永遠のヒロイン

@ueda-akihito

永遠のヒロイン

 人を殺しそうになった。本気だった。相手が変な声を出して、辺りに血が垂れ落ちた時、「やばい」ではなく、「やれる」と思った。これは殺せる、仕留められると、体中が興奮した。そんな状態で辛うじて手を止められたのは、急激にお腹が痛んだからだ。

 あまりの痛みに蹲って、浅く息をついた。ドッと出血の気配があった。助けて欲しいような気持ちで、私は夫に手を伸ばした。夫の体は震えているようだったけれど、私も痛くて寒くて震えていた。同じだなぁ、と思って、これが正しい姿だと思えた。涙が溢れた。

 大人なんだから泣くなよ、みっともない。職場で泣く女が一番嫌い。そう言っていたのは誰だったろう。何度も聞いたような気がする。誰もがそう言っていた気さえする。職場の上司に責められて、静かに涙をこぼしていた人がいる。

「あの子、また泣いてんの」

 哀れむような誰かの呟きが落ちた。大人になったら滅多に泣いてはいけないというルールらしい。

「生理なのかもしれないよ」

 私は誰のものとも知れない呟きに、脳内で返事を送った。人によっては生理中、意味もなく、理由もなく、ただ泣けてしまうことがあるという。不思議に思う。生理は大人になった証だと小学校で習った。それが本当なら、女は生理開始と同時に滅多に泣けない体にしてもらわなくては困るではないか。涙の代わりに血を流す体。男も精通したら泣けなくなる。そういう構造にしてもらわなくてはおかしいと思う。

 泣いている人間は、だいたい殺意のようなものを抱えているそうだ。確かに、悲しかったり、寂しかったり、痛かったり、苦しかったり、怯えたり、そういう気持ちは全部、殺意の親戚みたいな気がする。女は生理の時、泣きながら殺意を抱いているのかもしれない。女の生理も男の射精みたいに快楽を伴えば良かったのに。そうしたら、涙ではなく笑顔をこぼせたかもしれない。

「男は男で、結構大変じゃん。精神的なものがダイレクトに響いちゃうし。枯れる、なんて表現、よく使われるけど、すごいプレッシャーあるよなぁ。社会的無能と同義みたいな気持ちになる」

 夫はそう言っていた。私はその時、前回の生理が終わって二週間目に突入していた。日記にそう書いてある。少しずつ自分の下半身に涙が溜まっていく感覚。涙と苛つき。殺意のようなものの積み重なり。だんだんと自分が人間から獣へと進化していく。本能に忠実な分、獣は人間より高等に思える。

「ふぅん」

 私が気のない返事をすると、夫は困ったような形の眉で愛想笑いをした。私は夫が泣いている所を見たことがなかった。きっと上手に下半身から発散できているのだろう。私の夫は社会的無能ではないらしい。ちゃんと大人なのだ。

「そういえばこの間、急にキレて部下を泣かせていた人、いたなぁ。時々いるよな、急に怒鳴る人。泣く方も泣く方だけどさ。子供かよって思う」

「急に怒鳴るみたいな、そういう人はさ、上手くやれてないんだよ、きっと。無能なのかも、下半身が」

 私が言うと、夫は笑った。上手に泣けず、殺意を溜め込むのは男も女も同じなのかもしれないと希望が抱けて、私も笑った。大人の私が生理の時に泣けてしまうのは、私が上手く血を流せていないのが原因なのかもしれない。今月は上手く泣けるだろうか。それとも血が流れる代わりに、小さな命が宿るだろうか。私たち夫婦には、まだ子供がいない。もう何年も努力を続けているけれど、実らない。仕方ないと思うところもある。私だったら、こんな殺意の肥溜めみたいな場所に宿りたくない。もっと澄んできれいな、清々しい所に舞い降りたい。私がドロドロとしたものばかりを下半身に蓄えるから子が宿らない。そんな気もする。

 孫の顔は見られそうにないわねと、と言われたことがある。とっくに閉経している人に。そういう声を聞くたびに、やっぱり月に一度のあれは、怒りとかそういう負の塊を流し出す作業だったのだと理解する。大人になり、泣くことを忘れ、生理も終わってしまっては、あとはもう感情のままに他者を攻撃するしかないのだろう。理性が崩壊しているのだ。いや、子供に戻って、無垢な気持ちを曝け出しているだけかもしれない。神様はどうして女をこういう風に創ったのかな、と考える。完全な欠陥だと思う。毎月の痛み、それに伴う苛立ち。理不尽に痛むお腹に情緒は砕けて、女はいつだって人を殺せると思う。これは由々しきことで、物騒だ。

