、なかには熱狂的なファンもいて、その方面の教祖的存在であった。漫画は、しかし従来の少年漫画のように他愛もなく、笑って過ぎるだけのものではなしに、何か純文学作品のなかにある人生の屈託くったくをでも描いたようなものがあった。つまり漫画としては成立していないような、面白みに欠けた、滑稽味こっけいみのないものであった。しかしまた、人生そのものが、たいして面白くないのだから、それを写した漫画が面白いはずはない。これは人生に寄りい、共にあゆんでゆける漫画であった。

 T氏の豆本、そして、氏の令弟氏の漫画単行本一、二巻も展示してある。それらはすべて直筆じきひつサインが入っている。 私は、このところサイン入りの物にっていて、もっともサインとっても、直筆の心のこもった丁寧な署名にかぎられ、また書籍の見返し頁に書いたもの、書籍は高級な革装丁や細工物の限定出版なら尚更なおさら良くて、サインも作家が直接紙の頁に書いた痕跡こんせき、特に筆圧の、書き跡のあるものはよく、私は、そのサインを前にすると、私の頭のなかで永年にわたって読み込んできた作品のエッセンスが、私のおもう作家像がいっとき結晶化され、具体的に作家が今ここにてペンや毛筆を手にり書いているような気にさせるのであった。私には、作家のからだが透きとおったり色を持ったりしながら見える気がする。それは作家が署名をはじめようとする瞬間から文字を書きはじめ、書き継ぐ過程、書き終わるところまで感得でき、充分に「署名をする」とうことを堪能できるのである。勿論もちろんこれは「署名」に惑溺わくできする私ならではのことで「署名」そのものではなく、当を得ていないだろう。しかしながら署名入り書籍を手にしていると、この世のなかで一番かけがえのない宝物を手にしている気がしてくるのであった。


 私が、先程から熱心に見ているショーウインドは、(株)JR東日本都市開発の所有で、私が借りているものであった。これはひと月の賃貸料が三万円で、三ヶ月まとめてお金を支払う形式になっているので計九万円、三ヶ月ごとかかるものである。何故なぜこれを借りているかとうと、これは私にとって初めての正式の店舗で、私は黒猫堂とう店を十年程前からやっているのであるが、これは元々美術方面の出版物をつくって売って行こうと考えて、勿論お金もうけの考えもあったが、第一に良い物、本当のものを創って、人びとから大いに評価喝采かっさいしてもらいたかったのであったが、いくらやっても鳴かず飛ばずで、ぜんぜん世の中からは評価もされず、売れもせず、段段に嫌気もさしてきたり、張りあいもなくなったりで、風船がしぼむみたいに、気持ちがしぼんでいった。

 今の黒猫堂は、前とはちがう。違わなければいけない。前のように採算もとれず暮らしも立たなければ何のための事業であるのか、と思う。思わなければいけない。これまで無店舗営業で何だか仕事をしているんだか、いないんだか判らず、世間体もわるく、実績も上がらずに小売店まかせで、これからは少しでも世の中に出て、結果をださなければいけないだろう。

 では如何いかにすべきであるか。私は魂の半分を何処どこかへ売り飛ばしたように、気持ちも半分、熱意も半分でやってゆけばいいのか。それが、売れる物を創り、売ってゆくということなのかもしれない。実際いま私の頭のなかは半分、いや半分以上霧がかかったように心の感覚もはっきりせず、自分を誤魔化すのではなくて、わからないで動いているようなものだ。それがいいのか、わるいのか、利益をだしてから考えたい。

 ショーウインドは、ショーウインドだけで他に店舗の部分がつながっていたり、離れたところに店舗があるとうわけではなかった。念願の黒猫堂の店舗もショーウインドだけの無人店舗で心細いばかりである。しかも販売は通信販売の他はない。

