タバコの香り

蟹蒲鉾

タバコの香り

 彼女と初めて会ったのは町がゲリラ豪雨に襲われた日だった。

 俺は近くにあったアパートの軒下で雨宿りをしていた。激しい雨音と不気味な薄暗さに不安を煽られ、この雨が止まないようにさえ思えた。気を紛らわせるためにスマートフォンを触っても、孤独感が増すだけだった。

 「そこの少年、うち上がってく?」

 後ろから聞こえたその声に反応して振り返ると、そこには明らかに部屋着姿の女性がいた。

 一目惚れだった。

 理想的な人が突然現れたことに動揺して言葉が出なかった。挙動不審にならないようにうまく誤魔化そうとしたけれど彼女の目にどう映っていたかはわからない。

 彼女の厚意に甘えて、俺は彼女の家に上がらせてもらうことになった。部活終わりで汗くさいかもと伝えると風呂を貸してくれた。思春期真っ只中の高校一年生には刺激が強かった。

 失礼な言い方にはなるが、彼女の部屋は見た目のだらしなさからは程遠く、きれいに片付けられていた。すこし片付けられすぎている気もして、俺を部屋に上げるために片付けたのかな、なんて妄想もした。もちろん後で自己嫌悪することになる。

 彼女は一緒にゲームをしたり、カップラーメンを作ってくれたり、俺が気まずさを感じないように常に気を遣ってくれていた。おかげで孤独感も不安もなくなった。

 雨が止むまでの間に、彼女は一度だけタバコを吸った。

 雨の中、ベランダでタバコの煙を操る彼女は写真に収めておきたくなるほど洗練されていて目を離せなかった。彼女が部屋に戻ってきたときのタバコの香りは忘れられないと思う。

 家に帰っても、タバコを吸う彼女の姿が頭から離れなかった。

 後日、雨の日のお礼にお菓子を持って彼女の家を訪れた。しかし、彼女はどこかに出掛けていて直接お礼することが出来なかった。帰って親にそう話すとちょっとだけ怒られた。

 あの日からしばらく経っても俺は彼女のことが忘れられなくて、何をしていても無意識のうちに彼女のことを探していた。

 そのまま、高校二年生になった。

 昨年の夏休みには朝から部活に出て、夕方に帰る生活をしていた。今年はレベルの高い大学を目指しているのを理由に部活をやめ、受験勉強に時間を費やしている。家では勉強に集中できないので、夏休みが始まってからはほとんど毎日図書館に通った。

 部活に一生懸命だった去年は触れてこなかった読書が思っていたよりも好きになった。勉強よりも読書の時間のほうが長い日すらある。この夏休みだけでも二冊は読んだと思う。ただ、太宰治の人間失格は何度読んでも理解できなかった。

 一時間と三十分ほど勉強に集中して、ふと顔を上げると外は大雨だった。昨年の今日、帰り道にゲリラ豪雨に襲われてアパートで雨宿りしたのを思い出して懐かしくなった。

 急な雨なのもあってか、今日の図書館は一段と人が多かった。同じ部活だった友達もいた。隣に女の子を連れていたので、話しかけはしなかった。

 勉強にひと段落就いたところで、小休止に読む本を探しに立った。

 全身に電撃が走ったようだった。服装や髪型は別人のような女性から微かにあの日のタバコの香りがした。懐かしささえ感じていたあの情景を、今は鮮明に思い出せる。

 気が付いた時にはもう話しかけていた。彼女は怪訝な顔で振り返り、思い出すようにその表情を変えた。

 俺があの日のお礼を伝えると、なぜか彼女もありがとね、と返してきた。

 少し話して、彼女が大学三年生だということを知った。彼女は小さいころからの夢だった医者になるために、今通っている大学を卒業するタイミングで医大に再入学したいと教えてくれた。そのために去年から勉強しているらしい。

 それから、彼女の提案で俺たちは一緒に勉強するようになった。図書館が休みの日は彼女の家で勉強することもあった。息抜きにデートにも行った。

 そんな風に時間は過ぎて、俺と彼女はお互いに受験を迎えた。どれだけ頑張っても緊張と不安はなくならなかったが、なんとか志望大学に合格。彼女も無事合格した。

 少し間が空いて、桜の舞う暖かな季節。

 俺は教師、彼女は医者。それぞれの夢に向かって、俺たちは同じ部屋からその第一歩を踏み出した。

 彼女からタバコの香りはもうしなかった。

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タバコの香り 蟹蒲鉾 @kanikamaboco

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