穏やかに死ぬ権利

@ueda-akihito

穏やかに死ぬ権利

※一部残酷な描写が含まれますので、苦手な方はご遠慮ください


 この国では、犯罪に手を染めていない限りにおいて、全国民に対し、穏やかに死ぬ権利が与えられている。


 *ハルミ*

 七月。本日も目眩がするほどの晴天。天気予報の予想最高気温を、最近は見ないことにしている。

「せんぱぁーい、今朝のニュース見ましたぁー?」

 人権課受付の更衣室は、いつでもなんとなく空気が澱んでいるような気がする。朝が苦手で無気力この上ない私の方へ、ユカちゃんの声がふにゃふにゃと漂ってきた。ユカちゃんも朝が苦手だ。

 私服から指定の制服にダラダラと着替える。汗でべた付いた肌が己のテンションを下げていくのがわかる。

「ねぇ、なんか今日暑くない? 室温下げて貰っても良い?」

 室内温度は、AIが管理している。外気の温度に合わせて完全、完璧、快適な空間が人間様には与えられるはずなのだ。真夏は涼しく、真冬は暖かく。

 しかし今日は、少し蒸し暑く感じる。AIの調子が悪いのだろうか。それとも、外がとんでもなく暑くて、最新式の空調でないと、もう太刀打ちできないのだろうか。

 温暖化恐るべし。年々、真夏の最高気温は上昇方向に更新されていく。

「ハルミ先輩、それって更年期じゃないですかぁ?」

 ユカちゃんが涼しい顔をして言った。制服のスカートから、若々しくスラリとした足が見えている。眩しい。若さはそのままエネルギーだと思う。

「やめてやめて! 私だって、まだユカちゃんと同じ二十代だよ」

 ユカちゃんに悪気がないことは、ちゃんとわかっている。お客様に対しても、時折、くだけた発言をするけれど、裏表のない気持ちの良い性格だ。私は変に行儀ばかり良い後輩よりも、ユカちゃんのような後輩の方が、付き合いやすくて好きだ。

(更年期か……)

 ユカちゃんの言葉を脳内で反芻すると、憂鬱な気持ちに拍車がかかった。近年、女性の閉経は三十代後半だ。まだギリギリ二十代。更年期には早いと思いたい。

 だが、更年期症状が出る要因は、確かにある。私には子宮がない。ハタチになる少し前に、全摘出をした。

「っていうか、さっきの話! 無視しないでくださいよぉ。見ました? 朝のニュース!」

 ユカちゃんが、セミロングの茶髪を一つにまとめながら言った。

 よっぽどユカちゃんの中で熱い話題らしい。口元がムズムズと動いている。ハムスターみたいで可愛い。

「なんか面白いことでもあったの?」

 私が尋ねると、ユカちゃんは喰い気味に言った。

「ストシャイ、メンバー全員で一緒に尊厳死すること、決めたらしいですよ!」

 私は、あまりのことにポカッと口を開けてユカちゃんを見てしまった。

 尊厳死を選ぶことに、驚きはない。

 この国の約九十二パーセントの死因は「尊厳死」だ。

 自ら死に際を決めるのが、我が国のスタンダードである。

 集団での尊厳死も、法律でちゃんと認められている。家族全員で、仲良く一緒に死ぬというケースも少なくない。

 しかし、ストシャイのような人気アイドルグループとなれば、話は別だ。

「……ほんとに? それ、いつ?」

 頬がヒクリと痙攣した。ユカちゃんは私の心情の全てを察したような顔をした。

「オイタナジー記念日に決行らしいですよ!」

 オイタナジー記念日は、この国で尊厳死法が制定された日だ。たしか、毎年九月の第一週土曜日。

「私、絶対出勤したくない」

 私は断固とした声で言った。ユカちゃんも「ですよねぇー」と同意する。

「でもぉー、特別手当とか出るなら……ちょっと考えます。どうせ誰も出たがらないだろうし」

「ユカちゃん、強いなぁ……私、どんだけ手当出ても絶対に嫌……受付が地獄絵図みたいになるよ……」

 私は想像しただけで、白目を剥きそうになった。

 大人気男性アイドルグループ、ストーンシャイニーズ。

 略して「ストシャイ」。

 メンバー五人、みんな爽やかな顔立ちで、明るくて、メンバー同士もとても仲が良くて。老若男女問わず、誰にも不快感を与えない、誰からもそこそこ好かれる、そういうアイドルグループだ。

 私も、ファンというわけでもないけれど、いつも微笑ましい気持ちで見ていたものだが……まさかメンバー全員、一緒に尊厳死を決めるとは。

 それも具体的な日にちを公表されてしまった。これは、どう考えても、同日に尊厳死をしたいと望むファンが溢れかえる予感しかない。

「今年、ミレニアムイヤーじゃないですかぁ、それでストシャイも今年に決めたらしいですよ」

「あぁ……オイタナジー百周年記念ってこと? はぁ……今年に入って私、ほぼ週休一日なんだけど……みんな記念日に拘りすぎじゃない?」

 私が肩を落として言うと、ユカちゃんは「私も全然休み取れてなーい!」と嘆いた。

「っていうか先輩、なんで人権課とか保護課の受付はAIになんないんですかねぇー! 他の課の受付はとっくにAIちゃんがテキパキスムーズにこなしてくれてるのに。絶対人間がやるより正確だし、処理速度も速いと思うんですけどねぇー!」

 ユカちゃんの言う愚痴は、我が人権課の受付全員が一度は口にしたことのあるものだ。

「人の生き死にに関わることだから、やっぱりハートとハートっていうの? 人間が受付してくれないとイヤだって人、未だに多いらしいよ」

 そして私の発する慰め文句も、伝統のように代々引き継がれているものだ。きっとユカちゃんも、いつか後輩に言うことになるだろう。

 都内役所の人権課受付。それが私とユカちゃんの仕事場である。

 人権課に休みはない。受付は一年中やっている。朝の九時から夜の十八時まで。受付予約だけならばオンラインで二十四時間可能となっている。

 六ヶ月先まで予約ができるシステムで、土日と祝日は、午前も午後も終日予約が可能。平日は午後の時間帯のみ予約ができる。どうしても午前中に受付を済ませたい場合には、朝早い時間から役所前に並ぶしかない。

 私たち受付業務の人間は、シフト交代制で回しているけれど、いつだって人手不足が深刻だ。人権課は人の生死に関わる仕事。給与は良いけれど、一般的には、あまり携わりたくない仕事なのだろう。

 私とユカちゃんはブーブー言いながら、更衣室からフロアへ移動して、お互いの定位置に座った。

 時刻は八時四十五分。あと十五分で役所の門が自動で開く。

 人権課の窓口は、たった二つだ。他の課では考えられない少なさだと思う。我が所は、都内でも人口の多い区である。それでも窓口は二つきり。どこの市区町村でも人権課の窓口は二つ、または一つ。

 連日、とにかく朝から並ぶ並ぶ。いい加減にして欲しい。

 それでも窓口を増やせないのは、プライバシーがどうのこうのという理由なのだ。これから死ぬための手続きをする人のプライバシーって、一体なんだろうと私は思う。

 もう死ぬことを決めたから受付に来たのだろうに、一体何を気にするのだろうか。

 私は、専用端末に自分の住民IDカードをかざした。

 ピッという軽い音がした直後、電子端末が起動し、指紋認証と網膜認証が行われる。

「ゲ。せんぱーい、例の日、予約名簿ヤバい。これ一瞬も休憩できないやつだ。やっぱり今朝のニュース見て、みんな即行で予約したんだろうなぁー。気持ちはわかるけど、事務処理する人間の気持ちも考えて欲しいー」

 ユカちゃんが自分の端末を睨みつけながら言った。

 私も予約者名簿を確認する。ストシャイが死の手続きを行うと予定しているオイタナジー記念日は、予約だけですでにパンパンになっていた。

 これは予約していない一般の受付業務は不可能だなぁ、と私は心中で合掌する。

(この日は絶対休みにする。絶対……)

 残業確定なだけでは済まないだろう。この人数では、役所を開ける時間も早めるかもしれない。一日中、受付処理をして。それでも間に合わず、もし万が一、日付を跨いでしまったとしたら、大問題だ。

 ファンの人たちは、ストシャイと同じ日に死の手続きをすることが大事なのだ。

 手続きが完了した日が、命日となる。実際はまだ尊厳死を実行していなくても、手続きを終えていれば、生きながらにして死んだことになる。

 ファンにとっては、大好きなアイドルと命日が同じことにこそ意味があるのだろう。

(そもそも死ぬことに意味なんて……)

 そこまで考えて、私は首を左右に振った。これ以上は考えない方がいい。考えたって答えなんて出やしないのだから。

 尊厳死の手続きは、私たち人権課受付が尊厳死専門の医療機関を予約することを以て完了する。

「では、三日後の十四時、ココの病院で処置してもらってください」

 なんて笑顔で尊厳死受理の書類を渡す。

 もし、予約した日にその人が処置を受けず、現れなかったら、その人は死の虚偽罪という名目で「犯罪者」になる。

 一度役所で尊厳死が受理されてしまったら、気が変わったとしてもキャンセルすることは不可能だ。

「ねー、ハルミ先輩は何歳で死ぬ予定ですかー?」

 唐突に、ユカちゃんが言った。人権課には私とユカちゃんの二人だけ。

 他の課とも防音壁で遮断されている。これもプライバシー云々の観点からだ。

 静かな空間に、ユカちゃんの言葉はよく響く。

「ユカちゃんは」

 変なところで言葉が止まってしまう。「何歳まで生きたい?」と聞くべきか、それとも「何歳で死ぬ予定?」と聞くべきか、迷った。

「私はなるべく早めにしようかなーって思ってますよー。若くてキレイなうちに、とは言わないですけど。でも、平均よりは早めに済ませちゃいたいなーって」

 ユカちゃんは、私に背を向ける形で座っている。端末を指先で操作しながら、受付に必要なフォーマットを開いて、既に仕事モードに突入している。

「平均寿命かぁー」

 私は呟いた。現在の平均寿命は男女共に五十歳から五十五歳の間を推移している。みんな、心身共に不調が出る前に人生の幕を下ろしたいと思うのだろう。

「ユカちゃん、今年でいくつだっけ?」

 私が問うと、元気な声が「二十三です!」と答えた。

 現在二十三歳、平均寿命の五十歳よりも前に死にたいのであれば、四十歳くらい……いや、ああ言ったけれど、実際ユカちゃんは若くてキレイなうちに済ませたいだろう。となると、三十五歳、いや、三十歳かな。

(私、来年で三十だ……)

 自分自身に置き換えると、なんだか体全体がムズムズした。あと一年くらいで、私に死ぬ決意が出来るだろうか。

「あ、でもアレですよ。このまま独身だったらって話です! フミくんが全然結婚に積極的じゃなくて。結婚して、子供ができたら、平均くらいは生きたいかなぁって思います!」

 ユカちゃんは、私に子宮がないことを知らない。別に言う必要はないと思っているし、変に気遣われるのは疲れてしまう。

「でも確か、ユカちゃんの彼氏ってまだ若いんでしょう? まだ結婚ってちょっと勇気いるじゃない」

 私の言葉に、ユカちゃんがパッと振り向いた。

 ポニーテールの髪がきれいな弧を描いて眼前を通り過ぎる。

「フミくん、今年でハタチですよ! 私、絶対今年中に結婚承諾させようって思ってるんです! フミくんも、今年から国の免除なしになって、自分の力で生きていくのがどれほど大変か、身に沁みると思うんです! 独身でいるより結婚した方が、よっぽど楽だって実感したところを攻めようと思います!」

 ユカちゃんはグッと拳を握っている。

 この国では、ハタチになるまでは、医療費がほとんどかからない。全て国が出してくれる。しかし、そこまでだ。二十歳を過ぎたら医療費は全額負担しなくてはいけない。医療費自体、バカみたいに高い。風邪をひいて一度でも病院にかかろうものなら、月の給料の半分以上が吹っ飛ぶ。

 けれど例外もある。

 結婚をしていれば、夫婦ともに医療費含め、税金の半分は国が負担してくれる。そして、子供が生まれれば、その子供がハタチになるまでは家族揃って各種税金が全額免除となるのだ。

 だから私も、ハタチよりも前に、子宮の全摘出手術をすることにした。病気の症状はそこまで重くなかったけれど、ハタチを過ぎてからでは、とてもじゃないが医療費が払えない。重度でなくても病気持ちな時点で、薬代だけで干上がってしまう。大学受験をする前に、全ての処置を終わらせた。

 なんて偏った仕組みだろうと、何度も灼熱業火の如く腹が立った。私のような独身女は永遠とヒーヒー言いながら働くより他にない。それも、健康管理を徹底した状態で、だ。

(私なんて、子供も産めないし。この先、運良く結婚できたとしても、半分免除されるだけ。それだって給料の四分の一は持っていかれる……)

 働けど働けど、我が暮らしギリギリのライン。

 実感をもってそれを知っているから、ユカちゃんが拳を固く握る気持ちは、痛いほどわかる。女性も男性も、とにかくハタチを過ぎたら結婚して子供を産むのが得策なのだ。

 そんなことを考えていると、役所全体に「九時になりました、開門します」という無機質なアナウンスが響いた。

 仕事開始だ。

「私、ハルミ先輩みたく強くないから……ひとりで生き抜くのは無理だって、ちゃんとわかってるんです」

 再び私に背を向けながら、ユカちゃんがポツンとこぼした。

 私は、何も答えない。私は別に、強いわけではない。強いわけではないのだ。

 そもそも、強いとは何だろう。「生命力」と「強さ」という言葉が、遠くかけ離れてしまった現代において、強さとは、一体何を示す言葉なのだろうか。


 *サツキ*

 役所の前に並びはじめて、もう二時間は経つなぁと思った。

 今日は最高気温が三十七度を越えると予測されている。役所の入り口は地下にあるし、地下道は空調が効いている。

 温暖化がいつから始まったのかあたしは詳しく知らないけれど、現代人はほぼ地下で生活していると言っても良いのではないかと思う。モグラみたいに。

 どこもかしこも、入り口は地下。特に夏場は、夜にならないと、地上の道路を使う人なんて滅多にいない。地上の道路は乗り物を利用する時に使うくらいだ。

 スカートから携帯端末を取り出して時間を確認する。もう少しで開門だ。朝早くから並んだ甲斐があって一番乗りだった。あたしの後ろには、六人ほどが列を成している。

 二時間立ちっぱなしで、足の裏がジンと重怠くなっている。空調の効いた地下にいるお陰で、熱中症になるなんてことはないけれど、それでも今日は暑いと思う。素肌がジットリと湿っていて不快だ。

 チラリと後ろをのぞき見ると、あたしの次には、まだ中学生くらいの男の子が並んでいる。あたしが並んで、ほんの十分後くらいに来た男の子。絶対にまだ成人していない。

(かわいそ……)

 反射的に、そう思った。ここに列を成しているのは、みんな人権課の受付待ちの人だ。尊厳死の受付をするために、自らの死の手続きをするために、並んでいる。

(……あたしは、ちょっと違うけど……)

 そっと目を閉じて、深く呼吸をした。体中を、変な疲労が埋め尽くしている。

 昨晩は眠れなかった。眠気を感じることもなく、ギラギラした気持ちのまま、ひたすらにカーテンの向こう側が白むのを待った。

 朝の五時には、居ても立ってもいられずに、身支度をはじめた。いつもだったら外出の支度を整えるのに一時間はかかる。けれど、今日は顔だけ洗って、着替えてすぐに家を出ようとした。

 靴を履いている最中、玄関前にかかっている鏡の中の自分を見て、ハッとなって、立ちすくんだ。あまりにも、酷い顔だった。自分とは思えないほどに。

 しかし、そんなことはどうでも良い、どうでも良いから、一刻も早く役所に並ばなくてはと思った。思ったのに、足はあたしの意思に従わず、部屋の中へと戻った。

 頭の中で、アキラの声が響いている。

「サツキは美人だし、いつでも小綺麗で、愛想も良いし、ご近所さんからの評判も良くってさぁ、ほんと、俺の自慢の嫁さんだよなぁ。俺、幸せ者だなぁ」

 夫のアキラはあたしを褒める天才だ。

 アキラとあたしは、家が隣同士で、生まれた時から成長を共にしてきた幼なじみ。小さい頃から「サツキちゃんはかわいいね」と言ってくれていたのを覚えている。生まれてからずっと一緒にいて、二十歳で結婚して、夫婦になって、今年で五年目だ。

 アキラは家に居る時は、いつだって穏やかで、優しい。少し繊細すぎるところもあるけれど、だからこそ、あたしはアキラが傷ついた時、その傷を、大なり小なり癒してあげる役割を持てる。

 あたしにとって、アキラは生きる意味そのものだ。

「九時になりました、開門します」

 門前に、電子的な声が響いて、同時に役所の門がガガガと変な音をたてて開いた。

 あたし達は、並んでいた順番のまま、ゾロゾロと役所の中に吸い込まれていく。入り口で住民IDをかざす。ピッと音がして、それだけで誰が何時に役所の門をくぐったのか記録される。

 人権課は建物の三階に位置している。二階には待合室。

 最初に並んでいたあたしと、後ろにいた男の子だけが三階へ進む。あとの人たちは、待合室の椅子に座って、自分のID番号がアナウンスされるのを待つ。

 一瞬だけ見た待合室に、老人と呼ばれるような年齢の人はいなかった。

 おじさん、おばさん、あとはあたしより少し年上っぽい男の人がひとり。さすが平均寿命が世界一短い先進国。先進国。当たり前のようにそう呼ばれているけれど、あたしはこの国のどこら辺が先に進んでいるのか、全然わからない。

 三階の受付入り口は分厚い自動ドアになっている。

 ここでもIDカードをかざす。ちゃんと役所に入場した順番通りでカードをかざさないとエラーになって扉は開かない。横入りはできないのだ。

 あたしの後に、男の子がカードをかざした。自動ドアの横で点灯しているランプが赤から緑に変わって、扉が開いた。

 受付には、あたしよりずっと年上っぽい女の人と、あたしと同じ年くらいの女の人が座っている。受付と受付の間には仕切があって、個室のようになっている。

(……たぶん、年上のアッチの人が、この子を担当するんだろうなぁ……)

 ジッと黙って下ばかり向いている男の子を横目に見た。どう見ても、ワケアリだ。

「一番の方、こちらへどうぞ」

 男の子から視線を外して、声のした方を見る。案の定、若い方の女の人があたしを担当するようだ。

「二番の方はこちらへ」

 落ち着いた声が男の子を呼んでいる。

 男の子は、下を見たまま、さっさとブースに入っていった。

 その背中を見送った後、あたしも早足で呼ばれた方のブースに入った。

 受付同士の仕切は、パッと見た感じ、一応防音になっているみたいだけれど、隣の声もかすかに聞こえている。

(なんか思ってたより前時代的だなぁ……都内でもこんなもんかぁ……)

 キョロキョロしているあたしに、受付の女の人が笑いかけてきた。

「早速ですが、こちらの誓約に目を通して頂けますか? ご質問がありましたら、随時お答えしますのでご遠慮なく仰ってください」

 プラスチック板みたいなタブレット端末を目の前に置かれて、あたしは慌てて両手を振った。

「あ、いえ、違うんです。あたしは尊厳死の手続きで来たんじゃなくて……」

 受付の彼女は、キョトンとした顔をした。丸くて大きな目が小動物のようで、可愛いなと思った。思うと同時に、昨夜感じた焦燥感が急激に蘇った。

「あの、あたし、あたし、旦那が、その、尊厳死の手続きをしに来たんじゃないかって、心配になって、それで、確認して欲しくて、それで来たんです! 繊細な人だから、思いこんだらすぐ実行していそうだし、本人に聞いてもいつ手続きするかとか、そういう具体的なことは答えてくれなくて……昨日の夕方くらいの話なんです、夕方くらいに、急にあの、レギュラー落ちして、もうダメだって、今日はホテルに泊まるって言い出して、あたし、引き留めたんですけど、今までにも何回かこういうことあったんで。でもなんか、今回はいつもとは違ってて、様子がおかしかったから、心配で、役所だったらアレですよね、他の役所の情報とかも閲覧ってできますよね? 調べてもらえませんか! もしかしたら、まだ予約してるだけかも……あ、旦那の名前、必要ですよね、あとID番号か、ちょっと書きますね、今……」

 頭に思いつく言葉を、とにかく伝えなくてはと思って口を動かした。少し早口になりすぎたかもしれない。もっと言わなくてはいけないことがあるかもしれない。伝え漏れているところはないだろうか、ありすぎる気がする。あたしの話はちゃんと伝わっているだろうか、あたしの焦りと必死さは、この受付の人に、ちゃんと伝わっているだろうか。

「……少し、落ち着きましょうか」

 信じられないくらい、ゆっくりとした口調で諭すように言われた。

 ああ、やっぱり、少し早口すぎたのだと反省する。

 呼吸が浅くなっていたのか、それとも一気に喋りすぎたのか、座っているのに、なんだか息切れしている。

「お水、お持ちしましょうか?」

「あ、いえいえ、だいじょぶです」

 咄嗟に遠慮をしてしまったけれど、そういえば、朝起きてからずっと飲まず食わずだ。役所前に並んでいる間も、何も飲んでいない。

「……すみません、やっぱりお水を、もらっても良いですか……?」

 おそるおそる言うと、受付の彼女はニッコリして、すぐに紙コップに水を入れてきてくれた。再生紙が使われている、茶色くて小さなコップ。片手で受け取ったけれど、なんだか指先が震えていて、慌てて両手で持ち直した。

 一気に飲み干した水は、体温のようにぬるくて、一瞬にして体に染み込んでいったように思えた。

「長いこと、外で並ばれていたんですか?」

 水を飲んだら、何かが少しホッとした。問いかけられた言葉に「朝、起きてすぐ、急いで来ました」と答えた。

 自分の指先を見つめると、まだ震えているのがわかる。

(どうして……?)

 なんであたしは、今、こんなに必死になっているのだろう。朝から役所なんかに来ていて、一生懸命になっている。指先を震わせながら。

 なんでだろう、と心の中で唱える。

 バカみたいだ。答えはとっくに出ている。

(あたしは、怖い。ひとりにされるのが怖い。死ぬほど怖い……あー、違うか、死ぬより怖い……)

 アキラの声が、脳内で響く。

 サツキ、サツキ、と優しく呼んでくれる。

「すみません、お水、ありがとうございました。落ち着きました」

 あたしは受付の彼女の目を見て言った。

 一呼吸置いてから、再び、頑張って口を動かす。

「あたしの旦那が、昨晩、尊厳死をすることにしたと言いました。その後、家を出ていってしまって、連絡が取れません。もう尊厳死の手続きを進めてしまっているのではないかって、不安になってしまって。まだ何も、話し合っていないんです。あたしの旦那の名前とID、コレなんですけれど、何か手続きがされていないか、そちらで調べていただくことはできませんか……」

 最後の方は、声が掠れてしまって自分の耳でも聞き取りづらい音になってしまった。

 受付の彼女は、あたしの言葉をちゃんと最後まで聞いて、それから口を開こうとした。

 けれど、それを遮るように、あたしは声を出した。

「あたしの旦那、サッカーの、国の代表選手なんです。一応、有名人ってことに、なってるんですけど、ご存じありませんか? なんていうか、公人っていうか、だから、そんな、誰にも相談せずに、突然いなくなるとか、そういうのって、世間的にも問題だと思うんですよ。お騒がせっていうか、だからその、一般人とは違うっていうか、スポンサーもいるし、話し合わないといけない人、たくさんいるし、一般人じゃないんです、だから、特別に、調べてもらえませんか」

 再び、全力で早口言葉を発してしまった。必死になればなるほど、数珠繋ぎのようにズララララっと言葉が出てきてしまう。

 サツキの、まったり話すところが好きだよ。アキラはいつもそう言ってくれるのに、本気を出したあたしは、ちっともまったり話さない。

 あたしとアキラは幼なじみなのだ。だからアキラはそのことを知っている。知っているのに、知らんぷりをする。アキラの中の理想のサツキは、きっとまったり話すのだろう。

「一般人でも、芸能人でも、そうですね、例えば政治家の方でも……個人情報をお教えすることは、出来かねます。ご家族であっても、です」

 受付の彼女は、申し訳なさそうな顔、という仮面を、正しく纏って言った。目の前に、薄くて黒い幕のようなものが、ゆっくりと降りてくる感覚。

(知ってる……あたしは、知ってる……あたしのしていることがどれだけ無駄で、意味のないことかも、役所は基本的に、何も教えられない決まりになっているってことも、この、黒い幕が勝手に降りてくる感覚も、全部知ってる……)

 もう十年以上前に一度体験していることだ。

 耳の奥がツーと鳴っている。急に体中の力が勝手に抜けていってしまった。手にも足にも胴体にも、ちっとも力が入らない。

「大丈夫ですか……? もう少し、お水飲みますか?」

 受付の彼女が、だんだんと素の顔で心配の色を見せ始めている。

「いっつも肝心な時に、みんなあたしの話し、聞いてくれないんですよね」

 ポロリと口からこぼれた。何かを発言するつもりなんてなかったのに。

「……なにか、ご相談事があるようでしたら、窓口を紹介することも出来ますが……」

 受付の女性は、顔は素のまま、心配そうにしたまま、口調だけ仕事モードになった。

 そのアンバランスが面白いと思う。人間らしいなぁ、なんて思ったりする。

 AI技術の発達した現代で、「人間らしい」というのは、かなり上等な褒め言葉だと思う。実際、合コンなんかでも口説き文句として男の子たちがよく使っている。ただ完璧なだけを求めるのなら、機械の方が人間よりよっぽど有能だ。

 けれど、恋や愛、情の話しになると人間はどうにもあらがえず、不完全なものに惹かれる傾向にあるのかもしれない。歪だから、目が離せない。どうなるか予測不可能だから、気になって仕方ない。愛情は、場合によっては執着となって、感情の全てがひきずられていく。

 あたしは、ただボーッとなって、無言で受付の彼女の、その更に向こう側にある壁を眺めた。立ち上がる気力も、言葉を発する気力も、なくなってしまったかもしれない。どうしよう。これから、どうしよう。

「救急車、呼びましょうか?」

 あたしの顔色は、そこまで悪いのだろうか。受付の彼女の声に「お金かかるんで、大丈夫です」と声が出た。

 声が出たついでに、勢いで立ち上がる。

 頑張ってスッと立ち上がったつもりだったのに、実際には机に手を付きながら、ノロノロと頼りなく立ち上がる自分がいた。

「無理なことを言って、すみませんでした……」

 あたしは、浅く小さく彼女にお辞儀をして、ブースを出た。

 防音ドアが閉まる直前に「お気をつけて」という彼女の声が聞こえた気がする。

「優しくされると泣けちゃうじゃん」

 あたしはまた、自分の意思に反してポロリと言葉をこぼした。

 一度立ち止まると、もう二度と動けなくなりそうで、あたしは俯いたまま三階から二階へと階段をくだる。途中、男性とすれ違った。

 ドキッとして急いで彼を見た。アキラかと思った。全然違った。アキラより、ずっと年上の小柄な男性だった。きっとあたしの次の人だ。

(あの人は……これから、死ぬための手続きするんだなぁ……)

 あたしは、静かに遠ざかっていく背中を見ながら思った。そして、先ほど優しくしてくれた受付の彼女を思った。

 毎日毎日、他人の死の手続きをしていくというのは、一体どんな気持ちなんだろう。


 *ソラ*

 役所の待合室は、気持ちが良かった。

 今日一日、そしてこの先もずっと、特になんの予定もなく、帰るべき場所もない僕は、三階から二階におりてきて、そのまま待合室に居座った。

 外は地下でもなんとなく蒸し暑いし、ボーッとしていると周りから変な目で見られる。

 でも、この待合室にはボーッとしている人ばかりがやってくる。何もない場所を見つめている人や、目を閉じている人、そんな人ばっかりだ。椅子はフカフカで大きいし、誰もうるさくしないし、静かで安心できた。

(受付のお姉さん、ちょっと面倒くさい人だったな……)

 僕は、ボーッとしている人たちに混じって、一緒になってボーッとしているフリをしながら、頭を素早く回転させる。

(もっと簡単に、さっさと死ぬ準備って出来るもんじゃないのかな……)

 少なくとも、自分の父や母は、さっさと死んでしまった。

 大人はいつだって自分勝手だと思う。それも、大体が「あなたのことを考えて」とか「あなたのことを思って」とか、そういう言い訳をしながら、強い力で自分の意見を通していくのだ。そんなのって、勝手とかワガママを通り越して、卑怯だと思う。

 自分の思う通りにしたいのならば、ちゃんと説明して、相手を納得させるべきだ。

(そういう意味では、今日の僕は、納得させるのを、失敗したんだな……)

 受付のお姉さんを倒せなかった。負けてしまった。尊厳死の手続きは、して貰えなかった。

「事情はわかりました。でもね、もう少しだけ、自分のことをゆっくりと考えてみて欲しいなと思います」

 お姉さんは、口元にキュッと力を入れたみたいな顔をしながら言った。

「もう少しって、どのくらいですか……?」

 僕が尋ねると、お姉さんは呼吸三回分くらいの間をあけてから、

「君の気が済むまで、かな」

 と答えた。

 気の済むまでって、どのくらいだろう。僕はもうとっくに死ぬつもりでいたのに。それって、気は済んでいるっていうことにならないんだろうか?