 ウインドの大きさは畳二枚分ぐらいの硝子がらすのもので、今年の八月の猛暑のなかを、展示品をあれやこれやとそろえ、額縁を懸ける棚附けに難渋したり、レイアウトに思いをめぐらしたり、ひと通り大変な思いをしながら、やがて開店。今日でひと月半ち、苦労のわりにはあっけなく、感慨もなく、そして、いまだ何も売れていない。反響もない。駅前という良い立地条件を考えても、ほとんどなにも反響がないのは不思議な気がする。しかし、これも通信販売なので結果がでるのに時間が掛かるのは仕方がないだろう、とも思う。でも、せめて私の部屋(黒猫堂の電話)へ何かしら問い合わせがあってもよさそうなものだが・・・・・。そう、開店してから二、三日目に、外国の女性の声らしき、あまり流暢でない日本語の問い合わせが一件、私のところの留守番電話に注文をするのではないが、別件できたいことがあるとうあまり有り難くない話を吹き込んでいた。その後、私が先方の指定の携帯電話へ連絡を入れてみると、留守番電話サービスセンターにつながって不在で、こちらへうご連絡と入れておいたが、それきりになった。そのときは随分私の方は気持ちも忙しく煩瑣はんさな思いであったが、まったく売れもせず、また次につながる手掛りもなく、時間だけが虚しく過ぎて、これはいったい何をしているのか、まるでわからなく虚脱の思いであった。また、他に若い男性の声で電話があった。声の主は、買う気があるのか、ないのか、自分でも決めかねているようでもあり、さんざん私に、永島氏の近況を細々と、また氏の作品の話やそれにまつわる自分の感想、黒猫堂とはなに?から経営方針への詰問、そして高額商品の値段の相談、版画のこと、A.Pと版画に鉛筆書きしてあるものは何など、実にまあ、こまごまといて、こちらにえきはなく、もうまったく疲れきってしまって、これは通信販売とう仕事ではなしに、心の寂しい者を相手の無償の相談員でもしているような気がしてくるのであった。これも、結局、連絡もなにもそれっきりになった。


 ショーウインドの前に立っている私はゆきかう人々の通行の邪魔にならぬよう身をかわしながら立ちつづけている。

 私がいるそこは通路になっていて、駅前の、駅ビルと云うのか、それは一階部と二階部に分かれ、そのなかにさまざまな業種の店舗が幾十店舗も入って、建物の最上階にあたる三階部分が駅のホームになっている。駅ビルは、ビルとう印象よりも駅そのもので、高架線の鉄路の下に店を入れている具合のもので、もっとも建物の格好はわるくない。

 ショーウインドはビル一階部分の駅改札口の南側通路脇にり、通路は線路に沿うように西へ東へと延びている。通路は二百メートルぐらいのものである。その通路の改札口に一番近いところに黒猫堂商店のショーウインドはるのだが、ショーウインドは、本当は畳二枚分の広さではなくて、畳六枚分はある。畳二枚分とうのは黒猫堂商店だけの賃貸スペースであって、他の畳四枚分は、二枚分ずつメガネ屋と煎餅屋せんべいやが使っている。勿論もちろんきスペースがあれば畳六枚分をドンと使って威張ってみたいが、お金も、その機会もないので、コソコソした営業をしている。

 ショーウインドは大きいひとつの広告枠で、枠の上部に「ダイヤ街」とめいがうたれ、黒猫堂商店もメガネ屋も煎餅屋も三つ一緒に「ダイヤ街」店のような気もしてくる。大声で名乗りをしておかないと「ダイヤ街」店に吸収されてしまいそうなので、ウインドのなかに黒猫堂の札をつくって貼っておいた。


 ショーウインドの硝子がらすの端に、小さいチラシがテープで貼ってある。

 チラシには、漫画家T氏の貸本時代の単行本二冊が豆本仕立の復刻刊でT氏の直筆サインと落款らっかん(朱印)が入っている。署名は墨筆らしく丁寧に小さく書かれ好事家(マニア)にはたまらないものになっている。これは更に限定発行の250部のものでシリアルナンバーも入り、しかも版元のN氏の話では180部ぐらいまで製本して、あとは本文を印刷して、また、N氏には250部分の印税を支払ってそのままにしてあると云うことで、実際いま世の中に出ている本は180部とうことらしい。これは、N氏の出版物では一番少部数の部類にはいるものだろう。

 私は、この豆本を中野の漫画古書店で一冊買い求め、これは偶然、この古書店のガラス棚で見かけたのであったが、N氏のことはそれ以前より知っていて、しかし、漫画家T氏の豆本のことは聞いたことはなかった。もっともN氏は寡黙かもくな人で、他の話もこちらが進んでいたりしないと出てこないのであった。

