憧れを捨てて

無銘

憧れを捨てて

 文学サークルの会長である柏木先輩は憧れの人だ。真面目で努力家でリーダーシップがあって、いつもみんなを引っ張ってくれる。

 容姿も、背が高くてすらっとしていて大人っぽくて綺麗で、男女問わず先輩を目当てに入会する人が後を絶たない。

 私も例に漏れずその一人だ。もちろん元々文学が好きだったのもあるけれど、サークルに入会する決め手となったのは先輩だった。

 先輩に会いたくて、私はサークルの活動には必ず参加した。そんな下心混じりの熱意が認められて、今年度から書記を務めることになった。

 だから、私はこんなことになるなんて想像もしていなかった。

「あやめちゃーん。飲んでるかーい?」

 まさか先輩がこんな酔い方をするなんて。

 初めはいつもの落ち着いていてクールな先輩だった。

 新体制になったサークルの役員で一度飲みに行こうという話になって段取りしていたのに、直前で副会長と広報が急用で来れなくなってしまった。それでも、先輩は要領良く全ての段取りを済まして私をお店までエスコートしてくれた。個室居酒屋の席に座って、一杯目のビールを飲むまでは確かにいつものかっこいい先輩が目の前に座っていた。

 しかし、ビールを一杯飲んで、その後も何杯かハイボールやサワーを飲むうちに、先輩の顔はどんどん赤くなって、呂律がどんどん怪しくなって、気づいた時には目の前にいたはずの先輩はなぜか私の隣に座っていて、その柔らかな身体が私に預けられていた。体温や匂いが感じれてしまうくらいすぐ近くに先輩がいた。

「飲んでますよー。ていうか先輩は逆に飲み過ぎじゃないですか?すごい酔ってますけど」

「ええ。全然酔ってないよー?」

 そう言いながら先輩は私の方にしなだれかかってきた。ほとんど抱きつくような格好で、先輩のサラサラとした肌の感触までもが私に触れていた。

「絶対酔ってますって。明日もお互い授業ですし、今日はもうお開きにします?」

 私はそう言いながら時計を見た。時刻は22時を少し回ったところで終電の心配をするには少し早いくらいの時間だけれど、先輩にこれ以上飲ませたら大変なことになりそうで、そう提案せざるを得なかった。

 正直今の状態を手放してしまうのは死ぬほど惜しかったし、もっとレアな先輩を見ていたかったけれど、理性でそういった欲求は抑え込んだ。

 しかし、私の提案に先輩は赤ちゃんがイヤイヤをするように首を横に振った。

「ええ。やだなー。もっとあやめちゃんと一緒にいたいよー」

 私の腕の中で上目遣いをしながら先輩はそう言った。

 顔が良い人の上目遣いは破壊力がすごかった。普段のクールでかっこいい先輩を知っているからこそ、余計に今の先輩をかわいく感じた。しかもそんな先輩の熱をすぐ感じれるくらいに密着していて先輩からは甘くて良い匂いがして、それくらい近くで憧れの先輩の可愛らしい仕草や綺麗な声の一部始終を味わうことができて、色々なことがありえなかった。

 まだ酔うほどは飲んでいないけれど、もしかしたら私も酔ってしまっているのかもしれない。だって酷く酔ってる時と同じように、心臓の音が頭に響いてうるさくて呼吸をするのが苦しいくらいドキドキしている。

 ふとした拍子に憧れが別の感情にすり替わってしまいそうで、理性を総動員する。

「けれど、先輩をこれ以上飲ませるわけにはいかないですし」

 私は断腸の想いで誘惑を断ち切って先輩を宥める。

 私の言葉に先輩は不満げな表情を浮かべる。しかし、その後、何かを思いついたかのような表情を浮かべ、私の耳元に口を持ってきた。

「じゃあさ、私のうちに来ない?」

 囁くような声で先輩はそう言った。先輩の熱い吐息が耳にかかった。理性は今にも崩れてしまいそうだった。

 そこに追い討ちをかけるように先輩は言った。

「だめ?」

 先輩の発した艶やかな二文字が鼓膜を伝って脳を揺らした。その瞬間に、理性は粉々に砕け散った。

「まあ今の状態の先輩を一人で返すのは心配ですし、先輩がいいならお邪魔させていただきます」

 私は最もらしい理由をつけてそう言った。

 私の言葉に先輩は普段は決して見せない無邪気な笑顔を浮かべた。

 そんな表情は反則だと思う。先輩はかなり酔っ払っていて普段のかっこいい先輩の見る影もないけれど、それで失望するなんてことはなくて、ただひたすらかわいいとしか思えなかった。