「君がもう一度、役所に来てくれたら、その時にはキチンと手続きするね」

 最後に、お姉さんはそう言った。僕は、お姉さんの言葉の真偽をはかりながら、お姉さんの耳から優しい色合いの茶髪が一束落ちて、サラッと頬にかかるのを見ていた。

(どのくらい期間をあけて来れば、気の済むまで考えたって思って貰えるんだろう……)

 次に来た時、また同じお姉さんが担当だったら嫌だなぁ、と思う。

 そんなことを考えていると、頭上でアナウンスが聞こえた。次の人が呼ばれている。アナウンスを聞いて、小柄なおじさんが立ち上がった。下を向いたまま、階段の方へ歩いていく。

(僕の前に並んでたお姉さんの手続き、終わったんだ……)

 僕よりも前に役所の門前に並んでいたお姉さん。絶対に僕が一番乗りだと思っていたので驚いた。いつから並んでいたのだろうか。よっぽど死にたいんだなぁと、僕は並んでいる間中、お姉さんの狭い背中を見ていた。

 僕と同じタイミングでブースに入ったのに、お姉さんは随分と長く時間がかかっていた。無事に尊厳死の手続きは済んだのだろうか。

 おじさんと入れ替わりで、お姉さんが階段をおりてきた。なんだかフラフラしていて、顔が青白い。並んでいる間、ずっと背中ばかり見ていたから気付かなかったけれど、お姉さんはまだ若い感じがしたし、顔が小さくて目が大きくて、綺麗な顔をしていた。

 お姉さんはヨロヨロしながら待合室に入ってきた。

 そして、僕の隣の椅子にドサッと座り込んだ。全身の力を抜くみたいな座り方で、座った瞬間、僕の方まで風圧のようなものが届いた。

 チラリと横目に見ると、目があった。お姉さんも、僕のことを見ていた。

 心臓がピョンと跳ねて、慌てて目を反らした。

「……ねぇ」

 静かな声が、耳の側をくすぐるみたいに響いた。

 僕は返事の代わりに、おそるおそる、もう一度お姉さんを見た。

「のど乾かない?」

 お姉さんは言った。待合室には飲み物の自動販売機がある。

「なんか飲もうよ。なにがいい?」

 お姉さんは僕の存在をまるっと無視しているみたいにしながら、僕に話しかける。器用な人だなと思った。

「大丈夫です、高いし」

 僕は言った。年上の人から話しかけられると緊張する。家族以外の年上の女の人なんて、学校の先生くらいしか知らない。

「あたしがのど乾いてるの。ひとりで飲むの虚しいから付き合ってよ。奢るし」

「あ、いえ……」

「炭酸でいい? 飲めるよね?」

 僕の困惑を、お姉さんはやっぱり無視した。

 さっさと立ち上がって、けれどやっぱりヨロヨロしながら自販機へ行ってしまった。

 僕はただ、見守るだけだった。あまり騒ぐと他の人から迷惑だという目で見られそうで、嫌だった。

 お姉さんは炭酸ジュースを二本買って戻ってきた。自販機のジュースは、一本で八百くらいするはずだ。それなりに裕福でないと気軽に買えない。

「はい。夏になると炭酸おいしいよね」

 お姉さんは、ちっとも楽しくなさそうに言った。

(ああ……そうか、これからこの人、死ぬんだから……もう無駄遣いしても別に良いんだ……)

 僕は、そこでようやく納得した。尊厳死の手続きをしたということは、死ぬために必要な代金も、全て支払い終わったということだ。

 僕は、今日ここに来るまでに、しっかりと尊厳死の手続きについて調べてきた。

 役所では、まず尊厳死の最終確認を行う。本当に手続きをして良いのか、という確認だ。一度手続きをしてしまうと、キャンセルは出来ない。

 確認作業をして大丈夫そうであれば、次はどのような尊厳死のプランにするかの相談をする。

 最近では、家族や恋人同士で一緒に尊厳死をするプランや、豪華なホテル宿泊とレストランでの最後の晩餐が付いているプランなど、様々な種類がある。

 もちろん、オプション付きのプランは値段も高い。けれど、あの世にお金は持っていけないのだから、そこで奮発するという人も少なくないのが現状だ。過去最高額は、どこかの会社の元社長さんで、確か自分の尊厳死に八千万くらいかけていた。

 なんにも特別なプランをつけない場合、尊厳死にかかる最低費用は、ひとり三万だ。

 プランの相談が済んだら、要望に合わせて、役所の人が様々な予約作業をしてくれる。

 尊厳死の処置を行う病院や、安楽剤の確保。

 受付している時点で予約が出来る日程を教えて貰って、候補日の中から好きな日時を選ぶ。これで受付は完了だ。

 住民基礎データに、尊厳死の受付完了日が命日として登録される。

 最後に、請求された代金を支払って、予約表を貰う。

 あとは、本人が予定日に指定された病院へ行くだけだ。

 安楽剤は、小さなカプセル錠剤らしい。少し甘みがあって、苦くない。

 予定時刻になったら、カプセルを飲んで、ベッドで寝る。

 ゆっくりと眠くなってきて、そのまま死ぬことが出来る、らしい。

 これについては体験した人の中に生存者が誰もいないので、本当か嘘かはわからない。

「炭酸苦手だった? 別のやつ買ってこようか?」

 ただジッとジュースを見つめている僕に、お姉さんが言った。

 小さく首を傾げている。先ほど僕の受付をしてくれたお姉さんとは違って、肩くらいまでの長さの黒い髪、毛先の方がパサパサしている。

「炭酸、好きです」

 僕が言うと、お姉さんは口先を小さく上げた。

「ぬるくなると不味いよ」

「はい」

 お姉さんから缶を受け取った。冷たい感触が手のひらに気持ちいい。

 カシュッと軽い音がして、お姉さんはゴクゴクとジュースを飲んでいる。

 相当のどが渇いていたのだろう。

 そういえば、僕ものどが渇いているような気がした。隣で美味しそうに飲まれると、羨ましくなってくる。

 せっかく貰ったし、ぬるくなると美味しくないのも本当だ。

「いただきます」

 僕は、小さな声で言うと、お姉さんと同じようにジュースを飲んだ。ジュワッとした刺激がのどを伝って、体の中に落ちていく。サッパリとした甘みは、脳味噌を柔らかくしてくれる気がした。

「あ、やば、ゲップ出そう……」

 お姉さんが、とても小さな声で言った。

 隣を見ると、右手を口元に当てて、眉を寄せて、耐えている。

「あはっ」

 その顔が面白くて、僕は思わず笑ってしまった。僕の笑い声と重なるように、お姉さんの喉から小さく「けぷっ」と音がした。

 それは、全然下品な音じゃなかったし、女の人らしかったし、ちっとも恥ずかしいことじゃないと僕は思うのに、お姉さんは耳を赤くした。

「笑わないでよ、子供って残酷」

 お姉さんは呟いた。僕は別にお姉さんのゲップに笑ったわけではない。言いがかりだ。

 しばらく、無言でジュースを飲んでいた。ジュースは美味しかったけれど、お姉さんはムスッとしたままだし、なんだか気まずかった。

 ジュースを半分ほど飲み干したところで、また次の人が呼ばれた。

 頭上にあるスピーカーから聞こえる電子音声に、なんとなく上を向いた。

「手続き、出来たの? きみ」

 お姉さんが言った。お姉さんは僕の方を見ないで、どこか遠いところを見るみたいにしながら言った。お母さんが死ぬ前に、よくこういう顔をしていたなぁと思い出す。

「なんで成人って、未だに二十歳なんだと思います……?」

 僕はずっと疑問に思っていたことを尋ねてみた。誰でも良いから、誰か、大人に聞いてみたかった質問だ。

「えー……それは、まぁ……そうね、一般的には、親の都合かなぁ……?」

 お姉さんは言った。

 子供が大人になるまで、親も一緒に医療費が全額免除になる。ついでに税金もほとんど全てが免除だ。

 つまり、子供はなるべく長く「子供」でいた方が親は助かるということになる。

「……ですよね。二十歳になるまで子供が正常な判断を下せないからって理由じゃないですよね? 二十歳になるまでは判断能力が低いから、大人が守らなきゃいけないとか、そういうんじゃないですよね? 僕、まだ十五ですけど、ちゃんといろいろ判断出来てます。ちゃんと考えて今日、ここに来ました」

 僕は言った。声に悔しさがにじみ出てしまう。悔しい。自分が子供であることが悔しい。なんでまだ十五歳なんだろう。

「申請、通らなかったのね」

 お姉さんが言った。ため息混じりの声の裏側に「どんまい」という言葉が隠されているみたいに思えた。

 僕が黙っていると、お姉さんは急に思い出したように言った。

「少年、名前は?」

「……ソラです」

 僕が答えると、お姉さんは「あたし、サツキ」と言った。

「ソラ、帰る場所とかあるの?」

 サツキと名乗ったお姉さんは言った。

 僕はお姉さんの目をジッと見つめた。

「親、死んだんでしょ?」

「なんでわかるの」

「親がいたら、子供がひとりで申請に来たりしない」

 僕はまた「あはっ」と笑った。

 僕は、お姉さんの目に、カワイソウな子供として映っているのだろうか。

「笑うな。死にたいくせに」

 お姉さんは言った。その目は冷たくて、とても僕を哀れんでいるようには見えなかった。

「ムカつくよね、親の勝手ってさ」

 僕が黙っていると、お姉さんはゆっくりとした動作で立ち上がった。

「ソラ、あたしと一緒に来る?」

 手を、差し伸べられた。僕は、全然、その手を取るような気持ちになれなかった。でも、お姉さんの目力が強くて、逆らえないなと思った。「来る?」じゃなくて「来いよ」と言われた気分だ。

 僕が立ち上がるのを見て、お姉さんはさっさと歩き出した。動作はキビキビしているのに、やっぱり全体的にはヨボヨボして見えて、きっとお姉さんも心が疲れているんだろうなと思った。

 お姉さんは死ぬための手続きをした人だ。

 もう何日かしたら、きっと死んでしまうのだ。

 お母さんみたいに。お父さんみたいに。ウミみたいに。

 やっぱり大人は自分勝手で無責任だと、僕は思う。


 *ユカ*

 二十時になったところで、ようやく今日の受付業務が終了した。

 定時は十八時なので、二時間の残業だ。

「ああ……つっかれた……」

 更衣室にたどり着いた瞬間、私の仕事モードのスイッチが切れた。

 更衣室の隅っこには、二人掛けのソファーが置いてある。私は、そこにダイブした。いつから置かれているのか不明なソファーだ。埃っぽくて、カビ臭い。ばっちい! と思いつつも、ついついダイブしてしまうことがある。そもそも、私は今日で七連勤目なのだ。

「お疲れ、ユカちゃん。パンツ見えてるよ」

 ハルミ先輩が笑った。私はダイブした勢いでめくれ上がったスカートの裾を直しながら、先輩を見た。私と同じように疲れた顔をしている。

 けれど、先輩は私のようにソファーにダイブしたり、仕事後に更衣室でダラダラしたりしない。さっさと着替えて、帰り支度を整えるタイプだ。

「せんぱぁーい、私、もう一時間は動ける気がしないー」

 このままソファーの上に寝ころんでいたい。着替えたくない。帰り道を歩きたくない。全てが究極に面倒くさい。

「アカリちゃんが辞めちゃってから、シフトすごい詰まってるもんね。新卒も入ってこなかったし。私も今日は疲れちゃった」

 ハルミ先輩は言いながら、もう制服を脱いで、半分私服に着替え終わっている。私は、なんとか腕を動かして、一つにまとめていた髪を解いた。頭皮の部分がジンと熱くなる。

「今日の朝一番に来た女の人、結構ギリギリの感じだったんですよねぇー、あれ、大丈夫かなぁ……久しぶりに担当しました、ああいう、なんか不安定な感じの人」

 ソファーの上でゴロンと寝返って、私は更衣室の天井を見上げる。

「ユカちゃん、着替え取ってあげようか?」

 ハルミ先輩はいつも優しい。先輩とペアで勤務の日は気が楽だ。辞めてしまったけれど、同期だったアカリとは相性が最悪だった。人手不足だから辞められたくはなかったけれど、出来るだけシフトはズラしたいと思っていた。

「先輩の優しさが身に沁みる……」

 私が言うと、ハルミ先輩は「大袈裟だなぁ」と笑って、私の着替え一式を持ってきてくれた。

「朝一番に来た人、二人とも重かったよね。私も、朝一で未成年が来たから正直ゲンナリしちゃった」

 ハルミ先輩が言った。私はソファーの上で、芋虫のようにウネウネしながら着替えをする。

「申請、通さないで帰したんですよね?」

「一応、規則だからね」

 ハルミ先輩は、小さくため息をついた。

 この国では、二十歳までは未成年と定められている。

 未成年の尊厳死には、親の同意が必要だ。または、親と一緒に申請に来る必要がある。

 家族一緒に尊厳死をすることは認められているし、子供がどうしてもと望むのならば、未成年でも尊厳死を受けることは可能だ。

 しかし、子供が成人する前に、親が尊厳死を済ませてしまっている場合もある。子供だけが残されるパターンだ。

 この場合、子供は親の同意を得られない。二十歳を過ぎれば、自分の気持ちだけで尊厳死を選ぶことは出来るけれど、それまで待てというのも酷な話しだ。

 こういったケースでは、受付で一度話しを聞いてから、

「もう一度、ゆっくり考えてみてください」

 と、帰すのが規則になっている。

 勢いだけで来てしまう子も、中にはいる。

 そうでない子は、後日、また申請に来る。

 二回目の申請では、更にじっくりと受付で話しを聞き、本当に手続きを進めても良いのか念を押した上で、問題がなければ申請を受理することになっている。

 二回目でも疑念がある場合には、窓口が人権課から「保護施設」へと変わる。

 この国は、大人にとっては結構生きにくい世界だけれど、その代わり、未来を担う子供たちには手厚い。大学を卒業するまで誰でも学費は無料だし、医療費も税金もほとんどかからない。

 親のいない子供のための施設も全国に余るくらいある。

 それらの施設は、その昔、老人ホームとして利用されていたものだと聞いたことがある。確か、中学校の歴史の授業で習ったのだ。

 尊厳死法が成立するより前の時代には、全国にたくさんの老人用施設があったらしい。今から百年以上も昔の話しだ。その時代には、子供よりも老人の方が多かったと言うのだから驚きだ。

「今朝の子……親、もう死んじゃってるパターンでした?」

 私が尋ねると、先輩は無言で頷いた。

「彼のIDに記載されてる基本情報では、両親と、それから弟さんも亡くなってる」

「うへぇ……ヘビーですね……他に兄弟とかは?」

「いないみたい。彼だけ残されたっていうパターン」

 胸の中に、グルグルと黒い霧みたいなものが立ちこめた。

「無責任な親」

 つい乱暴な言葉が口から出てしまった。

「私もそう思う」

 先輩が同意した。平坦な声だったけれど、眉間に皺が寄っていた。

「ユカちゃんの担当した女の人も、顔色悪くて大変そうだったね」

 ハルミ先輩が、さっきの私の独り言を拾い上げてくれた。私は、いい加減ソファーでモゾモゾ着替えるのをやめて、立ち上がる。私服のスカートに足を通した。

「なんか、尊厳死の手続きじゃなくて……旦那さんがウチに手続きに来なかったかって。その確認をしたいってことだったんですけど……個人情報だし、言える訳ないじゃないですかぁ? でもなんか、彼女、それをわかった上で、それでも何か行動しないと気が済まないっていう感じで……気合い入ってました」

 私と同じ年くらいに見えた彼女の、震える細い手首を思い出す。

 話しているうちに、どんどん顔面から血の気がなくなっていったので、これはマズいと思ったのだ。

「たまにあるよね、一筋縄ではいかないお客さんが連続して来る日って。ユカちゃん、あの女性にお水をあげてたでしょう? あれ、すごく良かったと思うよ。落ち着いて貰わないことには、話しもできないしね」

 ハルミ先輩は言った。先輩は勤続何年だったっけ、と考える。大学の時にアルバイトとして入ってから受付業務をしていると聞いたことがあるから、少なくとも私よりもずっとずっと長くこの仕事に携わっている。

「一瞬、どういう対応したら良いんだろうって焦りましたけど……なんか普通に具合悪そうで……でも病院かかるとお金ハンパなくかかるし、難しいですよね。落ち着いてくれたから良かったですけど……」

 私が言うと、ハルミ先輩は小さく「うん」と頷いた。

「なにか対応しきれない事があったら、遠慮なくヘルプシグナル入れてね。私でどうにか出来るかはわからないけど……」

 私たち受付には、自分ひとりでは対応が難しい時に、お客さんにバレないようにそっと手助けを頼める「ヘルプシグナル」というものがある。

 こんなに尊厳死が一般化している世の中なのに、未だに尊厳死の手続きはナイーブな問題だ。受付にやってくる人の中には、ひとりでは到底相手をしきれない難題を抱えているような人もいる。

「でも、あんなに必死になって、旦那さんのこと心配するなんて……なんだろうなぁー、なんかちょっと羨ましいなぁって思っちゃいました、私」

 私は着替えを終えて、小さく伸びをした。自分の体が埃くさい気がしてソファーでゴロゴロしたことを後悔する。

「羨ましいって、どの辺りが?」

 ハルミ先輩は、とっくに帰り支度が済んでいるのに、私の支度を待ってくれる。いつもそうだ。根本的に、先輩は人が良い。優しい。

「自分が具合悪くなるくらい、相手のこと真剣に愛してるってことじゃないですかぁ? なんか、そういうパッションというか、一途さというか……熱量っていうんですかね? 恋愛にかける、そういうエネルギーが羨ましいのと、そこまで好きになれる人に出会えてるところが羨ましいのと、あと、その人と、ちゃんと結婚出来ているところとか、旦那がプロサッカー選手だってのも羨ましいって思いました」

「最後のは完全にただの見栄だよねぇ?」

 ハルミ先輩が笑った。私も「あはは」と笑う。

 笑ったら、少し元気が出てきた。帰宅するだけのパワーは充填出来たような気がする。

 私はハルミ先輩と一緒に更衣室を出た。

 人間が退室すると自動で電気や空調が切れる。施錠もされる。

 ここからは、仕事の話しは一切御法度だ。私たち受付は、個人情報を深いところまで知る仕事だから、更衣室を出たら仕事の内容については口にしない。家族や親しい人以外には、役所の受付業務であることは秘匿しなくてはいけない。そこまで厳重な決まりではないものの、ついポロリと誰かの情報を話してしまわないように、いつも注意している。勤め始めの数ヶ月は、それが結構キツかった。

「明日、久しぶりに休みだね。ユカちゃん、彼氏とどこか遊びに行くの?」

 ハルミ先輩が言った。

 ハルミ先輩は優しいけれど、こういうところは少し無神経だ。

「遊びに行くだけの余裕、全然ないですってー。そりゃ、私はどちらかと言えば健康な方ですけど、やっぱり年に一回くらいは風邪ひいたりするし。医療費のこと考えたらゾッとしちゃって、ひたすら貯金と節約の日々で、遊びに行こうなんて滅多に考えないです」

 私が言うと、先輩は「そうだねぇ」と言った。

 その「そうだねぇ」には、あまり現実の色が付いていないように聞こえたので、ハルミ先輩はお金持ちなんだろうなぁと私は思っている。

 普通、私やハルミ先輩のような独身女性は、必死になって日々節約と貯金をするものだ。

 それが嫌なら、さっさと結婚して子供を産むしかない。

 思い切り人生を謳歌して沢山遊びたいのなら、二十歳で結婚して、すぐに出産、という道が一番良い。現に、そういう人生設計をしている人は沢山いる。

「はぁー……早く結婚して楽になりたーい……子供はすぐには無理でも、せめて結婚……税金が重い……」

「ちゃんと相手がいるんだから、大丈夫よ」

 ハルミ先輩が優しく私の肩を叩いた。

 私は明日の休みにはフミくんと一日ゆっくり過ごす。特売のスーパーに買い出しデートに行く。そして、どうにかして、結婚してくれないかと頼みこむ。私はフミくんに、早く結婚しようと必死に言うのだろう。

(なんか虚しい……)

 私とハルミ先輩は、駅前で「お疲れさま」と言い合って別れた。

 先輩の家は、私とは逆方向。先輩の家は、高級住宅街のある方向、なんて言ったら少し惨めっぽいけれど。

(先輩、なんであんな余裕なんだろう……独身で、私より年上で……なんであんなに強いんだろう……)

 ハルミ先輩のことは好きだけれど、いつも少し悔しい気持ちになる。

(そもそも、この世の中、楽しいことが少なすぎる……)

 楽しい場所や事柄は、全部結婚して家庭を持っている人のためにあるようなものだ。それかお金持ち。遊園地、映画、演劇、コンサート、なんでもそうだけれど、チケット代が高すぎる。とてもじゃないけれど、独身庶民には手が出ない。

 子供の頃、両親に連れて行って貰って楽しかった色々な場所が、好きだったものが、大人になったら行けなくなったし、手に入らなくなった。

 取り戻すには、結婚して家庭を持つしかない。今度は私が、母になるしかない。

 それでも必死にアイドルの追いかけをしている友達もいる。彼女はストシャイのファンだけれど、彼らがいなくなった後はどうするのだろうか。

 よもや彼女もメンバーと一緒に死ぬつもりだろうか、と一瞬思ったけれど、他にも応援しているアイドルがいると言っていた気もするから、大丈夫なのかもしれない。

 前に彼女と会った時、ポツンと呟いていた言葉が頭に浮かんだ。

「応援してるアイドルもさぁ、簡単に死んじゃうんだもん。なんかちょっと現実が虚しすぎる」

 人に夢とか希望とか元気を与えるのがアイドルなんじゃないか、と私は思っていた。だから、彼女の言葉が酷く心に残っている。

 私はアイドルの追いかけをしたことがない。だから、実感としてはわからないけれど、別のシーンで彼女の言葉に同意する。

 人生は、基本的に虚しい。

 幼稚園とか小学校低学年の頃から「どういう人生を歩みたいですか」みたいな宿題が出される。何歳くらいで結婚して、何歳で人生を終えるのか。それを小さい頃からずっと考えさせられる。義務教育として。

 親にも言われる。いつ結婚するの、いつ子供を産むの、いつ死ぬつもりなの。

 アイドルだけでなく、親も簡単に死んでいく。

 私の父親は、私が二十歳の時に死んだし、母は去年「じゃぁね」と言って死んだ。私は四人姉妹の末っ子だ。一番上の姉とは十歳離れているので、父も母も、良い年齢だった。平均的な寿命で尊厳死を自ら選んだのだ。

 私は、今朝一番にハルミ先輩が受付をした男の子を「カワイソウ」だと思ったし、子供を残して死んだ親を「無責任」と思った。

 けれど私は、同じ口で、始業前の軽口で「若くてキレイなうちに、とは言わないけど、平均よりも早めに」死にたいと言った。

 それとまた同じ口で、早く結婚したい、子供はすぐじゃなくても良いから欲しいと言った。

 私は二十三歳。平均寿命は五十歳から五十五歳。

 今すぐに結婚して、すぐに子供をつくっても、子供が成人した時、私は四十四歳だ。

 四十四歳というのは、私が理想としている死に時である「平均よりも早めに」の時期だ。

 ギリギリというところだ、無責任な親にならずに済む、ギリギリのところである。もう、言っていることと、自分のやっていることと、理想と現実と、全部ぐちゃぐちゃで嫌になる。

 最近の若者、私も若者だけれど、もっと若い、二十歳未満の子供たちの間では、ファッション尊厳死みたいなのもあるらしい。

 ダルいから死ぬ、みたいなお手軽な感じの思考で尊厳死を選ぼうとすることが、しばしば問題になっている。

 けれど、本当にそうだろうか、と私は思う。

 彼らは、本当に「ダルいから死ぬ」のだろうか。

 その「ダルい」という言葉の奥には、果てしない人生への絶望があるのではないか。本当に本気で、人生を深く考えた結果、死にたいという答えを出したのではないだろうか。

 尊厳死法が制定されてから、死は少なくとも「怖いもの」ではなくなった。頭の良い政治家の人が、「我が国民は死の恐怖に打ち勝ったのだ」と力強く言っていた。あの人は、確かハルミ先輩と同じ年くらいの政治家だったと思う。

 私も、死ぬのはちっとも怖くないと思う。尊厳死は安全だし、自分でタイミングを決められるのも良い。

 私は、死ぬよりも、生きることの方がよっぽど怖いし、シンドい。

 この先どうなるかわからない未来に怯えながら、どうにか良い方向に舵を取ろうと踏ん張っている。

 頑張って踏ん張って、時折こうして、虚しくなる。

 みんな、こういう気持ちを抱えて生きているのだろうか。

 私だけじゃないんだろうか。

 みんな、胸に秘めているだけで、シンドいなぁと思っているのだろうか。

 その答えを、私は知りたい。

 知りたくて、受付の仕事を選んだ。


 *ソラ*

 サツキと名乗ったお姉さんに連れられて来た家は、思っていたよりもずっと大きくて豪華だった。

「ここ、お姉さんの家?」

 僕が尋ねると、お姉さんは家の鍵を開けながら「サツキって呼んで」と言った。

「サツキさん、お金持ちなの?」

 改めて尋ねると、サツキさんは曖昧な顔をして、

「旦那が沢山稼ぐ人なの。ソラはサッカーとか好き? ウチの旦那、プロのサッカー選手なんだけど知ってるかな」

 サツキさんが口にした名前は、誰でも知っている超有名な選手だった。

 僕は小学校六年までサッカーを習っていた。サツキさんの旦那さん、アキラ選手には、僕も憧れたことがある。

 でも、それは三年くらい前、僕が小学生の時の話しだ。最近は、アキラ選手の名前はあまり聞かなくなった。

「すごい、めちゃくちゃ有名な人の奥さんなんですね」

 僕が言うと、サツキさんは今度は本当に可笑しそうに口角をあげた。

「中学生に奥さんとか言われると、なんかスゴい変な気分」

遠慮なく上がって、と言われて、僕はサツキさんの後をついて広い玄関で靴を脱いだ。玄関には大きな鏡が置いてあって、僕の全身を映している。

 天井が高い。明るくて、きれいな家だ。

(変なの……どうして僕、こんなとこにいるんだろ……)

 不思議な気分だった。本当は今日、自分の人生の全部が片付く予定だったのだ。全部終わりにして、あとは尊厳死の予定日までただジッと耐えて過ごそうと思っていた。少なくとも、今朝役所の前に並んでいた時までは、そう思っていたんだ。

「ソラ、お腹すいてる? アンタも朝から、なんにも食べてないでしょ?」

 僕は時計を見た。

 中学に上がった時、お母さんに買って貰った秒針のついている腕時計だ。今の時代、デジタルじゃない腕時計をつけている人は少ない。

 お父さんは僕がこの腕時計が欲しいと言った時、「そんなアンティークなものが好きなんて、洒落てるなぁ」と半分茶化すようにして笑っていた。

 時刻はいつの間にか、十四時を過ぎていた。

 サツキさんの言うとおり、朝から何も食べていない。けれど、お腹はちっとも減っていなかった。

「食べてないけど、お腹はすいてない」

 僕が言うと、サツキさんは、

「あたしも」

 と言って笑った。

 サツキさんに案内されたリビングには、座り心地の良いソファーと大きなローテーブルがあった。壁にはテレビが埋め込まれている。

 大きな窓から夏の日差しが入り込んでいて、部屋中が酷く明るい。

 白い壁紙が光を増幅させているみたいに見えた。

 けれど、人の気配がまるでない。

 僕とサツキさん以外は誰もいないようだった。

「アキラ選手は練習に行ってるの?」

「ううん。昨日から行方不明。連絡も取れない」

 サツキさんは、僕をソファーに座らせて、自分はキッチンに立った。

 リビングとダイニング、キッチンが全部繋がっていて、遮るものが何もない。この部屋でならサッカーの練習も出来そうだと思う。

 サツキさんは、冷蔵庫から様々な果物を取り出して、器用に剥いている。

 僕の方は、ちっとも見ない。

「アキラ選手、家出しちゃったの……? 喧嘩したの?」

 サツキさんは、さっき役所で尊厳死の手続きを終えたはずだ。

 奥さんがもうすぐ死んでしまうのに、旦那さんは家出をしていて良いのだろうか?

 それとも、喧嘩が原因でサツキさんは死ぬことにしたんだろうか?

「喧嘩もさせて貰えなかった。ソラはお酒飲めないよね? ジュース買ってくれば良かったな。ねぇ、お水よりはお茶のが良いでしょ? ウーロン茶しかないんだけど、良い?」

 サツキさんは、氷の入ったガラスのコップを二つ、ローテーブルに運んできた。それからウーロン茶と、お酒の瓶。色とりどりの果物がのったお皿。

 リンゴにすいか、バナナ、イチゴ、パイナップル、オレンジ。

 それに僕の知らない南国っぽいフルーツが二種類くらい。山盛りになっている。

「結婚してからずっと、太らないようにオヤツは果物ばっかり食べてるの。でも、アキラは「フルーツも果糖があるから太るんだぞ」とか言ってくる。酷いよね。ほんとはケーキとかさぁ、食べたいんだよ、あたしだって」

 サツキさんは慣れた手付きでお酒をコップに注ぎながら言う。

「サッカー選手の奥さんって太っちゃいけないの?」

「アキラはデブな奥さんは嫌なんだって」

「……どうせ死ぬんだから、痩せてても太ってても関係ないのにね」

 僕はウーロン茶を勝手にコップに注いだ。部屋の中は空調が効いていて涼しいけれど、窓からの日差しは暴力的だ。

 水分を取らないと目眩を起こしそうだと思った。

(死ぬための手続きに行ったのに、体が生きようとしてるの、変な感じ……)

 僕は思った。心は完全に死ぬための準備が整っているのに、体は勝手に生き延びようとしている。

「ソラ、良いこと言うね」

 サツキさんは果物をもりもり食べながらお酒を飲む。

「……サツキさん、いつ死ぬ予定なの……?」

 僕は小さな声で言った。聞きたかった。今日、手続きを終えて、死ぬまでにどのくらい日が開くのだろうか。

「え? あたし、まだ死ぬ予定ないよ」

 サツキさんがキョトンとした顔をした。

 僕は目を丸くする。意味がわからなかった。

「……どういうこと……?」

 反射で問うと、サツキさんは、少し考えて、いろいろと察したような顔をした。

「あー……あたしが役所に並んでたら、そうか、普通は尊厳死の手続きしたんだって思うよね、そうか、そうか……」

 ひとりでウンウンと頷いて、サツキさんはお酒を飲んだ。僕は、事情が飲み込めない。

 サツキさんは、顔をしかめている僕を楽しそうに眺めて「かわいーね」と言った。意味が分からない。

「あたし、旦那が尊厳死の手続きしたんじゃないかって不安で、その確認のために役所行ったの」

「……個人情報って、家族でも教えて貰えないんじゃないんですか……?」

 僕が調べた限りでは、家族間であってもそういう情報は教えて貰えないはずだ。

「うん。教えて貰えなかった。粘ったんだけどね、ダメだった」

 サツキさんは、人差し指でコップの中の氷を触りながら言った。

 僕は、サツキさんの指先を見つめた。指の本当の先端部分だけが、氷の冷たさに赤くなっている。

「でもねぇ、あたし、たまに教えて貰えることがあるって知ってるんだ。だからね、バカみたいに何も知らないで役所に突撃したわけじゃないんだよ。今回も、もしかしたら教えて貰えるかもなーって思って行ったの」

 僕の耳に「今回も」という言葉が引っかかる。

 サツキさんは氷を触っていた手を、急に僕の方へと伸ばしてきた。

 そっと肩に触れられる。細い指。

「ソラ、彼女いる?」

「……いませんけど」

 僕の言葉に、サツキさんは、にんまりと口を笑みの形にした。

「早く作った方が良いよー。あたしは十三歳の時からアキラと付き合ってた」

 これは、惚気話だろうか?

 僕はこれから、どうにか役所の人を説得して、あとは尊厳死をするのみの人生を送る。

 彼女なんて作っても意味がない。

「ソラ、今、十五歳だっけ? あっという間だよ、二十歳。早いとこ彼女見つけて、二十歳になったらさっさと結婚するのが一番楽で、賢いやり方だよ」

「いや、僕、もう死ぬ予定なんで、大丈夫です。二十歳まで生きません」

 僕が断言すると、サツキさんは果物ののったお皿を僕の方へ寄せた。

「食べな。お腹すいてない気分でも、体はお腹へってるかもよ」

 サツキさんは、ちゃんと僕の話しを聞いてくれているのだろうか。どうせ死ぬのに、食べる意味も飲む意味もない……でも、さっき飲んだウーロン茶は美味しかったし、目の前の果物も、みずみずしくて美味しそうに見える。

「ソラは知らないのかもしれないけど、死ぬ日までは生きないといけない決まりなんだよ。だから食べな」

 サツキさんは目を細めて言った。お酒を飲んで、頬が少し人間らしい桃色になってきている。待合室で話していた時は、青白くて、それこそ死にそうな人の顔をしていた。

「お母さんも、死ぬ前はよくお酒を飲んでた」

 僕は、目の前のお皿からオレンジを取った。食べやすいように、半月型に切られている。

「ソラも飲む? どうせ死ぬんでしょう? だったら法律も関係ないよね」

 サツキさんは、ウーロン茶の入った僕のコップに、勝手にお酒を注ぎ足した。ウーロン茶と混ぜても美味しいから大丈夫、と言いながら。

 この国では二十歳まで飲酒が禁止されているけれど、そもそも、お酒を飲む人自体が少ない。アルコールは値段が高いのだ。

 今思えば、お母さんも、もう死ぬと決めてから急にお酒を飲み始めたように思える。お金が惜しくなくなったと言っていた。僕が二十歳になるまで生きられる分のお金くらいは残っているから安心しなさいとも言っていた。僕は、お母さんがなんで急にそんなことを言い出したのか、その時はよく理解していなかったのだ。

「ソラはいつ死にたいの?」

 サツキさんは言った。ソファーの上で体育座りをしている。スカートの裾がめくれて、太股まで見えてしまっている。僕は、その足を見て、またお母さんを思い出す。サツキさんとお母さんじゃ年齢も全然違うのに。

「なるべく早めに死にたいです。生きていても、別に、なにもないから」

 僕は言った。そう、なにもないのだ。なにも。

 正直、特別に強い気持ちで「死にたい」と思っているわけではない。

 でも、生きたいとも思えない。お父さんもお母さんも、ウミもいない。

 この世には、もう僕だけで、でも死んだらみんなに会えるとも思っていない。死んだ後は、灰になって撒かれるだけだ。

 この国には、日々、尊厳死をする人がたくさんいる。昔はひとりずつ、ちゃんと燃やしていたらしいけれど、今は知っている人も知らない人も関係なく、まとめて死んだ日の夕方に燃やす。

 そして残った灰は、一緒くたにして、公園や広場に撒かれる。海に撒くところもあるらしい。灰以外の骨はゴミと一緒に捨てられてお終いだ。

 あっけなく、簡潔で、死ぬことは特別なことじゃない。

 人間は、生まれた時から死ぬと決まっている。

 だったら、なんで生まれるんだろう。

(その方が、親が楽だから……)

 きっと、それだけだ。お父さんもお母さんも、自分たちが楽をしたいから、僕やウミを産んだ。

「ソラのお父さんとお母さん、なんで死んだの? まだ若かったんじゃない?」

 サツキさんは、自分のコップにお酒のお代わりを注ぎ、パイナップルを摘みながら言った。

 僕は、なんと言ったら良いのか、わからない。

 なんで死んだのか。それは僕も知りたい。いや、違う。なんで僕だけ残したのか、それを知りたい。いや、やっぱり、それも違うかもしれない。なんで僕だけを残したのか、その答えを、僕は知っている。

 その答えは、「特に理由はない」だ。

 僕は、それが死にたくなるほど嫌だ。せめて理由が欲しかった。僕だけを残した理由が欲しかった。それがあれば、もしかしたら、この先を生きようと思えたかもしれない。

「あたしの両親ね、あたしが十三歳の時に死んだよ。あたしに、なーんにも相談しないで、勝手にね」

 僕は、視線だけでサツキさんを盗み見た。サツキさんは、ソファーの前の壁に埋め込まれているテレビの黒い画面をジッと見つめている。

 その黒い画面の奥に、なにか見えるみたいに。

「あたしの実家ね、ここよりずーっと田舎にあって。家も別に大きくなくてさ。でも、父親が会社やってたの。AIのデータを管理する運用会社っていうの? まぁ、あんまり流行んない仕事だけど。母親もその仕事手伝ってて。それなりに上手いこと、普通の家族してたんだけどね」

 サツキさんは、そこで一度「ふぁ」と声を出して欠伸をした。

 先ほど、桃色だった頬は、更に赤みを増している。

(あんまりお酒、強くないのかな……)

 お母さんは、飲んでも飲んでも、全然顔色が変わらなかった。ただただ機嫌が良くなるので、僕はお酒を飲んでいるお母さんが好きだった。お母さんは、いつも疲れていたけれど、飲んでいる時ばっかりは、リラックスしているように見えたのだ。

「あたしもまだ十三だったから、いまいち詳しくわかってないんだけどさ。父親が仕事でなんかやらかして。データ流出? ダッサいけどさ。それで会社潰れて、お金なくなっちゃったらしくて。それである日突然、朝起きたら言われたの。父さんと母さんは、死ぬことにした。お前は頑張って生きろって」

 無責任すぎて笑えるよね、とサツキさんは言った。

「そうだね」

 僕は答えた。あんまりに酷いと思ったけれど、少しホッとした。僕だけじゃないと実感できた。やっぱり大人は勝手だ。

「あたしね、ソラの気持ちめちゃくちゃわかるよ。あたし、父さんと母さんが死ぬことにしたって言った時、信じられなくて、寝起きのまま役所に走ったんだ。それで、必死に役所の窓口の人に聞いたの。父さんと母さん、本当に死んじゃうの? って。もう間に合わないの? って、必死に聞いた」

 サツキさんは、頭を上に向けて、天井を眺めた。

 僕は、サツキさんの黒い髪が、ソファーの背もたれにワカメみたいになって流れるのを見ている。

「あたしがあんまり必死に言うもんだからさぁ、教えてくれたんだよ、役所の人。まだ十三歳だったし、すごい子供に見えたんだろうなぁ。あとはめちゃくちゃ田舎だったから、緩かったのかも。プライバシーの管理とか、そういうの」

 僕は、今朝、サツキさんが朝早くから役所に並んでいた意味を理解した。

 今回も、教えて貰えるかもしれないと、きっと藁にすがるような気持ちだったのだ。たぶん。想像でしかないけれど。

「今回は教えて貰えなかったけどねぇー、やっぱりもう子供じゃないし、ダメかーってさ。当たり前なんだけど、なんかなぁー、バカだなぁ、あたし」

 僕は、サツキさんの真似をして、ソファーの上で体育座りをしてみた。

 そして、尋ねた。

「サツキさんは、お父さんとお母さんが死んだとき、自分も死のうとは思わなかったの?」

「思ったよ」

 即答だった。サツキさんは、ニッと笑った。

「今のソラと同じ」

 でもサツキさんは、まだ生きている。

「なんで、死ななかったの?」

 僕の問いに、サツキさんは笑みを消して言った。

「アキラが死なないでって、あたしに言ったから」

 サツキさんの答えは、短すぎて僕には理解できなかった。リビングには沈黙が流れる。空調の気持ちよい風が、他人事のように充満している。どんなに過ごしやすい環境でも、人間は人間と一緒にいると気詰まりな時がある。不思議だと思う。

「あたしとアキラ、幼なじみなの。生まれた時からご近所さんで、ずっと一緒に育ってきたから。あたしの両親が死んだ時も、アキラの両親、すごい親切にしてくれた」

 サツキさんはボソボソと話した。お酒の入ったコップが、カランと音を立てる。コップの中の氷が徐々に溶けて、お酒を薄めている。

「絶望してる時の親切って、めちゃくちゃイライラしない?」

 サツキさんは言った。僕は、一度まばたきをして答えた。

「イライラするというか……親切にしてくれた人が、バカに見える」

 親切にしてくれる人に対して、お礼の気持ちも少しはある。けれどそれ以上に、反射的に、バカなのかな? と思ってしまう。

 まるで他人事のように、カワイソウにね、とか言ってくる。

 自分は絶対に「カワイソウ」にならない自信でもあるんだろうか。その自信の根拠は?