 この豆本は、私にとってる契機になった。半年程まえから始めているインターネットのヤフーオークションにポツポツ永島慎二氏の木版画や銅版画を出品していたのだが、これはほとんど売れることもなく、それではインターネットの通信費も捻出ねんしゅつできないので、豆本をためしに、これに出し、様子をみることにした。これは出して、五日もしないで入札され、案外簡単に、早く買い手がみつかるものだとホクホクしながら、もう一冊買いに走り、こんなに売れるのなら五冊もまとめて買って、買い占めて売値を吊上げたり、自分の好きな値段で何時でも売れるのではないかと考えたり、ヘタな商売人のように目先の欲のため気持ちが右往左往するのであった。これはしかし、古書店価格一冊八千円のもので、漫画古書としては非常に高価なものである。それに消費税が一冊あたり四百円かかり、八千四百円。五冊で四万二千円。手持ちの金がなかったのでサラ金のプロミスで先行投資をしてみた。手持ちの金と言ったが、私のところは実際手持ちどころか一円の貯金もなく、これから入る金のあてもなく、これでサラ金の借金も五十万円をすこし超えた。しかし、豆本を一冊八千四百円で仕入れて、オークションで二万三千円で売れば一万四千六百円もうけることができる。この一万四千六百円というのは仕入れ値を三倍して出た利益の値段で、千円低い儲け値は愛嬌あいきょうで、このぐらいはもうけてみたかった。調子よく短時間でさばければ、一冊あたり諸経費をどう引いても一万円の実利はあるだろう。五冊では五万円。十冊では十万円はゆける。もっとも冊数がでれば経費もそれに応じてあまり係らず、実際実利益は五冊のときで六万四千円弱で十冊では十三万七千円弱の儲けがでることになる。勿論もちろん、うまくゆけばの皮算用かわざんようだが。そして、また、あたりまえの話だが豆本の数にも限りがあって古書店に残部数が五冊だけで、後にはもう手に入れることができないのであった。だからもうけとってもこちらの在庫が七冊と、一冊売れそうなので六冊と数えて、古書店の数をあわせて十一冊だけ、最大でも十五万円ぐらいしか利益を上げることができない計算になる。これでは継続的に商売をしてゆくことはできないので、つぎに売れそうなものを見つけなくてはならない。が、そうそう簡単に見つかるわけもない。

 ショーウインドに貼ってあるチラシはコンビニのカラーコピーで造ったもので、はじめ大量にカラーコピーで綺麗に印刷してウインドに貼ったりひもたばねてぶらげようと思ったが、カラーコピーはB4サイズ一枚五十円で、チラシのサイズをその四分の一のサイズにしても一枚あたり二円五十銭かかり、チラシとしては随分高価なものになってしまう。もともと自転車操業の黒猫堂商店には積極的につかえる宣伝費などあるはずもなく、またお金も慢性的に無いとう現実に、段々とチカラも抜けて、紐提ひもさげげチラシは無しになり、ウインドの貼りチラシもカラー版下一枚をそのまま貼っただけにした。

 ショーウインドは、スライド式の硝子がらす戸が幾枚かで出来ていて、かぎもついている。鍵はウインドを使っている三店舗共通のもので、見ているとウインドの中の展示物を動かしたり品物を取り替えてみたり掃除をしたりせわしなく管理をしている店はなく、私のところだけが三日にあけず毎日戸の鍵を開け品物を点検し、通路をゆきかう人々が、うちの棚を見ているか、見ていないか、勝手な想像や思い込みに忙しくしているだけで、他の店はいたって冷静である。

  私は毎日ここへ来て、私のところのショーウインドをまじまじと近くからつぶさに観察し、またすこし離れて眺めるように見ている。いつしか私の両眼は顕微鏡的反応を示し、わずかな硝子がらすの曇りや汚れも見逃さなかった。

 またチラシが貼ってある硝子がらすウインドの下のところに、新聞受けのような具合の紙箱を取付けてある。それにはカタログ造りの二枚の紙を折ってじたチラシをいれて黒猫堂商店の宣伝と永島慎二氏の木版画・銅版画の販売広告をしている。一日に十五部から多いときで二十五部はさばける。なかなか優秀な広告だと思っているが、これがしかし、ぜんぜん版画購入の確かな問い合せに結びつかず、苦労して印刷して折り込んで造ったチラシを、まるで灼熱しゃくねつの砂漠のうえにく水みたいに甲斐かいもなく、無表情の乾いた街なかにチラシをくようで、カサカサと心が罅割ひびわれてゆくのである。


