アイアンワーム 鉄の昆虫

野島晋二

アイアンワーム 第一話 岬の家

 朝日がゆっくりと海面を金色に染めていく。新たな一日が息吹を吹き込み、生命が目覚め始める。

 一人の青年が小屋の前に立ち、深い一息を吸った。

 潮の香りが鼻をくすぐり、朝の新鮮な空気が肺を満たす。それは、新しい日のスタートを告げるひと時だった。


 視線を庭に移すと、彼が手間暇かけて育てた野菜たちが並んでいる。各々の緑色が生命力を放つ。

 優しく水をやりながら、その成長の様子を見て、ふと微笑みがこぼれる。


 小屋の隣には父のお墓が静かに佇んでいる。彼はそっと手向けた花を一輪、優しく置いた。


 次に物置へと足を運ぶと、雑然と缶詰が並んでいる。

 その日の選択はコンビーフ。「これは久しぶりだな」と、缶を開ける。

 コンビーフを半分、自分で育てたレタスに乗せ、カンパンでサンドする。

 一口噛むと、堅めのカンパンと柔らかなコンビーフの絶妙なバランスが口内を満たす。

 そう、食事の時間は一日の中で最も楽しみな瞬間だ。


 カンパンを口に挟みながら、屋根の上の貯水槽へ向かった。

 蛇口の下のバケツに水を注ぐと、その音が平和な静寂を一層深める。

 バケツの水をグラスに移し、その冷たさをゆっくりと味わいながら飲み干した。

 午後になると、小屋の隣の大きな発電用風車に向かった。

 巨大な風車の羽根が太陽の光を浴びて、ゆらめいているように見えた。

 それが、ゆっくりと回る音を耳にしながら、メンテナンスツールを手に取り、一つ一つの部品を丹念にチェックした。

「よし、問題なさそうだ」


 風車の下にはコンクリートでできた部屋があり、その中はバッテリーが大量に置かれている。

 その奥には発電機がある。

 機械の心臓部とでもいうべきその部分のメーターを見つめ「この調子なら昼にはフル充電できそうだ」と呟きながら、各ボルトの緩みもチェックした。


 日が傾く頃、古く、小さな暖炉の上でお湯を沸かし始めた。

 お湯が沸くまでの間に、庭に生えているドクダミを一握り分摘むと、ヤカンの中に入れた。


 やがてヤカンからは湯気が立ち上り、沸騰する音が聞こえてきた。

 少し緑がかったお湯を、金属製のシェラカップに入れ、一口飲んでみる。

「苦いな…」その独自の苦味がクセになる。


 ベランダに出ると、木でできた椅子に腰掛け、ただ静かに日が沈むのを眺めていた。


 ベッドに入ってから数時間が経った頃、彼は、目を冷ました。

 窓の外の星々が煌びやかに瞬き、その輝きの強さが今日の異変を教えていた。


 急いで外に出ると、風車へと向かった。急速に強まる風を受け流すように、風車の羽根の向きを手動で微調整した。そして、大きなハンドルを捻って風車全体が回らないように固定する。風の音と風車の機械音が混ざり合い、不協和音のように響いていた。