「あたし、ソラと仲良くなれる気がしてきた」

 サツキさんは言った。

「僕はまだ、わかんないや」

 サツキさんのことは、いまいちよくわからない。掴めない。ユラユラしていて、すごく暑い日……例えば、今日みたいな日に現れる蜃気楼みたいだ。

「正直者のソラに、良いこと教えてあげる。もし、この先もソラが生きていくなら、役に立つかもしれないこと」

「明日、もう一回役所に行って、今度こそ申請通して貰うつもりだけど」

 僕が言うと、サツキさんは「まぁ、聞くだけ聞きなよ」と言った。

 どうせ暇なのだ。僕が黙っていると、サツキさんは再び目を細めて笑った。猫のような笑みだ。

「この世界にはね、本当に自分のことを助けてくれる、白い魔法使いがいるの。夢とか、希望とか、生きる気力とかをくれる、白い魔法使い」

「アイドルとか?」

 僕が問うと、サツキさんは少し首を傾げた。

「そういう人もいるかもね。でももっと身近な人。例えば恋人とか、家族とか。あと、尊敬してる先輩とか、先生とかね」

「残念だけど、僕はまだ出会ってなさそう」

「でも、これから出会っちゃうかもしれないから、覚えておいて。白い魔法使いはね、本当に沢山の力をくれるの。あたしの場合はアキラがそうだった。十三歳の時から、結局今日まで生きてきたのもアキラがあたしに白い魔法をかけたから」

 僕はソファーの上、サツキさんと少し距離を取った。

「惚気話だったら眠たくなるから嫌だよ」

 僕が言うと、サツキさんは「あはは」と笑った。声だけで笑っていて、目はギラギラしていた。

「大事なのはココからだよ」

 サツキさんは僕の目を真っ直ぐに見た。ギラギラした目のまま、ジッと見た。

「白い魔法はね、良いものみたいに見えるんだけどね、それは見た目だけ。白いものだって重ねすぎると黒くなるの。良い言葉も、浴びすぎると結局最後は、黒くなる」

この世界に、本当に真っ白な、純白の魔法なんて存在しないんだよ

「忘れないで。本当に、心から、根っから、全部全部が良い人なんて、絶対にいないからね」

騙されちゃダメだよ

 サツキさんは、強い目と強い声で、僕の脳味噌を殴るみたいにして言った。


 *サツキ*

 あたしは、両親のことが普通に好きだった。別段、嫌な記憶もない。特別にベッタリと好きだったわけでもないけれど、嫌いだと思ったことはなかった。

 それは、十三歳の時までの話しだ。

 十三歳、中学生。あたしは、これから先も普通に人生が続いていくと信じて疑っていなかった。

 学校では「何歳くらいで自分の人生を終えるか、それをよく考えて人生設計をしていきましょう」と何度も言われていたけれど、そこまで深刻に考えられていなかったと思う。

 今思えば、少しばかり、あたしは間抜けだったし、のんびり屋だったのだろう。

 両親ともにまだ若かったし、まさか急に「死ぬことにした」と言われるなんて、思ってもいなかった。

 あの日、朝起きたばかりのあたしに、両親は何にも気負うことなく「役所で手続きをしてきたんだ。明後日、死ぬことに決まったから。サツキはまだ子供だから大丈夫。これから先、なんでもできる。どうか幸せに生きて、人生を楽しんでね」と言った。

 子供だから大丈夫? なにがどう大丈夫なのか、それさえわからなかったのを覚えている。

「会社が倒産してもさぁ、補助金とか、援助制度とか、たくさんあるんだよ。特に、結婚して子供もいる家庭だし。いくらでも国から支援を受けられた。でも、あたしの両親は、支援を受けて生き延びるより、死ぬことを選んだ。そんなのって逃げじゃんって思ったよ」

 今まで、アキラにも話したことのないことを、知り合ったばかりの、まだ十五歳の男の子に話している。

 不思議な気持ちだった。まるで自分を見ているみたいだと、役所では思った。だから、家に連れてきた。

 けれど、話してみて思う。この子は、当時のあたしより、ずっと利口だ。

(もったいない。ちゃんと頭の回る子なのに、明日には尊厳死の手続きしちゃうんだ……)

 そんな風にも思うけれど、頭が回るからこそ、もうこの世界が嫌になってしまったのかもしれないとも思う。

「逃げるのは、悪いことじゃないと思う。生きていく理由がないなら、さっさと終わらせるのもひとつの道だし、権利だし。もう頑張りたくないって思ったんじゃないかな」

 ソラが言った。あたしは目を細める。ムカつくなぁと思った。

 あたしも、ソラの意見に同意だ。けれど、それでは、酷すぎるじゃないか。

 あたしは、両親にとって、生きていく理由ではなかったということだ。十三歳のあたしを残して、さっさと死ぬことを決めた両親を、あたしは今では、あまり好きではないと思っている。

「あたしも、今のソラみたいに思った。だから、あたしだってさっさと死のうと思ったよ。両親を尊厳死で早くに亡くした子供の支援制度だって、めちゃくちゃ充実してることは知ってた。でも、全部面倒くさくなって、あたしも逃げちゃおうって思った」

 両親の「死ぬことにした」という言葉が信じられず、あたしは考えるよりも先に、役所に走り込んだ。何かの冗談だと思いたかった。役所の人に、泣きながら訴えた。両親が手続きしたのは本当か、知りたかった。本当であれば、取り消して欲しかった。

 役所では、特別に両親の申請の有無について教えてくれた。でも、取り消しては貰えなかった。それは、個々人の権利であって、他人が、たとえ家族であっても、侵害できるものではないそうだ。

「あたしが死のうって決めた時、アキラがあたしの側に来て言ったの。死なないでって。死なないで、生きて、それで二十歳になったら、オレのお嫁さんになってって。アキラはその時、あたしに白い魔法をかけた」

 あたしが言うと、ソラはフッと大人っぽい顔で笑って「やっぱり惚気じゃん」と言った。

 違う。違うよ、ソラ。

「あたしは、アキラのお嫁さんになるために、生きようって決めたよ。アキラのこと、普通に好きだったし、アキラかっこいいし。その当時から、サッカーすごい上手くて、学校でも人気者だった」

「僕も、アキラ選手好きだよ。足がすごく速くて、ゴール決めた時のパフォーマンスが大袈裟すぎなくて良い」

 ソラが言った。あたしは、ソラの頭をクシャクシャっと撫でてやった。子犬を見てカワイイと思う気持ちと同じような感情が、フワッと芽生えたから。ソラはすごく嫌そうな顔をして、あたしの手を柔らかく払った。

「あたしはアキラが好き。今も、とっても好き。だからアキラのことを褒められると嬉しくなる。あたしはアキラに白い魔法をかけて貰い過ぎた。もう、真っ黒になるくらい」

 真っ白だった魔法。年を重ねるごとに、少しずつ、白に黒が混ざり始める。一滴ずつ、ほんの少しずつ。真っ白は、薄ら灰色になって、更に更に、色味を濃くして、曇天のような色になって、今では真っ黒になってしまった。

「二十歳そこそこであたしとアキラは結婚した。向こうの両親との付き合いも長かったし、幸せだった。あたしは、アキラが約束を守って本当に結婚してくれたことが嬉しかった。本当に愛されてるみたいな気持ちになったし、アキラは実際、本気であたしを好きでいてくれてたと思う」

 そこで、一呼吸置いて、氷で薄くなった酒を呷った。

 冷たすぎる濁った水の味がする。

 ソラはずっと黙っているけれど、耳をこちらに傾けている気配があった。優しい子だと思った。

「あたしは結婚したなら、子供は早めに欲しかった。その方が暮らしが楽でしょ? 税金も医療費もかからないし、学費タダだし、子育てにはほとんどお金はかからない。ただ育てるだけで良くて、それで親であるこっちも生きていくためのお金が半分くらいで済む。どう考えても子供がいた方がお得」

 ソラは、スッと視線を天井の方へ向けて「便利な道具」と呟いた。

 あたしもそう思う。でも、それ以上に、好きな人との間に子供が欲しいという気持ちがあった。そこに嘘はない。

「結婚してすぐ、子供、どうするってアキラに聞いた。そしたら、しばらく考えてから、二十八歳くらいになってからにしようって言ったの。なんで? ってあたしが聞いたら、俺の選手生命を考えても、高収入でいられるのは二十代が限界だって。だから二十八歳くらいでひとり産んで、二年おきに五人くらい子供作れば、ちょうどあたしらが平均寿命に届くくらいの年齢で一番下の子が二十歳になるから、丁度良いって。一生お金に困らずに生きていけるよって。そういうのが人生設計ってもんなんだって」

 あまりにも真剣に語られた言葉に、当時のあたしは一瞬でしらけた。

 ソラは、あたしの顔をチラリと見て、それから俯いた。

 いろいろと、言いたいことのありそうな顔だった。

「あたしね、アキラのこと大好きだけど、大好きな気持ちと同じくらい……あー、いや、正直、殺したいくらい、嫌いになる時があるんだ」

 アキラの気持ちを疑ったことはない。けれど、前提を疑ったことは何度もある。あたしに「お嫁さんになって」と言った時、アキラはもう人生設計を完成させていたのかもしれない。

 あたしは、彼の幸せな人生に必要な道具だったのかもしれない。

 両親にとっても、そういう存在だったのかもしれない。

 あたしは、ずっと、誰かの道具として存在しているのかもしれない。

 愛はあったと思う。今も愛されているという実感がある。

 あたしは選ばれた。お気に入りの道具として、アキラに選ばれた。

「殺したいくらい嫌いなら、なんで一緒にいるの……? なんで、役所に駆け込んでまで、必死に、アキラさんのこと、考えるの?」

 ソラは、年相応の顔をして、あたしを上目に見ている。

 あたしは無表情で言った。

「幼なじみだから」

 ソラはまだ、納得いかない顔をしている。

「幼なじみって、そんなに大事……?」

 そう問う声には怒りさえあった。本当に優しい子だ。あたしの話を、ずっと自分事のように聞いてくれている。

 あたしはアキラが本当に大事なのだろうか。答えは自分でも驚くほど、すぐに出た。

「大事なわけじゃないよ。ただ、あたしはアキラよりも親しい男の人がいない。アキラのことなら、たくさん知ってるけど、他の男の人のことは、全然わかんない。考えてみて? 良い人か悪い人かもわからない、全然顔見知りじゃない男の人と、たまに殺したくなるくらい嫌いだけど、一応好きだなって思える知ってる男の人。どっちを選ぶ?」

 あたしは、十三歳の時から、アキラのお嫁さんになる以外の未来を描いたことがなかった。もう、そういうものだと思って生きてきたから、アキラ以外に親しい男の人を作らなかった。女友達も、極端に少ない。

「いろいろ反論したいことはあるけど、ちょっと納得もした」

 ソラは軽く笑って言った。

「ありがと」

 あたしはお礼を言った。ソラは反論を投げかけて言い争うことをせず、あたしの言うことを飲み込む方を選んでくれた。

 そのことに対するお礼だ。

「アキラさん、なんで行方不明になっちゃったんだろうね」

 ソラが言った。

「なんか、ひとりで考えたいんだって」

「なにを考えるんだろうね」

 ソラが不思議そうに言った。あたしは笑ってしまう。

 確かにそうだ。死ぬつもりなのだとしたら、何を考えるというのだろう。

 どういうプランで死のうかな、とか。そういうことだろうか。だったら、あたしにも相談して欲しい。

「ねぇ、ソラ。最近さ、アキラのこと見ないでしょう? 年齢も年齢だしさ、最近レギュラー落ちすることの方が多くなったの」

「スポーツ選手は大変だよね」

 ソラは言った。最近では、選手の若年化が進んで、ソラよりも年下の子でも立派に国の代表選手としてフィールドに立っているくらいだ。

「レギュラー落ちするたびにね、ふざけた感じで「もう死んじゃおうかなー」とか、言うこともあったんだよ。今までにも」

 けれど、その度に「あー、でもサツキを残して死ねないかー」と笑ってアキラは言うのだ。お前はひとりでは生きられないだろう、という呪いをかけられ続けている。効果はてきめんだ。あたしは、アキラが死ぬかもしれないと思った時、激しく動揺した。

 実際、今でも考えるだけで動悸がする。あたしは、ひとりになったら、どうやって生きていくのだろう。

 お金の話しではない。なにを理由に生きれば良いのか、道を見失う。

「じゃぁ、今回も、アキラさんの気の迷いかもしれないってこと?」

 ソラが言った。あたしは首を振った。今回のは、そうじゃない。そうじゃなかったから、焦っている。

「今回は、たぶん、本気なんだと思う。サツキも一緒に死のうって言われたから」

 ソラは顔色を変えずに「そっかぁ」と言った。

 アキラが、一緒に死のうなんて言ったのは、はじめてだった。

 幼なじみで、ずっと一緒に生きてきて、はじめてだった。

「オレ、死のうと思うんだ。だから、サツキも一緒に、死のう」

ひとりは寂しいから、一緒に

 アキラの言った「ひとりは寂しい」というのは、ひとりで死ぬ自分が「寂しい」という意味だろうか。それとも、ひとり残されるあたしが「寂しい」という意味だろうか。

「どっちにしてもヤな感じ」

 ソラが言った。

 その通りだとあたしも思う。それでも。

「好きな人には、死んで欲しくないもんだって、どうして誰もわからないんだろう」

 あたしは言った。子供みたいな声になった。ちょっと泣きそうにもなった。

 アキラがあたしにかけつづけた、白い魔法。

 サツキはかわいい、サツキ大好きだよ、サツキは気が利くなぁ、サツキはオレの自慢だよ、サツキがいるから死ねないな、サツキは穏やかで、サツキは、サツキは。

 あたしは、アキラが理想としているサツキで在り続けた。

 それがあたしの、生きる意味だったからだ。

 淀んで淀んで、真っ黒になった白い魔法たち。

 あたしを縛る言葉たち。

 好きな人には、死んで欲しくない。

 生きていて欲しい。

 本当に、そうだろうか。

 この、なんの希望もない、世界で?

 それでも生きていて欲しい?

 どうせいつかは、誰でも死ぬのに?

「人間は、なんで生まれてくるのかなぁ」

 ソラが言った。

 そんなの、親の都合だ。それだけだ。

 本当にそれだけか?

 それだけではないのなら、どうして生まれてくるのだろう。

 どうして、あたしは生まれたのだろう。

 意味なんてない。

 そんな答えでは、あまりにも虚しいじゃないか。


 *ハルミ*

 誰もいないと思って帰ってきた家に、明かりがついていた。

「ケイくん、今日は早かったんだね」

 リビングに入ると、ソファーで本を読んでいたケイくんがこちらを向いた。

「今日は久しぶりにマスコミが大人しかったんだ」

 ケイくんは笑った。私は「平和で何より」と笑って返した。

「ストシャイがグループ尊厳死するって発表しただろ? そっちのニュースで持ちきりだったよ。政治関係はしばらく動きやすくなる」

 ケイくんは、本を置いて立ち上がると、無駄のない動きで私の側に来た。

 長くて骨張っている指先で、私の髪をそっと分けると額にチュッとキスをする。

 ケイくんは、私を妹のように思っているんだろうと常々感じている。

 ケイくんが私と接する時、年の離れた妹を溺愛するみたいな気配が常に漂う。

 実際は、私とケイくんは大学の同級生だし、同じ年だ。

「私は今からオイタナジー記念日が怖くて仕方ないわよ」

「心中お察しするよ」

 ケイくんは苦笑いをした。

 同居中の私の恋人、ケイくん。

 私と同じ二十九歳。

 職業、政治家。法務省に所属している。

 やり手の政治家としても知られていて、国民からの人気も結構ある方だと思う。

 付き合い始めたのは、まだ大学生のころ。もう十年くらい続いている。

 十年間、一度も恋人としての危機的状況を迎えたことがないのは、おそらく、お互いにお互いのことが、それほど好きでも大切でもないからだと思う。

 それでも、私もケイくんも、別れるつもりはない。

「なにか作ろうか? お腹すいてる? ちなみに僕は死ぬほどお腹がすいてる。ハルミが帰ってきたら作ろうって思ってたんだ。ひとり分作るより、二人分作った方が良い気がして」

「それって、私がお腹すいてるかどうか、関係ないってことじゃない?」

「そういうことだね。ごめん。なんか一緒に食べようよって言えば良かった。パスタとか、どう?」

「ペペロンチーノなら良いよ。私、明日は休みだし」

「ペペロンチーノかー。僕、明日、囲み取材あるけど、まぁいいか。美味しいよね、ペペロンチーノ」

 ケイくんは、ひとりで頷きながらキッチンへと向かった。

 私は自分の部屋へ行って、部屋着に着替える。その流れのまま、化粧落としのシートを持って洗面所へ。嫌になる前に、全部やってしまった方が良いと長年の経験で知っている。

 顔を洗って、適当に化粧水をつけてリビングに戻ると、丁度パスタが出来たところだった。

 ケイくんの料理は、手際よく作られ、いつでも素っ気ない。

 味が濃くて、具が少ない。

 でも、だからこそ美味しい。ジャンクな味で、私は好きだ。

 けれど、付き合いはじめたばかりの頃、ジャンクフードばかりでは体に良くないのでは? と柔らかく指摘したことがある。

 ケイくんは笑って「ハルミさんは、そんなことを気にするの?」と言われた。私は、すぐに色々なことを察した。察したので「そうだね、バカみたいなことを聞いちゃった。恥ずかしいな」と、取り繕った。

 どうせ五十歳やそこらで死ぬのが普通なのだ。体に良かろうが、悪かろうが、あんまり関係ない。好きに生きて、病気になったり、疲れたりしたら死ねば良いのだ。安らかに、痛みも苦しみもなく、ただ眠るように死ねば良い。

 ニンニクの良い香りが部屋中に漂っている二十二時。

 残業が終わったのが二十時頃だった。そこからユカちゃんとダラダラお喋りをして、帰ってきたらもうこの時間だ。

 この時間帯に食べるジャンクフードは最高に楽しいと思う。

「あ~、美味しそう」

 私が嬉しそうにして言うと、ケイくんが「美味しいよ」と言った。当然のような言い方で、自信満々だ。ケイくんからは、いつでも爽やかな自信が溢れている。高圧的ではなく、サラリとした質感の自信。

 人から好かれるオーラというのは、存在すると私は思う。

 ケイくんがどこかの偉い人から貰ってきた軽めのワインを開けて、二人でゆったりとした食事をする。

「家でゆっくり出来るの、二ヶ月ぶりくらいな気がするなぁ」

 ケイくんは気の抜けた、優しい顔で言った。

「最近は、自然派の人たちも大人しいし、僕の仕事も全体的に平和なんだ」

 私はケイくんの独り言みたいな、それでいて心地よい声色に耳を傾ける。ケイくんの声は、風のない穏やかな午後のさざ波みたいだ。

「あ、いつも言うけど、僕は別にハルミのご両親を批判するつもりはないんだよ。それでも仕事としては、責任を持ってそういう人たちを諭さないといけない立場にあるから、少し辛い。ご両親と最近は連絡取ったりしている? 元気にしているかな」

 ケイくんは言った。私は口の中のペペロンチーノを飲み込んでから、

「元気よ。大丈夫。それに、ケイくんの立場もわかっているし、私も両親のことは心配してる。ケイくんは優しいから、理解も示してくれるけど、私はやっぱり、自分の親のことだし、心配。それに不安」

 私は、ワインの美しい赤色を見つめて、深刻そうな顔を作って言った。

 目を見て話すと、ケイくんには色々とバレてしまうと知っている。彼はとても頭が良い。

 ケイくんの言う「自然派」というのは、尊厳死を良しとしない考え方を持つ人たちのことだ。

 自然な状態で、寿命を全うして死ぬことこそ、人間の尊厳であると考える。

 今の時代、自然派の人たちは、ある種の宗教団体みたいな感じに見られている。

苦しまず、安らかである尊厳死を望まず、ただ自然と寿命が来るまで生きるという主張。一見、それも悪くないように聞こえるけれど、実際には、加齢と共に病気になったり、体の調子が悪くなったりする。

 途中で、不慮の事故に合うかもしれないし、転んで怪我をするかもしれない。

 結婚をして、子供を産んで、その子供が二十歳になるまでは、それでも良い。医療費は免除されるし、病院にもかかれる。

 けれど、子供が成人をしてしまった後は、話しが別だ。

 医療費は高額。怪我や病気で治療をしてもらうには、相当な蓄えが必要だ。一生働いてお金を稼いでいければ、それも良いのかもしれない。

 だが、どこの会社も定年は四十五歳から五十歳くらいだし、それ以上の年齢になると雇って貰えるところもない。

 収入もなく、病気も怪我もできない。そんな状態で、自然死を待つのは、あまりにも非現実的だと私は思う。

 思うのだけれど、私の両親は、正にその「自然派」の人たちだ。

 現在、父は五十歳。母は四十八歳。

 田舎にある時代劇に出てきそうな長屋みたいな場所で、畑を耕したりして、自給自足の節約生活をしている。旧石器時代の生き残りみたいだと私は思う。

 私は両親が嫌いではない。育った環境も悪くなかったし、良くして貰ったと思って感謝もしている。

 でも、同時に少し恥ずかしい。

 両親は、ケイくんから毎月仕送りを貰っている。私は、そんなことしなくて良いよ、やめて、と言ったけれど、ケイくんは慈悲深い目で「ハルミこそ、そんな寂しいこと言わないで。知らない仲じゃないんだから」と言ってくれる。

 政治に関わっているケイくんだが、五十歳を過ぎた人には参政権がないので、金銭を渡していても特に問題にはならない。

 ならないけれど、恥ずかしい。施しを受けている両親が、私には時折、哀れに見える。

「ハルミは優しいな。でも、気持ちはわかるよ。僕も自分の両親が自然派だったら、心配だと思う。やっぱり家族には、苦しまずに安らかな最期を迎えて欲しいと思っちゃうね。病気にもならず、高額な資金を払って闘病したりせず、怪我なんかで痛い思いもせず……」

「本当に、その通りだと思うわ」

 私は答えた。俯いて、ペペロンチーノの香りを楽しむ。

「ハルミ、そんな顔しないで。ハルミのご両親は、聡明なだけだと僕はわかってる。全体を見れば少しズレていると思われる思考も、個を見れば、本当はそっちの方が正しかったりするんだ」

 ケイくんは言った。ケイくんには私がどんな顔をしているように見えたのだろう。

 私は「いつもありがとう」と小さな声で言った。

「もう少し飲もうか」

 ケイくんが、飲みかけのグラスに、追加で赤ワインを注ぐ。

 彼がグラスを掲げたので、私も一緒になってグラスを掲げる。

 二人の「乾杯」という声が、霧散した。

 日々、サラリサラリと失われていく命のように。


 *

 ケイくんとはじめて会ったのは、大学の入学式だった。

 私は、両親のお陰で、とても良い教育環境を整えて貰っていたので、国立のレベルの高い大学へと進学出来た。

 ケイくんは、新入生代表の挨拶をしていた。私は、その様子を大学ではなくウェブ通信で見ていた。大学は、行くも行かぬも自由だ。授業はキャンパス内で受けても、ウェブで受けても良い。四年間、一度もキャンパスに来ない人もいる。

 ケイくんは、キャンパスの大講堂で、堂々と挨拶を述べていた。私はその姿を見て、そのあまりの真っ直ぐさとか、あまりの輝かしさとか、瑞々しさとか、はちきれんばかりの熱量とかに圧倒された。

 画面越しなのに夢中になって、本当はずっとウェブ授業で済ませようと思っていた大学に、翌日から通い始めた。

 ケイくんのことは、大学の基本情報を見て、すぐに誰だか知ることが出来た。

 ケイくんの一族は、男女問わず、代々この大学を卒業している根っからのエリートだった。百五十年前の大学創立年から、ずっとだ。

 そして、卒業後は全員政治家への道を歩んでいる。

 私は、大学へ行くとすぐにケイくんの姿を探した。彼はすぐに見つかった。どこにいても目立つのだ。オーラというか、雰囲気が違う。明るい。底抜けに、明るくて溌剌としている。

 私は、大学の広い廊下で初めて生でケイくんを見た。ケイくんは、男友達数名と楽しげに話していた。私は、その様子を、少し遠くから見つめていた。

 それだけなのに、ケイくんは私に気が付いてくれた。

「やぁ。君も一年生?」

 嫌みのない、軽やかな声。

 私は頷いて、名前だけの自己紹介をした。

 ケイくんはパッと目を開いて、嬉しそうな顔をした。

「君か! 会ってみたかったんだ。こんなに早く会えるなんて思ってなかった。ラッキーだな。ちょっと話せないかな? 時間ある?」

 急に距離を詰められて、私はたじろいだ。

 ケイくんと一緒にいた友達が「こらこら、怖がらせるなよ」と窘めて笑った。ケイくんは、すぐに「あっ」という顔をして、恥ずかしそうに再び私と一般的な距離を取った。

「ごめん。ちょっと舞い上がった」

 私は「いいえ」と小さな声で言った。

 ケイくんの友達が「知り合いか?」と問いかけた。

 私が首を振ると、ケイくんは「僕は君を知ってる」と得意げな顔をした。

「彼女、今年の首席合格者だよ」

 ケイくんは言った。私はびっくりした。なぜ、そのことを知っているのだろうか。

 私は合格発表の後に、大学側から聞かされていた。

 君は首席合格者だ。そして一年生の代表挨拶は、首席の人に行って貰うことになっている。けれど、実のところ、一年生の代表挨拶は代々決まっていて、申し訳ないけれど、挨拶はその人に譲って欲しい、と。

 私は、代表挨拶なんて絶対にしたくないので、気持ち食い気味で「もちろん構いません!」と答えた。

 ケイくんは、今まで話していた友達に断りを入れて、私に向き直った。

「どこか、お茶でも飲みに行こうか。それとも食事が良い? もちろん、ただどこかの空き教室で話すだけでもいい」

 私は、代々政治家を務めるような御曹司が、普段どんな高級店で食事をしているのだろうという興味を持った。

「あなたの奢りなら、食事に」

 私が言うと、ケイくんはケラケラ笑った。

「もちろん奢るよ。ナンパしたのは僕だからね」

 その時、ケイくんが連れて行ってくれたのは、大学の近くにあるファーストフード店だった。

「いつもこういうところでご飯食べるの?」

 私が尋ねると、ケイくんは照れたように笑って、

「僕はジャンクフードが好きなだよね。ハルミさんが好きじゃなかったら、別のところにしようか」

 と言った。私は吹き出して笑った。

「私もジャンクフード好き。特に夜中に食べると幸せを感じる」

「あ、僕も僕も。なんでだろうね。原価はチープなのに、値段はそんなに安くない。カロリーも高いし、味付けも雑。でも美味しい。味が濃いから炭酸も飲みたくなる。炭酸が甘いから、ますます味が濃いのを美味しく感じる。深夜なんて、本当に最高だ。家族が寝静まった後にひとりで食べるとウットリする」

 ケイくんは言った。私も頷いて答えて、二人で炭酸ジュースとバーガーを買った。ポテトとかパイとか、サイドメニューも買った。

 テラス席に向かい合って座って、ピクニックみたいな気持ちで食べた。

 ケイくんは私に、勉強の仕方について質問をした。ケイくんは、自分こそが首席合格者だと信じて疑っていなかったそうだ。家族もみんな、それが当然と思っていたので、私が首席だったことが衝撃だったと言っていた。

「大学も酷いね、個人情報だよね、首席合格者の名前なんて。まぁ、ウチの母さんがしつこく聞いたせいなんだけど……」

 ケイくんは苦笑した。私は「別に良いのよ」と首を振る。そのお陰で、こうしてケイくんと話せているのだから、ラッキーと思った。

 私たちは、真面目な学生ぶって、学業のことについて話した。

 ケイくんは将来政治家になるための勉強を、この大学でしっかりとやっていきたいと語った。

 私は、幼いころからAI技術やAIシステムの構築について興味があったので、そういう分野の勉強がしたいと希望を語った。

「ハルミさんは、今の世の中で当たり前になってる尊厳死制度のことは、どう思う?」

 唐突に、ケイくんが言った。私は炭酸のはじける心地よさを口内に感じながら考えた。

「自分自身の今の体感だけで言うなら……そうだなぁ……小さい頃から人生設計を強いられたり……特に女性は結婚出産が無言の圧で義務みたいになっているし、あんまり良い印象は受けないけど……」

 私は答えた。

 特に、子宮を持たない私に、この「結婚出産当たり前」という風潮は重くのし掛かる。でも、と私は続けた。

「でも、歴史的な目で考えれば、昔は高齢者の方が子供よりもずっと多くて、多くの高齢者を支えるために若者が重税を課されていたり、いろんな部分でバランスが整っていなかったなと思うから、政治的な舵取りとしては、尊厳死を合法にして民間に広めたのは間違っていなかったとは思うかな」

 ケイくんは、私の意見を目をキラキラさせて聞いていた。

「僕は、尊厳死という概念を人権の一部として広めたことによって、国内の犯罪発生率が格段に減ったことも良かったと思うんだけど、それについてはどう思う?」

 現代では、罪を犯した人に「尊厳死」という権利は与えられないことになっている。死刑制度を廃止した代わりに、犯罪者は尊厳死する権利を奪われる。

 つまり、安らかに死ぬことが許されないということだ。自然に寿命が来て死ぬまで、生きなくてはいけなくなる。刑務所の中で。もちろん、課税義務を果たしながら。

 そんなのは誰がどう考えても生き地獄だ。日々休みなく、刑務所内で労働をして日銭を稼ぎ、健康に留意して怪我や病気をしないようにして、自然に死ねるその日まで耐え抜かなくてはいけない。途中で運悪く、病を患っても、治療費を払えるだけの資金など、刑務所内労働では稼げるはずもない。せいぜい、毎日質素に生きていくのが精一杯だ。

「みんな、犯罪者になるくらいなら尊厳死を選ぶだろうから、犯罪率が減ったのは当然だし、良い副作用だと思うかな」

 私は答えた。犯罪に走る前に、尊厳死の申請をすれば良いだけの話しなのだ。尊厳死は、最低金額三万で受けることができるし、もし三万という金額も高くて、どうしても出せないという場合でも、国に破産申請をすれば、尊厳死代を国が負担してくれる。