                  *


 私の暮らす部屋は整然と散らかっている。木造アパートの一室に金はいつも無かったが、本と物だけは不思議とたくさんあった。

 部屋のなかを占拠する物の内容は、おもに黒猫堂商店関係のものであった。また、この商店は、もとは藝術雜誌發行げいじゅつざっしはっこう 黒猫堂という店の販売内容を拡張したことが始まりで、商店は古書販売を中心にするようにしたのであったが、その藝術雜誌發行 黒猫堂のときの商品やら関係書類、物品やらがまた多く部屋のなかを埋めているのである。それからまた、これは余談だが、今では版画販売は藝術雜誌發行 黒猫堂の仕事ではなく、黒猫堂商店の仕事のようなことになっている。しかし、どちらの店も店主はおなじなのでさしたる問題もない。

 ちらかる部屋の話にもどるが、大量の品物は黒猫堂商店の販売用版画五百枚、版画の額縁十数点や版木。版木は永島慎二氏からのあずかり分が大小合わせて百枚強あり、大きなダンボール箱ひとつに入れてある。そして、また他の版木が五十枚以上箱に入れてある。他にミシン二台に、アイロンひとつ。アイロン台ふたつ、洋裁用のボディー(マネキン人形)に、ミシン用にそろえたミシン机、これは、今はもうあまり使わなくなったので足をたたんで部屋のすみに片付けてある。また、私の部屋は机、テーブル類が非常に多い。台所にあるキッチンテーブルをはじめ冬場につかう炬燵こたつテーブル、前述のミシン机から、折りたたみ式の簡易小テーブルがふたつ、極小の簡易テーブルもひとつ、これはなにかの物の下敷きになって部屋の何処どこかにあり、そして、また古道具屋から買った寺院などで使うような大きな黒漆くろうるしの座卓が足をたたみ壁に立てかけてある。それからパソコンのデスクトップ用のタワースタンド机がひとつ、パソコンの機械をつめて立っている。

 六畳間の畳の数は六枚だったが、部屋の広さは七畳分あった。私の部屋には押し入れがひとつあり、また隣の部屋にも押し入れはあるだろうが、普通アパートを造る場合は、部屋ごとに押入れが互い違いに隣り合ってあるもので、どううわけかここは押入れをつくるはずのところに隙間すきまをあけて変形七畳とし一畳分広く部屋をとっているのであった。

 この一畳に銅版画用小型プレス機を置いて、時折銅版印刷の注文があると仕事をしている。ここにも銅版画印刷をするためのテーブルがひとつ、ベニヤ板で作ってある。椅子いすも置いてある。

 大きい棚がそのテーブルの横に置かれ、その棚のなかには藝術雜誌發行 黒猫堂関係の銅版画・木版画・コラージュ作品のファイルや「黒猫堂百年のあゆみ」ファイル二巻、それから未発行に終った黒猫堂初期の刊行書「總合藝術雜誌 夭折ようせつ志願しがん」創刊号一巻、緋ラシャ布装丁、函つきの見本分だけ一冊挟んである。また永島慎二氏の木版画ファイル三巻に銅版画ファイル二巻、そしてまた、これは以前黒猫堂の同人のひとりのK.T氏の大型判詩集一冊が隠れるようにある。これは「夭折志願」の反古ほごページを活用したもので、一冊だけでも造って作品紹介の便宜べんぎをと思っていたが、これは今思うに造っておいてよかった。

 それから黒猫堂関係ファイルの横には、五年程まえにっていた美術・文学関係のミニコミ自費出版物などが数百冊あり、これは、ほとんどペラペラに薄い小冊子で印刷も製本もお世辞せじにも良いとは言いがたいもので、しかし、これらのミニコミ誌には商業出版物にはない思いきった発言内容があり、嘘でない、嘘をつかなくてもよい自由な空間が広がっているようであった。私はいっときその世界に惑溺わくできし、黒猫堂の出版も極めてミニコミ的に、私個人の趣味の色合いの強い、私的世界を表現していった。この自慰的行為とも思える表現は採算を考えることもなく、とてもたのしい人生の一時ひとときであった。

