微熱

@ueda-akihito

微熱

「本を、読ませたくないんです。ウチの娘に」

 真っ直ぐなその言葉を受けて、私はただ「はぁ……」と言った。想定内の事態だったのに、実際に目の前で言われると戸惑って、それしか言えなかった。あまりにも間抜けだったと思う。机を挟んだ向こう側、凜ちゃんが口を閉じたまま、退屈そうにどこか遠い所を見ていた。

 三者面談の時期がやって来ると、教員一同ある種の覚悟をする。毎度、ひとりくらいは厄介な保護者がいるものだし、生徒側に問題があるパターンも、両者に問題があるパターンもある。憂鬱な期間だ。それも中学三年次の三者面談なんて言ったら、手がかかることが最初から目に見えている。将来のことを考える大切な時、みたいな。そんな緊張感がそこにはある。そういう空気を大人が作っているのだから当然だ。中高一貫校であっても、それは変わらない。見えない未来を考えてみる。ほとんどの場合、中学三年で将来は決まらない。確定しない。ただ、具体的に未来を想像する訓練を行う。

 凜ちゃんのお母さんは、私が国語科の担当だと知っていて、さっきの言葉を投げたのだろうか。私がまごついていると、凜ちゃんの隣、椅子に浅く腰掛けていたお母さんが、再び口を開いた。

「変なこと言ってすいません。教科書に載っているものなんかは仕方ないと思ってるんですけど……それ以外はちょっと、出来るだけ避けたいというか……」

 お母さんは指先をコチョコチョ動かしながら、けれど背中をシャンと伸ばして言った。私の目を、ちゃんと見ていた。

 北村凜ちゃんのお母さんについて、私も話には聞いていた。若くてきれいなシングルマザー。学校から三駅離れた所にある工場で、夜遅くまで働いているそうだ。家計が厳しいという理由で、中学を卒業するタイミングで凜ちゃんは我が校を退学することになっている。私が三年次の担任に決まった時、二年次を担当した先生から、

「北村さんのところ、ちょっと変わったママさんだけど、臨機応変にね」

 と言われた。彼女はベテラン教員で、自分の子供も既に成人している。比べて私は、担任を持つようになって三年目。二十九歳、独身。子供を育てた経験もない。私のことを水谷先生、ではなく「なみちゃん」と名前で呼ぶ生徒も多いくらい、威厳など程遠い。保護者にもそれはバレているだろう。三者面談や進路面談の時にいつも思う。私に一体、何が言えるだろうと。

「あの、読書についてなんですが、毎年、面談で同じように仰っていると聞いています。前任の先生からも……理由を、お聞きしても良いですか?」

 私の勤める学校は、私立女子校である。所謂、進学校。もっと俗っぽく言えばお嬢様学校だ。子供の教育に関して熱心な親御さんが多く、そんな中で凜ちゃんのお母さんは異彩を放っていた。読書を習慣にさせたいという相談は受けたことがあるけれど、逆は初めてだった。お母さんは、一度ゆっくりと瞬きをしてから冷めた声で言った。

「本とか漫画って、読むと比べちゃったり、真に受けすぎたりするじゃないですか。自分の境遇と成功する主人公を比べたり、逆に救いのない話を信じちゃったり……そういうので無駄に傷付いて欲しくないっていうか。ウチ、生活ギリギリだし。凜にも来年から働いてもらうことにしてるくらいで……」

「え、凜ちゃん、就職、するんですか?」

 私は、つい反射的に口を挟んだ。てっきり私立を辞めて、別の高校に通うのだと思っていた。自分の口から「就職」という単語を出した時、果たしてこの言葉で合っていただろうかと不安に思った。十五歳で、就職。世の中に、ない話では、ないだろう。それはわかっているけれど、自分の脳が驚いている。私は中高一貫私立女子校卒だし、大学も四年通わせて貰った。親のお金で。

「義務教育までが限界でした。この学校の学費も、旦那と離婚する時、裁判で話し合って、中学卒業するまでの学費は向こう持ちってことで、それでなんとか三年通わせられた感じなんで」