 みんな、犯罪者になる前に、善人のまま安らかに死んでいく。

 年間犯罪件数は、少ない年では五十件以下だったりもする。平和な世の中だ。

「僕も、そういう部分での副作用が大きいと思っているんだ。この間のニュース、見たかな? 小学生のイジメ事件」

 最近、大きく報道されているニュースだ。知らないはずもなかった。

「知ってる。小学生の女の子のやつだよね。クラスでイジメを受けた子が、イジメた側を訴えて、裁判で勝訴した……」

「そう。法廷の映像見た? イジメられていた子の、あの言葉が僕は忘れられない」

 法廷で、まだ幼さの残る女の子の放った言葉。

 判決も言い渡され、イジメた側の女の子と、その両親は絶望の色を隠せない様子だった。

 そんな時、被害者側の女の子が言ったのだ。

「お前なんて百歳まで生きて、苦しんで死ね」

 静かな法廷に、冷たく鋭く、響きわたった。

 決して大きな声ではなかった。

 けれどその言葉は、加害者側の人間に対するとどめの一言となった。

「あれは、すごい衝撃だった。なんだろう、上手く言えないけれど、言葉が人を殺す瞬間を見たような気持ちになったな」

 私が言うと、ケイくんは深く頷いた。

「昔は、「死ね」っていう言葉が悪口みたいに使われていたって言うよね。今となっては、それがどうして悪口として成立していたのか、僕にはよくわからない。人間は生きているんだから、いつか必ず死ぬし、尊厳死法があるから、苦しまずに楽に死ぬことができる。それよりも、この生き辛い世界で百年生きる方がよっぽど過酷なことに思える」

 ケイくんはしみじみと言った。

 そして、秘密事を打ち明けるみたいにして声を潜める。

「実はね、尊厳死法を制定したの、僕の曾曾曾お祖父さんなんだ」

「……結構遠いね」

 最初の感想はそれだった。

「あと十年もすれば制定して百年になるからね」

 ケイくんは笑った。

「僕は、小さい頃から、お祖父さんたちの残した日記や記録を読んで育ってきた。それこそ、尊厳死法が制定される前の時代のものも残っているから、百年以上前の当時の日記なんかも、絵本代わりに暗記するほど読んだよ」

僕は将来、尊厳死制度や、人権制度に関わる、法務省に務める人間になるよ

 ケイくんは言った。

 私は、素直な心でその言葉を聞いて「そうなるだろうね」と答えた。

 その答えは、ケイくんをとても満足させたようだった。

 私とケイくんは付き合うことになった。

 最初、私はお付き合いを断った。どう考えても、私は将来結婚をするのならば、良い物件ではないからだ。ぼんやりした言葉で断るのも悪いと思って、私はケイくんに子宮がないことを伝えた。最近手術を終えたばかりだということも。

 ケイくんは笑った。

「僕は誰とも結婚をするつもりはないよ。生涯ね。子供も必要ない。ちゃんと自分が生きるための資金は自分で稼ぐし、納税もするし、三十五歳で死ぬ予定だ」

 あまりにもサッパリした言い分だった。

「跡継ぎを、作らなくても良いの?」

 私は、歴々代々続いているケイくんの家柄を考えていった。

 ケイくんは「こんな世界に、自分の子供を産み落としたいと思う?」と言った。これもまた、当然みたいなサッパリした言い方だった。

「僕は自分のパートナーや子供を、税金対策の道具みたいに扱うのは嫌だ。そういう制度はもちろん必要だと思うから、あるべきだと思うけれど、それはあくまでも、お金を満足には稼げない人のためのものだ。自分で自分が生きるだけのお金を稼げるのであれば、別に税金対策なんて必要ないし、結婚もしなくて良いし、子供だっていなくて良い。でも生涯ひとりでいるのは寂しいし、気の合うパートナーは欲しい。これって僕のワガママかな?」

 最後の言葉は、小さな子供のようなあどけなさが含まれていた。

 首を傾げながら、ケイくんは本気で「ワガママかもしれない。でもそう思うんだけど、どうだろう?」みたいな目で私を見てくる。

 私は、そういう人間らしくて、決して高圧的にならないところが、とても好きだと思った。

「人によってはワガママと思うかもしれないけれど、私はケイくんが可愛く思えるよ」

 と私は答えた。ケイくんは少し恥ずかしそうな顔をして「ハルミさんはフラットな意見を持っていて、なんだか姉さんみたいだ」と言った。

 彼には三歳年上の姉がいる。彼は自他共に認めるシスコンだ。

 ずっと付き合っている私から見ても、本当に重度のシスコンだと思う。

 私は内心、ケイくんが誰とも結婚をしないのは、お姉さんがいるからだと思っている。

 彼が心の底から、世界で一番好きなのは、きっとお姉さんなのだ。けれど、ばっちり血が繋がっているから結婚はできない。その上、お姉さんはケイくんに、ちっとも興味がない。私は、何度かお姉さんに会ったことがあるけれど、ケイくんをそのまま女の人にしたみたいに、そっくりだった。性格はケイくんを十倍以上サッパリさせたような、男気のある人で、気持ちが良い。

 私はケイくんだけでなくお姉さんのことも、それなりに好きだと思う。

 出会って、付き合うようになって、ケイくんは私に尊厳死制度について、沢山のことを話して聞かせてくれた。

 尊厳死制度を制定した時のケイくんの曾曾曾お祖父さんは、当時二十五歳あたりだったらしい。法務省からの出身だったが、歴代最年少で総理大臣になった。

「当時は急激に温暖化も進んでいて、今よりずっと環境問題が深刻だったんだ。今でも深刻だけれど、世界各国の取り組みによって温暖化のスピードは格段に落ちてる。改善の方向にまではいっていないけれど、当時よりはずっとマシになってるんだ。そこには、尊厳死制度も大きく関わっているんだよ」

 環境問題を引き起こしたのは、どう考えても人間だ。環境破壊に歯止めをかけるためには、人間を物理的に減らすのが良いとケイくんのご先祖は考えた。

「けど、急に人間を減らすことなんて、到底できない。当たり前だ。そんなの、国民が黙っているわけがない。それまで散々、人の命の大切さなんてものを道徳として教えてきたんだ。戦争時代の反動でね。戦争してた頃はさ、赤紙なんか出して国のために命を捧げよ! みたいなことを言っていたくせに、戦争が終わってからしばらくしたら、今度は命を大切にしましょうって教えはじめる。教育の責任は重大だよね」

 私たちは、大学で授業を受け、放課後にファーストフード店でデートを重ねた。デート中は、甘い恋人同士の雰囲気というよりも、ケイくんの講義を受けているような気分だった。でも、私にとっては、それがとても楽しかった。

「そういえば、歴史の授業を思い返しても、戦国時代なんかはよく切腹したりすることがあるよね。そんなことで死ななくても良いのになぁって思うようなところで、責任を取って自害したり。あと、結構簡単に打ち首にしたりとかもしていたね。昔の日本人って、そういう、なんか、死ぬことに対してハードルが低いのかしら? 切腹も首切りも、どう考えても痛そうだし、私にはそういう勇気はないなぁ」

 私が言うと、ケイくんは「そうだねぇ」と深く頷いた。

「そういうのも、時代というか、教育というか……思い込みみたいなところも多いんだろうね。実際、今の世の中、尊厳死が当たり前だけれど、百年前はそうじゃなかった。平均寿命なんて、八十歳以上。百歳を超えたお婆ちゃんお爺ちゃんとかが沢山いたんだよ。信じられる?」

 ケイくんは、男の子らしいふざけ方で「ゾンビの王国みたい」と言った。

 私も想像してみる。すれ違う人、すれ違う人、みんなお年寄りな世界。

 病院が老人で溢れかえっていて、入院している人が沢山いる。

 加齢によって生活に不自由が出てきた人たちを介助するのは、気力にも体力にも満ち溢れている若い世代。

 本当は、もっと別の分野で輝けていただろう頭脳が、慈愛とか優しさとか正義感とか義務感とか、そういう柔らかい気持ちの上で、本来の力を発揮できずに衰えていく。

 私は、優しさや思いやりの気持ちを、無駄だとは思わない。けれど、若い人たちの力を、誰かの介助だけに使うのは少し勿体ないような気がしてしまうのも事実だ。

「政府も最初は、AI技術なんかを使って、ロボットを活用することで老人たちの介護の人手を増やそうとしたけれどね。やっぱり莫大な資金がかかるし、あんまりにも国民全員が長生きだと、不都合なことも多いって気が付いたんだ」

 ケイくんは、まるでその時代を自分が生きてきたかのように言った。

「それも、当時の日記に書いてあったの?」

 私が質問すると、ケイくんは私の目を見た。目の真ん中が、ギラギラと光っている。

「国民はバカじゃない。急に尊厳死制度なんか持ち出したら、拒絶反応を起こされるに決まっている。生命は尊い、大切にしなくてはいけないと学んできた時代の人たちだ。下手な発言をしたら、一瞬で政治家人生どころか、個人的な信頼とかも怪しくなるよね。軽蔑されるし」

 だからこそ、少しずつ改革を進めていく必要があったとケイくんは語った。

 まず、重い病気と戦っている人たちに対しての尊厳死を認めた。当時は、尊厳死に至るまで様々なカウンセリングがあり、手続きも煩雑、代金も高額だった。それでも、余命宣告がされているような病を患っている人たちや、その家族から尊厳死は緩やかに受け入れられた。

 社会全体に、尊厳死という制度が穏やかに浸透した後、この国は、今度は老人たちに尊厳死をする権利を与えることにした。

 もちろん、希望する人に対してのみだ。こちらもカウンセリングに多くの時間を割く。

 パートナーを先に亡くしてひとりになってしまった老人。

 元々独身で、収入は国からの援助金のみという暮らしをしている老人。

 また、自然災害などで心に大きな傷を負ってしまい、生きる気力を失ってしまった老人。

 そういう国民に対して、特別に尊厳死という選択肢を与えることにした。

 次に国が行ったのは、国民に対する税金を少しずつ重くするという政策だ。特に若者世代に重税を課した。働き盛りの人たちに対して、高齢者世代のために多くの税金を支払って貰う。

 若者は、働けど働けど、暮らしが楽にならない。

 高齢者は、若い層が多額の納税をしている分、豊かになった。国からの支給金だけでも暮らしに少しばかりの余裕が出るようになったのだ。

 また、若者の働き口を確保するために、企業は高齢者の雇用をしぶるようになった。そもそも、高齢者側も支給金だけでゆとりが出るような時代だったから、働きたいと思う人も少なかったのだろう。

 AI技術の発達によって、時代の変化に取り残されがちな高齢者の働き口が少なくなってきたというのも理由のひとつだ。最新技術についていけるだけの頭がないと、働けない時代だった。丁度時代の転換期とも言える時期だったのだろう。

 いよいよ若者の国に対する不信や不満が大きくなってきたころに、結婚して世帯を持っている人に対しては、減税をするという制度を導入した。

 重税に喘いでいる若い世代は、どうにか結婚をしようと、結婚ブームが起こった。

 続いて、子供を産み育てる場合には、子育て資金の全てを国が負担するという政策に乗り出す。税金に関しても、子供がいる家庭は、ほぼ免除とした。

 結婚ブームに次いで、ベビーブームが起こる。

 子育て支援の充実により、子供たちの教育の場が潤沢になり、賢い子供たちがどんどんと育つ。

 家庭を持ち、子供を持ち、税金を免除される割合が増えると、今度は反対に、高齢者や独身者への支援が手薄になっていく。

 高齢者は、働き口もなく、政府からの支援金も年々少なくなっていく。独身者も、働いても働いても暮らしが楽にならない。

 これでは生きてはいけないとなった時、尊厳死のハードルを一気に下げた。成人以上の年齢で、最低三万あれば誰でも楽に人生を終えることができるようになった。

 その頃にはシレッと医療費も値上がりを続けていて、病院にかかるよりも尊厳死を選ぶ方が簡単になっていた。

 尊厳死を実行するにあたっての医療事故も、尊厳死法が成立した最初の数年に数件ほどあっただけで、人々の尊厳死に対する恐怖心は芽生えなかった。

 どうやら人間は人間を殺すのが得意らしい。

 そうやって、いくつもの仕掛けを長年かけて発動させて、政府は現状をつくり出した。

 改善改善していっているように見せかけて、または尤もらしい理由をつけて仕方なし仕方なしと見せかけて、ジリジリと焦らず、時間をかけて、この国はついに「尊厳死法」を国民たちの中の「常識」に仕立てあげたのだった。

 ケイくんの話してくれた内容で、私が理解し得たのは、この程度の知識が限界だった。私はAI技術の発展には興味関心が深いけれど、政治に関しては、どちらかと言えば不得手なのだ。


「そうまでしてこの国が成したかったことって、なんなのかしら?」

 単純に疑問だった。

 今の世の中で、尊厳死法が一般的なのは事実だ。

 私はそこまで政治政策に興味があるタイプでもないので、その事実に対して特に深い考えを持っていない。

 生き辛いなと思ったり、税金高いなと思ったりすることはある。

 いつ死ぬ予定? なんて聞かれると、ギョッとしてしまうこともある。

 でもまぁ、そういう時代なんだなという理解だ。

 しかし、理由がわからない。そこまでして、この国の政府は、何を目指したかったのか。

「合法的に人口を減らしたかったんだよ」

 ケイくんは言った。

 私は、その言葉をすんなりと飲み込めた自分がいることに驚いた。

 人口を減らしたかったという理由が、とても正当なものに思えた。

「ちょっと子供っぽい考え方だけどさ、人が増えれば考え方の違う人も増える。人が増えると、争いも増える。それって良くないことだと僕は思うんだ。でも、人が多いっていうことは、それだけで国力になる場合があるね。戦国時代とか、そうだよね。人数が多い方が勝ったりする。この国は、人数を減らす代わりに、有能な人間を育てることに舵を切ったんだ。老人よりも子供の数を多くして、子供たちに十分すぎるほどの教育をする。そして、良い年齢まで生きたら、自主的かつ安らかにこの世から退場してもらう。そうやって、国の力を世界に示した」

 我が国は、世界でも先進国に数えられている。

 尊厳死が制度として成り立っているという理由だけで、我が国の国籍を取得したいと猛勉強をしてやってくる外国人もいるくらいだ。

 我が国の国籍を取得するのには、かなりハイレベルな試験に合格する必要がある。それでも、自然死よりも尊厳死の権利を得たいと思う人もいるようだ。

 未だに世界を見渡せば、尊厳死よりも自然死の方が主流傾向にある。

 宗教上の観点からも、尊厳死は自害と同等とされることもあるのだ。

 その点でも、我が国は無宗教国家であったから、やりやすかったのだろうと思う。

 ケイくんと私は、決して常に気が合うというわけではなかった。

 今だってそうだ。ケイくんが私のことを「ハルミ」と呼び捨てにするようになっても、一緒に住むようになっても、ケイくんが法務省に務めて「我が国民は死の恐怖に打ち勝ったのだ」と力強く発言をするようになっても、私たちは、そこまで深く絆を結び合っているわけではないように思える。

 それでも何かに惹かれて、一緒にいる。

 その「何か」という部分が、私にとってはおそらく「正気」という意味合いだと思う。

 ケイくんは、どんなに私と違う意見を述べている時でも、正気だと思う。

 その、正気であるところが、私を安心させる。

 ケイくんは、私が結婚しないことも、子供を産まないことも、産めないことも、子宮を全摘出したことも、両親が自然派であることも、全部否定しないし、理論的に「そういう人もいるよ」と言ってくれる。

 その言葉が、優しさから紡がれているのではなく、彼が「正気」であるから紡がれているのだと私には思える。

 彼は、論理的に合理的に考えて「尊厳死」を良しとしている。

 けれど、彼自身だけの意見で、純粋に、子供みたいに、なんの気負いもなく、正直に言って良いとするならば。

 彼は、政治を担う誰よりも正気であると私は思う。

 生命の、命の、生きることの大切さを、理屈ではない尊さを、彼は理解しているし、唯一無二であることもわかっている。

 わかっているのに、彼は感情よりも、理論を取る。

 一緒に暮らしている私の前でさえ、その姿勢を崩さない。

 覚悟を決めている。自分の立場を、役割を、貫き通す覚悟を。

 私は、きっとケイくんのそういうところを、死ぬほど信用している。

 ケイくんの為なら死んでも良いかもなぁと思えるほど、信用している。


 *ソラ*

 僕の目の前で、サツキさんはどんどん赤い顔になっていって、最後にはソファーに布みたいに寝そべってしまった。

 もちろん、横に座っていた僕は、丁寧に退けられた。

「ソラー、水もってきてー水ー」

「……めんどくさいなぁ」

 僕は思わず呟いた。死ぬ前のお母さんもよくお酒を飲んでいたけれど、こういう面倒くさい感じにはならなかった。

 お父さんは、酔っぱらうとこういう感じだったから、サツキさんはオッサンぽいということだ。

 僕は、キッチンフロアの隅っこにある大きな冷蔵庫を覗いた。

 冷蔵庫の中は、かなりキッチリと整理されていた。お店で売っている時みたいに食材が並んで冷やされている。

 僕はそれを見て、偽物っぽいと思った。作り物っぽい。

 ウチの冷蔵庫は、もっとゴチャゴチャしていた。

 生きている感じがした。

 ミネラルウォーターのペットボトルがあったので、ソファーに持って行った。ミネラルウォーターを買えるなんて、やっぱりサッカー選手の家はお金持ちなんだなぁと思う。

 この国の水はきれいだ。蛇口をひねれば、飲める水が出てくるのは、本当にすごいことだと学校の先生が言っていた。

 僕が水を差し出すと、サツキさんはペットボトルに口をつけて飲んだ。

 飲み方が下手くそで、口の端からボタボタ垂れている。

「あー、普段こういう飲み方しないからダメだね」

 サツキさんは笑った。

「寝転がっていたら、誰でもそうなるよ」

 僕がフォローすると、サツキさんは僕の頭を真顔でポンポンと撫でた。

 酔っぱらいには、無抵抗でいることが一番良い。

 僕は黙ってされるままになる。

「ねぇ、さっきも聞いたけどさ。ソラの家族はなんで死んだのさ」

 サツキさんが言った。

「教えてよ。同情させて。どうせアンタ、明日には死ぬんでしょ?」

 ぶっきらぼうで、投げやりな感じでサツキさんは言った。

 僕は、サツキさんの放つ空気にあてられて、自分まで投げやりな気持ちになった。そうだ、どうせ明日になれば、僕は尊厳死の手続きをする。

 明日が僕の命日になる。

「僕、弟がいたんだ。ウミっていうんだけど、九歳も年下だった。すごくかわいかった」

 僕は、お父さんやお母さんの顔より、ウミの顔の方がよく覚えている気がする。

 ベッドに寝ころんだまま、ジッと僕を見る目は、大きくて、丸くて、キラキラしていて、かわいいなぁといつも思っていた。

 僕が頭を撫でたり、手を握ったりすると、ウミは目を少し細めて、口を少し開けて「はっはっ」と小さな声を出して笑った。

「ソラはお兄ちゃんだったんだ。だからしっかりしてるんだね」

「僕がしっかりしてるんじゃなくて、今のサツキさんがだらしないだけだよ」

「あたしだって、普段はちゃんとしてる。でも、ちゃんとするのって疲れちゃうことあるんだもん」

 サツキさんは、のそのそとソファーの上に起きあがって、今度は上手にペットボトルを傾けた。

「弟も死んじゃったの?」

「うん。お母さんと一緒に。僕はお父さんと残されて、でもお父さんも、そのうち死んじゃった」

 僕は、お父さんが死んでからしばらくは施設にいたけれど、なんだか全部がどうでもよくなってしまって、今日、役所に行ったのだ。

 両親ともに死んでいる場合は、二十歳未満でも自らの考えで尊厳死を選ぶことができる。

「結婚して、子供二人もいて、順風満帆じゃん。なんでソラのお母さん死んじゃったんだろうね」

 サツキさんは首を傾げた。

「……ウミが、産まれたときから、脳に障害があったからだと思う」

 僕はサツキさんの家の床を見つめて、それから暗くなりつつある窓の外を見つめて、言った。

「お母さんがすごく大きい会社で仕事してたから、お金には困ってなかったし、治療費も薬代も、手術するならそのお金も、全部国からの援助があったけど、脳味噌って難しいんだって。まだわかってないことが沢山あって、お金があっても、医学的に、治すのは難しいって言われた」

 ウミが産まれた日のことを、僕は覚えている。

 お兄ちゃんになるんだというワクワクした気持ちと、説明できないイライラした気持ちと、これから先には何が起こるんだろうというソワソワした気持ちで忙しかった。

 けれど、お母さんがウミを産むのは大変なことだったらしい。僕の時は、スムーズに産めたのに、ウミの時は大変だったそうだ。

 産まれてきたウミは、すぐに集中治療室みたいなところに連れて行かれてしまった。

 頭の部分が変形して産まれてしまって、すぐに処置が必要だった。

 ウミもお母さんも、命に別状はなかったけれど、ウミを育てるのは、本当に大変なことだった。

 お母さんだけでは、とても無理で、僕もいろんなことを手伝った。

 お父さんは、何もしなかった。見てもいなかった。

 お父さんは、ウミが普通に産まれなかったことが、ものすごくショックだったらしい。衝撃的だったらしい。それで、心がビックリしたまま、現実を見るのをやめてしまったらしい。

 僕は、お父さんのそういう気持ちが、全然理解できなかった。

 ウミは可愛かった。僕の弟。お母さんもウミのことを「かわいいねぇ」と言って笑っていた。

 ウミは、お喋りも出来なかったし、立って歩くこともできなかった。

 でも、僕の指をキュッと握ったり、「あー」とか「うー」とかだったら、言うことができた。

 本当に小さい頃は、呼吸器が必要だったけれど、四歳くらいになったら、それも必要なくなった。喉のところに、人工の機械を取り付ける手術をしたら、自分で呼吸が出来るようになったのだ。

 ウミは耳がとても良かった。僕の声と、お母さんの声を、ちゃんと聞き分けた。

 お母さんが来ると、ちょっと甘えた顔をするし、僕と二人きりだとちょっと生意気な顔をした。それも僕は可愛いと感じていた。

 ウミが五歳になった時くらいから、毎日のように、お母さんはお父さんと喧嘩をした。

 お母さんは、お父さんに「働いて欲しい」と一生懸命言っていた。

「なに、ソラのお父さん、ヒモだったの」

「ヒモって、なんだっけ。聞いたことあるけど」

 僕が質問すると、サツキさんは少し唸った後で、

「女の人に生活費を稼いで貰って、自分は働かないで生きてる人……? 無職で、なにもしてないって感じの男の人のこと」

 と言った。サツキさんも言いながら首を傾げているので、そんなに詳しい意味は知らないのだろう。でも、だいたいの雰囲気は伝わった。

「うん、たぶんヒモの人だった。働いてるところ、見たことないし。結婚してるし、子供もいるし、稼いでくれる嫁もいるし、人生楽勝ーって話してるの、聞いたことある。いつも一緒にお酒飲んでる友達と話してる時だったと思うけど」

 僕は、その時のお父さんの楽しそうな顔を思い出した。幸せそうで、愉快そうで、気楽で、とても死にそうになかったのに。

「ソラのお母さん、なんでそんな人と結婚したんだろう。良い会社に勤めてたなら、もっと良い人と結婚できただろうにね」

「幼なじみなんだって」

 僕は言った。サツキさんは、目を少し大きくしてから「そっか」と呟いた。それなら、仕方ないね、という言い方だった。

 お母さんは、ウミのことをずっと心配していた。

 この国は、子供に対しての支援には手厚いけれど、障害を持っている子は、それでも生きるのにお金がかかる。

 それに、ウミが二十歳を越えた後、どうするのかも問題だった。

 ウミがこの先、大きくなって、誰かと恋をしたり、気があったりして、結婚したり、子供を持ったりすることは、難しいことに思えた。

 仕事をするのも、難しいだろう。

 そうなると、ウミはこの世界でどうやって生きていったら良いのだろうか。ウミは、自分の意思で尊厳死を望むことさえできない。

 僕はお母さんに言った。

 ウミのことは、僕がずっと守るから、大丈夫だよ、と。

 お母さんは、僕がそう言うたびに「頼むね、お兄ちゃん」と言って笑った。

 けれど、夜になるとお母さんは、地を這うような声で唸ったり、頭を抱えたり、時々泣いたりしていた。

「お母さん、せめてなるべくお金を残したいからって、お父さんにも仕事をするように言ったんだけど、お父さんが絶対いやだって聞かなくて。なんども怒鳴りあいの喧嘩をしてた。喧嘩なんてしなくても、僕がウミよりも九年も先に大人になるんだから、僕が稼げば良い話じゃないかって思ったし、喧嘩中に割って入って、大声でそう言ったこともあったんだけど」

「すごいね。ソラ、勇敢じゃん。あたし、怒鳴られたりしたら一瞬で頭の中が真っ白になっちゃうタイプ。大声とか、喧嘩とか、苦手」

「女の人は、それで良いんじゃない?」

 僕が言うと、サツキさんは優しい顔で笑った。

 サツキさんのことを、さっきはオッサンみたいだと思ったけれど、やっぱり撤回する。サツキさんは、お母さんに似ている。

 お母さんとお父さんは、何度も喧嘩をして、お母さんが「離婚する」と言い出したこともあった。

 でも、結婚している方が気楽な世の中だ。お父さんは、絶対に離婚しないと聞かなかった。お父さんは、僕とウミを見て「そもそも、子供のために金を稼ぐなんて、どうかしてる」と言った。

 子供は、出費を抑えるための道具であって、その子供のために金を稼ぐなんて本末転倒だ、と。

 あまりにも鬼気迫る様子で熱弁していたので、僕は一瞬だけ「なるほど」と思ってしまったくらいだ。僕にもお父さんの血が半分流れているので、うっかりすると、ヒモになりかねない性質があるのかもしれない。

 お母さんとお父さんは、何度も喧嘩をして、ウミが六歳になった時、とうとうお母さんがウミを連れて出て行った。

 置き手紙に「ウミのことは私が連れて行きます。ソラのことをお願いします」と書かれていて、その後に「私とウミは、尊厳死を選びます」と震える字で書いてあった。

 お母さんは字がとてもキレイだったのに、最後の手紙の字は、ヨレヨレだった。

 後日、家にお母さんとウミの遺灰が少し送られてきた。お母さんが尊厳死をする前に、遺灰は少しだけ家に送って欲しいと希望したそうだ。

 お父さんは僕に「本当に死んだんだ……」と言った。

 そこからは、お父さんのお酒を飲む後ろ姿しか見ていない。

 お母さんたちがいなくなって、一年くらい経った時、お父さんが「もう全部面倒くさい」と言った。僕の顔を見て「アイツが産まれてから、全部おかしくなったよな」と同意を求めた。僕にはウミが産まれてから死ぬまで、楽しかった記憶しかない。

「お前だけにしておけば良かったなぁ」

 お父さんは言った。そして、僕の頭を撫でた。

「父さんも、明日役所行くわ。死ぬことにする。とりあえず、金はいくらか残ってるし、お前も自由にしろ」

 僕は、その時、本当に久しぶりにお父さんと会話をしたのだ。僕にとってお父さんは、ほとんどよく知らないオジサンだった。

 次の日、朝起きたらお父さんはいなかった。

 僕は学校に行き、帰ってきて自分で食事をして、眠って、また学校に行った。

 しばらくすると、役所の人が来て、僕を施設へ連れて行ってくれた。

 施設は快適で、食事も出てくるし、個人の部屋も清潔で広かった。

 お世話をしてくれる人もみんな優しかった。

 学校も普通に通って、穏やかな日々が続いた。

「良かったじゃん。なんで死のうとしてるの。不自由ないじゃん」

 サツキさんが言った。僕は笑ってしまった。

「え、あたしなんか可笑しいこと言った?」

 僕は首を振る。

「なんだろう。わからないんだけど……毎日が穏やかで、なんにも問題なく過ぎていけばいくほど、無理だと思うようになったんだ。もう無理だって、この世界には、もう何にもないって。生きている意味がなんにもなくて、世界中が真っ白に見え始めて、これ以上は生きたくないって心の全部が言ってる感じなんだ。施設じゃなく、ひとりで、お母さんもウミも、お父さんもいなくなった家で生きてた時は、なんか心がツーってなってて、頭も回ってなくて、だけどその分、死のうかなってことは、あんまり考えてなかった」

 施設で暮らしてからは、頭も回るようになった。

 僕は、尊厳死について深く調べたし、お母さんやお父さんのことを、自分勝手だと思うようになった。

 勝手に死んでしまった人たちを、恨めしく思ったりもした。

 ウミのことまで連れていってしまったことも、酷いと思った。

 お母さんはきっと、僕のことを思って、僕の負担を考えて、ウミを連れていったんだとわかっている。

 つまり、僕は信用されていなかったのだ。僕がウミを守ると言ったのに、信用してもらえていなかった。

 僕が苦労をするかもしれないから、とか。そういうのはキレイゴトだ。

 僕の苦労は、他でもない僕のものだ。

 僕は苦労をしてでも、ウミと一緒だったら生きていけた。少なくとも、生きていこうという気持ちでいられた。

 サツキさんは「好きな人には、死んで欲しくない」と言った。

 その気持ちが、僕にはよくわかる。

「尊厳死がなかった時代って、自殺する人がすごく多かったんだって。サツキさん、知ってる?」

 僕は言った。

 誰でも気軽に尊厳死できる時代なのだから、わざわざ自殺する必要なんてない。苦しまなくても死ぬのは簡単だ。

「僕のお母さんは、昔風の言葉で言うと、一家心中みたいなことをしたんだと思う。楽な方法で、合法的に。それで、残されたお父さんが、収入ゼロになっちゃったから、仕方なく働き始めて……それで僕と一緒に、それなりに生きていくことを望んだんだと思う」

 でも、と僕は続ける。

「でも、詰めが甘いよね。なんでお父さんも死ぬかもしれないって考えなかったんだろう。どうせだったらさ、お母さんが、本当に自殺してたら、お父さんも僕も死ねなくなってたかもしれないのに」

 サツキさんが、ゆっくりと瞬きをした。

「なにそれ、どういう意味?」

 僕は、尊厳死について調べながら、この国の法律についても勉強した。

「誰かのせいで、誰かが死んだら、それって殺人ってことになるでしょ?」

 僕が言うと、サツキさんは「そうだね」と言った。

 近年、殺人事件なんて、聞いたことがない。

「自殺だって、遺書を残したら殺人になるんじゃないの? 例えば、僕とお父さんに暴力をふるわれていて、そんな日々に耐えきれず、私は自殺します、とか書いた遺書を残して、それで、尊厳死じゃなくて、自殺するんだ。そしたら、警察が来て、これは事件だって調べて、遺書が残ってるからってことで、僕とお父さんは犯罪者になる」

 犯罪者には、尊厳死をする権利がない。

 犯罪者になれば、死ねなくなるのだ。

 自分が本当に死ぬ時まで、生きなくてはいけなくなる。

 この国は、一度罪を犯したら、基本的には終身刑だ。刑務所の中で、自然に死が訪れるまで生きる。

 そんな自分の運命に耐えきれず、刑務所の中で自殺する人は、結構多いと聞くけれど、お父さんにそういう勇気はなかったと思う。楽に死ねるから死んだのだ。苦しんで痛い思いをしなくてはいけなかったら、きっとお父さんは死なない。

 僕もそうだ。苦しまずに死ねる保障があるから、死ぬことを選ぶ。

「ウミは暴力なんてふるえないから、無罪だ。きっと施設の人がウミを保護して大事に育ててくれる。ウミは寂しいかもしれないけど……」

 そこだけが、心に痛い。

 僕は、ウミに会いたい。

 死んだら、会えるだろうか。そういう宗教も、昔は流行っていたらしい。

「ソラ、あんた、めちゃくちゃ頭良いね」

 サツキさんが言った。

「あたし、ずっと死にたかったのかもしれない。でも、意味もなく死ぬのなんて、勿体ない。死に甲斐がなきゃ、意味ないじゃんね」

「急にどうしたの……?」

 僕はサツキさんが何を思ったのか、全然わからない。ただ、サツキさんは、ひとりきりで世界に立っているような顔で言った。小声で、誰に聞かせるでもない音みたいな声で。

「ソラ、あたし、あんたに会えて、良かった」

 サツキさんの目が、まるでウミの目のように、黒々と輝いていた。


 *マサミチ*

 日付が変わるのを、私はぼんやり見つめていた。

 誕生日を迎えるほどに、絶望的な気分が上塗りされはじめたのは、いつからだったろう。

 私は、今日をもって六十二歳となった。

 小さい頃から、母によく言われていた。

「マサミチ、あんたは本当になんというか……ボゥっとしているところがあるから。心配だよ。あんたが、人様が普通に歩む流れから外れてしまうんじゃないかって」

 私は結局、母の心配する通りの人生を歩んでいる。

 この年齢にもなると、ただ表を歩いているだけで、チラリチラリと好奇の目を向けられる。それもそうだと思う。平均寿命が五十歳やそこらのこの国で、六十を超えた私は仙人か何かのように見えるのだろう。

 特に若作りができるタイプの顔立ちでもなく、残念ながら実年齢よりも上に見られることの方が多い。

 昨日、とうとう勤めていた病院もクビになった。

 大学を卒業してからずっと勤めていた病院だったけれど、今年三十歳になる病院長に「これ以上はもう……」と頭を下げられた。本当に申し訳ないことをしたと自分でも思う。

 自分の息子ほどの年齢の同僚にも「先生、本当に言い辛いことですが、もうご自身の終幕について考えるべきでは……」と言われてしまった。

 私が勤めているせいで、病院は「幽霊院」なんていうあだ名で呼ばれるようになってしまった。

 おまけに、私は長いこと医療に携わっているせいか、自分で言うのもなんだが、それなりに腕が良い。単に経験値が高いというだけの話ではあるけれど、手術慣れもしているし、最新医療機器の取り扱いにも、まだまだ対応できるだけの頭はある。そのせいで、病院側が私に出さなくてはいけない人件費というのが、結構高いのである。