 生理の一日目と二日目の私は、痛みや苛立ちと戦いながら、ただジッと暗闇に目を光らせる。時折、気絶するように眠り、出血の気配にゾワッとなって目を覚ます。生理による貧血で、眠気で、気を失って倒れ、亡くなった子を知っている。そのくらい大変なこと。命に関わること。ひたすらに自分の体の機嫌を取る。かと思えば、強い鎮痛剤を飲み、胃を痛めたりもする。寒い。体の根幹が冷え切っている。世界の全てが憎くなり、神さえも呪って三日目、四日目あたり。だんだんと気持ちがスッキリしてくる。泣き止んだ後の、少しの疲れと爽快感みたいな気分を味わう。そこまできて、ようやく私は、人間みたいなイキモノに戻ってくる。それまでは手負いの獣だった。人ではなかった、きっと。

 私が殺しそうになったのは、夫かもしれない。愛しているはずの人を殺しそうになったのかもしれない。そのことに、私は涙する。夫は多分、優しいちゃんとした大人で、私はこの人とずっと愛を育んでいきたいと思っていたはずで、だから私たちは子供が欲しかった、はずだった。愛の結晶。大人になり泣けなくなった男女の涙と涙が出会って新しい命が産まれる。涙の結晶、ということは、殺意の結晶? そう考えると愛よりずっと本気度が高くて尊い気がした。

 とても親しい友人が流産をした時、

「正直、ちょっとホッとした」

 と言ったのを、忘れられないでいる。人間は、子供も大人も赤ちゃんも、あんまりかわいくないのが問題だと思う。どうせ産むならサルっぽいイキモノじゃなくて子犬とか子猫が良かったのにな、と思う。そうしたらきっと、無条件に愛せるだろう。昼も夜もなく、場所もわきまえず、大声で泣く赤ちゃん。人間みたいな姿をしながらも言葉を知らず、得体の知れないエイリアンみたいな赤ちゃん。そんな変なイキモノを本当にみんな愛せているのだろうかと思う。誰だって産まれた時は同じ姿で、同じように泣いていたんだよ、なんて。だからなんだと言うのか。私はもう成長していて、赤ちゃんよりは人間らしさに自信がある。私は赤ちゃんという存在を欲しがりながら見下し、赤ちゃんくらいしか見下すこともできず、でも赤ちゃんの中のどこかに自分の本当の姿が透けている気がして、それで嫌悪している。大泣きをしている自分を見ている。あんな風に、赤ちゃんみたいに、大人だって泣きたい。そして、泣いた分だけ優しくされたい。泣くことが罪じゃなかった貴重な時代。泣いてもみっともないと言われない時代が確かにあった。誰にでもあった。もう思い出せない。小学校より前は特に思い出せない。思い出すために子供を産んで育てたい。子供だった頃の自分を、子育てを通じて追体験してみたいのかもしれない。

 けれど、願いは叶わず今月もまた、私は出血した。だいたい、予定日の五日くらい前からお腹が痛み出すので、頭の中では理解できていた。今回もきっと宿らなかったのだろうと予測はできていた。それでも、出血した半身を抱えた瞬間の虚ろさは、私からまばたきさえも奪った。呼吸をすると生々しいニオイがするのも眼前を乾かしていった。もう許して欲しかった。

 そんな私に、夫が言った。

「子供なんて、いらないよ」

 その言葉が、私は許せなかった。なぜだ、と思った。どうしてそんなに他人事の顔なのか。なぜ私だけが血を流し、涙を流し、お腹を痛めて、苦しんでいるのか。夫も同じように苦しむべきだろう。病める時も、健やかなる時もと、二人で誓ったではないか。私は、私と同じ分だけと思って、私の痛みと同じ分だけと思って、手近にあったもので夫のお腹を刺した。包丁だったか、ハサミだったか、カッターだったかもしれない。子宮のある辺り。そう、あなたが押さえている、そこが私はとても痛い。