 凜ちゃんがちらりとお母さんを見た。その後、私の方を見る。大きな黒目。艶のある長い黒髪。凜、という名前を付けられるために産まれてきたみたいな、そんな子。探るような、吟味する視線が真っ直ぐだ。お母さんによく似ている。親子に強く見つめられながら、私は自分の体中を何かが駆け回っている気がしていた。読書のことは、ひとまず、どうでも良い。凜ちゃんは就職に納得しているのかとか、就職先にアテはあるのかとか。だが、そういう話は進路面談の時にするものかもしれない。まだ一学期だ。凜ちゃんも親の前では言い辛いことがあるだろう。そういう色々を思って、私はまた「はぁ……」と言ってしまった。本格的にバカだと思われたかもしれない。なんとも情けない。国語科なのに、いつも私の中には言葉がない。本も沢山、読んでいるのに。

 三者面談の終了予定時間ぴったりで、凜ちゃんのお母さんは帰って行った。これから仕事場に戻るらしい。凜ちゃんは教室に残って、ぼんやり帰り支度をしている。今日の面談は北村家で最後だ。凜ちゃんは窓の外、校庭を見ている。黒い髪が西日を浴びて薄く儚く光っていた。何もかもが不安定に揺れている年頃。過ぎてしまえば一瞬なのに、渦中にいると永遠に感じる。私もまだ、覚えている。自分が十五だった頃の事。あの頃の、匂い。気配。

「先生、ママのこと変な人だと思った?」

 不意に凜ちゃんが言った。私は困る。変な人というのは、自分の物差しで測れない人のことを言うのだと思っている。そういう意味で、私は「思わなかったよ」と言った。凜ちゃんのお母さんを、ママを、私は理解不能とは思わなかった。

「凜ちゃんは、学校辞めるの、嫌じゃないの? 働くの、やだなぁって思ってない?」

 やっぱり気になってしまって、私は尋ねた。凜ちゃんは、目を細めて大人っぽく笑った。

「ママが働いて欲しいって言うし、働くよ。なんかさ、親の言いなりになるとか、そいういわけじゃなくてさぁ。ママの言う事って、やっぱ無視できなくない? これってマザコンかな?」

 私は、私のママの顔を思い浮かべる。いつも明るくて無邪気な人。私はママみたいな明るい大人になりたかった。

「マザコンではないと思うし、そもそもマザコンを悪いとは思わないかなぁ」

 私は素っ気なく聞こえないよう、気を遣って言った。そして、立ち上がる。

「なみちゃんセンセ」

 私が立った所で、凜ちゃんが小さく言った。

「うん?」

 私は微笑して返事をしたけれど、心臓がドッと鳴った。こういう事はよくある。面と向かっていると軽い事しか言わないのに、立ち去ろうとすると、急に重い話をしてくる事が。私は凜ちゃんにバレないように奥歯に力を入れた。

「私よりさぁ、美咲がちょっと……ヤバいんだよね」

 凜ちゃんは、珍しく俯き加減で言った。美咲ちゃんは凜ちゃんと仲良しの、一見して大人しいタイプの子だ。お父さんが有名な企業の偉い人で、お母さんは専業主婦という、ちょっとひと昔前みたいな家庭環境。遅くに出来たひとり娘。庭付きの一軒家、習い事はヴァイオリン。私が知っている情報だけで考えても美咲ちゃんは凜ちゃんと生きる土台が結構違う。それでも二人は仲良しだ。そのことを私は、なぜだか嬉しく感じてしまう。娘に本を読ませたくないと言っていた凜ちゃんママにとっては、美咲ちゃんも遠ざけたい存在なのだろうか。もしそうだとしたら、私はそこではじめて、凜ちゃんママに反感を覚える。