 若い頃に一度、国の「名誉医療師」などという称号を得てしまったのもマズかった。名誉医療師の給金というのは、国から定められていて、それ以下の給金であった場合、訴訟を起こすことも可能となってしまう。

 もちろん、私は給金が減っても良い、訴えるなんてこともしないから、どうかもう少し働かせてくれないかと粘ってみた。粘って、粘って、六十二歳まで。いや、六十一歳までか。もう、これ以上は子供のワガママのようになってしまうと思ったし、正直私も、限界だった。

 職場中の人たちから、面倒くさそうな視線を受け、新規の患者からは怯えたような顔をされ、通院している患者からも「いつまでいるんだ?」みたいな顔をされる。

 五十五歳を過ぎたころから、私に話しかけてくる同僚も、滅多にいなくなった。

 みんな、心優しく、良い人たちばかりであった。だからもう、ここまでだな、と腹をくくったのだ。

「今日から無職か……」

 今まで、仕事だけをコツコツとこなして、特に趣味なども持たずに生きてきた。医者という職業は、それなりに儲かるので、貯金はある。

 大金持ちということはないけれど、小金持ちくらいの感覚ではある。

「さて……今日からどうしようかな……」

 深夜にひとり、ベッドに潜りながら考える。

 夜は静かで、その静けさはいつも私を落ち着かせてくれる。

 誰もいない、静かな夜。

 誰も私を糾弾しない。

(生きることは……罪だろうか……)

 私は、小さい頃から疑問に思ってきた。

 この国では、短く濃く生きることが良しとされ、長く生きることは罪とされる傾向にある。長く生きれば生きるほど、生活が辛くなるようなシステムが根付いていて、おまけに終焉たる死へのハードルがカステラ一斤の高さよりも低い。

(朝がきたら、カステラでも買いに行こうか……)

 せっかくの誕生日なのだ。カステラをケーキと呼ぶのかは別として、なんだかそういう気配のあるものを食べるのも悪くないと思う。

(一斤買うのは無駄遣いだな。どうせ食べるのは私だけだ……)

 カステラ一斤だと、おそらく一万くらいはするだろう。小分けで買えば、一切れ二千くらいで買えるはずだ。

 それでも、嗜好品にそれだけの金を出すのは贅沢に思える。贅沢をするのは、気持ちが良いと私は思う。こういう思考も、世の中的には悪なのだろう。

 昔、おそらく小学校の高学年になったころだ。

 学校の先生から「具体的な人生の設計図をつくりましょう」という宿題を出された。

 真っ白な紙に、自分が通いたい学校、将来何になりたいのか、どういう功績を残したいのか、そして、何歳で人生を終えるつもりなのかを書く。

「自分のお父さんお母さんの年齢から逆算して考えてみましょう」

 自分の父母が、あとどのくらいで死ぬのかを計算して、親がいるうちにやれることをやろうと先生は言った。

「お家で、お父さんお母さんに、実際に聞いてみるのも良いでしょう」

 と先生は言った。聞いてみる、何をだ? 私は思った。

「お父さんお母さんが何歳で死ぬ予定なのか、聞いておくと自分の人生設計もスムーズに書けます。お父さんお母さんが、まだ何歳で死ぬ予定かを決めていなかった場合には、なるべく早く決めてもらえるようにお願いしましょう」

 先生は、無表情で言っていた。教室はシンとしていて、誰も何も言わなかった。

(私は、あの宿題は、出せたのだっけかな……)

 随分と苦労をして書いたことだけは覚えている。

 私の父母は、人生設計をキチンと定めている人たちだった。

 私が持って帰ってきた宿題を見て、両親は自分たちが死ぬ予定を、私が聞くよりも先に教えてくれた。

「しっかり人生のプランを立てなさいね。これはとても大事なことだからね」

 私には、六歳も上の兄がいた。私は、兄にも手伝ってもらって、一生懸命に宿題をした。私は、そのころから「医者になりたい」という気持ちだけは持っていた。

 両親にも、兄にも言えなかったけれど、私は幼い頃からぼんやりと「生きる」ということは、末永く続けても良いものではないか、年を取れば取ったなりに、役割もあるし、楽しみもあるのではないか、と思っていた。

 だから、人の命を助ける「生存医療」の医者になりたかった。今思えば、あの頃は、生きるために必要な資金の全てを両親に出して貰っていたし、生き抜いていくことの大変さというものを、ちっとも実感として理解していなかったのだと思う。

 宿題を前に、私が「お医者さんになりたい」と言ったら、兄は大いに良い顔をして「それはいいな!」と言った。

 兄はすぐに父母のところへ行って、

「父さん、母さん、マサミチは医者になりたいんだって!」

 と、大きな声で報告した。私は、あまり褒められる機会のない子供だったので、嬉しいやら恥ずかしいやらで顔を赤らめた。

 父も母も、まだ小学生の私の夢に喜んでくれた。しかし、ひとつだけ勘違いがあった。父母、そして兄は、私が「終末医療」の医者になることを前提としていたのだ。

 終末医療、つまり、尊厳死を執行する医者のことだ。

 尊厳死の受付を済ませた患者を、苦しませずに絶命させるのが終末医療の役割で、この分野の医師はいつだって人を募集している。

 対する生存医療というのは、金持ちのための悪徳医と呼ばれがちな職業だ。

 生存医療、つまり人を生かすための治療をする医者。

 頭が真っ白になるほど医療費が高いこの国では、医学的な治療を受けられるのは、大金持ち、ブルジョワジーだけだ。

 現実に、世の中の平均寿命が五十歳から五十五歳なのに対し、ブルジョワ層だけでの平均寿命は、およそ八十歳から九十歳である。

 そうした大金持ちたちは、都心から離れた静かな高級住宅街で、宮殿のように広い家に住み、滅多に都市部にはやって来ない。

 都市部は、働かないと食べていけない人々のための場所であり、優雅に文化や芸術を楽しみながら、生きること自体を楽しむような人たちの場所ではないのである。

(どうせなら私も、そのくらいの金持ちだったら……こんなに目立つことも、肩身の狭い思いをすることも……後ろめたい気持ちになることもなかったろうになぁ……)

 私の患者は、主にそういったブルジョワ層の住民だ。

 法外な治療費を躊躇いなく支払って、処置を受ける。

 私は若いころに、この国で五本の指に入るだろう大金持ちの奥様のガン治療を成功させた。旦那様は政治関係者で、妻を助けてくれた恩人として、私は国の「名誉医療師」の称号を賜った。

 誇らしいと思った。私自身は、とても誇らしい気持ちだった。

 けれど、そのことを褒めてくれる人は誰もいなかったし、なんならその事実については「口にしない方が身のため」という類のものだった。

 生存医療で名誉を貰うことは、すなわち、ブルジョワ層との癒着がある、大金を貰って金持ちを贔屓している医者、小判鮫、ハイエナ、金の亡者、そういう扱いになるということだった。

 生きることは、生かすことは、そんなに悪いことだろうか。

 そりゃぁ、確かに、医療が平等でない以上、えこ贔屓のように見られるのは仕方ないかもしれない。

 でも、命は命だ。たったひとつしかない命だ。

 それを守るため、たゆまず勉強をし、手術の腕を磨き、最新機器の扱いを習得する。

 なにがそんなに、いけないことなんだろう。

 私は、六十年以上生きているのに、その答えが見つけられない。

(全然、眠たくならないな……)

 私は、ベッドの中で何度も寝返りを打つ。

 妻が生きていた時に買ったベッドなので、一人寝にはかなり広い。

 妻は、彼女が五十歳になった年に尊厳死した。

 彼女とは、研修医時代、一時的に勤務をした病院で知り合った。彼女は私の二歳年上で、そこの病院の終末医療看護師だった。

 出会ったころ、たまたま昼休憩ではち合わせた。

 軽く会釈をしつつ、なんとなく一緒に昼食を取った。

 彼女は言った。

「生存医療の現場って、実際にはどんなところですか?」

 私は、研修医の時分から、己の仕事に誇りを持っていた。けれど、その誇りを全面に出すと引かれてしまうことも十分に理解していたので、曖昧に笑って誤魔化した。

 けれど、彼女は食い下がってきた。いろいろな角度から、生存医療の現場について質問を繰り返し、私の仕事を知りたがった。

 そして、自分の働く終末医療の現場についても語った。

 毎日、人の命の灯火を、フッと吹き消していく仕事。

 尊厳死に使用される薬は、人それぞれ量も種類も違う。

 身長体重持病の有無。その人に合った薬を調合する。

「もうだいたいのところ、調合比率は決まっているので、そこで悩んだり大変だったりすることは、ほとんどないんですけどね。今は錠剤が一般的だし」

 彼女は苦笑した。

「でも、もしこの薬で、患者さんが安らかに死ねなかったらどうしようって、いつも頭を過ぎります。もし少しでも苦しみがあったらどうしようって。だから、確実に心停止させないといけない。確実に。苦しみなく、安らかに」

 彼女の顔には、ある種の迫力があった。己の仕事を全力で、力一杯やっている人の顔に見えた。その表情は、万の言葉よりも信用に足るものだと私は思った。

 彼女ならば、生存医療の現場のありのままの姿を、聞いてくれるのではないか、私の仕事を軽蔑することなく、同じ医療に携わる者として接してくれるのではないか。

 私は、彼女に生存医療の現場について、おそるおそる話した。

 彼女は、頷き頷き、真剣に話を聞いてくれた。

 その日から、私たちは、よく会うようになった。お互いの日常を、命に関わる日常を、たくさん話した。

 私が研修期間を終えて、自分の勤める病院へと戻る際には、かなり親しくなっていた。

 出会った翌年、私たちは結婚した。そして、息子も産まれた。

 幸せだったと思う。私も妻も医療関係者だったから、息子には惜しみなく金をかけてやれた。後悔はない。とても恵まれた環境で、私は生きてきたと思う。

「幸せ、だったなぁ……」

 思わずポツンと漏れた。独り言だ。誰も聞いていない。

 自分の声であったのに、妙に情けない、切ない気持ちになった。

 鼻の奥の方が、ツンとなって、年甲斐もなく涙が出そうになった。

 昨日、仕事をクビになったことを息子に報告した。

 なんで報告なんてしたのだろうかと思うけれど、家族なのだから、そのくらいの連絡はしても良いかと思った。

 息子は私に「長いこと、お疲れさま」と言ってくれた。

 けれど、同時に「そろそろ、考えてくれるかな」とも言った。

「父さんも、もう明日で六十二、だよね……? 俺ももう、今年で四十になる。妻とも、何歳くらいになったら尊厳死をしようかと話し合っているよ。俺は妻と一緒に、夫婦尊厳死を予定してる。結婚する前から、そういう話は、もうしていたよ」

 息子は、とても話しにくそうにしながら言った。優しい子だ。よく働き、妻となった娘さんをとても大事にしている。

 孫は、女の子ひとり、男の子ひとり。孫たちも、あと数年すれば二十歳になる。

「母さんも、五十で尊厳死した。父さんが生存医療で、とても腕の立つお医者だってことは、よくわかってる。母さんもずっと言ってた。父さんの仕事は、大事な仕事だって。俺もそのことは、良く理解してるつもりだよ? でも、この先、仕事もなくなって、収入もなくて……どうするつもり?」

 息子の声は、どんどん小さくなっていった。

「今すぐなんて言わないよ、でもせめて六十五歳になるまでには決めて貰いたいんだ……父さん、別に自然派っていうわけじゃないんだよね? 俺だって、自然派の人たちを差別したいわけじゃないけど、あれって、やっぱり宗教だなぁって思うし……俺の妻もさ、その……ちょっと、疑っているんだよね、父さんのこと。まさか自然派の人じゃないよね? って……なんていうか、俺も会社での評判っていうか、この年になって、まだ親が生きてるっていうのは外聞が悪いところもあって……少し、恥ずかしい思いもしてる……」

 私は、ただ、穏やかな気持ちで、息子の声を聞いていた。

 息子は「何度も言うけど、今すぐにどうにかって話じゃないんだ、ごめん、誕生日なのに、ごめん」と言った。

 通話を終える時、最後の最後に「ちょっと早いけど、誕生日、おめでとう」とも言ってくれた。

(息子に、恥ずかしい思いまでさせて……俺はどうして生きているんだろうか……)

 ずっと疑問に思っていることを、考える。

 小学校の時に出された宿題でも、結局最後まで「自分が何歳で死ぬか」という事項だけは、書けなかったのを思い出す。やはりあの宿題は提出できていない気がした。

 自分の母親の声が再び蘇った。

「心配だよ。あんたが、人様が普通に歩む流れから外れてしまうんじゃないかって」

 フッと自嘲の息が漏れた。

(正に、普通の流れから、外れてしまっているな……)

 息子は、夫婦で一緒に尊厳死すると言っていた。

(私もそうすれば良かったかな……)

 妻が死ぬと決めた時、彼女は出会った頃と同じような迫力のある顔をしていた。

 一度決めたら、絶対に曲げない、芯の強い人だった。

(自分のことは、全部自分で決めないと気が済まない人だったなぁ……)

 私には、出来過ぎた妻だった。私は、彼女を愛するというよりも、もっと尊敬に近い感情で見つめていた。

 彼女のように、なりたかった。

 なんでもスパッと決められる、いつでも確かな足取りで歩いていける、そういう強い人になりたかった。

(私は、いつでも、なんだかグレーだな……曖昧で、ちっとも腹が据わらない……)

 ぼんやりと、ある意味では「のらりくらり」と生きてきたら、こんな年になっていた。

 都心で暮らしていて、ブルジョワでもなく、なんとなく生き延びていくだけの金もあって、けれど、世間の目はいつでも私に「早く死ねよ」と訴えてくる。

 どこにいても、何をしていても、「なんであの人、まだ生きてるの?」というような顔をされる。

 死ぬのがそんなに嫌ですか? と純粋な疑問を投げかけられたこともある。あの疑問を投げかけたのは、私が五十五歳になった時、息子が紹介してくれた心療内科の医師だったか。いつまでも死なない私を心配して、息子は心療内科を調べてくれた。

 私が死なないのには、なにか原因があるのではないか、と思っての優しい心遣いだった。

 私には、特に理由がない。

 死にたくない理由もないし、死にたい理由もない。

 生きたい理由もないし、生きたくない理由もない。

 なにもない。

 だから、決められない。

 こんな世界に生きていて、苦しくないか? と聞かれれば、それなりに苦しいと答える。

 このまま生きていって、もし病気にかかったり、事故にあったりした時、医療費が払えないんじゃないか? と聞かれれば、そうかもしれないな、と思う。一度きりならなんとか支払えるけれど、通院したり手術したりする金は、おそらくないだろう。治療が長引けば長引くほど、支払いは困難になる。

 そうやって、病気や怪我や事故で死ぬのを待つのは、怖くないですか? と聞かれると、自然死というのは、そういうものばかりではないよ、という医療の知識が出てきてしまう。

 高齢になればなるほど、病気や怪我のリスクが高くなるのは事実だけれど、自然死の中には、老衰だとか、本当に安らかなケースだって少なくないのだ。

 だから、自然死は怖くないか? という問いには、あんまり怖くないかもしれないと答えてしまう。

 けれど、自分が自然派の人間だとも思わない。

 散々、生存医療に携わってきた。自分が自然死を良しとする自然派の仲間に入れるとは思わないし、息子の言うように、やっぱり少し宗教じみていて抵抗がある。

 息子よりも、私の方がよっぽど自然派については、偏見を持っているのかもしれない。

(もっと、誰でも、簡単に、医療が受けられるようになれば良いのに……)

 研修医時代にも、そんなことを思った。

 私の指導医だった人は、私の言葉に笑った。

「医療が簡単に受けられない代わりに、誰でも簡単に尊厳死ができるんじゃないか」

 長く苦しい闘病をするよりも、死にたいと思ったときに、自分で最期を決められて、それが安価で穏やかで確実であるという事の方が重要だし、よっぽど価値も意味もある、と指導医は言った。

「そんな、大病することばかりに目を当てなくてもなぁ……」

 私は目を閉じて、再び独り言を呟いた。

 大病をして、苦しく長い闘病生活を送るのと、少し風邪を引いて薬が欲しいのとでは、訳が違う。それに、怪我だって、輸血が必要なほどの大けがから、擦り傷、骨折、いろいろあるではないか。

 しかし、この国の現実では、風邪をひくだけで、生活が圧迫される。

 病院に行けば金がかかるからと、闇市のような場所まであるくらいだ。夜の間だけ開かれる店々。夜市と呼ばれている。

 都市部から少し離れた路地裏なんかで、ひっそりと薬や酒、その他、違法と合法のギリギリをさまようような物品が売られている。私も、たまに足を向ける場所だ。

 安い酒で酔いたい時、嗜好品を買いたい時、そして、孤独を感じた時。

 夜市の売人は、私と同じくらいの年齢の人たちが多い。

 どういうやり方で利益を得ているのか定かではないが、かなり儲けを出しているそうだ。

 金があれば、長く生きられる。

 表立っては生きられなくても、夜の路地裏でなら、生きていける。

(私も、仲間入りしようかなぁ……)

 戯れ言のように、そう思った。

 医学の知識しか仕入れてこなかった頭では、とても商売なんて出来ないのかもしれないけれど。

 それでも、日のあたる場所で生きるより、夜の中に生きる方が、よっぽど息がしやすいような気がした。


 *ハルミ*

「信っじられない!」

 朝の更衣室に、ユカちゃんの苛立った声が響いた。私も同じ気持ちだったので、ただただ頷く。そして、自分がニンニク臭くないかが気にかかった。昨晩、あんな時間にペペロンチーノを食べてしまったのが悔やまれる。

「ようやく連勤終わって休みだって思ったのに! ほんと、信じられませんよね、先輩っ!」

 ユカちゃんは、唇を思い切り「へ」の字にしている。

「本当にね。若干、嫌な予感はしていたんだけど……なんか、休みのつもりでいたのに仕事になると、ガックリきちゃうね」

 私は言った。

 昨晩、夜遅くに仕事用の電子端末に連絡が入った。

 私とユカちゃん宛で、「申し訳ないけれど、明日も出勤して欲しい」という上からのお達しだった。

 理由は、昨日の朝、私とユカちゃんが担当したお客様が、どうにも厄介な感じがするので、再来に備えて……とのことだった。

 昨日の朝、私が担当した十五歳の男の子。

 そして、ユカちゃんが担当した、旦那さんの申請の有無を知りたがった女性。

 確かに、少々厄介なタイプだとは思っていた。

 ほとんどの場合、尊厳死は一発で申請が通る。

 申請が通らずに帰されるケースは、そこまで多くない。

 そして、なんらかの理由で申請が受理されずに帰された場合、高確率で、翌日に再来するのだ。

「私の担当した男の子はともかく……ユカちゃんの担当した女性は、本人が死にたがってたわけじゃないんだよね? だったら、今日の出勤は私だけでも良かっただろうに……巻き込んじゃったみたいになって、ごめんね」

 私が言うと、ユカちゃんは「ハルミ先輩のせいじゃないです!」と、ハッキリ言ってくれた。

「だから人権課の受付もAIにしろって言ってるのに! こういう業務の引き継ぎが難しいのなんて、小学生だってわかりますよ!」

 ユカちゃんは文句を言いながらも、さっさと制服に着替えはじめた。

 私も「そうだね」と答えながら、着替えを開始する。

 ユカちゃんの言う通り、人権課は引き継ぎが大変難しい。

 ほとんどが一発で通る申請なので、引き継ぎが発生すること自体も珍しいのだが、発生した際にはかなり面倒だ。

 役所の受付については、二十四時間監視カメラで撮影されているし、音声記録もしっかりと残る。

 どういう会話をしたのか、記録されている映像と音声を一緒に確認しながら、実際、人間の目で見てどんな様子だったのか、どういうところに気を配るべきかなどを引き継ぎする。

 けれど、この引き継ぎは、実際無駄な作業と言えば無駄な作業だ。

 そんなことをするくらいなら、同じ担当者が受付をすれば良いという話になる。

 そこで、今日も私とユカちゃんは出勤することになってしまったというわけだ。上の立場にいる人たちは、監視カメラの映像なんて見もしない。ただ、一度で申請が通らなかった場合や、申請者が未成年であった時などに、時折こうして出勤命令を出したりする。

 出勤命令は、出るときもあれば、サラッと流されて出ない時もある。

 しっかりしているのか、テキトウなのか、どちらかにして欲しい。

(そういえば昨日、ケイくんも言ってたな……)

 昨晩、一緒にゆっくりと夕食をとった後、私は十五歳の少年のことをケイくんに話した。

 ケイくんは、彼のことを「気の毒に」と表現した後、

「きっと、明日にでも、もう一度来るだろうね」

 と言った。

「やっぱりそう思う?」

 私が尋ねると、ケイくんは少し考えてから言った。

「彼がどういう性格、性質の人間かが詳しくわからないと、どうにも言えないけれど……彼自身に生きるという強い力がなかった場合、明日の朝一番にでも来るだろうね」

「生きる、強い力」

 私が繰り返すと、ケイくんは苦笑いをして、

「今の時代、最も得るのが難しい力だよ」

 と言った。


「ユカちゃんは、今日は彼氏とゆっくりする予定だったんじゃない? 彼には怒られなかった? 出勤になっちゃって……寂しがったんじゃない?」

 私は、制服に着替え終えてロッカーを閉じる。ユカちゃんは髪をポニーテールにしながら、再びムスッとした。

「昨日の夜、喧嘩しました」

「え、またどうして……」

 私が聞くと、ユカちゃんは「だって」と情けない声を出した。

 どうやら、原因はユカちゃんにあるらしい。声の調子が子供の言い訳みたいだった。

「もういい加減結婚してってお願いしたんです。せめて、結婚するよっていう約束だけでもいいからって。何度もお願いしたのに、フミくんやっぱり煮え切らなくて。これはもしやと思って、私、疑っちゃったんです、浮気を」

「浮気!」

 思わず大きな声が出た。久しぶりに聞く単語だった。こんな世の中だ。恋人に秘密で別の誰かと恋愛をするなんて勇気のある行動、なかなかできない。

 バレてしまって、訴えられでもしたら、犯罪者になってしまう。

 どんなに罪が軽くても、一度でも有罪判決を受けてしまえば、尊厳死の権利は失われてしまう。

 そういう泥沼ストーリーなドラマが流行ったりもしているので、ユカちゃんくらいの年齢の子たちにとってみれば、浮気疑惑みたいなものは、一種の恋の刺激なのかもしれないけれど。

 一般的に言えば、心変わりがあったのならば、お互いにちゃんと話し合ってお別れをするべきだ。その方が、双方の為になる。早めの結婚が人生をイージーにしてくれるこの世界では、振る方も振られる方も、そうやって後腐れなく、さっさと次に行く方が合理的だ。

「明日、フミくんの誕生日なのに……最悪です」

 ユカちゃんは言った。その顔は、怒っているというよりも拗ねているみたいだと思った。

「浮気の事実は、あったの……?」

 私が恐る恐る聞くと、ユカちゃんは首を振った。

「そんなことするわけないって、それでフミくん怒らせちゃって喧嘩です。つまりまぁ……私が悪いっていうアレで……それで、居心地も悪かったんで、今日の出社は、頭冷やすっていう意味でちょっとだけ助かりました」

 ユカちゃんは曖昧な顔で笑った。

「なんか、自分がダサいなぁって思って、ちょっと落ち込みました。二十三歳、焦ってる女っていう感じで。私もハルミ先輩みたいに、なんかこう、落ち着いて構えていられる大人になりたいです」

 私はユカちゃんが思っているような大人な女ではない。人と人との間に起こる勘違いや思い違いというのは、本当に不思議なものだと思う。

「私は、ユカちゃんみたいに自分の意見をはっきり言える大人になりたかったよ」

 私は言った。ユカちゃんはキョトンとした顔をする。

「私、言いたいことバンバン言っちゃうから、そういうところが子供っぽいってフミくんによく言われちゃいますよ?」

「そう? 私はそういうの、羨ましいって思うよ。彼氏に対する接し方も、羨ましい。お互いにちゃんと好き合ってるっていう感じで」

 私はユカちゃんの彼氏に会ったことはないけれど、ユカちゃんの話を聞いていると、正しく恋人同士という雰囲気で好ましいなぁと思う。

「ハルミ先輩は、彼氏さんとラブラブなんじゃないんですか? 一緒に住んでるんですよね?」

「一緒に住んでるけど、お互い忙しいし」

 ケイくんと過ごす時間は、そこまで長くない。お互いに、一緒にいる時間を無理に作ろうとも思っていない。

「でも、結婚もしないでずっと一緒に暮らしてるって、それってもう愛しかないと思いますよ! それに、彼氏さんもハルミ先輩も稼いでるし、結婚もしないで、子供も産まないで生活出来てるって、それってすごいことだし……」

 ユカちゃんは一生懸命に言ってくれている。

 私は、自分の空っぽのお腹の中を考える。自分の本当の気持ちとしては、ただ楽だという感想だ。子宮がない、生理がない。それはとても楽なことだ。更年期障害のような症状は若干気になるけれど、病気の再発や悪化に怯えるよりはずっと良い。だから、子宮を除去したことに対する後悔はない。

 けれど、こうして、世間一般と交わっていると、時折、急にしらけてしまう。みんな必死に結婚しよう、子供を産もうとする。

 無意識のうちに、この国の言いなりになっている。

 尊厳死法が成立する前は、出生率がとても低い時代もあったそうだ。

 結婚する人も少なく、みんな自分で選択して自由に生きていた。

 その弊害のように、老人が増え、子供が減った。

 卵が先か、鶏が先か、みたいな。グルグル巡る、時代の流れ。

 ケイくんは、私が子供を産めなくても問題ないと言ってくれる。

 私のことも、子供のことも、道具のように使うつもりはないと。

 政治の内部にいる人間は、ある意味での「まともさ」を持ち続けている必要がある。世間一般に向ける要望や理論と、自分が元来持っている倫理観のズレを、上手に飼い慣らす。

 ケイくんは「今の時代、出産は死ぬことよりも過酷だよ」と言っていた。

 確かに、尊厳死は苦しみもなく穏やかに、ただ眠るように行われるけれど、出産はそうはいかない。

 医療の発展で、出産時に母子が亡くなるなんていうリスクは、ほとんどなくなったし、出産の九割が無痛分娩だ。

 けれど、悪阻やら陣痛やらは、なくならない。人によっては、死ぬほど辛いと話を聞く。私は、そういう経験をせずに済んだことを、幸運にさえ思う。

「ユカちゃんが言うほど、素敵な人でもないよ。私の彼、重度のシスコンだし」

 私が言うと、ユカちゃんは「え!」と大きな声を出して、すぐさま口元を手で覆った。

「すいません、めっちゃビックリ。シスコンって……どういう感じですか?」

 ユカちゃんが興味津々で顔を寄せてきた。

「彼のお姉さんね、名前がハルエさんって言うの。私、ハルミでしょ? ハルミは姉さんと名前が似ていて素敵だって言われたことあるよ」

「うぇえ……本気ですか、それ……冗談じゃなく? 本気だったらちょっと気持ち悪いかも……」

 ユカちゃんは正直だ。

「冗談とか、あんまり言わない人だから本気だと思うよ。それに、彼は三十五歳で死ぬって決めてるから、一緒にいられるのも、あと数年かなって感じ」

 私が言うと、ユカちゃんは、唇に力を入れて、変な顔をした。

「先輩の彼、先輩と同じ年でしたっけ?」

「そうね」

「じゃぁ、あと、六年くらいしか、一緒にいられないってことですか……? お付き合いして長いんですよね? 今までずっと一緒にいたのに、あと六年って決められてるんですか?」

「そういうことになるわね」

 私が淡々として言うと、ユカちゃんは盛大なため息をついた。

「もー、やんなっちゃう。この世の中の全部が」

 ユカちゃんは言った。

「私だって、ヨボヨボのお婆ちゃんになるまで生きたいとか思ってませんけど、死ぬとき、キレイな方が悲壮感ないし。でも、なんか一生懸命に相手見つけて恋して……それでも呆気なく失っちゃう……虚しいを通り越して、イライラしてきますね」

 私は、ユカちゃんの肩に軽く手を置いて「そうね」と同意した。

 この世は虚しい。一見して、虚しい。

 だからこそ、生き残るためには、ケイくんの言ったように「生きる強い力」が必要なのだ。

 虚しくとも、生きる。誰がなんと言おうと、生きる。そういう力。

 または、ケイくんのように、はっきりとした人生設計を己の手で作り上げる。そういう力が必要なのだろう。

「さて、そろそろ行きましょうか」

 今日も九時きっかりから業務が始まる。私はユカちゃんと一緒に更衣室を出た。

 出たところで、驚いた。廊下に、ガンガンという異音が響いている。壁を足で強く蹴りつけているような音だ。更衣室内は防音になっているので、気付かなかった。

「え、なに、なんの音?」

 ユカちゃんがキョロキョロと辺りを見回す。

 私も一緒になって音の出所を探す。

「せ、先輩、先輩!」

 ユカちゃんが私の制服を引っ張った。

 私がユカちゃんの視線の先を追いかけると、廊下の先にある窓の外、役所の裏門をガンガンと手で叩いている人間の姿が見えた。

 私は、ユカちゃんと同じくらい目を丸くする。

 役所の正面入り口は一階にある。待合室は二階。そして受付と更衣室は三階。

 一階は地下だし、二階も半分地下にある。けれど三階は地上だ。裏門は三階部分にある。

 まだ朝の九時前だと言っても、外の気温は三十五度を超えているはずだ。

 湯気の向こうにボヤケたように見える人影は、よくよく目を凝らすと、まだ細く覚束なく、小さい。

「……子供?」

 私が呟くとほぼ同時に、ユカちゃんが「昨日の子じゃないですか!?」と叫んだ。

 私たちが混乱している間も、小さな影は門をガンガン叩いている。

 あれで警報機が鳴らないのだから、AI管理システムとは一体……と疑問に思ってしまう。無理矢理に門を開けようとすれば鳴るのだろうか。

「先輩っ」

 ユカちゃんが小さく叫んだ。門を叩いていた影が、ぐにゃりと地面にうずくまっている。それでも、門を叩く手は止まらない。弱々しい音になったけれど、ガン、ガン、と鳴り響く。

「ユカちゃん、お水っ、お水を持ってきて!」

 私はすぐに裏門へと走った。この門は、本来は役所の職員しか使わない。それも、緊急用でしか使わないものだ。鉄製の簡易な門で、地震や火災があった時に避難するためにある。

 普段は職員だって地下にある門を使うのだ。

 私は、自分のIDカードをかざして、すぐに門をあけた。

 そこには、汗だくになってグッタリしている子供がいた。

 ユカちゃんの言うとおり、それは昨日役所を訪れた男の子だった。


 子供といえども、男の子だ。私とユカちゃんは二人で力を合わせて、彼を室内へと引きずり込んだ。

 男の子は……確か、ソラくんという名前だった。

 彼は、ユカちゃんの持ってきた水を浴びるみたいにして飲んだ。

 けれど、意識は朦朧としているようだった。視線が定まっていない。

 Tシャツもズボンも、汗でびっしょり濡れている。

 けれど、彼からは、汗くさい臭いはしなかった。まだ若い。普段から汗はかきなれているのかもしれない。健康的な腕が、日に焼けて赤くなっていた。

「ユカちゃん、急いで本部に連絡して。緊急事態ですって。あと、今日出勤だった子たちにも。すぐに出てもらうように要請だして」

 私が言うと、ユカちゃんは「はい!」とすぐに返事をしたけれど、少し間を開けて「でも先輩、もうあと五分したら正門開いちゃう」と戸惑いの声をあげた。

 あと五分では、到底なんやかんやの全てを処理しきれない。

「受付は私がなんとかするから、お願い」

 私は言った。ユカちゃんは、突然の事態に動転して、目がうっすらと涙ぐんでいる。けれど、すぐに動いてくれた。根っこが強くて真面目な子だ。

 今日、一緒に出勤だったのがユカちゃんで本当に良かった。

 ユカちゃんが本部への連絡へ走った。本部へ直接連絡が出来る端末が、更衣室に完備されている。そこから、他の職員へも連絡が可能となっている。

 私は、ソラくんをなるべく門から遠ざけて、室内の涼しい場所へと引きずった。

「君、大丈夫? 息が苦しいとかない? ここ、どこかわかる?」

 私が問いかけると、ソラくんは「へいき」と小さい声で言った。

 ユカちゃんが大量に持ってきてくれた水を、彼に飲ませたり、首元や脇の辺りを濡らしたりしてみる。医療の知識はほとんど持っていなくて、自分の無能さに震えてしまった。緊急事態に備えての研修も、過去に受けたはずなのに。あれは役所に勤めはじめたばかりのころの研修だった。もう十年くらい前のことだ。もっと真面目に、しっかり受けておけば良かった。

 私は彼の介抱をしながら、自分の仕事用携帯端末をいじる。

 勤続年数が長いだけ、私にはいろいろな権限が与えられている。

 会社のAI受付システムにログインして、他の課の受付ロボットを二台、人権課に回してもらう手続きをした。

 これで、取り急ぎの受付業務はこなせるはずだ。AI受付では、尊厳死の申請を受理することは出来ないけれど、緊急事態で受付が無人であることと、別日に予約を受け付ける作業は出来るはずだ。