 また棚のなかに水彩、不透明水彩絵具(ガッシュ)のかご、銅版画印刷用具の籠、木版版木の籠、銅版画原版などが置いてある。

 テーブルの上には竹棒幾本かを並べて荒っぽくしつらえた棚がひとつ、その棚には銅版画の完成品と試作品をいれた大きい紙袋が十程あり、また未使用の版画用ブレダン紙、木版画用土佐和紙、また丸めて縦に挿してある水彩紙類数本がほこりかぶるのも気にせず乱雑に置かれている。

 書籍の類は、部屋のなかを見わたせば、所どころきたなく平積みになっている。色とりどりの大小の雑誌類、安価なハードカバー本、文庫本、大型の画集、函つきの豪華な背革装丁限定署名入り本までが、区別もなくこぶのようなかたまりに幾つも散在し、その間隙に古新聞や広告チラシ、紙袋などが畳を隠すように横なだれている。コンビニのカサカサした袋が音を立て。紙片、さまざまな種類の紙片。たとえば最高級のコンクール受賞作家の土佐手漉き楮和紙やそれに類した廉価な機械漉きの楮和紙、書道用の半紙数種や中国産の書道紙、書簡用の巻紙、俳画用ノート、大正時代の古和紙や、はたまた書籍を保護するためのパラヒィン紙の丸めてあるもの、その紙の使用済み切り屑がヒラヒラしていたり、トレッシングペーパーが鉛筆の書き粉をふいていたり、または銅版画用紙や水彩画用紙、雁皮紙がんぴしの切れ端、コピー用紙に両面テープをつけたまま切りくずなっていたり、藁半紙わらばんしが黄ばんで変色したもの、書かれぬ原稿用紙の束、漫画原稿用ケント紙、その他種類不明の紙類まで言うときりがない。またそれら紙片の、文字やら絵図やらを記した紙屑の類が非常に多い。これらは過去に一度はなにかで使ったものか、これから使う筈のもので、手書きのものや印刷物、白黒・カラーコピー、それに下書きイラストみたいなものから、かなり描き込んであるデッサン、木版画・銅版画の試し刷りまでいろいろで、これが必要な物か、いらないものか私にも判然としないものが多くて、片付けようと思っても片付けようもなく結局平積みのような具合に保管だか放置だか小山のようになっている。また小山はその上に小型テーブルをのせて、また小山をつくっている。

 部屋のあちらこちらに散らばる文房具類も少なくない。日頃あまり使わなくなったペンや何度か書いて使えなかったペンまで、三つの紙箱に無造作にいれてある。

 それらの箱は、ときに忙しい気持ちのときに限ってひっくりかえったりする。

 そのなかには、大小の使用済み消しゴムから小さくなってゴロゴロしている消しゴムのカスまで入れてあり、カッター三本、カッターの替刃、替刃のケース、それに錆びたカッターの刃、刃の折りカスなど、またホチキス、ホチキスの針箱、ホチキス針のつぶれ折れカス、大小いろいろの大きさのクリップ数百個、輪ゴム数十個、セロテープふたつ、両面テープ各太細ふたつずつ、十円玉、一円玉数枚。そして、数百本以上の油性水性の太細ペン類、4H、HB、B、2B、4B、6Bの各硬度のトンボ鉛筆数十本。蛍光ペン、修正ペンなど入っていて、バラバラと足の踏み場もない畳に落ちて紙類本類の間に隠れてしまう。

 書籍も、それは多い。それらは、おもに都内の古書店から購入する安価なものが多いが、ここ一、二年は、永島慎二氏の知人で、氏の絵画の熱心な支持者のH氏から頂くことが多い。H氏は私がつくる猫の木版画もつよく支持してくれ、また氏の各方面の知人たち、銅版画家、陶芸家、イラストレイター、人形作家、そして、画廊経営者、喫茶店店主まで紹介してくれ、私の版画も宣伝してくれたり、自分でもこちらが愕くほど大量に版画を購入して、また制作の費用にと私の小さい展覧会開催のまえには無償で三万円、三万円と幾度となくれたりもするのである。