 夫の体から血が垂れ落ちていく。体が震えていて、かわいそうだ。でも、私も同じで、お腹が痛くて出血していて寒くて震えている。夫の目に涙が見えた気がした。なんだ、この人も泣くのかと思った。大人は泣いてはいけないらしいのに。私たち夫婦は二人揃ってまだ子供なのかもしれない。生理があって、精通もしているのに、子供。大人のフリが上手なだけの。子供が子供を持とうとするのは危険なことだ。自分が成熟していないのに、他者を育てることなんて、出来るわけがない。友人の言葉がまた脳裏でチカチカ光る。「正直、ちょっとホッとした」と、彼女の口が甘く囁く。あの子もまだ子供だったのかもしれない。命は重い。責任が重い。新しい命を産み落とすことの重責。悪魔との契約みたいな、ジットリとした緊張がある。命のやり取り、出産と引き換えに自分が死ぬ可能性だってある。

 産まれたばかりの赤ちゃんは、この歪な世界の空気を吸って成長していくのかと思うと不憫にも思う。先住民たちの体から発される無色透明な重力、湿度みたいなものを受けて、その圧に潰されないように気を付けながら慎重に生きなくてはならない。どんな環境に産まれても、死ぬまで生きるしかない。

 産まれた時に持っていた体のカタチ、器と、魂、性質みたいなものが共鳴しなかった子供たちは、悲しみや怒りの収め方が上手だと聞いたことがある。大人になるのが上手な子が多いのかもしれない。

 私がもし、自分の心をこのままに、生理の来ない、射精が出来る器で産まれていたらと考えると、生きていく方法を見失うなと思う。どうやって怒って、どうやって泣けば良いのかもわからず、右往左往した挙げ句に、ただ植物のように立ち尽くす。私と夫の間に産まれた子が、そういう個性を持っていたとしたら、私には教えてあげられることなどひとつもなく、きっとその子の方が私より先に大人になって、色々と教えてくれるのだろう。そういう未来を想像する。妄想する。夢の中で。

 正気に戻った頭で思う。あれは夢だったのだろうかと、首を傾げる。それとも現実だったのだろうか。どちらでも構わない。久しぶりにキッチンで包丁を使いながら思う。刃物は便利で、日常生活のどこにでも置いてある。妻が夫を刺したらしい。夫は重傷なんだって。テレビでニュースキャスターがそんな話をしている。私の話かもしれない。でも、私の話じゃないかもしれない。休日の昼、夫の姿は見えない。まだ起きてこない。夫が起きないとシーツを洗えないから困る。夜、寝ている間に経血が漏れてしまったらしく、シーツがずっと、血で汚れたままになっている。ここ数日のことだ。私の寝間着も血で汚れていた。ようやく生理が落ち着いてきたから、なるべく早く洗ってしまいたいなと思うけれど、夫を起こしに行くのも面倒臭い。

 ある夜、ベッドの隅っこで膝を抱えていた私に、夫が言った。

「いつも熱心に、なに打ってるの?」

 夫は寝る直前になるまで寝室に来ないことが多い。だいたいリビングでサッカーやバラエティ番組を眠くなるまで見ている。私は薄暗く照明を落とした海底みたいな寝室で、ブランケットを被ってスマホをいじる。満たされる時間。私がなんの役割も持たない、ただの私でいられる時間。妻でも、女でも、人間でもないかもしれない。魂だけになって、私が自分の人生の主軸でいられる数少ない時間。

「日記つけられるアプリ」

「そんな沢山書くことある?」

「いろんなこと、忘れないように残せるから。生理中とかは特に。どのくらいお腹痛かったかとか、薬飲んだ回数とか、まぁ、いろいろ」

 私が言うと、夫は変な顔をして笑った。夫の顔に二つついている目、半分は興味がなさそうで、もう半分はとても興味深そうにしていた。私は、この日記になんでも打ち込む。日々の記録、妄想、思いついたこと、考えたこと、人から、教えて貰ったことも、全部。

「オレの悪口とかも書かれてそう」

 夫は言った。スマホを覗き込みたそうにしていた。私は日記を閉じた。そうすると夫は、ますます本気で見たそうな気配を発した。目の奥がキュウと縮こまって、夫が私に集中していた。

「あのさ、前に母さんが言ったアレ、気にしなくて良いから」

「アレって何だっけ」

 私が惚けると、夫は「あの、孫の顔は見られそうにないわねってやつ」と言った。

「気にしてないなら良いんだけどさ、オレはお前以外とは無理だし」

 夫は普段より高い声で言った。気のせいかもしれないが、私にはそう聞こえた。義母が私にその言葉を吐いた時の感じをよく覚えている。今の夫の声にとても似ていた。今日は午後から雨なんですって、こんなに晴れてるのに嫌ねぇ。そういうテンション。彼女は自分の息子側に原因があるのかもしれないとは考えないらしい。現に夫の能力は正常だ。私も正常。きっと私たちは正常なのだ。足りないのは、やっぱり私の精神的な成長ではないかという気になる。大人として足りていない私。呪いにかかっている私。私がスマホを枕元に置くと、夫の目がその動きを追っていた。