「美咲、今さ、家に居辛いんだって」

 私に打ち明けて良かったものか、不安になっているのだろうか。凜ちゃんはポソポソと話した。美咲ちゃんは姓が「森」だから、面談はまだ先の日程だ。私は椅子に座り直した。

「……話せることだけで良いから、教えてくれる? それとも先生から美咲ちゃんに聞いた方が良い?」

 詳しく教えて、と前のめりになりたかった。グッと堪える。私はいつから、こんなにブレーキを踏む人間になったのだろう。このブレーキは、何との衝突を恐れているのか。

 凜ちゃんによれば、一ヶ月くらい前から美咲ちゃんの両親があまり良い雰囲気にないらしい。事の発端は、美咲ちゃんの母方のおばあちゃんが大きな病気をして入院してしまったことにあるそうだ。

 美咲ちゃんママは自分の母親を心配して、毎日病院に通っている。そのせいで、家事が後回しになり、美咲ちゃんパパはそれが気に障るらしい。仕事から疲れて帰ってきても飯も用意されていない、洗濯物も溜まって、アイロンも間に合っていない、こんな皺の付いたシャツを着て会社に行けと言うのか、と冷たい声で怒るそうだ。

 昭和初期……と私は思ったけれど、時代は関係なく、そういう家は未だにある。家という閉じられた世界。話す言葉も法律も常識も、家によって違う。時代が進んでも進化から取り残される家もあるだろう。

 大きな声で怒鳴る父と、実母の看病、心労、主婦の役割を果たせていない自分に対する失望でゲッソリと青い顔をする母に囲まれて、美咲ちゃんは「家で息、できてない気がする」と、凜ちゃんに話したそうだ。

「家に居辛いから、夜、八時くらいになると花を連れて近所の公園に非難するんだって。パパが帰ってくる前に」

 凜ちゃんは口を尖らせて、嫌そうに行った。

「花?」

「ワンコ。ゴールデンレトリーバーの。写真見せて貰ったけど、超カワイイよ。ずっと笑った顔してんの」

 夜、公園、一ヶ月くらい前から、犬を連れて、避難、息が、できてない……私の頭の奥で白黒の文字がパララと踊る。

「美咲ん家のパパ、ワガママだよね。ママが自分のママを心配するのって当たり前じゃん。それで家事に手が回らなくても仕方なくない? それなのにさ、手伝いもしないでただ怒ってさ、全部やって貰おうなんて甘えてるよね。ガキかよって話。美咲も美咲ママもかわいそう」

 凜ちゃんは殊更に強い声で言った。世界中の男を見下すような鋭さのある声だった。

「ね、それ……夜に出歩いてること、美咲ちゃんのご両親、まさか気付いてないの?」

「マジで花の散歩に行ってるだけって思ってるっぽいよ。普段から習い事とかで帰り遅くなる日もあるから特に気にしてないんじゃない?」

 でもさ、散歩したり歩いて帰ったりしてんのとさ、毎日同じような時間に公園でジッとして時間潰してんのじゃ、ヤバさが違くない?

 凜ちゃんは眉を歪めて言った。その通りだと私も思う。毎日、夜、同じような時間、犬を連れて、避難、息が、できてない……私は静かに深く息を吸い込んだ。私まで息苦しくなったような気がした。凜ちゃんに「教えてくれてありがとうね」と言うと、彼女は「うん」とだけ言って帰って行った。

 教員室に戻って、残りの仕事をしている時も、帰りにスーパーへ寄っている時も、私はずっと美咲ちゃんのことを考えていた。ただ、考えていた。考えている、だけ。

 私は、教師になると決めた時、生徒のためならなんでもしようと誓った。月並みだけれど、有事の際には子供たちの盾になろうと本気で思って、生徒を守って自分が死ぬのなら、それでも良いとさえ思っていた。イジメなどの問題からも目を反らさず、向き合う覚悟があった。そういう「ちゃんとした」先生に、大人に、きっとなろうと、平和な世界の内側で妄想していたのだ。

 実際に教員になっても、その妄想は、夢は、覚めなかった。世の中が、我が校が、表面的には平和だったことが、私にいつまでも夢を見させた。今も、まだ。私は夢の中にいる。表側の平和。子供たちは、実に上手く立ち回る。大人が入ることの出来ない、世界の隙間みたいな所に姿を隠して、何食わぬ顔で事を起こしている。大きな出来事も、小さな出来事も、人を傷付けたことも、傷付けられたことも、隠す。大人は信用されていない。