 このことは、私個人にたいしてとうことではなく美や美術ということ、氏の感性が認める美の世界にたいする忠誠、支援する心がおこなうことで、それは並外れているようだが、考えてみるに過去芸術文化の世界はそれらの芸術を支える人々の心意気によってつくられてきたもので、身近に本当にそういう人物がいると奇異な感じでもあるが、まあ、おかしくもないだろう。そのあまりに見事な捧げぶりは損得勘定のできていない狂的とも思えるもので、なにか生きるということ、人生の問題として、美への打ち込みがあるようにも思える。

 話をもどして、本の話だが、部屋に山積みになっている本の種類は大変偏っている。黒猫堂商店という店の看板を一応掲げているのであったが、元々趣味的な気分ではじめたところもつよく、商売として熱心にやっているのではない。いや、本当は相当熱心にやっているのではあったが、要領がわるいというのか、古本屋稼業がのみこめてないのか、はたでみていると遊んでいるようにしか見えないかもしれない。本音を言うと、涼しい顔で適当な気持ちでやっていると言いたい。が内心冷汗ひやあせ三斗さんとで、切羽詰まったどす黒い背水の陣であり、くびれて死ぬ寸前である。しかしながら私は、莫迦ばかなのか阿呆あほうなのか、現実的な金銭面での家計の状況は逼迫ひっぱくし、笑ってばかりもいられないであろうが、通常の世間一般の大人の考え方からは、ひとつもふたつも違うことになるだろう。しかも、自分がつまらないことはしない。興味のないことは、身も入らないだろうし、だいたい必要とされる事柄の名前内容が頭に入らない。

 本は、近代日本の純文学。これが部屋をうめている書籍内容の大部分を占めている。純文学の純とはヘンな謂いだが、なにか不純なことが書かれていない、話の中心が人間存在の哀しみや喜びの問題から外れていないもの、恋愛、探偵(サスペンス)、冒険、ファンタジー、SF、エロ、ホラー、政治、経済、社会派、その他もろもろのことだけを中心としない文学作品で、つまりなんにでも広く浅く関わり面白みが通俗的にきわどくならないこと、今の時代では受け入れられぬ刺激の少ない地味な物とうことになるかもしれない。

 早い話、私はだいたい十名にも満たない作家以外は嫌い、うけつけぬと言っているようなものだが、仕方がない。その拒否反応のでない作家の名前をあげてゆくと、まず太宰治。そして、檀一雄、坂口安吾。ここら辺の名前は、私が、いま生きて、日常の生活をして、これからも忘れずに、死ぬときまで、いや死んでもなお忘れないであろう名前である。この人達の文学、言葉は私の若いときの時間に血となり肉となり、私は変わったのである。いや、変わったと思えるほど生来私がもっていた性格なり資質なりが劇的にのびていったのである。

 そして、織田作之助。オダサクを知ったのは阿佐ヶ谷の古書店「弘栄こうえい」であった。新潮社の文庫本「夫婦善哉」が私のオダサクの読み始めで、その本は昭和三十年頃出版のものでそのとき既に絶版になっていて、入手困難ではあったが三四百円ぐらいのものであった。その後「弘栄」で昭和二十二年初版の「夫婦善哉」を二千五百円で購入し、高円寺の古書店「小雅堂」でも終戦直後の版の「可能性の文学」「怖るべき女」「天衣無縫」を買った。

 これらの小説をいま読んでみても古いとう気がしない。確かに、本自体は五十年の年月に汚れ染みや日焼けや、また所々破けていたりして新品ではない。使用している活字も旧字体、旧かなづかいで読みにくいところもある。併し文章に、古さがない。感覚も今の時代とかわらない。併し、今、織田作之助を識っている人がどれだけいるだろうか。オダサクは平明な説話的文体のなかにロマンをこめ、命をこめていたが、どれほど真実人々の心に届いたろうか。一時の流行作家に終わる作家ではないと思う。その時代の周囲がわるかったのか、今の時代に残っていない。

 よわい八十をこえ、なお筆をりつづけ・・・。尾崎一雄を想うとき、私の祖父であったなら、と心底思う。昭和十九年の戦局悪化の折に吐血、胃潰瘍に倒れて死線をさまよい、どうにか一命を取り留めて小田原に落着いた。小説「暢気眼鏡」「玄関風呂」「虫のいろいろ」など集英社刊 日本文学全集(昭和四十八年初版)の 滝井孝作、尾崎一雄集一巻に収録されている。