 私が寝入った後で、盗み見ようとしても無駄だよ、と私は思った。日記にはパスコードが掛かっている。夫には絶対にわからないパス。初恋の人の誕生日と、その子が流産をした日付を組み合わせたセピア色の錠。

 女の子の半分くらいは、一生のうち一度くらい、女の子に恋をすると思う。特定の誰かを一番の親友と呼んで、親にも言えない秘密を共有したりする。少しでも髪を切れば気付くし、ネイルの色が変われば「かわいい」と言ってその手に触れたりする。着替えの時には、新しい下着を見せ合ったり、日焼け止めを塗り合ったり。誕生日プレゼントもクリスマスプレゼントも本気で相手の喜びそうなものを考えるし、丁寧にカードを添えたりする。容姿はあまり関係ない。見た目で好きになるわけじゃない。ただ自分の魂みたいな部分がピタリと合ってしまう子が世の中にはいるものなのだ。毎日、その子とばかりずっといるから、笑顔も怒った顔も眠そうな顔も全部知っている。日の光に透ける顔の産毛とか、睫毛や眉毛の先の輝き。喋る時、舌があたっている小さめの歯、上は整っているのに、下は少しガタついている歯並び。仲良しね、と周りからは言われた。微笑ましい、みたいな目で見られたけれど、その時の私たちには、もうとっくに生理があって、大人だった。そのことを周りの大人たちは失念していたのだろう。私たちは仲良しで、親友で、恋をしていた。

 彼女が流産をした時、一番に駆け付けたのは私だった。

「旦那に連絡するの、なんか怖くて。先にアンタに知らせちゃった。ごめんね、びっくりした?」

 疲れた顔をした彼女は、それでもどこか清々しい気配を纏っていた。私を見つめる瞳が澄んで淡いピンク色をしていた。病室の白さが彼女の全身を発光させているようだった。

「大変だったね」

 私が言うと、彼女は「これからの方が大変」と答えた。彼女の旦那は、彼女の勤める会社の上司。高卒で入社した彼女に「大人は泣かない」と教えた人だ。職場で泣く女が一番嫌いな人なので、きっと私のことも大嫌いなんだろうなと思っていた。

「アンタもさ、この年齢になると周りから色々言われるでしょ。そうでもない?」

 彼女は、ただ私だけを見つめて言った。高校の時の保健室がよみがえった。彼女はよく体育をサボっていて、私は授業が終わると体操服のまま保健室まで迎えに行っていた。

「ママは、子供が欲しいなら、色々と早い方がって」

 私が答えると、彼女は笑った。あれは笑ったのだと思う。口角が上がっていて、目を細めていたから。

「私さ、子供欲しいかわかんない。でも、この先ずっと旦那と二人きりはしんどいし、子供がいたら、きっと楽しいこともさ、多いとは思うけど。それ以上に、お金かかるし、手もかかるし。旦那だって本心ではそこまで子供欲しがってない気がするしさ。結局は周りの目っていうか」

「無能だって思われたくないのかな」

 私が言うと、彼女は今度こそ笑った。出会った時から変わらない、ケラケラという高い笑い声が病室に響いた。

「今回のことで揉めるようなら、旦那と別れようかな。あの人、本当は男が好きらしいし。噂だけど」

 彼女は言った。私は、私が一番に呼ばれた本当の理由を知った。胸が高鳴った。別れて、と叫びたかった。叫ぶ代わりに、私は泣いた。泣いてしまった。ポロポロ涙を落とす私に、彼女は、

「なんでアンタが泣くのよぅ」

 と、母親のような声で言った。一度でも、自分のお腹に命を宿したことのある人間の声だった。私はますます泣いた。殺意のような、何かが溢れて泣いた。彼女も少し泣いていた。鋭い瞳が濡れていた。 私は彼女に恋をしていた。恋をして、信じて、縛られていた。無意識のうちに。