 次にプランターにビニールシートを一枚ずつ丁寧に被せ、飛ばされないように紐で固定した。


 家に入るとドアの取手にロープをかけて柱と固定した。以前、古いこのドアが風で飛ばされたことがあるからだ。


 それから彼はソファーに腰を下ろした。家を揺らす風と窓ガラスに打つ雨音。

 その音をバックに、手にした本を静かにめくり始めた。

 世界が混沌とする中で、彼だけがゆっくりと時を刻んでいるようだった。


 嵐が去り、静寂な夜が訪れる。無数の星が輝く春の夜空。

 街の光が一切ないので、星々がより一層鮮やかに見えた。

 その景色は息を呑むほど美しく、吸い込まれそうな錯覚に陥った。

 彼はその星空を背景に、これまでのこと、こからかのことに思いをはせた。


「彼」の名前はレイジ、18歳。生まれたのは、世界が崩壊した後のことだった。

 海岸線に立つ家で、父親と二人、日々を刻み、生き延びてきた。

 父はかつてのエンジニアであり、その才はレイジにも継がれている。

 父は自らの手でこの家を作り、これら全てのシステムを開発した。

 しかし、その父が先月、この世を去った。

 それ以来、父の教えを頼りに、一日一日を過ごしている。


 父が設計したプランターは、彼にとって欠かせない食糧源で、新鮮な野菜を供給してくれる。

 それが彼の基本的な食事を成り立たせている。

 枝豆から最低限のタンパク質は摂取できるが、動物性のタンパク質となると難しい。

 この破壊された世界では、生きるもの、人々も、動物たちも、昆虫でさえも、数を極端に減らしている。


 缶詰に保存された肉や魚は、この世界において、そして自分の生活においても、掛け替えのない存在だ。

 しかし、その数は日に日に減っていく。

 これらが尽きる日が来るだろうと想像すると、一筋の恐怖が胸を掠める。


 文明が何故、崩壊したのか、人や動物が何故、絶滅に瀕しているのか。その話は、また別の機会にしようと思う。

 今夜は、既に眠気が襲ってきた。そうしてレイジは、無数の星々を見上げながら深い眠りに沈んでいった。


 翌日、春の太陽が容赦なく地上を焼く中、レイジは雑草取りに没頭していた。

 力を込めて握った手を、ゆっくりと引き上げると、我が敵である雑草が根元から上がってくる。

 仕事が進むにつれ、汗が額を伝い、土と混ざり合っていた。


 暫くして、空から何かが突然視界に飛び込んできた。

 レイジは視線を上に移動させた。最初、強烈な日差しに目がくらむ。

 しかし、じきに目がその眩しさに慣れ、その空中に舞う存在が何羽もの海鳥であることがわかった。


 彼らはゆっくりと風に乗り、まるで水面に浮かぶヨットのように空を漂っていた。

 レイジは久しぶりに生物と触れ合うことができる喜びを感じた。


 キッチンの棚からカンパンのかけらを取り出して空高く投げた。

 一羽の海鳥が猛スピードで空から飛び降りてきて、かけらを見事にキャッチすると一瞬で空を切り裂きながら飛び上がった。


 ベランダの手すりには、海鳥たちが何羽も止まって、目をキラキラさせながら、こちらを見つめていた。

 レイジにとっては、とても特別な瞬間だった。


 しかし、その平和な瞬間は突如として終わった。

 海鳥たちは何かに驚いたように一斉に空に飛び立った。


 レイジは耳を澄ました。

 遠くから、金属が擦れる音が聞こえてくる。微かだが、確実に音は近づいてくる。


 海鳥たちが飛び立った方向を注意深く見つめた。


「あれは…」

 何かを察知したように、彼の足は家の中へ向かい、古いローズウッドのキャビネットの中から、彼の愛用の双眼鏡を取り出した。

 細部に刻まれた微細なキズや色褪せた鏡筒部が歴史を感じさせるが、この厳しい世界で生き抜くための不可欠な道具となっていた。


 レイジは双眼鏡を除くと、森の方角を見つめた。

 暫くの静寂の後、森の深淵から滲むように銀色の流れが現れた。

 それはゆっくりと地表を覆い尽くしていく。

 その現象を目にした瞬間、レイジは息を呑んだ。


 銀色の群れは波立つように動き、緩やかに、しかし確実に近づいてくる。

 それは無数の小さな粒子で、その粒子たちは銀色に光り、不気味な閃光を放っていた。

「アイアンワーム…」


 レイジは小屋に駆け入ると、大きな制御盤の一番端に位置するレバーをしっかり握り、ゆっくりと下げた。


 その瞬間、庭の地面が裂け、鉄製の蓋がガラガラと擦れる音を立てて開かれた。


 地中から解放された湿った土の匂いが立ち上がる中、レイジは油で湿った、松明を手に取り、暖炉の炎をそれに燃え移した。

 その松明を穴の中に放り投げると、煙を伴って火が舞い上がる。

 続いて第二のレバーを引くと、大型の換気扇がブーンと唸る音を立てて動き出し、新鮮な風が吹き込まれた。

 火は更に勢いを増していく。


 次に、レイジは風車小屋に駆け寄った。

 電池の残量を確認すると、嵐の際に遮断していた影響から、残りは半分程度しかなかった。

 すかさず燃料式の予備発電機のスイッチを捻る。

 キュルキュルと何度か歯車が鳴った後、低く重たい音を立てて発電機が仕事を始めた。


 ベランダに急いで戻ると、アイアンワームの進軍が続いていた。

 その形状は船虫を彷彿とさせる平たい体で、鉄を基調とした肢体には、ペンチを思わせる鋭い歯が輝いていた。

 それらは岬の入口に設置された鉄の格子にぶつかると、一瞬、進行が停滞したかのように思えた。

 しかし、その鋭い歯がすぐさま働き始め、鉄の格子をあっけなく斬り裂いてしまった。

 それらは、たちまち彼らの腹に消えていった。

 アイアンワームの軍勢により、緑色の岬は、次第に銀色に覆われていった。