 私も潰瘍を患ったことがある。二十三のときの話で、胃ではなく十二指腸だった。潰瘍は小指の先程の大きさで医者からレントゲン写真を見せられ、具体的に自分に死が迫っているような気がしたのである。しかし、からだの衰弱とは別に私の気持ちは、なにか死の手応てごたえをでも、なにものかに先んじてつかんだ陰鬱いんうつ矜持きょうじがあった。

 尾崎一雄の文学と罹病は随分あとになってから知ったのであったが、潰瘍は、夏目漱石も胃潰瘍で苦しみ、死に、潰瘍は死病で癌や結核のようなものであると思っていた。併し、尾崎一雄は生き延び、生還者の実例として、またひとかどの文学者として心にのこった。

 人から尊敬されること、少なくとも愛されることを考え、念じてゆきたい。できればつくりものでないものを・・・。尾崎一雄の小説から、私はそれらを受け取ったのである。

 小説「玄関風呂」は、風呂のない貸家住まいの貧乏所帯の話で、る時、安い風呂桶の出物があり、気安く買ったが、さて、風呂桶を置く場所がない。狭い庭も隣の塀もうすくたよりない。思案に暮れて、風呂桶を置いたところが、玄関。二枚の硝子引き戸で、三和土たたきも狭く、それでも玄関の外に番を出しては順番に風呂を使うのである。

 私のところも同じ貧乏所帯の貸し家住まいで、併し引き戸ではなく西洋風ドアで、また同じように風呂がなかった。安い風呂桶も売ってなかった。でも玄関で風呂を使いたかった。無理をして風呂桶もなしに行水ぎょうずいのようにして風呂をつかったのである。


 部屋の話に戻って、最近は特に古本の増え方がひどく畳一枚分が二枚分になる勢いで、安価なカラーボックス棚を買い求め、他のおびただしい品物はかく、整理をつけることにした。

 陋屋ろうおくごと一室いっしつも狭いとえば狭いが、男ひとりで暮らすにはいたって問題のない環境と言えるだろう。たとえ台所の流し台のステンレス槽が水垢みずあかや歯磨き粉や油分で汚れ、ほこりが五ミリ程溜まっていようとも、また板の間が半年も一年も掃除されることもなく毛髪やら糸屑いとくずやら砂埃すなぼこり、そして、なにか不明の虫屑などでテカテカと汚れていようとも気にはならない。綺麗好きでなくともやってゆける大らかな性質の男ならば、このくらいはなんでもないだろう。

 写真家 林忠彦氏が、終戦直後頃の坂口安吾を写真に撮っている。写真の安吾は自室に、六畳八畳と思われる部屋の大きな座卓に書きかけの原稿用紙を前にすわり、万年床まんねんどこと書きそんじの原稿、古新聞紙、紙袋、煙草の空箱に空缶、蚊取り線香の皿、灰皿、その他もろもろの何か判別しがたい紙類などが畳を隠している。

 凄絶な部屋に求道ぐどうの匂いがした。私は作家のスタイルを模倣することで、作家の文学、精神性に近づきたいと願った。それは幼い憧れで、着ている服を真似れば似るのではないかとうようなもので、他愛無かった。しかし、作家の表面をなぞることは、やがて来る地獄の、その門をたたくようなもので、ひき返すことのできない片道切符であった。


 私はひとり六畳間の中央にちいさい折たたみ座卓をだして今この文章を書いている。いまの時刻は夜の七時半頃で、九月の半ばにしては冷えびえと、座布団もないので寒い。まだ炬燵こたつをだすのは早いだろうが、寒気に耐えるよりはよいかもしれない。ゾクゾクしながらもして卓に向かい、小抽斗こひきだしれてある万年筆の替インクの残数を頭のなかで数え、気にしている。替えインクみたいなものは、つまらないもので、しかし、まるで無いとなると非常にこまるもので、しかし、ついうっかり買い置きを忘れたりする小さいもので、ときおり、こまる・・・・・。ポツリポツリつまらないことを気にしていて、ふと我にかえって、自分の卑小ひしょうさに暗澹あんたんたる思いである。文学、文学、文学・・・呪文のように唱えてみるが、文章がうまくなるでもなし、ああ、お金が欲しい。などと思ったりする。