 私たちは健全です、という顔で年相応に笑ったり、時には大人っぽい顔をして、世の中の全部をもう理解しています、みたいな態度を取る。時々、私には子供たちが本物の神様に見える事がある。大人よりもずっと深く、世界の本質を知っているような顔で、声で、言葉で、話す。私も昔は、そんな風だったはずなのに。知っていた、はずなのに。そういうことは、もう、忘れてしまった。いつの間にか。

 自分よりずっと年下の相手に、全知全能の顔で目の前に立たれると、私は何もわからなくなる。有事の際に取るべき行動さえ見失う。出来事に、自分がどれ程介入して良いのかが、わからない。騙し絵のようだと思う。距離が、掴めない。

 美咲ちゃんは、両親から暴行を受けたり、直接、酷い扱いをされているわけではなさそうだ。学校も休まず来ているし、身だしなみに変化もない。まずは美咲ちゃん本人に話を聞いて、いや、その前に一応学年主任に話をした方がアドバイスを貰えるかもしれない。去年の担任の先生にも美咲ちゃんの両親がどんな人なのかを聞いてみて、それから……考えながら、私は腕時計を見た。夜の八時を三十分程過ぎている。今夜は少し肌寒い。美咲ちゃんは今日も、ワンコの花を連れて公園に居るのだろうか。

 私の想像の中、美咲ちゃんに黒い影が迫る。小さな悲鳴、犬の吠える声、明日の朝、テレビで行方不明になった女の子のニュースが流れる。

 ゾッとした。私は自分の頭の中に浮かび出てしまった映像を掻き消すように、半ば本能に近い勢いで足早に学校へと戻った。守衛さんに忘れ物をしたと話して入れて貰う。何を、しているんだろうという変な呆れがあった。こんな事をしても意味などなく、現実には何事も起こらず夜は明け、日が昇るだろうと、私はどこかで信じ切っている。もう、信仰に近い形で、私の人生に事件など起こらないと、実はずっと、そう思っている。私が体を張って命がけで必死にならなくてはいけなくなるような状況になど、ならない。私は永遠にただの国語科の教員で、生徒に好かれたり嫌われたりしながら生きていくだけだという信仰。

「ほんと、何してんだろ……」

 暗い教員室で思わず呟く。私は名簿から森美咲ちゃんの住所を調べた。学校から近い。ついでに凜ちゃんの家とも近かった。そういえば二人は帰る方向が同じだったのをきっかけに仲良くなったと言っていたな、と思い出す。スマホで地図を確認すると、美咲ちゃんの家の近くには、児童公園がひとつあった。そこでまた、私は揺らぐ。本当に、行くのか? 行ってどうするつもりだろう。本当にこの公園? 美咲ちゃんが居たら、家に帰りなさいと言うの? 家に居辛いから公園に出てきているのに? そもそも、私がそこまでする意味、ある?

 私は自分の思考に絶望する。大袈裟ではなく、本気で絶望した。私の目指していた、理想の先生は、大人は、どこへ消えてしまったのだろう。誰が私を変えたのか。社会か、世間か、学校か、人の生み出す空気か、それとも私自身か。全部言い方が違うだけの、同じもののように思えた。心のない、冷たい、何か。私は空想や妄想の中でばかり熱血で、現実にはそうではない。自分自身の正体が、はっきり浮き上がる。認めたくない、他者に対する冷徹さ。現実の私は何者でもない。どんなに仮想の世界で熱血でも、夢の中で、世界には、人には、温度など、ない。私はいつも、現実から逃れようとしている。本物の熱から、逃げようとしている。リアルが、怖くて。

 私は、夜の住宅街を小走りで進んだ。視界がキュッと絞られたみたいになっていて、喉がとても熱かった。冷徹なはずの、私の、喉が。私は私の正体を否定するために足を動かす。いつしか全力で走っていた。息が上がる。苦しくなればなるほど、生きている気がした。久しぶりに、ちゃんと、現実を生きている気持ちがした。