 あとは、今日出勤予定だった子たちが到着してから、対応をしてくれる。

 そこで、九時を告げるアナウンスが流れた。

「先輩! いろいろ、連絡済みました! あと、ダメもとで、アカリに連絡してみたら、あの子、来てくれるって! 家近いから、すぐ来られるって! ゲストIDカードも発行してもらったから、あとはアカリがなんとかしてくれるはずです!」

 ユカちゃんが廊下を走り戻ってきた。

 アカリちゃんは、先日辞めてしまった職員だ。役所のすぐ近くに住んでいたけれど、結婚が決まり、辞めてしまった。彼の職場の近くに引っ越すと言っていたけれど、まだ引っ越しは済んでいなかったらしい。

 ユカちゃんは、手にスポーツドリンクを持ってきていた。

「お水ばっかりじゃマズいかもって思って買ってきました!」

 私は、ユカちゃんの方が先輩なのではないかと思ってしまった。

「ありがとう。ユカちゃん頼もしすぎて、泣きそう」

 ユカちゃんはすぐにソラくんにドリンクを渡した。彼は、なんとか体を半分起こして、両手でペットボトルを持ちながら、ゆっくり中身を飲んでいく。

「いっぺんに飲まないでね、ゆっくりゆっくり」

 ユカちゃんはソラくんの背中を支えながら言った。

 中身を半分ほど飲み干すと、ソラくんはようやく瞳をパチクリさせはじめた。

 顔に正気が戻ってくる。

「君、昨日来た、ソラくんだよね? 大丈夫? どこか苦しいところはない?」

 私は彼の顔を覗き込んで尋ねた。

 彼は小さな声で「ちょっと頭痛い」と言った。ぼんやりした声ではあったが、先ほどよりは力強い。

 よく見れば、ガンガンと門を叩いていた手が、真っ赤になっている。両手ともだ。

 救急車を呼ぶべきか、悩ましい。

「ねぇ、どうして裏門なんかにいたの? 表で並ばないとダメじゃん。受付は順番だよ? 並ぶのが嫌だったら、予約しないと……」

 ユカちゃんが、彼の耳元で、優しく声を出す。

 お母さんが小さな子供に言い聞かせるみたいな言い方だ。

 ユカちゃんは、きっと良いお母さんになる。

 ユカちゃんの声に、彼はみるみる顔色を変えた。

 真っ白だった顔が、ブワッと蒸気したように見えた。

「こ、これっ、これをっ!」

 ソラくんは、急に我に返ったように声を荒げた。

 これ、と差し出されたのは、白い封筒だった。

 封が乱暴に破られている。

「絶対、あけるなって、言われたんだけど、嫌な予感がして、あけちゃった、これ、ヤバいと思って、早く、あの、」

 ソラくんは一生懸命に封筒を押しつけてくる。

 私は全く状況が掴めないまま、封筒を受け取って、中身を見た。

 中には一枚の便せん。

 冒頭には、女性らしい筆跡で「遺書」と書かれていた。

「朝起きたら、サツキさんが、コレを持って役所まで行けって……どうせ、今日も役所行くつもりでしょうって言われて、僕が行くよって言ったら、コレ渡されて……役所のお姉さんに渡してって……中身は見ないでねって言われたけど、なんかサツキさん、顔が変で、怖くなって……」

 私はユカちゃんと目を合わせた。これは、思っていた以上に緊急事態なのかもしれない。

「先輩、私、警察に連絡します」

 私は、ユカちゃんが立ち上がるのを制した。

「ここに呼んでも仕方ないわ。私たちが警察に行こう」

 ユカちゃんは数度無言で頷いてから「はい」としっかり答えた。

 ソラくんが「僕も行きます」と言って、よろよろ立ち上がる。

 私がそれを支えている間に、ユカちゃんがタクシーを呼んでくれた。

 自動運転が当たり前になった昨今では、無人タクシーがそこら中を走っている。

 五分もしない内に、裏門へタクシーが到着した。

 表側から出てしまうと騒ぎになるかもしれない。私もユカちゃんも、受付の制服のままだし、ソラくんは顔面蒼白だし、ただ事ではない雰囲気に溢れている。

 私が前の座席に座って、タクシーに行き先を入力する。車は、スッと滑らかに走り出した。空調を調節して、車内温度を二十三度に設定する。

「ユカちゃん、寒かったらごめんね」

「大丈夫です。君、ソラくんだっけ? 大丈夫? 暑くない? 熱中症って死ぬこともあるんだよ、知らない?」

 ユカちゃんはソラくんと二人で後部座席に座っている。

 ユカちゃんの言葉に、ソラくんは少しムッとなりながら「知ってます」と答えた。その声には、活力が戻っている。やはり若いというのは回復も早いのかもしれない。

 私は、少し安心しながら、手元の便せんに再び目を落とす。

「遺書。私は、夫からの度重なる罵声に、心身共に疲れてしまいました。これ以上、夫から与えられる精神的苦痛に耐え切れません。私は、自ら命を絶ちます。私を殺したのは、紛れもなく夫です。夫には、然るべき罰を与えてください。サツキ」

 意味がわからなかった。サツキというのは、確か、昨日ユカちゃんが朝一番に受付をした女性の名前だ。

「ねぇ、ソラくんとサツキさんは、どういう関係なの?」

 私が尋ねると、ソラくんは前方席へと身を乗り出すようにして言った。

「昨日、役所で知り合って、申請受理されなかったって話したら、行くところがないなら、ウチに来る? って言ってくれて、僕、別に行くところなかったから、どうせ死ぬしと思って、サツキさんも、尊厳死の手続きをしに来てたんだと思ってたから、サツキさんも、僕も死ぬんだし別に良いかと思って、ついて行って……」

「なんか変なことされたの!?」

 ユカちゃんが青い顔になってソラくんに聞いた。

 ソラくんは首を振る。

「一緒にいろんなこと話して、果物食べて、サツキさんはお酒を飲んでたけど……僕はウーロン茶飲んで、それで、お風呂とベッド貸してくれて、僕はベッドで寝かせてもらった。サツキさんは、ソファーで寝たみたいだけど、朝起きたら、ソラは今日も役所に行くよね? って聞かれて……」

役所に行くなら、コレ、持って行って受け付けのお姉さんに渡してって言われて、それで、朝の九時前に、追い出された……

 ソラくんは言った。その時のサツキさんが、妙にテンションが高くて、けれど目が笑っていなくて、ギラギラしていて、怖かったと言った。

「封筒、絶対開けちゃダメだよって言われたけど、サツキさん、昨日までいろいろ悩んでたみたいなのに、今日はすっかりなんか……吹っ切れちゃったみたいになってて、こういうの、なんか、お母さんが死んだ時の感じとすごい似てて、ヤバいって思って、僕、封筒開けちゃって、中見たら、遺書って書いてあるし、急いで役所まで来たけど、もう表は結構人が並んでて、並んで待ってたら、なんか、間に合わない気がして、すぐお姉さんに手紙を渡さなくちゃって思って……僕だけで警察に行こうかとも思ったんだけど、どうやって事情を話したら良いか、もうわかんなくなっちゃって……」

 ソラくんの話を聞きながら、私とユカちゃんは、おそらく共通の違和感を覚えていた。

 昨日やって来たサツキさんは、夫が尊厳死の手続きをしてしまったんじゃないかと不安に思って朝早くから表門に並んだような人だ。「夫から精神的苦痛を与えられていた人」のようにも「どうしても死にたい人」のようにも見えなかった。

「僕のせいだと思う……」

 ソラくんが言った。車窓に警察署が見えてくる。

「僕が余計なこと言ったから……」

 ソラくんは、まるで自分が警察に捕まるような顔をして、フロントガラスを見つめていた。


 *

 その日の昼過ぎに、サツキさんの夫であるアキラさんが逮捕された。アキラさんは、駅前のビジネスホテルに滞在していて、警察が踏み込んだ時には、訳が分からない顔をしていた。

 私とソラくん、ユカちゃんは重要参考人みたいにされて、踏み込みの現場にまで同行させられた。私もユカちゃんも、事情がさっぱり飲み込めていないし、ソラくんは絶望したみたいな顔をしていた。

「この人で間違いないですか」

 と警察がアキラさんの顔の確認を求めた。私もユカちゃんも、答えられない。ソラくんだけが「間違いないです」と小さい声で言っていた。

「先輩、私、あの人どっかで見たことあります」

 ユカちゃんが言った。ソラくんは、気の抜けたような声で、

「サッカーの代表選手だった人だよ」

 と言った。そう言われてみれば、私にも見覚えがあるような気がした。

 アキラさんは、最初はいろんなことを喚いていて、どういう理屈で自分が逮捕されるんだと仕切りに聞いていた。

 けれど、警察から、サツキさんが自殺を図ったこと、遺書に夫からの精神的苦痛が原因であると書かれていることなどを説明されると、今度は酷く震える声で「サツキ、サツキが、自殺……?」と繰り返していた。


 私たちが警察に駆け込んだ後、ソラくんの案内ですぐにパトカーでサツキさんの家へと向かった。救急車もついてきた。

 サツキさんの家は鍵がかかっていて、インターフォンにも応答がない。

 仕方なく、警察の人が玄関を特別な道具を使ってこじ開けた。

 家の中はカーテンが引いてあるのか、昼間なのに暗くてシンとしていた。

 警察が家に踏み込み、サツキさんはバスルームで発見された。

 包丁で手首を切って、水を張ったバスタブにその腕を突っ込んでいた。

 水は真っ赤になっていて、サツキさんは雪のように白かった。

 警察と一緒になってサツキさんを探そうと踏み込んでしまった私たちは、その姿をばっちりと目に焼き付けてしまった。

 ソラくんが小さく口を開けて、棒立ちになっているのを見て、私は急いで彼の目を覆ったけれど、なんの意味もないこともわかっている。

 ユカちゃんは思わずというように「壮絶……」と呟いた。不謹慎な言葉のようでいて、けれど的を射ている。正しく壮絶だった。

 尊厳死の現場ばかり見知っている私たちにとって、自ら命を絶つというのは、壮絶としか言いようのないものだ。

 ユカちゃんは、泣きそうな顔をしていたし、唇を噛んで、僅かに震えていた。

 警察の人たちが、ようやく私たちが一般人であることを思いだしたように「外へ、外へ出ていて下さい」と言った。

 近年、警察官という仕事も、絶滅しつつある。犯罪がほとんど起こらない世の中で、警察官は給与も少なく、やることもほとんどない。昔は地域のパトロールなんかもしていたらしいけれど、そんなのはAIロボットに任せておけば良い話だ。ドローンだってそこら中を飛んでいる。人間の目でパトロールするなんて、非効率的でしかない。

 事件慣れしていない警察を心許なく思いながら、私たちは外に出た。

 昼間の太陽が容赦なく照りつけていて、私たちはいろんな意味で具合が悪くなりそうだった。

 ソラくんのために買ったスポーツドリンクの残りを三人で回し飲みまでした。

 サツキさんは、意識はなかったけれど、まだ生きていた。

 救急車で運ばれていき、その後のことはわからない。

 警察は、サツキさんの残した遺書に書かれていたサツキさんの夫「アキラ」さんを探した。

 アキラさんは、別に逃げたり隠れたりしていたわけでもないので、すぐに見つかり、私たちは、今度はそちらに連れて行かれたのだった。


 サツキさんが病院へ運ばれ、アキラさんが捕まり、私たちは警察署の廊下でポツンと座っている。事情聴取があるので、帰らないで下さいと言われてしまった。

 私は、自販機で三人分の冷たいお茶を買った。

「先輩、すみません。お金あとで払います」

 ユカちゃんが言った。私は「奢りよ、当たり前じゃない」と言った。

 それに、先ほどユカちゃんはソラくんのためにスポーツドリンクを買ってくれた。ペットボトルの飲料は結構高い。千二百くらいはするんじゃないかと思う。

「僕、奢られっぱなしだ……」

 ソラくんが言った。

「サツキさんも、昨日、待合室でジュース買ってくれた」

 ユカちゃんは笑う。

「子供は良いんだよ、それで」

「あと五年もしたら、僕も大人にさせられる」

 ソラくんが呟いた。大人に「させられる」という音が、悲しく響いた。

「ユカちゃん、警察の事情聴取だけど……」

 私は、念のためにと思ってユカちゃんの顔を見て言った。

「わかってます……何も、話しません」

 ユカちゃんは言った。

 私とユカちゃんには、守秘義務がある。

 警察が正式に役所へ要請をして、その要請が通らない限りは、私もユカちゃんも、ほとんどのことを証言出来ないのだ。

 逆に、役所への要請が通って、裁判などになった場合には、資料提供も証言も、きちんとする義務がある。公人というのは面倒臭い立場にあるものだと思う。

「サツキさんは、アキラさんに死んで欲しくないんだ」

 ソラくんが言った。何かの決意を握り込むみたいな声だった。

「アキラさんが犯罪者になれば、アキラさんは尊厳死できなくなる」

 ソラくんは「だよね?」と私の顔に確認した。

 私の背中に、冷たいものが走った。

 ソラくんは、ジッと私の目を見つめる。十五歳の瞳に気圧される。

 ここでこの視線を、とぼけて流せるのが本当の大人なのかもしれない。

 本当の大人が取るべき正しい行動なのかもしれない。

 私は、大人になれるだろうか。

 ソラくんは、本当に子供だろうか。


 その後、私とユカちゃん、ソラくんは別々に事情を聞かれた。

 そもそも私には、答えられることはほとんどなかった。

 サツキさんを担当したのはユカちゃんだったし、ソラくんとサツキさんが昨晩、どういう風に過ごしたのかもよく知らない。

 私はただ、サツキさんが昨日の朝一番に役所にやって来たことは事実だと伝えた。

 事情聴取が終わると、もうすっかり夜になっていた。

 朝からバタバタしてしまって、私たちは何も食べていない。

 警察署の中にある食堂で、三人でぐったりしながら食事をした。

 途中、私の電子端末に上司から連絡が入った。今日の仕事はアカリちゃんが中心となって、無事に回してくれたらしい。

 私とユカちゃんは、この件が裁判になったら真実を証言するようにと言われた。私は、真実がわからない。

「なんか、どっと疲れちゃいましたね……」

 ユカちゃんが言った。

 ソラくんが「巻き込んで、ごめんなさい」と俯く。

 ユカちゃんは、笑った。

「巻き込んだのはソラくんじゃなくて、サツキさんでしょ。なんで役所の受け付けに遺書を持たせるかなぁー」

 相変わらず、カラリとした感じでユカちゃんは言う。

「なんか、上手いことやってくれると思ったんじゃないかな。昨日、ユカちゃんが親切に対応してくれたから」

 私が言うと、ユカちゃんはため息をつく。

「サツキさん、大丈夫だといいな。私、しばらく夢に見そうです。足が震えました」

 ユカちゃんは、自分の両腕をさすりながら言った。

「アキラさんは、犯罪者になるかな」

 ソラくんが言った。私はおそらく、アキラさんは有罪で決定してしまうだろうと予測する。

 大学で法学についてもほんの少し学んだ。得意ではなかったが。

 本人の遺書があり、ソラくんの証言があり……ソラくんは、たぶんサツキさんの意図を組んで証言しただろうと思うし……それに、私とユカちゃんは、今のところ「サツキさんが役所に来たことは事実」という発言しか許されていない。

 どのくらい重い刑になるのかは、わからないけれど、無罪放免にはならないだろうと思う。少なくとも、尊厳死の権利は失われると思われる。

(サツキさんが意識を取り戻して……遺書を撤回したら、話は違うかもしれないけど……)

 サツキさんは、病院に運ばれて、一命を取り留めた。

 けれど、意識は戻っていない。

 入院費や治療費は、彼女の口座から自動で引き落とされていく。

 彼女の口座が空になったら、夫であるアキラさんの口座から引き落とされる。

 長引けば長引くほど、地獄のような展開しか思い浮かばない。

 アキラさんは尊厳死することも出来ず、サツキさんの治療費は日々積み重なり、お金もない中、生きていくしかない。それこそ、自殺でもしない限りは。

 死んだ方がマシだと思えるようなこの世界の構造の中で、私たちは一体、どうして息をしているんだろう。「生きる強い力」は、どうやったら身につけられるのだろうか。

 こんな世界なのに、尊厳死を無くそうという動きは大きくならない。

 みんな、自然の運命に任せて死ぬのは怖いのだ。死ぬことが穏やかであると約束されているからこそ、経済的な苦痛を伴いながらも、生を謳歌できる。

 けれどそれは、生きる「強さ」ではない。逃げる力の強さだ。

 人間は、逃げ続ける。いつの世界も、どんな世の中でも。

 自分に不利となる、様々なことから、ひたすらに、ひたすらに、逃げ続けている気がする。

「ところで、ソラくんは今日、泊まる場所はあるの?」

 私は、自分の中に渦巻く思考を打ち切るようにして言った。

 ソラくんはキュッと口元を結んで黙った。

「どこか、ホテルでも取ろうか。なんか私も疲れちゃった……家に帰るだけの気力が残ってないわ」

 警察署の近くには繁華街がある。ビジネスホテルもあるはずだ。

 急な出費は痛いけれど、今日は本当に疲れてしまった。心身共に疲れると、人間は少し投げやりになる。夜のタクシー料金とビジネスホテルの宿泊代。天秤にかけて、私は宿泊代を取りたいと思ってしまった。

「ユカちゃんはどうする?」

 私が言うと、ユカちゃんはほんの数秒だけ悩んで、

「私は帰ります」

 と言った。

「明日、フミくんのハタチの誕生日で……昨日、私が一方的に怒って喧嘩しちゃったし。彼の誕生日前に仲直りしたいです」

 ユカちゃんは、はにかんで笑った。

「そっか……ハタチの誕生日かぁ。素敵だね。仲直りするのにも、丁度良いね」

 私が言うと、ユカちゃんは「プレゼント、今からでも買えますかねぇ」と苦笑した。

 夜もだんだん深くなってきている。

「まだ開いているお店もありそうだけど……ユカちゃん、よくそんな元気あるね……」

 私は感心して言った。こういう時、若さというのは眩しいと思う。ユカちゃんと私の年の差は六歳。たった六歳と思う。

 私は、その間に、一体どこにそういう元気を置いてきたんだろう。少しずつ、少しずつ、砂のように落ちていってしまったのだろうか。

「ハルミ先輩。そこは元気じゃないですよ。愛です。愛」

 ユカちゃんは言った。

「ほんとはタクシーでビューンって帰って、帰ったらなんもしないでベッドに倒れ込んでグッスリ寝たいところです」

 その発言に、ソラくんが小さく笑った。

 今までちっとも笑ったりしなかったので、私とユカちゃんはちょっと驚いた。

「なんか、役所にいない時のお姉さんたちって、普通なんだね」

 ソラくんは、少し気の緩んだような声で言った。


 *マサミチ*

 夜の市場の灯りは優しい。まん丸くて赤い提灯が、そこかしこに吊されて、アスファルトを淡く照らしている。まだ私が高校生であった頃、夜中に兄がひっそりとした声で、

 「マサミチ、夜市に行ってみないか」

 と、言って家から誘い出してくれたのが最初だった。私の夜市デビューだ。

 今日の昼間の最高気温は四十度近くあったらしい。

 日が落ちて少しはマシになったとは言え、アスファルトが吸った熱気は衰えない。そしてこの国特有の湿気が肌をベタつかせる。

 人工の空調に慣れてしまっている身には堪える暑さだけれど、それよりも夜市に対する興奮の方が勝るのだから、私もまだまだ気持ちは若いのかもしれない。

 都心の繁華街から少し外れた細い路地。一歩踏み込めば、鼻先にさまざまなニオイが漂ってくる。

 こういった夜市は街中にあるけれど、表通りを歩く連中は知らんぷりをする。警察も同じだ。違法な物資の売買も当たり前のように行われているけれど、見えないフリで、よほど死人でも出ない限りは無視している。

 グレーゾーンというような括りにあるものだ。

 なにより嬉しいのは、夜市を歩いている際には、自分を異様なものとして見る視線をぶつけられない。

 誰も私のことを「なんでまだ生きてるの」という目で見ないのだ。このような夜市で生計を立てているものは、大抵が五十歳を過ぎているから同類というわけだ。

 それは、本当に呼吸のしやすいことなのだ。それは本当に、肩の力が抜ける、生きていて良いと言われているような、許されている気持ちになるのだ。

 夜市は私にとって、オアシス同然だ。

 日常の砂漠を歩ききって、ようやく辿り着いた憩いの場。

(今日はカステラを買うつもりで来たが……)

 自分の誕生日、自分にもっともっと甘くなっても良いのではないかという気持ちがわき上がる。

 通常の菓子店で売っているカステラよりも、夜市のカステラは美味い。

 菓子店で売っているものは、その甘みのほとんどを砂糖に頼っている。

 だが、夜市で売っているものは、菓子職人の拘りが詰まっている代物が多いのだ。砂糖だけでなく、蜂蜜を混ぜていたり、卵黄だけを使っていたり、砂糖にも凝っていて、今時珍しい黒糖やらキビ砂糖を使っているものも見たことがあった。

 値段も白目を剥くほどに上がるけれど、たまには贅沢をしたい。

(まだ死ぬ予定も立っていないくせになぁ……)

 金は貯めておくに越したことはないのに。

「それでも、食いたいものを食いたいし、人間は難儀だなぁ」

 思わず声が漏れた。

 せっかくの誕生日だ。酒も買ってしまおうかな、などと考えて連なる店を見て回る。移動式の屋台のようになっている店もあれば、店舗をドッシリ構えているところもある。飲食物だけでもない。医者の私の目から見ても「これはダメだろう」と思われる薬物なども置いてあったりする。衣服や装飾品もある。骨董品に、家電、本……とにかく、仕入れたものは、なんでも並べられるのが夜市だ。

(小さな頃、じぃちゃんに連れて行ってもらったお祭りのようだよなぁ……)

 あれは、都心の祭りではなかった。あの頃は、まだ税金もそこまで高くなくて、祖父と父母と兄も一緒に旅行をしたものだった。あれは、どこの地に行った時の祭りだったろうか。

 今と違って、自動車の自動運転が義務づけられていなかった時代だった。祖父の持っていた真っ赤な車を幼心にカッコイイと憧れていた。

 旅行先に向かう道中、祖父が自らハンドルを握って運転をしてくれたのを覚えている。

 私は助手席に乗っていた。

「いいか、マサミチ。男たるもの運転のひとつくらい出来ないと役立たず扱いされちまうからなぁ。自動運転ばっかりに任せてないで、運転の仕方くらい覚えておけよ」

 祖父は私にそう言って、よく自動車の仕組みについて教えてくれた。

 今となっては、その知識は無駄になってしまった。

 法律で、自動運転装置のついた自動車以外の運転は認められなくなった。

 自らハンドルを握ることは、罪に値する。

 祖父の生きていた時代では、交通事故や煽り運転で亡くなる人もそれなりにいた。けれど、自動運転が義務づけられてから、年間の交通事故発生件数は一桁だ。死亡者も数名いるか、いないか。

 平和なものである。

 皆が法に背くことを恐れて交通ルールを守る。自動車やバイクなどの乗り物も、全て自動で運転されて、人間は操縦する必要がない。

(良い時代になった、と言うべきなんだろうか……)

 それならば何故、自分はこんなにも息苦しいのだろうか。

 カステラを売っている屋台を見つけて、私は思考を中断させた。

 ほのかに甘く、上品な香りがしている。カステラの隣にはどら焼きもあった。そういえば、妻はアンコが好きだったなぁと思い出す。

「カステラに酒じゃぁ、ちょっとチグハグになってしまうかなぁ」

 私が呟くと、店主の女性が「ウチのは甘いから、辛口の酒と一緒にってのも、結構イケると思うよ」と笑った。

 年齢は六十歳くらいだろうか。まだまだ肌はピンとしていて、健康そうだ。しかし、手元を見てみると、カサカサと荒れていて、働き者の手をしていた。

「これは、女将さんが焼いたものですか?」

 私が問いかけると、彼女は店にある菓子の全部が手作りだと言った。

 毎朝早く起きて仕込みをして、夕方から焼き始めるそうだ。

「その日に焼いたものをその日に売ってるからね。おいしいよ」

 彼女は誇らしそうに言った。

 私は、彼女を好ましく思う。こういう、毎日のハリというか、生き甲斐というか、そういう何かを私も持ちたかった。

 私には、仕事しかなかった。仕事に就く前は、医者になるための勉強しかなかった。その前には、親の機嫌を損ねないようにすることにしか注力してこなかった。私の人生の本質は、結局どこにあるのだろう。

 今思っても、仕事は生き甲斐だった。唯一、自分で選んだ「生存医療」の道。家族からも「理解できない」という顔をされながら、それでも選んだ道だった。

 その仕事さえ、無くなった今。私は、どうやって生きていけば良いのだろうか。

 そのとき、フッ、と視界の隅に何かが映った。

 私がほぼ、反射のようにそちらを向くと、目の覚めるような鮮明な赤が見えた。

 カステラを売っている店の隣。

 他の店に比べて少し暗く、商売をしている雰囲気があまりなかった。

 その店は、屋台ではなく店舗になっていて、表側では、雑貨や半分ガラクタのようなものを並べていた。鉄パイプなんかもある。何に使うのだろうか。

 私の脳は、それらの外向けに売っている商品を冷静に見つめながらも、ほとんどが奥の「赤」に向けられていた。

 店舗の奥は、コンクリート造りの広い箱のようになっている。

 その箱の中に、ドンと王座に座るように、一台の真っ赤な車が停まっているではないか。

「カステラ、買っていくかい?」

 突然惚けてしまった私に、菓子屋の女性が諦めた声で一応尋ねた。

 私は上の空になりながら「また、来ます」と答えた。

 そのままユラリと隣の店に足を向ける。

 ゆっくりと、それでも吸い寄せられるようにして、店に近寄った。

 店の前で椅子に座って、鉄パイプを布で磨いていた男が、私をジロッと見た。

 店の中には、他に誰もいない。彼が店主のようだ。

 私が釘付けになって見ていた赤い車の隣には、真っ黒な車も停まっていた。黒い車の方は赤い車よりもずっと大きい。バンのような形状だ。

 よくよく見れば、二台の車には、排気ガスを出すマフラーがついている。

 昨今、見慣れた車には付いていないものだ。今時代の公道では、全自動の電気自動車しか走っていない。

「これは……ガソリンで走る車ですか……?」

 私はただ、真っ赤な色に恋でもしてしまったかのように、車だけを見つめて尋ねた。

 店主は「そうだよ」と短く答えた。

「運転は、自分で……?」

「そうだね」

 再び短い答えが返ってくる。

「おいくらですか……?」

 自分でもびっくりする問いが口から漏れた。

「あんた、これを買う気があるの?」

 店主が値踏みする目で私を見た。

 買う気があるのか、私は自分に問いかけた。なんで私は、値段を聞いたのだろうか。なんでこんなに、この赤に目を奪われるのだろうか。

 祖父が運転していた車にも、少し似ている。けれど、それだけだ。

 思い出を抱きしめて、それを大事に大事に手元で撫でさするような趣味は私にはない。

 私はそういうタイプの人間ではない。

 ではなぜ、私は、こんなにも夢中なのだろう。

「あんた、これ買って、運転できるの? 運転できないなら、デッカイ飾りもんだよ」

「できます」

 私は、食い気味に答えた。

「運転できます。ある程度、構造についての知識もあります」

 自然と早口になる。心臓がドッドッと体の中で大きく鳴り響いている。

「あんた、わかってんの? 運転できても、バレたら犯罪者になっちまうよ?」

 そこで店主がはじめて笑った。目を細めて、ニヤリと笑った。

 目の奥が光っている。悪いことをするのを楽しむような、そういう目だ。

 まだ学生だったころ、度胸試しが流行ったことがある。犯罪になるか、ならないか、ギリギリのところを綱渡りしてみるゲームだ。

 今思えば馬鹿らしいとも若者らしいとも思えるゲーム。そのゲームを主導していた生徒が、確かこんな目をしていた。

 私が学生の頃は、まだ未成年への犯罪判定は緩かった。今、あのようなゲームに興じる学生がいたならば、即刻注意してやめさせたいと思う。

 今の時代では、とてもじゃないが洒落にならない。尊厳死で人生を終えたいという希望が少しでもあるのなら、悪いことは言わないから、大人しく学生生活を楽しんだ方が良い。

「あなたは、どうして車を売っているんです?」

 私は、店主に尋ねた。この車が売れるということは、店主の言うとおり、デッカイ置物にするためか、はたまた犯罪者になることを恐れずに、自らがハンドルを握りたいがためかのどちらかだ。

 店主は何を思ってこんなアンティークな車を売っているのだろう。

「度胸試しってやつだよ」

 彼は笑った。私は思わず、その顔の面影に学生時代の級友の顔を探してしまった。そんなはずはない。店主は私よりもずっと年上に見えた。おそらく、七十歳あたりだろう。

「こんなになるまで生きているとね、逆に楽しくなるもんなんですよ。世の中に生きてる人らのね、心の葛藤とかね、そういうのを観察するのが」

 店主は言った。

「浮き世離れの心持ちとは、そういうものですか?」

 私が言うと、店主はヘッヘッと息のついでみたいに笑った。

「もっと下品な理由ですよ。単なる私の道楽だ。俺ぁ、自分が捕まらなけりゃ、それでいい」

「こんな昔の車を売るのは犯罪では?」

「いんや、これは置物さ。ガソリンは抜いてある。別売りなんでね。この車に燃料を入れて売ってたら、そりゃ犯罪さ。でも別々に売ってたら、そりゃーもう、犯罪にはならねぇな。スレスレのところさ。ただのデッカイ置物と油を別々に売ってるだけ。まぁ、売った先の客が、置物にガソリンを入れ込んで運転しちまうかもしれねーけどさ、それは俺には関係のない話だ」

 彼は言った。なるほど、やはり夜市で商売をしているだけのことはある。いざという時の言い訳は、いろいろと考えてあるらしい。

「今までに、誰か買った人はいますか?」

 私が言うと、店主はハッと威勢良く笑って、「最近は夢やら野望やらを持つヤツぁ、絶滅しちまったみたいだなぁ」と言った。

「昔はそれなりに売れたんだけどな。最近はサッパリだ」

「ずっと車を仕入れてやってきたんですか?」

 それはそれで凄いことだ。店主の言葉を借りれば、もうとっくにこの世から絶滅してしまったと思っていた宝物が、どこかには存在するらしい。

「……で、値段は、いくらくらいなんです?」

 私はもう一度尋ねた。

「冷やかしだけなら帰りな。値段を聞いてもアンタには払えないだろうよ。さっきの店で美味いカステラと酒でも買ってパーティーした方が現実的だぜ」

 店主は、片目だけを細めて私を見た。夜市には、時折、郊外に住む富裕層もフラリと訪れる。尊厳死などせずとも、蓄えている金だけで一生を暮らせる者たち。私の患者と成り得るような、治療費も薬代も手術費も、なんでも全部支払える人たち。

「私は医者です。ああ、昨日までの話ですが。ですから、それなりの蓄えはあります」

 あまり舐められては困ると思って言うと、店主はまた、ハッと言って笑った。

「お医者様なら腐るほどいるじゃねーか。それでも手が足りないくらいだって聞くがね。安定してるが、安月給だとも聞く」

「私は終末医療の医者ではなく、生存医療の医者です」

 今度こそ私は胸を張って言った。自然と、顎先まで少し前に出てしまう。私は自分が思っている以上に、自分の仕事を自慢に思っていたらしい。

「……へぇ、生存医療ね……」

 店主の目付きが変わった。私は、念のためと思って、財布の中に入れていた医療免許証を出した。昨日の日付で失効済みだが、顔写真も指紋も登録されていて、証拠には十分だろう。

「なるほど、合点がいった。あんた、生存医ってことは、アレか、自然派に肩入れするタイプの人間か。だからその歳まで死なずにきちまったんだな?」

 店主は、意外と用心深い性格らしい。店の奥に並ぶ商品たちが、よほど大切なのだろう。然るべき人間にしか売りたくないという気配が漂っている。

「私は自然派を否定はしませんが、あれは宗教だと思っているので、肩入れはしませんよ。宗教は、ハマる人間だけハマれば良い……いえ、言い方が悪かったですね。信じる人だけが、信じるのが宗教でしょう。私は自然派には詳しくないし、彼らの信仰の対象がどこにあるのか、それさえ理解していません」

 私は正直に言った。

「じゃぁ、お前さん、なんでそんな歳まで生きてる」

 店主が言った。私は問い返した。

「あなたは? 私よりも年上に見える」

「俺ぁ、商売が好きで生きてる。デカいものを仕入れて、デカく売り上げる。好調な時は金勘定をしていると興奮して下半身が疼くくらいだ。商売に失敗したら、潔く尊厳死するよ。あとは、アレだな。大病したら仕方ねぇ。苦しむ前に楽に死ぬさ」

「売り上げが好調なら、治療費もいくらか支払えるのでは?」

「そんな無駄なことするもんかね。病気したり、もう後がねぇ、死ぬばっかりだって思ったら、有り金はたいてパーっと遊んで。遊び尽くしてから役所に行くよ」

 店主はヒッヒッヒと笑った。私は、なるほどと思う。悲しい考え方だが、合理的だ。

(悲しい……? どこが悲しいんだろうか……)

 終末医療を受けに来る人を病院で見る度に、私はいつもこういう気持ちになった。悲しい。虚しい。切ない。やる瀬ない。

 そして、自分の仕事場である生存医療の現場に戻ると、気持ちが上向くような気がした。生きたいと願って、一生懸命に治療をする人や、家族の命を守って欲しいと必死に訴えてくる患者を見ていると、絶対に救ってみせると、体の芯からエネルギーが湧いて出てきたものだ。

(私は……差し迫る理由がないのに、死ぬ意味がわからない……ただ、それだけなんだがなぁ……)

「で? あんたは、どうなんだい。まさかアレか? この車ぁ、買って、少し楽しんだら尊厳死するつもりかい? 冥土のみやげってか? それにしちゃーちょっと、デカすぎるな。車は一緒に燃やしてもらえねーぜ?」

「私は、今まで仕事が生き甲斐で生きてきた。店主、あなたと同じだ。私も自分の仕事が好きで生き延びた。でも、仕事もなくなり、生きる理由はなくなった。でもだからと言って、死ぬ理由もない。それに加えて、実を言うと、私は昔から車が好きでね。もちろん、自動運転の車じゃない。自分で運転する車だ」

私は、医者じゃなければ、レーサーになりたかったんだ

 スルリと出た言葉に、自分で驚いた。

(ああ、そう言えば、そうだったな……)

 祖父に車の良さを教えてもらい、すっかり夢中になった幼い私は、将来の夢を考えた時に、生存医療の医者か、レーサーか迷った。レーサーにしなかったのは、散々と車の良さを教えた祖父自身が「それでも時代は自動運転になっていくだろうなぁ、こんな、自分で運転する車はそのうち、なくなっちまうよ」と言ったからだ。

 私は、自動運転の車のレーサーになりたいわけではない。自分で操縦する車が好きだったのだ。

 だから医者にした。終末医療ではなく、生存医療にしたのは、そっちの方が格好良いと思ったからだ。人数も少なく、富裕層を相手にできる。世間からは、嫌な目で見られることも多いけれど、それでも良かった。人と違うことは、少しばかり格好良いと私は思う。

「レーサーか。良いね。今のレースはちっとも面白くねぇからな。人間を乗せないんだもん。ただの企業同士の性能勝負。あれじゃ製品化する前の実験見せられてるのと同じだよなぁ」

 店主はウンウンと頷いて、そして立ち上がった。

「入っておいで。どっちの車がお好みだい」

 店主の言葉に、私は浮き足だった。興奮して、口を震わせながら「あか、赤! 赤い方を!」と言った。

 足の先に、ジワッと熱が灯ったように感じた。


 店主の案内で、店の奥へと進んだ私は、感嘆のため息を漏らした。

 赤い車は、別に特別美しいスポーツカーのようなものでも、なんでもない。

 ただの四人乗りの乗用車。家庭用という感じのものだった。祖父の車は、もう少し格好が良かった。けれど、私には十分すぎるほど、魅力的に見えた。

「アンタなら、ガソリンとセットで二千万でいいぜ。破格だろう?」

 店主は言った。私は、覚悟をしていたつもりでも、たじろいだ。

 生涯働いて稼いで貯金した金が、ほぼ全てなくなる。

 しかし、男の言うように、破格であることには間違いない。

 そもそも、アンティークの車になど、今後出会えるかもわからない。

(私の貯金、かき集めて、かき集めて、せいぜい二千五百万というくらいだ……ここで二千万使うとなると、残り五百万……仕事はクビになった……再就職など、出来るわけもない……)

 私が棒立ちで黙っていると、男はハハハと笑った。

「じゃぁな、千八百万でどうだ? いや、もう思い切ってもらおうか。千五百万でどうだ!」

「買った!」

 完全に乗せられる形で私は大声を出した。喉の奥がジンと痺れた。

「よっし、売った!!」

 店主はニヤリとした。きっと、仕入れ値はもっともっと低いのだろう。

 けれど、それでも。

(千五百万なら、貯金の残高は一千万は残る……それなら、なんとか質素倹約で半年……いや、頑張れば一年は暮らせるかもしれない……!)