 岬の出入口は完全に閉じられ、もはや逃げ道は存在しない。絶望的な状況に思えた。


 そんな中、レイジは近づいてくるアイアンワームの群れを静かに見つめていた。

 それらが小屋の直前に差し掛かったとき、3番目のレバーを力いっぱい引いた。

 すると、小屋の前、30メートルほどの地面が盛り上がり、巨大なクレーンに吊られた鉄の棒がゆっくりと上昇した。


 レイジは次のレバーを引いた。ブーンと響き渡る低い音波。

 下にいたアイアンワームの体がカタカタと震え、地面から浮き上がった。

 鉄の柱に一体、また一体と引き寄せられていく。

 それは廃車工場で使われていた巨大な電磁石だった。

 磁場に引き寄せられたアイアンワームの体が磁性を帯び、他のアイアンワームを引き連れて一体と化していく。


 レイジがハンドルを操作すると、鉄の柱は天に向かって昇り、無数のアイアンワームが空に引き上げられた。

 クレーンを操り、火の上まで移動させると、電磁石のスイッチを切った。

 バラバラと穴へ落ちるワームたち。ギュエエン、という不吉な音が空間を満たす。


 レイジは換気扇のレバーをさらに引き上げると、ブオーンという音と共に、より速く回転し始めた。

 穴の奥には重油と石炭が詰められている。

 そこに送り込まれた酸素とともに二次燃焼が始まり、穴は鉄を溶かす溶鉱炉のように高温になった。

 アイアンワームの形状は次第に消え、滲むような溶解した赤い液体に変わっていった。


 レイジが最後のレバーを引くと、岬の端から溶けた鉄が排出され、海へと流れ込む。

 ジュワアーという凄まじい音と煙、そして沸き立つ泡。海中で急速に冷え固まる鉄。

 大量の海水に冷やされ、瞬く間に音も煙も消えていく。

 そして、再び静寂が訪れた。


 ---驚いただろうか? これがこの世界の日常である。

 ここで、アイアンワームについて少し説明しておこう。

 これは彼の父から聞いた話だが、昔、これらのワームたちはゴミや廃棄物を効率的に再利用する目的で作られた。

 その頃の人々はこれを資源問題の解決策とみなし、まさに革命的な発明として大いに熱狂したらしい。

 それらのワームは体内で細菌を培養し、生ごみや、紙、木などの有機物を電気に変換することができる。

 バイオ電池というらしい。

 有機物をアミノ酸に変換する様々な細菌と、アミノ酸を分解し電位に変換する細菌が共存し、生成された電力で油圧ポンプや形状記憶合金の筋肉を動かす。

 有機物だけではなく、金属やプラスチックなどの廃棄物も体内に取り込み、新たな資源に変換することも可能だ。

 アイアンワームの種類や大きさは多種多様で、小さいものは手に平ほどのものから、大きなものは船のようなものまでいるという。

 さらには運搬ワーム、清掃用のワーム、害虫駆除用のワーム、他のワームを修理する工業用のワームなど、用途に合わせた多種のワームが開発された。

 しかし、ある日、すべてが変わった。ワームたちは暴走を始め、ゴミや廃棄物だけでなく、家電や車、日々の生活に必要なものまで分解し始めた。さらに、生きた動物、昆虫、最悪のことだが、人間すらもエネルギー源として取り込み始めた。


 マザーと呼ばれる作成工場である大型ワームは、止まることなく新たなワームを生み出し続けた。

 その結果、文明は崩壊し、ほとんどの人類がワームたちのエネルギー源となってしまった。

 その時から、世界は一変した。

 これが、レイジが父から聞いたアイアンワームの話だ。


 次の日、レイジは静かに座っていることができなくなった。

 アイアンワームたちの攻撃が日に日に頻繁になっていた。

 今のところフナムシ型だけだが、いつ、更に強力なワームが押し寄せてくるか分からない。

 食料の供給に対する不安も心から消えず、そして何より、孤独な生活に精神が消耗していた。

 この広大な世界で、いったい何人の人間が生存しているのだろうか?

 そして、彼らはどこにいるのか?

 そう思い返してみると、かつて訪れた旅人の話が脳裏に浮かんだ。

 ナゴアという場所には、未だに人々が生活する街が残っていると言っていた。

 その情報が真実なのかは分からないが、現状から脱するためには何らかの行動を起こさねばならない。

 彼は決意を固めた。この場所を離れよう。


 レイジはすぐさま行動に移った。

 物置を開けると、その中には父親から引き継いだ大きなバックパックがしまってあった。

 彼はそれを引き出し、自分の肩にぴったり合うように調節した。


 次は食料の確保だ。

 物置の隅に積み重ねられた数十個の缶詰を取り出し、バックパックの中にぎっしりと詰め込んだ。

 さらに、キッチンに向かい、棚から根菜類を取り出し、それもまたバックパックに納めた。


 続いては保温と防寒対策。

 バックパックには雨風をしのぐための厚いコットンの布と、体温を保つための毛布を詰め込んだ。

 そして、必要なだけの着替えを選び、それもまたバックパックに詰め込んだ。


 最後に、父と共に作り上げてきた、自分たちを守るための道具たち。

 これまでに製作した携帯用の対ワーム装置の数々を、慎重に、バックパックに収めた。


 すべての準備が整ったところで、レイジはバックパックを背負い、プランターや余分な缶詰などを溶鉱炉に投入し、炎を燃やした。

 そして、その炎を用いて小屋にも火をつける。

 その光景は切なく、一部始終を見つめながら、複雑な感情が心を巡った。

「これがベストな選択だ」とレイジは自分に言い聞かせた。


 火が燃え上がる中、レイジは一度も振り返ることなく、旅立っていった。

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