 公園は小さく、そして大きな桜の木に取り囲まれていた。街灯はあるけれど、死角が多く、不安が胸を圧迫する。公園の入り口に近付いた所で、誰かの話し声がして、私は減速した。女性の声だ。それも、聞き覚えのある声に思えた。

 凜ちゃんの言っていた通り、公園のベンチには美咲ちゃんが居た。制服のまま、足元には毛艶の良い大型犬が大人しく伏せている。美咲ちゃんの目の前には、女性が立っていた。先程の話し声は彼女のもののようだ。後ろ姿に見覚えがあった。「り、凜ちゃんママ、です、よね?」

 私は戸惑いのままに言った。あまりにも自信のない、怯えたような声になった。パッと振り向いた女性は、やはり凜ちゃんママだった。

「あれ、水谷先生だ」

 私の姿に、先に反応したのは美咲ちゃんだった。凜ちゃんママは、一拍遅れて「先生」と呟いた。

「なんで先生いんの? もしかして先生って住んでるの、この辺? 今帰りとか、先生ってめっちゃ大変だね」

 美咲ちゃんは軽い口調で言った。いつもの感じと違う。教室ではもっと柔らかい気配がある。今は、何か、挑むような。熱い声だった。

「凜ちゃんが教えてくれたの。美咲ちゃんが最近、夜に公園で過ごしてるみたいで心配だって」

 私がゆっくりとベンチに近寄ると、美咲ちゃんの足元でワンコが片耳だけをヒョイと持ち上げた。「この子、花ちゃん?」

 私が尋ねると、美咲ちゃんはワンコの頭を優しく撫でて「世界一カワイイでしょ」と言った。私は「うん」と応えて、今度は凜ちゃんママを見た。凜ちゃんママはハキハキした口調で、

「仕事帰りにたまたま見かけて。凜と同じ制服だったから。夜にこんな所でジッとしてたら危ないと思って……」

 と言った。私はびっくりした。

「美咲ちゃんと、面識は……?」

「いえ、名前だけは凜から聞いた事ありますけど、顔までは」

 凜ちゃんママは表情ひとつ変えずに言った。私は言葉を失う。娘の友達と知っていたわけではなく、制服だけを見て声をかけたのか。私はこの場に来るまで、数え切れない様々な事を頭に巡らせていたというのに。

「最初ヤバいおばさんに話しかけられたって思ったけど、話してたら凜のママだってわかって、びっくりしてたとこなんだよ」

 美咲ちゃんが笑って言うと、

「笑い事じゃない。どんだけ危ないことしてんのか自覚持ちな」

 と、凜ちゃんママがピシャリと言った。美咲ちゃんは少し不満そうに「花がいるし」とか「まだ八時じゃん」とか言ったけれど、肩はシュンと丸くなっていた。

「先生、この子、家に居辛いらしいんで、今日はウチで預かります。狭い家だけど、女三人、犬一匹で雑魚寝くらいは出来るから。アンタ、自分で家に連絡できる? 言い辛かったらアタシが説明してやるけど」

 凜ちゃんママはさっさと話を進めた。私はただ、成り行きを見ている。外側から。私はいつまで夢の中にいるつもりなのか。やっと熱を持ち始めたのに、現実に追いつけない。リアルを生きる目の前の二人に追いつけない。

「もしこの子の親が不審がって納得しなかったら先生、先生からも事情、話して貰えます?」

 凜ちゃんママに言われて、私は反射で「はい」と言った。けれど、不安、だった。美咲ちゃんの両親はどんな人だろう。なんと言って説明をしたら良いのか。そもそも美咲ちゃんの家の現状をまだよく知らない。部外者の私に、言葉なんてあるだろうか。頭だけが回りすぎて、時計の針と波長が合わない。