 その間に、自分の進退、生きる死ぬについては考えてみようと思った。いざとなれば、この車を私が売っても良いのだ。場所代を払って夜市で店を出して、ここの店主のように商売を楽しんで生きていくのも悪くない。

(ああ、結局は、こうして生きる算段をする。ああ、でも、そんなことより……)

 幸せだった。久方ぶりに、手に握れるほどハッキリとした形の幸せ、興奮、喜びを感じている。

 私は店主に自分のIDカードを渡した。今の時代、IDカードと預金口座は連携していて、カードさえあれば、決済は終わる。

 店主に促され、私は端末に自分の指紋を照合させた。それに、虹彩スキャンも。普段の買い物では、指紋認証だけで良いのだが、高額な買い物の際には、虹彩認識もセットで必要となる。

 ピッという軽い音がして、車は私のものとなった。預金から千五百万が引かれる。

 その瞬間だけ、ほんの一瞬、ほんの数秒、スッと背筋が冷たくなったけれど、もう後には退けないし、退く気もない。

「さて、これでこの車はアンタのもんだが……どうする? 明日にでもアンタの家まで届けさせるか? ガソリンとは別便になるがね。送料はまけとくよ」

「いえ、あの、乗って帰ります。今」

 私は言った。明日までなんて、とても待てない。すぐに乗りたい。

 店主はワハッと大声で笑って、私の背中を強かに叩いた。

「アンタ、見かけに寄らずアレだな、破天荒だな! 今から乗って帰る? まだそんなに夜も更けてないぜ? どうせ乗るなら深夜にしなきゃぁ、帰り道ですぐに警察に捕まっちまうぜ?」

 私は、口元を上げて笑った。

「昨今の警察は、あまり仕事に熱心でないと聞きます。平和なのはこの上なく良いことだ」

「アンタ、昔はワルだった口か?」

「ずっと医者をしていますから、そうでもないかと思いますけど、まぁ、生存医療を選ぶくらいですから、悪いと言えば、悪いのかもしれないですね。金持ちだけを相手にする仕事です」

 私は言った。私の仕事を疎まずに見てくれたのは、妻だけだった。尊い仕事だと思うと彼女は言っていた。けれど、五十歳でさっさと尊厳死を遂げた。彼女は私を受け入れたけれど、彼女には彼女の考えがあって、それを曲げることまではしなかった。

 息子は物心ついてからずっと、私を少しだけ嫌な目で見る。根が優しい子だから、あからさまに避けたりはしないけれど、親の仕事について、学校でいろいろ言われたりもしたらしい。

 友達からではなく、教師から。そういう変な目を向けられる度に、なんでお父さんは終末医療じゃないんだろうと思ったに違いない。

「もし、帰り道で捕まったら捕まったで、それまでですよ」

 私は言った。諦めと、そして少しの清々しさがあった。

「妻も、もう十四年も前に尊厳死をしています。息子にも、いつ死ぬのかいい加減決めて欲しいと頼まれたりして……それでも、私は死ぬ気にはなれず……自然派というわけでもない。捕まったら、それはそれで、生きねばならないという規則ができますから、ちょっとばかり楽になる気がします」

 私は言った。店主はそこで初めて、少し気の毒そうな顔で私を見た。

「アンタの言ってること、わからんでもないぜ。俺もまぁ、弱気になって言えば、似たようなもんだ……さ、ちゃっちゃとガソリン入れろ。裏門開けてやるから、そこから出な。表の通りに通じてるからよ」

 店主に言われて、私はさっそくガソリンを入れた。祖父が教えてくれた知識を、私は驚くほど明確にに覚えている。

(それほど、好きだったんだなぁ、車が……)

 自分の奥の奥に仕舞い込んで、自分でさえ忘れていた「好き」という気持ち。埃を払ってそれを取り出せば、キラキラと未だに輝いていた。

「手際がいいなぁ、感心した」

「ナンバープレートは取り外しても良いかな」

 私が言うと、店主は「あんたの車だよ」と笑った。

 私は、店主から最後に車の鍵を受け取った。

「気をつけてな。まぁ、捕まらずに帰り着いたら、また遊びにおいで」

 店主は言った。私は「その時は、カステラを買いますので、一緒に食べましょう」と笑った。


 車のシートに腰掛けると、それだけで脳内からアドレナリンがブワッと吹き出る感覚があった。

 エンジンをかける。懐かしい音を立てて、車が震え出す。

 独特のニオイ。シートベルトをつける。

 バックミラーを調節して、背後を確認した。

 店主があけてくれた裏門を、バック走行でくぐり抜ける。

「うまいもんじゃねーか!」

 店主の声が遠く聞こえた。私は窓越しに店主に向かって一礼すると、ゆっくりとアクセルを踏んだ。

 滑らかに、軽やかに。車が発進する。

「ああ……」

 私は、ため息をついた。目が潤んできさえする。

 昔、「ハンドルを握ると気が大きくなるヤツもいる」と祖父は言っていた。

 あの頃はその意味がちっともわからなかったけれど、今ならわかる。

 自分で操縦する、自分の手で、ハンドルを握る。

 自分の思うようにこの鉄の乗り物を操る。

 なんという、恍惚、そして全能感。

 私は、自分の本能が、今日この瞬間に、生まれたのだと感じた。


 *ユカ*

 去年の誕生日には、腕時計を贈った。

 結構高くて、喉の奥がヒリヒリしたけれど、フミくんがめちゃくちゃ喜んでくれたから、後悔はなかった。

 今年は何を買おうかと考える。IDケースか、それとも少し前に「気になる」と言っていたサンダルにしようか。

(でもサンダルはなぁー、夏しか使わないしなぁー)

 こうなったら、私が結婚指輪を買ってやろうかとも考えたりした。

 でも、それはちょっと、私の気持ちが萎えてしまう。脅迫して結婚したいわけじゃない。

 私はプロポーズも含めて、フミくんからして欲しい。

(指輪は割り勘で良いからさー……)

 大通りを歩きながら、私は唇を尖らせた。

 今日は本当に色々なことがあって、心も体も、ドッと疲れている。

 さっき警察署の中でハルミ先輩たちと食べた夕食も、半分くらい味がしなかった。

(……サツキさん……大丈夫だといいな……)

 頭の奥では、その事ばかりが巡っている。

 フミくんの誕生日プレゼントを考えつつ、けれど十秒に一度くらいの割合で、サツキさんのことを考える。

 湯船に張られたお湯の、真っ赤な色。

 私が見てしまった時にも、まだ手首から、ユラユラと赤い液体が外側に放出されていた。

 真っ青な顔、ぐったりした肢体。

 私は、もう少し彼女の話に耳を傾けるべきだったんじゃないかと思ってしまう。

 彼女の受付をしたのは、私だ。

 責任を感じる、というのとは少し違う。

 けれど、なんだろうか。自分の無力さを、明確に見せられた気持ちだった。

 もっと親身になって話を聞けたんじゃないか。もっと、彼女の抱えている問題とか、彼女の考えとか、そういうことを聞いていたら。

 私は、彼女と受付で話した時、ああ、この子は死ぬ気はないなと思った。旦那さんを大事にして、これからも生きるつもりだろう、だから旦那さんのことをとても心配しているのだ。

 彼女のID情報を見た限り、まだ子供はいないようだった。

 これから、子供のことも、子育てのことも考えていきたいと思っていたかもしれない。

 それなのに、あんなことになるなんて、思っても見なかった。なんで、彼女はあんなことをしたのか。死にたがっていたのは、旦那の方だ。

 昨日、サツキさんと一緒に過ごしたらしいソラくんも言っていた。

「サツキさんは、アキラさんに死んで欲しくないだけだよ」

 私も、そうだと思う。

 彼女の遺書によって、旦那さんは犯罪者になるのだろう。尊厳死の権利が失われて、もう自然死や病死を待つより他に選択肢はなくなる。

「切な……」

 思わず声に出た。

 私も、もしフミくんが死にたいって言い出したら、きっと止めると思う。

 死んで欲しくない。当たり前だ。好きなのだから。

 でも、それはまだ私もフミくんも若いからだ。

 五十歳くらいになったら、いや、それよりもう少し若くても良い。

 そしたら、一緒に死ぬのも良いなと思う。家族で尊厳死も珍しくない。幸せに、穏やかに。最後まで一緒にいられる。手を繋いだまま、二人で眠るように死ねたら最高だ。

 サツキさんは、自分の手首を自分で切った。

 私には、そんな勇気は到底出せない。

 サツキさんは強い。だからどうか、意識を取り戻して欲しい。その強さでもって、生き抜いて欲しい。

 サツキさんの意識が戻ったら、私はお見舞いに行きたい。

 高いかもしれないけれど、フルーツのゼリーとかを持って行って、冷やして一緒に食べたい。それで、女同士の話をしたい。

 役所の職員としてではなく、友達になって、話をしたい。

 繁華街をフラフラと歩いて、横断歩道の向こう側にフミくんの好きな店を見つけた。ブランド店ではなく量販店だけれど、フミくん本人が好きなものをプレゼントするのが一番良いだろう。

 疲れすぎていて、あんまり頭が回っていない。

 なんとなく店に入ってみて、品物を見ながら考えてみよう。

 私は、ボーッとしながら横断歩道の前で赤い信号を見ていた。

 信号が、パッと青に変わって、重い足取りで歩き出す。

 歩き出した時、耳元に違和感を覚えた。

 聞いたことのない異音、ギュギュッと何かを激しく擦り付けるような音。「キャッ」とか「うわっ」という驚きの声。

 何だろうと思って、音のする方角を向いた。

 向いたところに、赤い何かが、赤くて、大きな何かが、見えた。

 見えたと思った次の瞬間には、視界いっぱいにそれが広がって。

 私の口から「グブッ」という、自分でも聞いたことのない声が出た。


 *マサミチ*

 店主が教えてくれたとおり、裏門は表通りに直結していた。私は細心の注意を払って、そっと裏道から広い道路へと合流した。

 周囲を走っているのは自動運転の車ばかり。

 運転手はいない。みんなただ、目的地を入力して、あとはもう乗っているだけである。

 車間距離も保てるし、信号も交通ルールもしっかりと叩き込まれているAIシステム。年間の自動車事故件数はほんの少ししか報告されていない。

 人間の体調や気分と運転が関わらない、誤操作はありえない、安心安全。

 そのため、繁華街でも制限速度はかなり速い。昔は人間が運転していたから、人通りの多い道などでは制限速度が三十キロだとか、そんな風に設定されていた。

 今は、いざという時も、ちゃんと人を認識して車の方が止まれるようになっている。昔はブレーキを踏んでも数メートルは動いてしまった車も、現代では人や障害物を認識した瞬間に、止まれる。何キロスピードを出していても、止まれる。その上、車内への衝撃も極僅かだ。

 私は、他の車に遅れをとらないよう、目立たないよう、スピードを出して運転した。

(そういえば……母さんは昔、車酔いなんかしてたっけなぁ……)

 今自分が運転している車もそうだが、やはりアンティーク車は揺れる。

 現代の車では考えられないほど、揺れる。まるで馬の背に乗っているかのように思う。けれど、それが私には心地よかった。

 目前の信号が変わる。青から赤へ。

 私はゆっくりとブレーキを踏み、他の車と同じように滑らかに車を止めた。

(上手いもんじゃないか……)

 思わず自画自賛してしまう。車の後ろにマフラーがついていて、ちょっとばかりニオイがする他は、目立たずに運転ができている気がする。

(これは本当にバレずに帰りつけるのかもしれないな……)

 私は思った。

 帰ったら、この車を家のどこに停めようかとも考える。あまり目立ってはいけない。

 古いけれど、広い家だ。裏庭に停めようかな、それならば椿の木を植え替えないとならないかな、などと考える。なにせ仕事もない。時間はいくらでもあるのだから、椿の植え替えなど造作もないことだ。

 信号が青へと変わった。

 再び、アクセルを踏む。思い切り踏まないと、他の車と協調できない。

 一気に加速して、再び流れる車たちの一部となる。車窓に流れていく繁華街のネオン。道行く人々は、みんな質素に見える。けれど、体内から自然と輝けるだけの若さがある。

 この国には老人がいない。いないことにされている。いつからこうなった。いつからこうなって、いつまでこうあって、そしてこの先、どうなっていくのだ。

 自分の息子も含め、若い人たちがこの尊厳死が当たり前になっている世の中をすんなり受け入れているのが、理解できない。

 だからといって、私には、なにか行動を起こすだけの気力や気質もない。

 そういうことを考えても、今の私は絶望したりしなかった。

 千五百万で買った私の愛車。

 私のこれから先の人生の誇り、生き甲斐は、きっとこの車になるのだろう。

 ウィンカーを出し、角を二つ曲がった。

 いよいよ賑わう駅前に差し掛かり、再び眼前の信号が赤になった。私はもう慣れきった動作で、ブレーキペダルを踏む。

 しかし、ブレーキはビクとも動かなかった。

「……え」

 思わず声が漏れた。慌ててはいけない。踏み方が悪かったのだ、落ち着いてもう一度。

 足は、確実にブレーキペダルの上にある。

 グッグッと力を入れても、何かが挟まってしまったかのように、ピクリとも動かない。

 全体重をかけてみる。私はほとんど、シートから立ち上がる格好でブレーキを踏んだ。

 私の前を走る車はない。けれど、先には横断歩道がある。信号があったということは、そういうことだろう。

「止まれっ! 止まれっ、止まっ、てくれっ!」

 誰もいない車内で私は絶叫した。

 車は百キロ以上出して走り続ける。

 ブレーキを踏むことだけに必死になっている私は、ハンドルの方を疎かにした。

 車が右へ左へと、速度を保ったまま蛇行する。

 フロントガラスに映る景色が、グルグルと回る。

 ギュッギュッと道路をゴムタイヤが擦る音がする。

 私はなんとかハンドルを握りなおして、車体を落ち着かせた。

 その時、目の前に女性がいた。

 私の車は、もう横断歩道の目の前に来ていた。

 ドンッという鈍い音、フロントガラスに、急に蜘蛛の巣が張られた。いや、違う。放射線状にガラスが割れたのだ。

 その後、続けざまにガン、とかグシャッとか、そういう音がして、車は止まった。私の前に大きな風船みたいなものがバッと広がって、無防備な肺や腹を圧迫した。

「ぐっ」

 私は前のめりになって、風船にもたれ掛かる。

 さんざん左右に振られて、最後には前後に振られて、頭がクラクラした。

 視界も回っている。吐き気がした。

 車内には、しばらく私の荒い呼吸だけが響いていた。

 何が起こったのか、わからない。

 頭が真っ白だ。

 とりあえず、車が止まったことに安堵している。

 呼吸を整えて、何度も瞬きをした。

 フロントガラスは飛び散り防止の仕様がされていたようで、ガラスの破片を浴びずに済んだ。けれど、私の予想では、私のこれから先の夢であり希望であり、生き甲斐であった車は、無惨な姿になっていることと推察される。

 悲しみは、まだなかった。混乱しかない。

 私はゆっくりと顔をあげた。

 フロントガラスのひび割れが、赤く染まっている。私は、体の前にあるエアバッグを抱えるようにして、ガラス部分にそっと腕を伸ばした。

(車体の塗料が、削れて……フロントガラスにまで、飛んだ、のか……)

 そんなことを考えた。正常な思考であれば、そんなことはあり得ないことはすぐにわかる。しかし、混乱している私の頭には、赤い色というのは、私の愛車の色という認識しか残っていなかったのだ。

 私は、どうにか体を捩って、シートベルトを外す。

 そして、ドアをあけて、車の外に出た。

 私の車は、中央分離帯につっこんで、前側がひしゃげていた。

 タイヤも擦れて、左側前輪がパンクしている。

 そこでようやく、気が付いた。私の周りには、人だかりが出来ている。皆が私を唖然とした顔で見ている。

 しまった、バレてしまった、と思った。

 事故を起こした。これはもう、警察を呼ばれて逮捕されることが決まったと思い、唇を噛んだ。そもそも、この車、いつからあの店にあったのだろう。誰か、車のメンテナンスをしていた人はいるのだろうか。いないだろうな。なぜ、そんな簡単なことを考えなかったのだろうか。

 よろよろとしながら、私は車のボンネットに縋って立ち上がる。

 ヌルりとした感触に、私は視線を自分の手の方へやった。

 手のひらが、べったりと赤く濡れている。

 蒸し暑い夜の空気、気怠い湿気に混ざって、鼻腔にこびりついて消えないような鉄のニオイがした。よく、嗅いだことのあるニオイだ。手術室で、オペをしている時の、あのニオイ。

 私は、ボゥっとなって、車の先にある景色を見た。

 三メートルほど先、何かの塊が、ポツンと道路の真ん中に落ちている。

 なんだろう。

 私はやっぱりヨロヨロしながら、その塊の方へと寄っていった。

 一歩、また一歩。

 もう、頭の中では理解していた。

 心を置き去りにして、理解していた。

 はじめに、髪を認めた。茶髪寄りの、きれいな髪が、所々赤く束になっている。その次に、腕と指が見えた。明後日の方向を向いた足が、見えた。

 可愛らしいヒールの靴が、私の足下近くと、彼女の体よりも後ろの方とで散り散りに飛んでいる。

 髪で隠れて、目元は見えなかった。

 口の先から、鼻から、吐き出したように血液が漏れていた。

 私は、彼女まであと一メートルのところで、立ちすくんだ。

 生存医療を続けて、何年経っただろう。

 私は、人の命を救い続けてきた。

 全身から、力が抜き取られた。筋肉の全部を、神様に剥奪されたように。

 私はその場に座り込んだ。

 私は、人を、轢いてしまった。

 私は、人を、殺めてしまった。

 この子は、絶命している。それは、例え私が医者じゃなかったとしても、すぐにわかることだ。頭の一部が陥没している。

「は、ぁ……」

 力なく息を吐いた際、涎も一緒に落ちていった。

 夏の熱されたアスファルトが、座り込んだ私の尻やら足を焼いている。ジリジリと、責め立てるように。

 遠く、サイレンが聞こえた。

 その音に、不謹慎極まりないことに、私はホッとした。

 これで、私は尊厳死が許されない人間になった。

 私は、もう「死ね」という目で見られなくなる。

 「死ね」という目で見られることと、「苦しんで生きろ」という目で見られることと、どちらがツラいだろうか。

 それは、今後の自分の人生で、実感していくことになるのだろう。

「あ、ぁ……」

 私は、夜の空を見上げた。

 救った命、たくさん、感謝をされてきた。

 それなのに、本当の私は、本当の自分自身は。

「人を、殺してまで……」

 人を殺してまで、私は生きたかったのだろうか。

 私は、どうしてこんなに安心しているのだろう。

 どうしてこんなに。絶望でなく、安心しているのだろうか。

 車を買った時以上に、何故だろう。

 私は、清々しい気持ちになっている。


 ***

 体中の空気を、無理矢理一気に引き抜かれたような感覚があった。

 肺から喉までがグッと押しつぶされる。

 喉の奥が燃えるように熱くなった瞬間、体が飛んだ。

 ポーンと風船のように。

 驚くことに、私は浮いていると理解していた。

 浮かび上がりながら、夜空が近づいたのを見た。

 思考が追いつかない。

 どこまで飛ぶんだろうなぁと思った瞬間、頭にガッと衝撃が来て、それから上半身が熱いアスファルトの上を滑った。長く滑った。

 体の右半分が全部擦り切れたと思った。発火したのかと思うほど熱かった。

 それから、足が勝手に変な方向へブンと振られて、ゴキッと鈍い音、激痛が走って、体全部がビクンと震えた。

 私は、身体と思考がバラバラになった。

 何が起こったのか、何もわからない。

 混乱の渦の中で、ゴホッと咳が出た。

 鼻につくニオイは、サツキさんを見た時、お風呂場で嗅いだニオイだ。

 口の中がネバネバする。

 生温かい。鉄の味がする。

 体が全く動かない。けれど、私の意思とは関係なく小刻みに痙攣する。

 痙攣するたび、何もかも全てを痛みが支配する。

 世界中が痛みに満ちている。

 アスファルトに触れている右側が熱いのに、左側が急速に冷えていく。

 体が、濡れていくのがわかる。

 なんで濡れているのか。

(わたし、の、血……)

 認識した瞬間、恐怖の圧力に押しつぶされた。

何これ、なにこれ、どうしてこうなって、なんで、わたし、どうしちゃったの、これ、なんなの、痛い、痛いイタい

 パニックになって、息苦しくなって、深く呼吸しようとしたけれど、出来なかった。

 鼻にも口にも、何かが詰まっているみたいで、酸素が吸えない。

苦しい、苦しい、苦しくて、ますますパニックになって、呼吸しようとしても出来なくて、体がビクビク震えて、また痛い、熱い、寒い

 なんでだろう、死ぬんだなと思った。

 どうして、死ぬんだろうと思う。

 フミくんの誕生日プレゼント買わないと。

 昨日の喧嘩も謝らないと。

 心臓が変なリズムで動いている。ドドドと鳴ったり、ドッドッと鳴ったり変則的で、その度に息苦しい。

 死ぬのは、怖くなかったはずだ。

 死ぬのは、普通のことで、私は平均寿命よりも早めに死ぬ予定だった。

 でも、それは、まだ先の話だ。

(今じゃない)

今じゃない、今じゃない、今じゃない!

 死ぬのは、今じゃないはずなんだ。

今じゃない、だってまだ、まだわたし、私、まだ全然、これから

 意識が、後ろ側に引っ張られていく。

 頭が冷たい。

 視界がブレる。寒い。ガタガタ震えている。

「……誰、か、」

助けてください

誰か、助けてください。今じゃないんです、私、まだ

こんな風じゃないはずなんです

普通に、私、普通に苦しまないで、普通に死ぬはずで

だって、なんにも悪いことしてない

尊厳死は、誰にでも平等に与えられている権利だって、そうでしょ

なんで、なんでわたし、わたし、こんな

 本格的に息ができない。

 苦しい、苦しくて、ヒュッヒュッと喉が鳴る。

 今までで一番激しく、ガタガタガタと体が震えて、痛みで気絶しそうになった。

 再び、視界が白む。

 涙がボロボロ流れた。いや、血かもしれない。わからない。

 耳の鼓膜は、破けているのかもしれない。

 近くで人の気配がするのに、何も聞こえない。

 深海に潜っていくみたいに、あらがえずに、深く深く沈んでいくように。

 フミくん、フミくん、ごめんね。

 謝りたかった。ちゃんと。

 プレゼントも買えてないや。

 ああ、こんなのってない。

 虚しい人生でも、苦しい人生でも。

 それでも私は。

「ま、だ……」

生きていたい



 *ハルミ*

 ユカちゃんは、オイタナジー記念日には、出勤しようかな、と言っていた。特別な手当が出るなら、地獄のような忙しさでも、出勤しても良いかも、と言っていた。

 ユカちゃんは、九月のオイタナジー記念日が来る前に、死んでしまった。

 ストシャイよりも先に、逝ってしまった。

 私は、その知らせを聞いた時、一度全ての言葉を失った。


 ユカちゃんのお葬儀は、尊厳死をした人の簡易的なものではなく、ちゃんと行われた。そういう風にしたのは、彼女の恋人だったフミオくんだった。

 ユカちゃんが亡くなった翌日、二十歳になったばかりの男の子。

 ユカちゃんのご両親はもう亡くなっていて、お姉さんたちも自分の家庭があったので、彼が懸命に喪主を務めていた。時折、嗚咽をもらして、泣きはらしながら、懸命に。

 まだ細い背中だった。

 私は、ソラくんと一緒に焼香に行った。

 フミオくんは、私の顔を見ると、真っ赤な目で「ハルミ先輩、ですか?」と尋ねてきた。

「はい、そうです」

 私が答えると、フミオくんは自分の名とユカちゃんとの関係をしゃくり上げながら説明した。

「ユカちゃんから、よく話しは聞いています。フミくんフミくんって、楽しそうに……」

 私もここで、喉が詰まった。涙がドッと溢れる。

 ユカちゃんは、亡くなった後の顔も、見られないような状態だったそうだ。

 私の中のユカちゃんはフミくんのためのプレゼントを買いに行く前の、はにかんだような笑顔のままだ。

「僕、も、ハルミ先輩のこと、よく聞いてて……すぐにわかりました。ユカが言ってた通りの雰囲気の、人でっ」

 フミくんは、私に頭を下げながら、いや、頭を下げていたのではないのだ。頭が重くて、支えきれなくて、頭を垂れてしまうのだ。

 自分の頭を支えられるだけの気力も、今は残っていないのだ。

「僕、あの日の翌日、誕生日でっ、ユカはプレゼントを……僕が誕生日じゃなかったら、ユカは、あんな……」

 一度ヒュッとフミくんの喉が鳴った。

「あの日、プロポーズを、する予定だっ、たん、です……」

 フミくんは震える手で、小さな可愛らしい箱を見せてくれた。

 中にはキラキラ美しい指輪が入っている。

「バイト代、なんとか、ためてっ……ユカは、僕にプロポーズされたがって、たからっ、だから……」

 私は、両手で顔を覆うしかなかった。

 ユカちゃんは、ずっと待っていた。フミくんからプロポーズされるのを待っていた。でも、少しヤンチャで明るくて、とっても元気で裏表のないユカちゃんは、何度も催促をしてしまった。

 催促をされたからプロポーズしたのでは、格好が付かないとフミくんは思ったのかもしれない。

 ちゃんと自分の稼いだお金で指輪を買って、ユカちゃんに催促されていない状態で、プロポーズしたかったのだろう。

 まだハタチだ。まだハタチの男の子だ。そのくらい格好付けたってダサくもなんともない。格好いい。きっとユカちゃんは、泣くほど喜んだだろうと思う。

「さっき、葬儀社の、人に聞いたらっ、指輪、ユカにはめても良いって言われたので……燃え残っちゃうかもしれないけどっ、でも、はめようと、思います……今日は、来てくださって、ありがとうございました……」

 フミオくんは、何度もしゃくり上げながら言った。誓いの言葉のようだった。誠実で、愛に溢れている。

 ユカちゃんの人を見る目は正しかった。

 フミオくんは良い人だったし、あの日、死ななかったら、きっとユカちゃんは幸せになれたと思う。

 そういう、考えても仕方のない「もし、あの時、こうしていたら」というのを、ユカちゃんが亡くなってから、何度も考えた。

 何度考えても、結局は現実しか残らない。

 なんて虚しい、なんて意味のないことだろう。

 でも、私には必要な時間だった。きっと、フミオくんにも、ユカちゃんと親しかった他の人たちにも、そういう時間は必要なのだと思う。

 亡き人を「悔いる時間」というのは、いなくなった人が、どれだけ愛おしかったか、どれだけ大切な存在だったかの証明になるだろう。

 私は、悲しい。苦しい。切ない。

 ユカちゃん、あなたがいないのは、とても寂しい。

 寂しい。寂しいよ。着替えにどれだけ時間がかかっても良いから、どれだけ愚痴を言ってもいいから。私はユカちゃんと、またお喋りがしたいし、笑い合いたい。なんでそれがもう叶わないのだろうか。全然わからない。納得できない。受け入れられない。人の死は、本当はこんなにも悲しくて寂しい。痛くて痛くて、たまらないものだ。

 

 

 その後の私は、二つの裁判に出ることになった。

 ユカちゃんを轢いた犯人である人物の裁判と、サツキさんの旦那さんであるアキラさんの裁判。

 事故事件に私が直接関係するわけではないけれど、一応証言をして欲しいと言われた。断る理由もなかった。

 両裁判は、同日に行われることとなった。私を二度呼び出すのは面倒だと思ったのかもしれない。

 私は、その日、はじめて裁判所に踏み込んだ。役所に勤めて長いけれど、裁判沙汰になるような場合は、上司が出廷することがほとんどで、私は今まで一度もそういう件に縁がなかった。

 裁判所は、真新しい木の匂いがした。そういえば、建て替えられたばかりだったと思い出す。裁判所を使う機会があまりにも少ないので、建て替えついでに縮小されたのだ。

 裁判には、ケイくんとソラくんが付き添ってくれた。ケイくんは、わざわざ休みを取ってまで来てくれた。

 ソラくんは、サツキさんの事件があってからずっと、我が家で寝泊まりをしている。

 ユカちゃんのことは、ソラくんも相当なショックを受けていて、最近私は、彼の声さえ聞いていない。

 午前中に、ユカちゃんの事故の裁判が行われた。ユカちゃんを轢いた人は、優しそうな見た目のオジサンだった。

 裁判官の読み上げるところによると、六十二歳であるそうだ。

 元医者で、それも生存医療の医師だったと言う。皮肉な話だ。

 裁判が進んでいく中、オジサンもフミオくんも、ただ黙っていた。

 もう判決は決まっているのだ。人を殺したら、どんな理由であろうと、一生刑務所の中。尊厳死の権利も失われる。それだけだ。この国に死刑制度はない。ずっと昔に廃止された。裁判は、ただの確認だ。