「じゃあとりあえず、お会計しましょうか」

「はーい」

 そう言って先輩は財布を出そうとする。私はそんな先輩を手で制する。

「今日は先輩のお家にお邪魔させてもらいますし私が出しますよ」

「後輩に出させるわけにはいかないよ」

 いつものスマートさじゃなくて、小さな子が背伸びをするような口ぶりで先輩が言う。

「じゃあ今度また飲みに行きましょう。その時は先輩が出してください」

 私はちょっとの下心混じりにそう言った。

「それなら今日はおまかせしようかな?」

 先輩は嬉しそうな表情でそう言った。それから私の手をぎゅっと握った。指を絡ませるように、俗に言う恋人繋ぎで。先輩の手はサラサラとしていて、真っ赤な顔や体温とは裏腹にひんやりとしていた。

 心臓が鷲掴みにされたようになった。私は必死にいつものトーンを保つことを意識しながら言った。

「じゃあ店員さん呼びますね」

「はーい」

 私の言葉に先輩は頷いた。それから、一応人目を気にする理性は残っていたのか、私にもたれかけていた身体を起こして、いつもと同じようにしゃんと背筋の伸びた姿勢で座り直した。先輩の体温が離れたことに少しの寂しさが頭を掠めた。

 けれどなぜか、手だけは依然としてテーブルの下で繋がれたままだった。先輩は私の手を強く握って離さなかった。そのせいで、心臓の鼓動が収まってくれそうになかった。

 店員さんがきて、会計を済ませた。それからお店を出て、近くの駅から電車に乗って先輩の最寄駅で一緒に降りた。今は先輩の道案内に従いながら、閑静な住宅街の夜道を歩いている。

 その間もずっと手は繋がれたままだった。

「それにしても意外でした。先輩お酒弱いんですね」

「ええ。弱くないよー?」

 そんな言葉とは裏腹に足取りはふらふらとしていて、だらんと口角の上がった先輩の締まりの無い顔を私はずっと見つめていた。相変わらず普段の先輩からは想像もつかないような表情で、けれどそれがどうしようもなく愛おしかった。

「ここを左に曲がったら私の家だよ」

 先輩はそう言って私の手を引くように早足で歩き出した。その歩調はさっきまでのふらふらとした足取りの割にしっかりとした物だった。

 それから程なくして先輩は足を止めた。

「ここです」

 さっきよりも少し硬い口調で先輩はそう言った。

 先輩の家はオートロックの小綺麗なマンションだった。

 先輩はオートロックの鍵を開けて、すぐ前のエレベーターへと乗り込んだ。

「綺麗なところですね」

「親が心配性だからセキュリティがしっかりしてるところしか一人暮らしを認めてくれなかったの」

 先輩は苦笑しながらそう言った。口調も足取りもいつもの先輩に戻りつつあった。けれど、顔だけはずっと真っ赤なままで、まだ酔いが完全に抜けたわけではないんだろうなと思った。