「先生、何ビビってんの」

 凜ちゃんママが言った。私は心臓が飛び出るかと思った。図星過ぎた。その上、凜ちゃんママは私の背中をパンッと叩いたのだ。

「大人が、子供を守るのに、ビビってどうすんの」

 凜ちゃんママは、それだけ言うと、もう美咲ちゃんからスマホを借りて電話をしていた。私は目が潤んで、唇を戦慄かせていた。凜ちゃんママの言葉に対して、私の脳内に浮かんだ言葉は、「私だって、まだ子供だもん」だった。私には、大人になったという、自覚が、ない。そのことを、今、突き付けられている。気付かないフリをしてきたのに。熱かったはずの喉が、また、冷たくなっていく。

 結局、大して揉める事もなく、美咲ちゃんと犬の花ちゃんは凜ちゃんの家にお泊まりすることになった。私はただ立っていて、最後、少しだけ美咲ちゃんママと話したくらいだった。凜ちゃんママは、それでも「先生いてくれて良かった」と言ってくれた。そして、美咲ちゃんに何事もなくて本当に良かったと言っていた。私は、美咲ちゃんが無事で良かったと思えているかも怪しかった。それよりも、自分の無力、非力、無責任、未熟さ、あらゆる現実に体の芯の部分を押し潰されていた。

 翌日、凜ちゃんも美咲ちゃんも元気に登校してきた。美咲ちゃんに至っては、お泊まりが楽しかったのか、いつもより明るい顔をしているように見えた。

 今朝のニュースで、小学生の自殺が報道されていた。原因はイジメかもしれない。周囲は気付けなかったのか。コメンテーターが渋い声を出していた。美咲ちゃんは無事だった。でも、現実世界のどこかには、無事じゃなかった子がいる。地続きの、同じ世界の出来事なのに、他人事のようだった。遠い。私は、気付けるのだろうか。何かが起こる、その前に。後悔に、なる前に。自信がない。皆無だ。

 放課後になり、私は今日の面談の準備をする。悩み、気が晴れなくとも、日常は進んでいく。世界は止まらない。誰も、止まってはくれない。

「なみちゃんセンセ」

 呼ばれて振り向くと、凜ちゃんと美咲ちゃんが立っていた。私はなんとなく目を合わせられず、二人の制服のリボンを見ながら「昨日は楽しかった?」と尋ねた。

 凜ちゃんが視線だけで美咲ちゃんを促したように見えた。美咲ちゃんはスカートをキュッと握って、私の方へ、一歩、寄った。

「昨日、先生、私のこと心配して来てくれたんだって、あの、私あんま、わかってなくて、ごめんなさい……あの後、凜にも凜ママにもめっちゃ怒られて、」

「別に怒ってないし。美咲がアホの子だって教えてあげただけっしょ」

 二人は楽しそうに軽口を交わし合う。私は、私の友達に会いたくなった。私の情けなさを誰かに笑い飛ばして欲しい。アホの子と、言って欲しい。親しい間柄でなくては許されない優しい暴言で、私を包んで欲しい。

「凜ちゃんのママが先に声を掛けてくれていたじゃない。カッコイイね、凜ちゃんママ」

 私は言った。凜ちゃんママが居なかったら、私はどうしていたのだろう。

「センセ、昨日の面談でウチのママ、本、読ませたくないって言ったじゃん。アレさ、ほんとはただ、私にパパみたくなって欲しくないだけなんだよ。ウチのパパ、起業の本とか一億円稼ぐ本とか、そういうの全部信じて、いっぱい失敗してさ。最後は借金しつつ無職になって離婚って感じで。パパの実家が金持ちだから、どうにかなってるらしいけど、ママとしては、そういうのトラウマなんだよ。ビビってんの」