 また突然、頭が痒い。すごく痒くなっている。頭皮の右側上部が痒い。とても文学的じゃない。お金も欲しいが、まずは痒い。痒いのに頭を掻くのが面倒で、この文章を書いているからではあるが、面倒くさいと、ついそのままにして、そのうちに治まるだろうと多寡をくくっていると、痒い部分が右側上部から右側前上部へと移動して、また明滅する照明のように左側前部後部と痒くなり、また耳の上の付根あたりから下の付根あたりとかわり、あたかも夜のネオンの如く、痒く、騒がしくなって文章どころではなくなった。

 ひと通り痒いところを掻いて治まってみると、私の坐る卓の横に女がひとり坐して居る。女は、三十女で、私の女房で、確かに女房であるが、 ひとり立ってゆき、台所で夕食の仕度をしているようだ。台所から声がする。

 なにか、私にいている。生麺の醤油ラーメンをつくるのに、湯を二つ沸かして麺とスープの湯を別々にしてつくるのか、どうかとく声である。女房は以前にもおなじ醤油ラーメンを料理したことがあり、これを承知しているはずで、だが不思議と毎度おなじようなつまらぬことをいてくるのである。

 これは私が思うに、女房は、自分の思考や行動を事前に他人に同意を求めたり、また人の言う通りに表面上従うことで自分の考えや行動に誤りがあったときの言い訳、ごまかしをするためのもので、それはとても卑怯ひきょう処世しょせい算段さんだんであると思われた。私は、そんなとき赦しがたい思いに四肢しし痙攣けいれんする暫時ざんじふるえるのである。

 自分の存在の自信のなさからくるものなのか、何なのか、私にはしかとわからないが。また何事も面倒と思う女房の懶惰らんだの心が、手抜きをしようとしたり、していたり、また、まっとうでない神経症的な、物事の考え方の心棒の外れたこだわりに縛られて見当はずれなことをしたりするのである。また、毎度うるさくいてくるのは、純粋に童女の心で、信頼でいてくるのではなくて、すれて愚かな女の当てつけだったり、苦情や嫌がらせの気持ちが多分に含まれているのではないかと疑らずにはおれない。私は精神の潔癖者というわけではないが、あまりのことに激昂したたきつけたい衝動にられるのである。

 私は以前、女房が魯鈍ろどんではなかろうかと疑ったことがある。いや、今もすこしはそう思っているところもあるが、本当は何か神経を病んだ病者ではないかとも思った。また頭脳の頗るわるいのは知能がわるいのではなくて、蓄膿症の病気が原因しているのではないかと思った。それはきっと脳髄のなかの、さまざまなことを連絡するためのパイプが、ゴミの詰ったパイプのように通りがわるく、それがすべて綺麗によくなって、あらゆる事柄の連絡が滞りなくゆくような、ひとつひとつの歯車がかみあって瞬時に答えがでるように思われたのである。蓄膿症は鼻の病気で現代では外科的手術の治療方法もあり、完治もするらしい。では、蓄膿症を治せば、女房の莫迦ばかさかげんも改善され、私もイライラせずにまともな人間らしい生活を取り戻せるものと思ったのである。それは私の祈りであり、賭けでもあった。しばらくして無理算段して金をつくり女房を鼻の病院に入れたのである。

 鼻は治った。それはおどろくほど完全に、現代医学が魔法のように思われるほど蓄膿症は完治したのである。・・・・・しかし、鼻とは別に知能の方はよくならなかった。私は自分の手がじっとりと汗ばんでゆくのを感じる。まるで自分の子供が、実は障害者であったと知らされたかのように。落胆、絶望、悲憤。何故なぜ、とう気持ち。私に、何かこれまでにひどい落ち度でもあったのか、とうことの煩悶はんもんの点検。

 どんなふうに思い考えてみても納得のゆく解答はえられないのである。女房は静かにしている。私の気持ちなど関係ないように自在に、屈託くったくもなく、普段とかわらない。私は暗い水の底に沈む心で暮している。

 女房を、いつもどおりにしかって、味気あじけのないラーメンを胃に流し込み、また栄養バランスのわるい食事に注文をつけて、お茶を飲んだ。(完)


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日常生活 藤宮史(ふじみや ふひと) @g-kuroneko

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