 彼女が社会に出て働き出した時、私はまだ学生で、彼女から色々なことを教えて貰った。社会の常識、大人になったら人前で泣いてはいけないルールだということ、それでも泣けてしまう時があって、そういう時はだいたい殺意みたいな悔しさを感じていること。「生理前の不安定さ? アレに似てる波が、社会には満ちてるんだよ」と、彼女は言っていた。私は彼女の言葉を誰よりも信じた。信じたまま、社会に出た。彼女は私の世界の模範で、「正」で在り続けた。私という人間の人生、その主人公は彼女で、彼女はヒロインだった。私は常に彼女の下にいて、彼女は私の上にいる。恋をしている間は、それで良かった。私が大学を卒業して社会に出ると同時に、彼女は結婚した。その時、私の中に、裏切られたような淡い憎しみが芽生えた。新しい感情だった。私はその新鮮さに驚き、今まで常識と思い込んでいた全てが、彼女に教えられた全てが、歪んでいるように思えた。真夏の冷水、微睡みの中で肩を揺さぶられる、目の覚める感じ。その時はじめて、私は彼女よりも上に立ってみたいと切望し、私が彼女の「正」となる瞬間を夢想した。私は、彼女の結婚式で知り合った人と付き合いだした。彼女の旦那の部下。最高で最適な人を見つけたと思った。

 私は子供が欲しかった。例えサルっぽくても、かわいくなくても、エイリアンみたいでも、どんな個性を持っていても良い。彼女が成し得なかったことを実現させたかった。それこそが私の、彼女に対する勝利宣言だと思えたし、加えて彼女が離婚でもすれば完璧だと思った。私は勝って、ようやく歴史の表に出る。ようやく私は私を認めて、私を愛して、病める時も、健やかなる時もと改めて誓える。私の本当の夫は、私なのかもしれない。

「オレのことは、もう夫だと思ってくれて良いから。そういう関係だって。まだちょっと、法律的な部分でもゴタゴタしてるから、アレだけどさ」

 彼女の旦那だった人が、私にそう言った。もうずっと前から関係はあったので、別に驚いたりはしなかった。

 彼女の旦那が、私に「なぁ」と声を掛けてきたのは、入社して半年あたりが経った頃だったと思う。

「ウチの嫁の幼馴染みが入ってきたって聞いてさ。キミのことだよね。結婚式、来てくれてたの、覚えてるよ」

 私は彼女の紹介で、彼女と同じ会社に入社していた。当時の恋人とも同じ職場で、働くのなら知り合いが多い所の方が楽だと思った。

「今度二人で飲みに行かない? ウチの嫁のさ、機嫌の取り方とか、昔話、聞かせてよ」

 ちぎれ雲くらいの軽さで誘われて、私は返事もしなかった。けれど、彼女の旦那は気にした様子もなく、私の肩をポンと叩いて去って行った。今、私の肩に触れたその大きな手で、彼女の裸の胸や、腹や、腰に触れているのかと思うと、急に体全部が熱くなった。体が熱いと涙が出る。悔しかった。何が悔しいのかは、わからなかったけれど、存在を、軽んじられたと思った。私は唇を噛んで涙を堪えた。その数年後、彼女は流産し、離婚し、彼女の旦那が私の夫となるとは露とも思っていなかった。全てが夢のようだ。私の人生には、いつもそういう気配がある。

 私は夫として彼を見た時、これでいよいよ彼女に勝てるような気がして、彼女になれるような気がして、それがとてつもなく嬉しかった。私の喜びに、夫は「今までの人生、お互い色々辛かったよな、幸せになろうな」と意味のわからないことを言った。そして彼女は、何も言わなかった。私と夫の関係など、とっくに知っていたという顔をして、普通に職場に来ていた。

 けれど、彼女は職場でよく泣くようになった。小さなミスの指摘だけでもポロポロと涙を流していた。

「最近、なんか生理痛が酷くて、生理前も無性に泣けるし、すごい殺意溜まってる気がする」

 彼女は私に言った。私たちは一緒に社食でお昼を食べていた。彼女はヨーグルトだけで、食後は薬を飲んでいた。

「わかる」

 私は嘘をついた。彼女の言葉は、その時の私にはわからないものだった。私は生理痛を知らなかった。酷い人は酷いと聞くが、個人差があるらしい。私はあまり感じたことがなかった。感じるわけもなかった。けれど、私は「わかる」ことにした。彼女が感じていることは、全て「わかる」ことにしている。