 凜ちゃんが深い愛情のある声で言った。

「凜ママにも怖いものあるんだね」

 美咲ちゃんが言った。凜ちゃんは笑う。

「そりゃあるでしょ。私を女子校に入れたのも、自分が中学時代に付き合った人とそのまま結婚して失敗したからだし」

 でも仕方ないよね、気持ちわかる、自分が失敗したと思った道はさ、大事な人には歩いて欲しくないよね、怖くなるし、ビビるよ。

 凜ちゃんは全てを許すように言った。親の選択も、自分の人生も、全て許すように。

「でもさ、本読まないのに凜、国語の成績めっちゃ良いよね。ってか頭良いし。将来、水谷先生みたく国語の先生になれそう」

 美咲ちゃんが柔らかい顔で笑った。凜ちゃんは少し考える顔をして「好きと得意って違うし、私、大学とか行けないし。お金掛かるから」と言った。美咲ちゃんは数秒置いてから「そっか」と呟いた。「私、国語あんまり得意じゃないから、凜が羨ましい。主人公の気持ちを答えなさい、とか、知らないよ、そんなのって思う」

 私は美咲ちゃんの言葉に笑った。そういう子は多い。思考の傾向が想像よりも現実寄りなのかもしれない。私は本が好きだけれど、国語が苦手な子の気持ちもわかる気がする。人の気持ちなんて、そんな簡単にわかんなよね、小説でも現実でも、子供でも大人でも、わかり合うのは難しいよね、と思う。

 凜ちゃんと美咲ちゃんは、生きる環境が違っても、どこか理解し合えている所があるのだろう。二人の顔付きは、どことなく似ている。常識だとか、正義感だとか、そういう基準が似ているのだと思う。十代を同じ学校で生きると、そういう現象が時折フッと浮き上がることがある。

「ね、なみちゃんセンセはなんで国語のセンセになったの?」

 凜ちゃんが言った。

「ママに言われたからだよ」

 私は即答した。凜ちゃんが目をパチッと瞬かせた。美咲ちゃんは「えっ」と声を出す。

 私は小さい頃から本が好きだった。そんな私にママは言った。

「なみは将来、国語の先生になれるね」

 ただの思い付き、なんの責任も伴わない、風船よりも軽い言葉だったと思う。けれど、私は無視できなかった。本当は小説家になりたかったのに、私は先生を選んだ。

「センセくらい大人になっても、やっぱりママって最強なんだね」

 凜ちゃんが少し、気の抜けたような声で言った。どうやら凜ちゃんの目に、私はちゃんと大人として映っているらしい。そのことに私は安堵を覚えながら、同時に、私の目には二人がきちんとした人間に見えていた。今、この時。子供でも、生徒でもない、中学三年生でもない、熱量のある人間に見えている。本来、こうあるべきなのかもしれないと、唐突に思った。

 私は、生徒たちに「先生」にして貰っているだけだ。人を導くような器など持っていないのだろう。いつもビビって、怖がって、情けないことばかり思う。

 けれど、せめて人間らしさを諦めずにいたい。冷たい人間に、なりたくない。大人らしくなくても良いから、体温を、忘れずにいたい。夢でなく、妄想ではなく、リアルを生きるために。

「先生、今日は誰の面談なの?」

「久下さんだよ」

「ゲ。久下っちのママ、めっちゃ厳しいらしいじゃん。センセ、がんばって」

 二人は子供らしい目で私を見て、また明日ね、と教室を出て行った。美咲ちゃんはしばらく、凜ちゃんの家に泊まるらしい。問題は全て、存在したままだ。美咲ちゃんの家は、まだ居心地が悪いし、凜ちゃんは今年で退学して、来年社会人になる。

 現実は、いつも同時多発的に何かが起こる。起こり、重なり続ける。見つめなくてはいけない。なるべく、目を反らさずに。大人も子供も誰でも、例え、どうにもならないような現実でも。怖くても、ビビっていても。強くなくても。

 ああ、現実は、やっぱりどうしても、シンドイなと思う。隠れていたいな、守られていたいなと思ってしまう。どうか何事も起こらず、平和で在り続けてくれと、願ってしまう。平和信仰は、続いてしまう。どうしても。

 でも、どうか私よ。どんな時でも、体温だけは、ぬるくても良い。失ってくれるな。そう願う。平和の中で、冷たく、固まってくれるな、と。

 廊下から足音が聞こえる。もうすぐ面談開始の時間だ。私は凜ちゃんママの真似をして、椅子に浅く腰掛け、背中をシャンと伸ばした。手のひらがジンワリと熱かった。

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