 かくいう私も心臓の鼓動は早いままだった。初めて入る先輩の家に今更ながら緊張していた。私の鼓動が繋いだ手から先輩に伝っていないか心配だった。

 私がそんな心配をしてる間にエレベーターが止まった。先輩に手を引かれるように、エレベーターを降りた。

 エレベーターを降りてすぐのところで先輩は歩みを止めた。先輩は無言のままで鍵を取り出し、ドアを開けた。

「お邪魔します」

 私は恐る恐る、先輩の後から部屋へと入った。

 靴を脱いで廊下にあがると、先輩は急に歩みを止めた。それから、繋がれた手がぎゅっと強く握られた。

「ごめん。もう我慢できないかも」

 先輩の言葉を理解する間も無く強く抱きしめられた。

「先輩......?」

 思考を失った頭でそんな呟きが無意識に口から飛び出した。

 何も考えることができなかった。だって先輩の甘い匂いや体温や肌の感触や、全てが真正面から私を包んでいた。

「ごめん。嫌だよね。こんな急に。酔ってるだけだけで何もないから。すぐ離れるから」

「嫌です」

 反射的に口から言葉が飛び出した。私の言葉に先輩の身体がびくりと怯えるように震えた。それから、即座に私から離れようとした。

 私はその体温を繋ぎ止めるように先輩の背中に手を回して言葉を続ける。

「離れるの嫌です」

「え」

 私の言葉に先輩は驚いたような声を出した。

「かっこよくてかわいくて、憧れの先輩にこうされて、嫌なわけないです。だからもっとこうしてください」

 私の言葉に先輩はフリーズしたように固まって、それから恐る恐る私を抱きしめた。先輩の手は微かに震えていた。

「そんなこと言われたら止まれない。憧れの先輩じゃいられなくなる」

 その声も熱を帯びたように震えていた。首筋にかかる息が熱くて私の頭も沸騰してしまいそうだった。

「憧れじゃなくてもいいんです。どんな先輩でも私は好きですから。だから先輩の全部を私に見せてください。先輩の全部を私にください」

 私は上目遣いをするようにそう言った。先輩のかわいさには遠く及ばないであろう上目遣い。

 けれど、先輩はそんな私の言葉や仕草に呼応するように顔を更に赤らめて、私の耳元に囁きを落とした。

「私もあやめちゃんの全部が好き。全部が欲しい。だから、今日だけ許してね」

 その言葉の後、先輩は耳を優しく食んだ。微かな電流のような快感が背中を走った。

 それから、口づけが落とされた。初めての口づけは甘くて優しかった。

「もっと」

 無意識に私はそんなことを口走っていた。けれどその言葉に恥ずかしさを感じる前に、先輩の口づけが私の頭を埋め尽くした。触れるだけのキスがグラデーションのようにいつのまにか舌を絡める激しいものに変わって、アルコールよりも強く速く快楽が身体を駆け巡った。

「もっと、してもいい?」

 先輩が再び囁いた。私はコクコクと首を縦に振った。

 それを合図に夜の帳が下りた。先輩の声も匂いも体温も、全てが私を包んだ。先輩の全てが私に快楽をもたらした。

 酔っていなくてよかった。だって、今目の前にある光景や快楽を全て鮮明に覚えておくことができるから。先輩の全てを脳に焼き付けることができるから。

 それと同時に寂しさも覚えた。だって酔いの回った先輩は、私の全てをきっと脳に焼き付けてはくれないから。

 せめて、少しでもいいから私を脳の片隅くらいには焼き付けて、囁いてくれた好きが無かったことにならないでほしい。先輩にもたらされる快楽にめちゃくちゃにされながら、そんなことを願った。





          ◇





 翌日、裸で目覚めた私たちは照れ臭さを隠すように服を着て支度をして、一緒に家を出た。もう昨日の先輩の面影はどこにもなくて、いつものしっかりとした先輩だった。憧れの柏木先輩だった。なぜかそれが少しだけ名残惜しかった。

 大学の正門に着くと、副会長とばったり出くわした。

「あれ?柏木と書記ちゃんじゃん。おはよう。昨日はドタキャンしちゃってごめんね」

「おはよう。全然大丈夫。お店の方もなんとかなったし」

「いや本当申し訳ない。色々調整してくれてありがとう。てか二人で登校って珍しいね。」

「ああ。昨日飲みすぎて書記さんの終電がなくなっちゃったから私の家に泊まってもらったんだ」

 先輩はそれっぽい理由を述べる。いつもの要領の良い先輩で、私は会話を任せっきりにして、横で頷いていた。

 すると、会話のお鉢が急に回ってきた。

「それにしても書記ちゃん。こいつと二人で飲むの大変だったでしょ?」

 副会長はそんなふうに問いかけた。先輩と副会長は仲がいいから先輩のお酒の弱さも知っているのだろう。

「ええ。まあ」

 だから私は苦笑混じりに頷いた。

「その話はいいじゃん」

 先輩は恥ずかしそうに、少し慌てて会話に割って入ってきた。けれど副会長はそんな先輩を気にかけず私に言葉を続けた。

「だってこいつめっちゃお酒強いもんね。どんだけ飲んでも顔色もテンションも全然変わらないし、飲むペースも速いし。こいつのペースに釣られて痛い目を見たやつが何人いるか......。書記ちゃんは大丈夫だった?潰されたりしなかった?」

「え」

 予想外の言葉に私は思わず先輩の方を見た。

 先輩は顔を真っ赤にして私から目を逸らした。昨日と同じ頬の色が太陽に照らされて光っていた。

 憧れが愛しさに変わった。

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憧れを捨てて 無銘 @caferatetoicigo

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