 オジサンがどうやって車を手に入れたのか、どうして運転していたのか、なぜ事故は起こったのか。それらを確認していく。

 私は、事故の前のユカちゃんの様子を尋ねられて、それに答えた。

 フミオくんは、葬儀の時よりも一回り、二回り、小さくなってしまったように見えた。

 最後に、裁判官がフミオくんに言った。

 犯人に、何か聞きたいことはありますか、と。

 フミオくんは、しばらくボーッとオジサンの顔を見た後で、ポツンと言った。

「あなたは、六十二歳まで……どうして、生きてきたんですか……? 尊厳死を選択せず、六十二歳まで……なにか、理由があるんですか……?」

 フミオくんの質問は、ユカちゃんの死に直接関係のあるものではなかった。そして、純粋な子供のような声での質問だった。

 オジサンは、その手の質問には慣れているというような、本当に柔和な顔をして、優しい声で答えた。

「生きるのに、理由が必要だと、思ったことが、なかったんです」

 その答えに、フミオくんは、はじめて表情を崩した。嫌悪のような、憎悪のような、そんな顔をして、膝の上に置かれた拳が震えていた。

 オジサンは、フミオくんから目を逸らして、

「でも、死ぬのには、理由が必要だと、思っていました……」

 と、今度は呟くように言った。

 フミオくんは、静かに、けれど強い声で言った。

「そうですか……生きるのに理由はいらないのに、死ぬのには理由が必要ですか。ユカは理由もなく死にました。あなたに殺された。理由もなく。あなたも生きてください。理由もなく。刑務所の中で、永遠に。あなたに穏やかな死は与えられない。出来れば、ユカよりもずっと長く、ずっと多く苦しんでください。それが願いです。あなたにとっては、死刑の方がよっぽど辛いんでしょうかね。死刑制度がなくなったことを、僕は悔やみます」

 オジサンは、反論などせず、ただ静かに頭を下げた。


 午後になると、今度はサツキさんの裁判に出た。

 サツキさんは、未だに意識不明のままだ。

 ユカちゃんの裁判と違って、犯人側であるサツキさんのご主人、アキラさんは出廷していなかった。精神的なバランスを崩してしまって、今は警察病院に入院しているそうだ。

 私は、警察から提出依頼を受けていた役所のAIデータを裁判所側に渡していた。

 あの日、サツキさんが役所に来た時の映像と音声の記録だ。ユカちゃんが対応をしている映像。

 裁判では、その映像の確認がされた。

 顔色の悪いサツキさんが一番乗りで人権課の受付にやって来る。隣にソラくんもいる。

 サツキさんはユカちゃんに丁寧に対応をされながらも、時折震えたり、放心したりしている。サツキさんは、早口で一生懸命に喋っている。

「旦那が暴力をふるうんです。毎日のように、見えない場所ばかり狙ってきます。言葉の暴力もあります。本当に辛くて、辛くて、でも私は旦那を愛しているんです。今、旦那は出掛けていて、今のうちにと思って来ました。でも、やっぱり私、死にたくないかもしれないです」

 ユカちゃんが水を持ってくる。サツキさんに「落ち着いて」と話しかけている。

 サツキさんは、同じような内容の話を繰り返し、繰り返し、最後には勝手に納得したようになって、受付をフラフラと出て行った。

 この映像と、サツキさんの遺書で、アキラさんの有罪は決定した。

 しばらくは病院に入院して、精神状態が安定したら、刑務所に入るそうだ。アキラさんからも尊厳死の権利は失われた。彼もまた、彼自身に与えられている本当の、運命の死期が訪れるまで、生き抜かねばならない。


 二つの裁判が終わると、私はぐったりしてしまった。

 ケイくんとソラくんはずっと傍聴席にいてくれた。

 二人と合流して、近くのレストランで食事をした。

 昼を抜いたことと、役割を終えたことで、私は空腹を覚えていた。

「サツキさんの映像がおかしかった」

 料理を注文し終わると、ソラくんが言った。

「僕が聞いてた話しと違う。サツキさんは、アキラさんが尊厳死の手続きをしに来たか、それを確認したかっただけだ。暴力なんて、絶対嘘だ」

 正義感に溢れた顔が、私を見ている。

 ケイくんも、私の顔をツッと見て、

「ハルミ、やったな?」

 と言った。

「なんのこと?」

 私はとぼけて、気持ち大きな声で「お腹すいた……」と言った。

 ソラくんは納得していない顔で、私とケイくんを交互に見る。

「ハルミさん、何をしたの」

「彼女は大学の時から、僕より頭がいい。それに、学生時代AI技術を専攻していた。ああいう映像をいじるプロフェッショナルだよ」

 ケイくんが小さな声でソラくんに言う。

「言い過ぎよ」

 私が苦笑すると、ケイくんは「謙遜謙遜」と笑う。

「足取りは消してあるね?」

 ケイくんが慎重な声で言った。

「だから、なんのことかわからないわ」

 私は答えて、レストランの窓の外を見た。今日も暑そうだ。

「裁判所で嘘をつくのは、ダメだと思う」

 ソラくんは、ムスッとした顔をした。私は、彼の心の中にある正義感が眩しい。良い子だと思う。

「これで、アキラさんは死ななくなったから、サツキさんも安心できるね」

 私は言った。ソラくんがハッとした顔をする。

「私、今回のいろんなことで、わかったの。当たり前のことだけど、やっぱり好きな人には……大事な人には、死んで欲しくないのよ」

 ソラくんは、大きな目をゆっくり瞬かせて、それ以上は何も言わなかった。

 サツキさんが自殺をした時、警察で事情聴取を受けている時。

 たぶん、ソラくんは私と同じことを考えた。

 このままアキラさんを犯罪者に出来れば、サツキさんの願いは叶えられるのではないか、と。

 ソラくんには、まだ術がない。

 私には、ある。

 私には、そういう小狡いことをするだけの知識とか、そういうものが備わっていた。それだけのことだ。

 サツキさんの想いが、少しでも浮かばれることを願うばかりだ。


 *マサミチ*

 屈強とはほど遠い体格の警察官に連れて来られたのは、小さな部屋だった。天井近くに小窓がある。窓と言っても片腕が通るくらいのサイズだから、明かり取りというところだろう。

 固そうなベッドと小さな机、木製の椅子。

 風呂やシャワーはなく、トイレだけは簡易的な仕切の中にあった。

「風呂や洗面は共用。使用時間が決まっているので守るように。ここでは医療行為は禁止されている。お前は生存医療の医者だったそうだが、他の受刑者に医療行為を施すことは禁止だ。破った場合は、それなりの罰がある」

 私を部屋に放り込みながら、警察官は言った。

「食事は一日に三回。内一回は軽食。本日午後より労働開始。開始時刻には係りが鍵を開けに来るので、従うように。毎日、朝は五時に起床。一時間の運動と一時間の清掃業務を終えてから朝食。労働に関しては、いくつか種類がある。最初は色々と試して、己の技量に合ったものを選択するように。どの職に就いても日当は千五百」

「千五百、ですか……」

 私は思わず口を出した。

 警察官は目を細めて、私を軽蔑視した。

「罪人に給与が出るだけありがたいと思いなさい。あとは己の貯蓄でどうにか暮らすことだな」

 私は、肩を落とす。そうだ、私は人殺しなのだ。

 車を買ってしまったから、残った金は少ない。一千万くらいだ。

 加えて、殺してしまった女性の恋人に、慰謝料として五百万渡した。命の対価としては少なすぎる額だが、私に出せるのはそれが精一杯だった。

 残りは五百万。食費や光熱費がかからないのが救いだが、一度でも病気や怪我をしたらアウトだ。治療が長引けば、医療費は支払えなくなる。

「殺人の場合、何かあっても医者に看てもらうことはできない。薬を買うこともできない。そういう規則だ。日当千五百あれば十分に暮らせる。安心しろ」

 警察官は、私の思考を読み取ったかのように言った。

「……薬を、買うことも……? 自分の金ででも、ですか?」

 それは、初耳だった。知らなかった。刑務所の中のシステムなんて、詳しく知るはずもない。こんなところに世話になる予定はなかったのだ。

「自分の金があっても禁止だ。殺人の場合はな。罪の重さにもよるが、軽い罪ならば、自分の金で医療を受けられる場合もある。だが、お前の罪は一番重い類のものだ。せいぜい健康に気をつけるように。他に質問は?」

 私は黙ったまま、首を横に振った。

 警察官は「よろしい」とだけ言って、部屋を出て行った。ピーという電子施錠の音が低く重く響いた。

 私は、もう「いつ死ぬつもりなんだ」と言われなくて済む。

 たった一つの自分の命を、体を、心を、誰の助けも借りず、守り抜くのがこれからの人生らしい。

 たったひとりで、自分を守って、生きていく。

 一見、当たり前のことのようで、そうではない。

 人は、いつでも知らぬ間に、誰かと支え合って生きているのだと、今、実感している。

 この部屋に案内される前、刑務所のロビーで、一緒になった男がいた。

 見た目には、まだ二十代に見えた。目鼻立ちのくっきりした、美丈夫だった。

「オジサン、なにやったの?」

 静まりかえっているロビーに、彼の声が響いた。

 近くには見張りの警察官が立っていて、声を出した彼を睨んでいた。

「……人を、間違って殺してしまったんだ」

「……なにそれ、間違って殺すとか、普通ある?」

 彼は少し笑った。

「君は?」

 私が尋ねると、彼は「盗み」と答えた。

「金がなくてさ。俺、ゲイだから結婚もできないし、子供もつくれないし。ずっと金に困ってて、マジでどうしようもなくなって、仕事もしてたけど安月給で、でも俺、バカだから、あんま良いとこで働けないし。ほんと、どうにもならなくてさ」

 私は、彼の美しい顔立ちを見つめた。さぞかしモテただろう。

 男同士の恋愛というのは、私の人生にはあまり縁がなかったが、結婚もできず、子供も無理となると、辛かったろうと思う。

「昔は、ジェンダーレスなんて言葉もあったらしいのにね……」

 私は言った。生存医療の現場で、ごく稀に、そういう患者と行き合うことがあったので、知識は持っている。生まれながらの性と自覚している性が違う人も存在する。

 同性しか愛せない人。そもそも人を愛せない人というのも存在する。

「やっぱオジサンは生きた年数が違うな。大昔の話だぜ、それ」

 彼はフフと笑った。柔らかい笑い方で、品がある。

「今の時代は、結婚できない、子供が持てないってだけで、役立たず扱いだ」

 彼の言葉に、私も意味もなく笑った。

「長生きするだけでも、役立たず扱いだよ」

 彼は「あはは」と、先ほどよりも少し大きく笑った。

 私と彼は、しばらく笑い合っていた。

 悲しく、虚しく、涙が出そうになるのを堪えながら。


 

*ハルミ*

「私、久しぶりに実家に行ってみようと思うんだけど、どう思う?」

 食事をして、家に帰り着いて一息ついた後、私は言った。

 ソラくんは、私ではなくケイくんの顔を見て、

「ハルミさんの家族って生きてるの?」

 と言った。久しぶりに彼の声を聞いた。ケイくんは、ソラくんの背中をポンと叩く。

「生きているよ。ハルミの両親は自然死を良しとしている人たちだからね。ソラは、そういう人たちに偏見がある?」

 ケイくんは、ソラくんの存在にすっかり慣れて、最近では彼のことを呼び捨てる。ソラくんも、ケイくんに懐いているように見えるので、私は少し嬉しい。私が子供を産めない分を、ソラくんが少し肩代わりしてくれているような気持ちがあった。

 そもそもケイくんは子供を望んでいないのだから、この気持ちは私の完全なる自己満足なのだけれど。

「偏見はないけど、大変そうだとは思う……」

 ソラくんは、言った。そして、今度は私の方を見て、続けた。

「大変そうで、でも、大変そうなのは、間違ってるとも思う」

 ケイくんが小さな声で「ほぉ」と言った。

 私は、キッチンでお茶をいれた。まだ外は暑いけれど、空調の効いている室内では、温かいお茶も欲しくなったりする。

 夜も少しずつ更けてきたし、何よりケイくんが「ほぉ」とか言うときには、だいたい話が長くなるのだ。

「お茶、どうぞ」

 私はソファーに腰掛ける二人の前に湯飲みを置いた。

「ハルミがご両親のところに行くのは、良いと思うよ。ずっとそうした方が良いと思ってたし。ゆっくり話してくると良い。どういう結論に至っても、話し合うのと合わないのでは、納得の度合いが違うと思うよ」

 ケイくんは言った。

「ねぇ、ハルミさんとケイさんは、どうして結婚しないの?」

 唐突に、ソラくんが尋ねた。ずっと疑問に思っていたらしい。そもそも、初対面の時は、結婚しているものと勘違いしていたそうだ。

「私が子供を産めない体質だからだよ」

 私が言うと、ケイくんは「違う」とすぐに言った。

「僕が、結婚したくないからだ。結婚したり、子供を持つことで楽をしたいと思わないからだ。僕は、もしハルミが子供を産める人だったとしても、結婚はしないと思う。妻や子供を、自分が生きやすくなるための道具にしたくない」

 ケイくんは、いつもと変わらぬ論調で言った。ソラくんが首を傾げる。

「でも結婚すれば、ハルミさんも楽になるんだよね?」

 ケイくんは、少し難しい顔をして、

「経済的な面は、結婚をしていなくても援助し合える。僕のお金をハルミにあげたって良いわけだし。そもそも、ハルミもしっかり稼いでいる」

「でも結婚したら節約になるよ?」

 ソラくんは、普通のことのように言った。私は思わず笑ってしまった。その通りだ。ケイくんは、家柄的に財政的に困窮したことがない人だから、「節約」という概念が少し抜けているところがある。

「僕は、三十五歳で死ぬ予定だから、あと六年もすれば、いなくなる。それなのに結婚するというのも、なんだか詐欺みたいだろう?」

 ケイくんは、頑張って言った。相手はまだ十五歳だ。彼が誰かの説得に手こずっている様子は新鮮だった。

「そんなの、ケイさんが三十五歳で死ななきゃいい話じゃないの? 平均寿命だって五十歳とか、そのくらいなんだから、そこまでは生きれば良いじゃん。元気なんだから」

 ソラくんは唇を尖らせている。役所に来た時の彼とは大違いだった。

 彼は、死ぬつもりで役所に来た。受付を受理せずに一度帰したのは、正解だったと心底思う。本当のソラくんは、こんなにも生き生きとしていて、こんなにも無意識に生きたがっている。

 ユカちゃんやサツキさんの件も、彼の気持ちに、大きな影響を与えただろう。

「ねぇ、僕をハルミさんとケイさんの子供にしてよ」

 ソラくんは言った。私は目を見開いた。ケイくんはもっとだ。

「養子縁組みしたらさ、本当の子供がいる人と同じだけの援助が受けられるんだよね? ハルミさんとケイさんが結婚して、僕を養子にすればいい。そうしたら、節約になる」

 そうだよね、とソラくんが私を見る。

 私は、自分の湯飲みを無意味にくるくる回しながら「そうね」と答えた。

「だから、僕は三十五で死ぬ予定だから……」

「僕だって、二十歳になれば、ひとり立ちしないといけない。あと五年だ。ケイさんは三十五歳で死ぬとしても、あと六年でしょ。僕のひとり立ちの方が先」

 ソラくんは、最近喋っていなかった分を取り戻すように、口を動かす。

 私は、そんなソラくんを見て、ケイくんに似ていると思った。

 ケイくんは、少し考え込むような顔をして、それからソラくんに向き合った。

 すごく真剣な顔をしている。

「少し、難しい話をしよう。難しいけど、僕はソラになら理解ができると思う。わからなかったら質問して」

 ケイくんが言った。私はソラくんに「長くなるよ」と耳打ちした。

 ソラくんは、ケイくんの顔をじっと見て、聞き入る体勢に入った。

 そして、ケイくんは目を閉じて、呼吸を整えた後、ゆっくりと話し始めた。


「僕は、代々政治家をしている家柄に生まれた。小さいころから、政治について、ありとあらゆる勉強をしてきたよ」

 ソラくんは、ケイくんが政治家であることをもう知っている。はじめましての時に、両者とも自己紹介をした。

「僕は常々思っているんだけど、この国の同調圧力には目を見張るものがある。同調圧力っていうのは、ひとりひとりの意志など飲み込んで、全てを平らに馴らしてしまうことだ。右を向けと言われれば右を向く、今度は左だと言われれば、左を向く。この国の人々は、長い年月をかけて、調教されてきたんだよ」

 ケイくんは言った。平らな声の中に、ほんの少しの嫌悪が含まれている気がした。

「もちろん、この国にも時折、右を向けと言われた時に、それを聞かないで左を向く人もいる。でも僕は、それはただの愚行だと思う。圧力に屈しないという姿勢は天晴れだけど、ただ人と違う行動をしたり、規則に背くだけでは、ただの悪目立ちだ。その行動にはなんの意味もない」

「だったら、どうすれば良いの」

 ソラくんが言った。疑問系にもならないような、攻めるような強い口調だ。

 ケイくんは、ソラくんに負けないくらい強い声で続けた。

「右を向けと国民に号令をかけた人間を探せ。誰が言ったのか、突き止めるんだ。そして、その人間が、なぜ国民に右を向かせたかったのかを考えて、とことん、突き詰めるんだ。真実を」

 誰が、何のために、どうしてそういう号令をかけたのか。

「歴史があるなら、紐解くべきだ。どんなにその闇が深くても、覗き続けろ。それが、生きる力になる。真実がわかれば、自分がその真実に対してどういう気持ちを持つのか、自分の本当の考えを見つけることができる」

 僕は、この国が尊厳死を一般化させたことは、間違っていないと結論付けた。歴史を遡り、様々な立場の人の話を聞き、毎日気が狂いそうなくらい、考えた末に出した答えだ。

「だから僕は、胸を張って生きていけるし、僕は僕の正義に則って、三十五歳で尊厳死を実行する。それが、考え抜いた先に見つけた僕なりの答えなんだよ」

 僕は、僕と違う考えを持つ人を否定しない。

 人それぞれ、考え方も感じ方も違うのは当たり前のことだ。

 でも、何も考えずに答えを出すのは、愚かだと思う。

 この世界の規則に同調するにしても、背くにしても、自分で出した答えが必要だ。

「ソラ、君には考える力があるかな? 生きる力がある? それとも、そんな面倒なことは考えず、ただぼんやり生きて、良い年齢になったら尊厳死を選ぶか? どういう選択をするのも、君次第だ」

 ケイくんは、まばたきもせず、ソラくんを見る。

 ソラくんは、時折、眉根を寄せながら、懸命に話を理解しようと頑張っているようだ。

「いいかい、ソラ。この世の中がオカシイと思うのなら、変えていくのは君たちだ」

 政治家のことを、みんな「今の時代を代表する人」と考えがちだ。それも間違いではない。でも、本当のところ、僕たちが考えているのは百年先のこの国の未来だ。

 今、僕たちが生きているのは、百年前の政治家が考え抜いた末に作り出した世界だ。

 百年以上前、この国は少子高齢化が深刻な問題となっていた。百歳を超えても生きている人が多く、平均寿命は九十歳以上だった。その割に子供は少なく、三人に一人は高齢者だった。その高齢者を支えなければいけない若者も当然少なくて、若い人にばかり重い税金が課せられた。

 若者だって疲弊する。結婚して子供を育てるなんていう余裕もなくなり、さらに少子化が進んだ。

 若者が困窮する一方で、ある一定層の景気の良い時代に生まれた高齢者は裕福だったりもした。格差が広まったし、その歪みによって犯罪も多くなった。自殺者もどんどん増えていった。

「そんな世界を変えるために、百年前制定されたのが、尊厳死法だ」

 結婚して子供を生めば、生活が楽になる。だったら結婚しよう、子供を持とうと思うだろう。

 医療費が信じられないほど高ければ、長生きも難しい。

 けれど、そこには尊厳死がある。苦しまずに穏やかに、ただ眠るように死ねるのであれば、長患いで苦しむよりずっと良いと考える人が少しずつ増えてきた。

 自殺者は、ほとんどゼロになった。自殺ではなく、みんな尊厳死を選ぶからだ。

 高齢者が減った分、国は若者や子供にお金をかけられるようになった。

 子供の教育格差をなくして、誰でも無償で教育が受けられるようにした。

 この国の子供の大学卒業率は、八十パーセントを超える。就職率も高い。今までは、高齢者が職場を圧迫していたけれど、今では五十歳以上で働き口を見つけるのは、ほとんど不可能だ。その代わり、若くて頭の回る人たちの働き場所は確保される。

 僕は、この世界を容認するし、百年前の政治家たちの考えに賛同する。この世界の、今のルールを「良し」と結論付けたんだ。

「……でも、この先の未来もずっとこのルールのままで進んで良いかと言われると、そうは思わない」

 ケイくんは言った。

「今の世界は、再び偏りが行き過ぎてしまっている。尊厳死が、まるで人権の全てのように勘違いされがちだ。なにも死に方だけが人権ではない。本来は、生き方にこそ人権があるべきだ。だからこそ、僕は、君にこんな話をしている。君がおかしい、間違っていると思ったのなら、「次」の百年を変えるのは、君たちだ」

 ソラくんは、口元をキュッとさせてから言った。

「ケイさんは、変えようと思わないの?」

 ケイくんはニヤリとした。

「変えようと思う。さっきも言ったけれど、このままのルールで進んで良いとは思っていないからね。でも、変革には長い時間が必要だ。国民からの反感を買わないよう、細心の注意を払って進めなくてはいけない。でも、僕の代でも、いくつか布石は打ってある」

 ケイくんは「政治家だけの、企業秘密だけどね」と付け加えた。

 ソラくんの目には、だんだんと何かの力が湧いてきているように見えた。

 希望とか、未来とか、そういう種類の力だ。

「ソラ、君がどういう結論を出すのかは、君次第だよ。無関心を貫いても良いし、何かを変えたいと強く思って、信念を持って行動しても良い。それで何かが変わるか、何も変わらないか、それはわからない。君の力次第だし、君に同調してくれる人がどれだけいるかにもよる。君の人徳や説得力、つまり頭の回転とか思考力とか、そういうものにもよる」

 努力が必要だ。

 しかし、努力は生きる力でもあるよ。

 ケイくんはソラくんの頭を優しく撫でた。

 ケイくんの真剣だった表情が、いつも家にいる時の、リラックスしたものに戻った。

「僕が今のこの世の中で最も気に入っているのは、何もかも全てを、死ぬ時期さえも、自分で選べるということだよ」

 考えて、選んで、迷って、それでも進む。

 そういう努力は、すなわち生きることそのものだ。

 そうやって生きて、良い時期に自分の意思で人生を終える。

「やっぱり僕は、ケイさんとハルミさんの子供になりたい。それで、ケイさんにいろんなことを学びたい」

 ソラくんが言った。

 私はだんだん面白くなってきた。

「私はソラくんを子供にしても良いよ」

 私はニッコリ笑った。そんな私の顔を見て、ケイくんは「ゲ」という顔をした。

「二対一か……しかもハルミがそっちに付くというなら厄介だな」

 ケイくんが言った。ソラくんは笑う。

「ハルミさんって全然強い感じしないのに、実は最強なんだね」

「最強だよ。なにせ、僕より頭が回る」

 ケイくんが言った。

 私は知らん顔で口笛を吹く。実際、大学のころは私の方が成績が良かったけれど、今はわからない。私は役所の受付しかしてこなかった。ケイくんは、その間も政治の世界で揉まれていたのだ。

「僕は小さい頃から、きちんと人生設計をしている。綿密な設計の結果、三十五歳で死ぬのが一番良いんだ。だから、ソラ、君に何かを教えているような、そんな暇はないよ。他にやることがたくさんある」

 ケイくんの言葉に負けず、ソラくんは反論する。

「僕がケイさんの予定を壊す。ケイさんは三十五歳では死なない。僕にいろんなことをキッチリと教えてから尊厳死してください」

「えー、嫌だよ。ソラとはまだ会ったばかりなのに、僕が苦心して作った人生設計を狂わされてたまるか。どれだけ長いこと考えて作り上げた設計図だと思ってるの?」

 二人の会話は、まるで兄弟のようだった。

 私は平和な気持ちで、ただ聞いている。

「ねぇ、ハルミさんはどう思う?」

 ソラくんが私の腕をチョイチョイと引いた。

「好きな人には、死んで欲しくないわね」

 私は笑って答えた。ここ最近、よく口にする言葉だ。

「ハルミ、今までそんなこと一度だって言ったことないじゃない!」

 ケイくんが驚いた声を出した。

「考えが変わったの。人間は変化のイキモノよ」

 隣でソラくんが「うんうん」と頷いている。ケイくんはやっぱり分が悪いような顔をした。

「でもさぁ、そもそもなんで今まで誰も、尊厳死はオカシイって思わなかったのかな……みんな受け入れてて、五十歳くらいで死ぬのを当たり前って思ってる。僕も学校でそういう風に習ってきた」

 ソラくんが言った。今までシャキッとさせていた背中が、少し丸まる。

「生きてると、楽に死ねるんなら、死んだ方がマシだって思うことが腐るほどあるからだよ」

 私が答えると、ソラくんはびっくりしたような顔をした。

「ハルミさんは死んだ方がマシって思ったことあるの?」

「たくさんあるよ」

 ソラくんは俯いて「まぁ、僕もあるけど」と言って、ひとり頷いていた。

 お母さんや弟が亡くなった時のことを考えているのかもしれない。

 ソラくんは、再びケイくんの方を見て、

「なんでケイさんは、三十五歳で死ぬって決めてるの……?」

 そう質問した。その答えについては、私も気になるところだ。

 私も、なぜその年齢なのか、理由は聞いたことがない。

「三十四歳になったタイミング……いや、もちろん情勢を見極めてだけれど。そのあたりで、僕は尊厳死を行う際にかかる費用を引き上げようと思っているんだ。もちろん、ここまで尊厳死法が浸透してきているから世間からのバッシングは免れない。そういう批判や批評の嵐を一年間潜り抜けた後に、僕は自分の持っている財産の半分くらいを国に献上しながら尊厳死をするシナリオだよ。国の財政難を考えて、どうか国民も協力して欲しい、尊厳死をする際の費用が上がることを許して欲しいという願いと、あの世に金は持っていけないという実証をそこでするつもりなんだ」

 ケイくんは真面目な顔で言った。それからおもむろに立ち上がると、自室からノートを一冊持ってきた。

「そういうシナリオは、全部このノートに記してある。僕の次に続く誰かに引き継ぐつもりで」

「どうしてそんなことするの? 尊厳死って、たくさんお金がかかるようになったら、金持ちしか出来なくなっちゃうじゃん」

 ソラくんは言った。

「平均寿命が下がり過ぎたからだよ。高齢者の割合は、もう少し増やしても良い。尊厳死のハードルを上げることで、国民は今よりも長生きになる。まぁ、昔みたいに老人ばっかり、みたいにしたいとは言わないけれどね」

 ケイくんは平然と言う。

「歴史は繰り返すってよく言うけれど、ある一定の部分においては、歴史は人為的に繰り返されているものなんだよ」

 ソラくんは小さな声で「うーん」と唸った。

「なんで財産の半分なの?」

 今度は私が尋ねた。私としては、尊厳死の費用を上げる案については、ケイくんの考えそうなことだなという感想だったので、あまり驚かなかった。考え抜いたようでいて、とても単純。昔からそうだ。ケイくんは純粋な子供のまま大人になったような人だと思う。

 または、考え抜いた先にある答えというのは、案外単純なものなのだ、ということか。

 ソラくんは、黙って、ケイくんの持っているノートの表紙を見ている。ケイくんの言葉の意味を、自分なりに考えているのかもしれない。

「財産の半分は残して、姉さんに渡すつもりなんだけど。そこまで姉さんが生きていたらの話しで、生きていなかったら、ハルミに渡すつもりだよ」

 ケイくんは言った。私は、フッと鼻で笑ってしまって、でもすぐさま軽く咳払いをして誤魔化した。

「ケイさん、お姉さんいるの?」

 ソラくんが言った。

「お姉さんも政治家の人?」

「いや、ギャンブル中毒の人だよ」

 ケイくんは、嬉しそうな顔をして言った。

「ケイくんはシスコンなのよ」

 私が言うと、ソラくんは私に対して、ものすごく嫌な顔をした。

「シスコンってお姉さんのことが好きってことでしょ? 兄弟のことが大好きなのって、そんなにオカシイこと?」

 私は、すぐさま反省した。そんなつもりで言ったわけではなかったのだけれど、相手にとって不快だったのならば、それが全てだ。

「おかしくないです。ごめんなさい、言い方が悪かったです」

 私が言うと、ケイくんがカラカラ笑った。

「ハルミが謝ってる」

「私だって謝るよ」

「ハルミは、そもそも間違わないから、謝っているところが新鮮なんだよ」

 ケイくんは、褒めているのか、バカにしているのかわからない感じのニュアンスで言った。そして、ソラくんに向き直る。

「僕の姉さん好きはね、ちょっと病的なんだ。ハルミがシスコンって言うのも、間違ってないなぁって自分で思う」

 僕は彼女が好きだ、ケイくんはうっとりと言う。

「僕の姉さんは、中学生のころから親にも秘密で賭事をしていて、今では立派なギャンブル中毒。いつでも有り金を全部賭けてる。それで、所持金がゼロになったら、自己破産申請をして、国のお金で尊厳死するんだって。そう宣言して、もう何年経つだろうな。彼女はまだ生きてる。親にも僕にも、一度も借金をしたことがない。もちろん、自分で働いたこともない。運が強いんだろうね。姉さんは今年で三十二歳だ。僕は姉さんが好きだけど、姉さんは僕みたいなタイプは嫌いらしくて。三年に一度くらいしか会ってくれないんだ。でもね、会う度に思う。彼女はね、全力で「生きる」ことを謳歌している。そういうところが、たまらなく好きで、憧れるんだ。僕はそういうタイプの人間にはなれない。姉弟なのに、おかしいよね。ちゃんと同じ父母から生まれてるのに。姉さんは僕と最も遠いところにいる人だからこそ、憧れてやまないんだ」

 ソラくんは、ケイくんが熱く語るのを「わかるよ」と言って聞いた。

「僕もウミのことが大好きだった。だから、ウミが死ななきゃいけなかった今の世の中をオカシイと思う。ウミは良い子だった。死ななきゃならない理由なんてなかった。そういう子が死んでいるんだから、世の中の方がオカシイんだ」

 ソラくんは、ケイくんの腕を握った。

 ソラくんはまだ十五歳で、まだ子供で、でもケイくんの腕を掴んだ手は、大きかった。

 ケイくんに、負けないくらい大きい。私はそれにびっくりした。

「ケイさんに、教わりたい。そのノートに書いてあること、僕が引き継ぐことって、できないの? ケイさんには子供がいない。全然知らない人に引き継ぐより、僕が養子になって引き継げば良い」

 ケイくんは、ソラくんを値踏みするような目で見た。あまりにも不躾な視線に少しハラハラしたけれど、ソラくんは怯まなかった。

「本気で言ってる? それって、将来は政治家になるってことかな?」

 ケイくんは言った。

「オカシイ部分を変えるのに、政治家になった方が良いなら、僕はそうする」

 凛とした声が響く。私には、ケイくんの目が、久しぶりに楽しげに光ったように見えた。これはひょっとすると、ひょっとするのかもしれない。

 ソラくんの存在は、ケイくんを生かしてしまうのかもしれない。

 三十五歳で死ぬと決めていたケイくんを、もっとずっと長く、生かすのかもしれない。

 自分の存在に意味や価値があるということは、その人に、本当の生きる力を与えるのかもしれない。

 ケイくんは、ソラくんに政治世界のアレコレを教えるという理由や、そのことによって未来が変わるかもしれないという価値によって、生きる意味や力を得るのかもしれない。

 それは、ケイくんにとっては嫌なことかもしれないけれど、私は嬉しい。ケイくんも、ソラくんも、元気に長生きしてくれた方が嬉しい。

(私の、両親も……)

 私は、両親のことも、ケイくんのことも好きだ。ソラくんのことも、好きになった。みんなに、長く、楽しく、元気で生きていてほしい。

 私には、両親のような自然派と呼ばれる人たちのような生き方はできない。自給自足みたいな生活ができるほど、タフではない。

 やっぱり、重い病気にかかったりしたら、闘病よりも尊厳死を選んでしまう気がする。でも、そうでない限り、生き抜きたいとも思う。辛いことも、多いけれど、それでも。

 生きていれば、こういう、予測できないような人間同士の化学反応が起きたりする。

 私だけでは、ケイくんの寿命を引き延ばせなかった。私はケイくんと長く付き合っているけれど、そういう力は持っていなかった。

 ソラくんは、お父さんやお母さんが亡くなっていなかったら、弟のウミくんが亡くなっていなかったら、政治家になんて興味を示さなかったかもしれない。

 この世界のオカシさにも気付かずに、もしかしたら、平均寿命よりも若くして尊厳死を選んでいた可能性だってある。

 人生は、予測できない未来ばかりで出来ている。

 恐ろしいことだとも思う。

 けれど、そこにはちゃんと希望もある。

 希望のカケラは見えにくいし、反対に、不安の方は見えやすいから、信じることは難しいけれど。

 人生は、そんな単純なものでもないらしい。

 人生、という言葉を噛みしめる。

 人が、生きると書いて、人生だ。

 どこにも「死」の文字は入っていない。

 死に方なんて、人生の中には含まれない。

 怖い。恐ろしい。死ぬことは、計り知れない。

 でも、私たちは今まだ生きている。

 人生の、途中にいる。

 まだ死なない。まだ、今日も人生を歩いている。

 ユカちゃんのように、突然道を塞がれることが、私にもあるかもしれない。

 何かのきっかけで、サツキさんのように、私も自らの命を、何かと引き替えに差し出すことも、ないとは言えない。

 全部わからない。

 わからないまま、生きていく。

 私たち、全員、生きている限り、全員だ。

 私は、ケイくんとソラくんのやり取りを、愛おしく見守った。

 誰もが、死ぬことと同じだけ、生きる権利を持っている。

 穏やかに、生きることを、望む権利を。



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穏やかに死ぬ権利 @ueda-akihito

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