 流産し、離婚した彼女。職場で泣いて疎まれる彼女。なのに、それでも私は、彼女に勝った気持ちには一度もなれずにいた。どうしてだろう。どうすれば私はヒロインになれるのだろう。自分の人生なのに、どうしたらヒロインになれるのか、わからないまま。その日の夕方、彼女は死んだ。会社からの帰り道。駅のホーム。生理の貧血と眠気で気を失って、後ろ側に倒れたらしい。打ち所が悪かったのだと、亡くなった二日後に聞いた。

 彼女のいなくなった世界で、私は途方に暮れた。足下が崩れて、無重力世界に投げ出された。この先、どうやって生きたら良いか、急に全てがわからなくなった。あれほどまでに、私を受け入れてくれた彼女。私を私のまま、そのまま扱ってくれた彼女。これから何を標に私は歩けば良いのか、このただ広いだけに見える場所から、どちらに進めば良いの。彼女がいなくなってから、私の体は急に生理前の不調を訴え出した。生理が始まればお腹も激しく痛むようになった。まるで彼女の体質がそのまま、私に引き継がれたようだと思った。私は怖くなった。自分の体が、彼女に乗っ取られた気がした。存在が見えなくなって、より色濃く形成される彼女の輪郭。力強さ。同時に私は嬉しかった。彼女と同化できるのならば、私はヒロインということになる。ずっと彼女になりたかった。その夢が、叶うかと思った。

 彼女の死から、私はますます子供が欲しくなった。産めば彼女にそっくりな子が産まれそうだと思った。育てよう、そして追体験をしよう。彼女と私の出会いから。もう一度はじめよう。まだ小学生だった時。ガラス玉のように澄んで、水分を沢山含んだ大きな瞳と瞳が、ぱちっと合わさった、あの出会いの瞬間から、もう一度だけで良い。もう一度だけ、お願いだから。

 そんな切実な、祈りみたいな気持ちで、今度こそと思ったのに、お腹が重くなっていく。情緒が揺れて、涙が下半身に溜まっていく。出血を見た瞬間の虚ろさ、大人になって水分の減った瞳なのにまばたきも出来ず、呼吸さえも、鉄みたいな生々しいニオイに邪魔をされる。息苦しい。吐き気もある。自分の体が空っぽに思えて仕方がない。彼女に乗っ取られ、私の自我は消え、彼女が流産した記憶をなぞるみたいに、私は失敗を続けている。もう許して、と私は思う。誰に対してだろうか。何を許されたいのか。何に許されたいのか。夫が言った。

「子供なんて、いらないよ」

 許、さない。と思った。明確に、はっきりと思った。私は目に映る何か、銀色の尖ったものを掴んだ。本気だった。本気で許せなかった。熱くなる目の奥、それに反してスッキリしている脳。ああ、そうだった。今日は彼女の命日だったと思い出した。命日だな、と思ったら、何もかもの躊躇いが消えた。「やれる」と思った。

 私は、彼女が死んで、悲しかったし、寂しかったし、痛かったし、苦しかった。私は彼女の亡骸を前にして、今まで我慢してきた分の涙を全て流し切るほどに泣いた。彼女の顔は、もう私の知っている彼女ではなかった。知らない子だった。私は彼女になりたかった。彼女になりたい。彼女になって、私が死ねば良かった。私が死にたかった。彼女は生きて、私が死にたかった。そんな風に、私ばっかり、ずっと痛くて、夫はケロリとしていた。そういう全部が合わさって、殺そう、仕留めようと思った。夫か、彼女の旦那か、それとも私自身か。私は誰を、殺そうとしたのだろうか。

 妻が夫を刺したらしい。夫は重傷なんだって。私の話かもしれないと思ったけれど、私は妻ではないので、多分、私の話ではない。夫はゲイで、私の心は女で、私の器は女ではなくて、記憶は妄想が多くて、生理は身体の構造上、来なくて、小学生の頃から癖のようにストレスで血尿を出す。頭のどこかでは全て理解している。けれど、私にとってアレは生理だ。彼女がそう言ったのだ。小学生の頃。血が出るんだと告白した私に、それは生理って言うんだよ、ちゃんと女の子だっていう証拠だよ、と言ってくれた。

 私は彼女と出会い、共に過ごし、彼女に恋をし、憧れ、何でも真似をした。そしてついには彼女になりたいと願った。結果、誰にもなれなかった。私は、私にも、なりきれていない。

 舞台の中心は、いつでも彼女。彼女だけが私の永遠のヒロインで、ただそれだけのこと。

 彼女の髪が美しい風に揺れている。大きな瞳を細めて、楽しそうに笑っている。遙かな、高みから。

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