第14話 辰の男、革に救われる
勢いよく突き立てたナイフは勿論鋭い。
軽く押し当てるだけで肉を裂くその切っ先がガルシアの分厚い背中に突き立てられた。
そのまま激情に任せて押し込めばメアリの細腕でも容易に刺さる。
特にこの刃は彼女が必殺のために磨き上げたモノ。
そうでなければ彼女は生きていない。
「落ち着けヨ」
「あ……」
だがガルシアの背中はそれを防いでいた。
彼の優しげな声に彼を殺したと錯覚し、ハッとしたメアリが見上げた彼の顔には苦しみなど一つもない。
力が緩まって畳に堕ちたナイフにも血のりはなく、照明照らされた刃が彼女の涙目を映す。
「いきなり刺されて驚いたがボクは平気サ。キミのおかげだよ」
ガルシアを守ったからくりは、彼がシャツの下に着込んでいた鞣し革の防具。
これが鋭い切っ先を受け止めてガルシアを救っていた。
「アンタは背中の注意が甘いからこれを着込んでなよ。危なっかしいったらありゃしない」
そう言って彼女が手作りしたソレをガルシアは彼女と別れてからも、ずっと身に着けていた。
肌に密着し続けているため洗う機会も少なく、汗と香水が混じった異臭が微かに香る革製品。
これまで彼女と別れてから何度もガルシアを致命傷から救った守り神。
創造主からの刃を防いだそれは、まるでこれが最後の仕事だと言うかのようにピリピリと避けて、シャツの裾から滑り出た残骸がボトリと畳の上に落ちる。
「アンタ……まだコレを……」
「大事な人がくれたお守りを、捨てられるワケないじゃないカ。お陰で少し臭うけれどネ」
「大事? アタシのことを捨てていったくせに。お陰でアタシは──」
「その事は後から聞いた。だけどあのときメアリは妊娠していただろう? とてもじゃないが連れて行けないよ」
「バカ……アレはアンタの……」
(未だに天覧が始まらないとは……どうやら雲行きが怪しいな。怒りのツボだけでは足りなかったか?)
勘違いだとメアリが言おうとしていた頃、そろそろお望み通りに彼女とガルシアが衝突すると待ちわびていた無情は約定書の前でいぶかしむ。
怒りのツボとは彼女がガルシアの背中を刺す切っ掛けとなった激情を促す後頭部のツボのことで、彼は別れ際に気づかれないようにその場所を刺激していた。
だがメアリは天覧を挑む前に正気に戻りかけており、憎悪よりも愛欲に傾きかけたこの様子では戦いにならない。
奇しくも思いがけない偶然で目的を果たした二人には戦う理由はなくなっていた。
だがそれでは困る男が一人。
彼女との間にあった刹那の邂逅を思い返しながら指を鳴らす。
「女の我儘を許すのが出来る男とか言うけれど……あんなの嘘だね」
男は何らかの術で彼女と視界を共有している模様。
戦意を失ったメアリを見限った無情が動かす右腕の動きに合わせて彼女は予備のナイフを鞘から引き抜いた。
「メアリ? 冗談は止せヨ」
「違う。コレはアタシの意思じゃ──」
「ボケっとするなよ優男。昔の女だからと信用しすぎだ!」
(日本の幕末に名を残した剣客の一人か。万全ならばまだしも、手負いではこの程度よ)
「怪我人は引っ込んでなっ!」
メアリの行動に困惑したガルシアとの間に割って入った虎徹だが流石に先程の傷は深い。
メアリの手を鞘で殴ってナイフを払うのが精一杯で、次の刃を取り出す頃には青色吐息である。
「この状況で引けるかよ醜女」
それでも歯向かうのは心配の意味の言葉も挑発と受け取られるすれ違いによるもの。
傍目に痴情のもつれだと理解できても、なまじ手を貸すと約束した相手が目の前で殺されては仕方がない。
それに自分の不調も考慮すれば次に狙われるのもわかる。
メアリを敵として認識しているからこそ虎徹は冷徹に動く。
「待てコテツ! メアリの様子がおかしイ」
「おかしいのは最初からだ。情緒不安定の相手は一旦黙らせるに限る」
「ムム! 彼女を傷つけるのならキミが相手でモ……」
「二人とも……アタシを無視してるんじゃねえ!」
一見すると癇癪を起こしたかのようなメアリの怒号は注意勧告。
両手に構えたナイフを左右同時に投擲し、男二人の心臓を的確に狙いすます。
今のメアリは言葉と自我以外全て無情に縛られている。
彼女自身いつの間にそのような黒魔術を仕掛けられたかわからず、故に勝手に動く自分の姿に恐れるのみ。
(ようやくアイツに会えたのに)
ままならぬ肉体は無情の仕掛けもあり混濁していた彼女の感情を整える。
故に意思に反して最愛の人を殺さんとする自らが恨めしく、それでも涙を流せない。
「て……天覧だ。ガルシア!」
こうなれば破れかぶれ。
そう思ったメアリは天に願った。
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