此岸の日々
藤宮史(ふじみや ふひと)
第1話
「
仕方がないので、私ひとりで、小銭を
小銭は、千円に満たない額であった。恥ずかしい金額である。帰路、コンビニで、おにぎりやパン、カップ麺を買うと、すべての金が消えていった。食糧が手に入ると、空腹ではあったが、自転車のペダルを漕ぐ足は軽やかになる。
座卓のまえに坐っていると、腰の筋肉が、これは筋なのかもしれないが、その部分が切れるように痛むことがある。また、背骨の軟骨がキシキシ切れるように痛むこともある。これは四十五歳にはなかった不安な現象だ。それから赤い点、通称かっぱエビせんが
三十歳は中年、四十歳は初老。これは国語辞典に書いてある。五十歳はなんと言うのだろうか。昔は人生五十年と言った。近世までは、
五十肩になった右肩は、もう垂直に腕を上げることができず、無理をしてもちゃんと上がる左腕の半分ぐらいしか上がらない。だから時折不自由を感じるときがある。
また一時間程歩きとおすと腰が
段々不便になってゆく
ブラウン管の小さなテレビから安保法案のニュースが流れてきた。
国会議事堂前の道路に集まったデモの人たちの映像が出ている。戦争反対や安倍政権退陣などのプラカードが見える。デモの人たちは学生だけでなく年配の人も多いようだ。男性だけでなく女性の姿も見える。元気な年配者たちの姿に
私は、普段は眼鏡をかけてテレビを見ているが、本を読んでいて、急に顔をあげ、眼鏡なしでテレビを見ると、画像は濡れたガラスの窓越しに見る景色のようにぼやけている。デモの群衆は、原色の色彩の
すっかり老眼が進んで、乱視・遠視用の眼鏡をはずして本を読んでいたが、眼鏡をした
ものが見えづらくなったのは、何も目ばかりでもなかった。昔なら、デモや政治活動を見ると
今は、ただ
一年半程、縁が切れていたサラ金と、また復縁である。もっとも、サラ金が貸してくれたらの話であるが、私は、
「ねえ、大丈夫かしら? ほんとうに、出るの?」
心配顔の万優子は、コンビニのATMの横で口を
「ああ、
私も、
併し、案外ATMは、無表情に、機械的に紙幣を出してきた。
金を見ると、万優子は「ひっ」と
私たちは、あっと
私の版画、漫画が売れれば問題はなかったが、
実際、先日まで我が家は万優子のパート収入で食っていた。芸術だ、なんだと言ったところで
目のまえに私がいた。しかも二人いる。
目のまえの二人は、しきりに議論している。この度の安保法案について
「アメリカの言いなりになって、地球の裏側まで行って、戦争するのは憲法違反である」
そう私が言っている。発言内容から反対派だろう。
「現実を見てください。世界の情勢は日々変化して、今では一国だけで国を守ってゆく時代ではない。協力し合ってやってゆく以外にないんだ。本来なら憲法改正して自衛隊を合憲にしてゆく。それが出来ないと国家として成り立たない」
また、もう一人の私が言っている。発言内容から賛成派だろう。
「私は、子供の頃に戦争の悲惨さを味わったことがあるから、今回の法案には断固反対を表明してゆきたい。必ずこの戦争法案は廃案に追い込まないといけない」
おやっ、と思うことを言いながら、段々私の顔が、或る映画監督の顔に変化していった。もう一人の賛成派の私は、
「どうせ、派遣で
こちらも、私の顔から、見ず知らずの中高年の男の顔に変化していった。話の内容から、派遣切りに遭ったホームレス状態の者らしい。
「この反対集会は、まさに歴史的なものです。フランス革命にも匹敵します。みなさん、チカラを合わせて、必ず戦争法案を廃止にしましょう!」
今度は、映画監督の顔から段々変化して、
「戦争になれば、兵隊になって職を得られるかもしれない。もしかして正社員みたいになれるかもしれない。今のままだと正社員の仕事はないし、仕事がないと結婚して子供をつくって幸せ、なんて絶対にない。それどころか、今は彼女をつくってデートする金もない」
派遣切りの男の顔から、ひきこもり、ニートらしい風貌の若い男の顔に変化していった。
「きっと、僕らが戦争に行くことになるから、今日、お父さんとお母さんと一緒に、このデモに参加しました。戦争はよくないと思います。学校では、〈いじめをなくそう運動〉をしていますが、国同士でも、〈戦争をなくそう運動〉をすればいいと思います」
音楽家から、小学生の男子に変化していった者が
「一度でいいから、拳銃を撃ってみたい。出来れば機関銃だと尚いいな。戦車に乗ったり、大砲を打てたら、死んでもいい。市街戦をやって、大活躍をする。今の退屈な生活からおさらばできるなら、安保法案大賛成だよ。地球の裏側に公費で行けるなんて信じられない。いよいよ自分にもツキが回ってきたようだ。戦争法案大賛成だ!」
ニートの
ガヤガヤと
私も、妻がいるから、家族が無いとは言えないが、仕事は、金銭の入る仕事として確立しておらず、また財産は借金があるだけで何もない。
家賃と部屋の更新料、電気、ガス、水道、電話、そして、ネットのプロバイダー料金、医療保険料、サプリメントの未納金を支払うと手持ちの金は15万を切った。私は国民健康保険料や年金を随分長いこと未納や免除になっていたが、妻はこの間まで三年間パート仕事に行っていたので、会社で強制的に社会保険と厚生年金に加入させられ、毎月税金を含めて4万5000円強の金を徴収されていた。だからどんなに働いても毎月の繰り越しの金は一円も残らず、失業するとすぐに食い詰めることになった。
贅沢な暮らしをしていたわけではない。私に至っては、衣料は下着類も一年以上は買ったことがなく、銭湯も一回460円掛るので、ひと月に4回、これは夏場の話で、冬場だとひと月に2回しか行っていない。あと切り詰めるとしたら、日々の食事であるが、一日二食のところを一食にする。または一日おきに一食だけ食べることになる。こうなると、もはや現代の食料事情の話ではない。戦中か終戦直後の
こんなにまでして
年金の話であった。私たち無年金者は、このままだと貯金が出来ないので働けなくなると生活保護受給者になってしまう。
「どうするのよ。これから・・・・・」
遠い将来への不安よりも、今後ひと月先の未来にたいする不安で、万優子から不平が出る。が、当然と言えば当然である。
「木版漫画が
私は歯切れ悪く言うしかない。行く先々は
「小説が、ヒットしなくても、せめて、安くても食えるだけ原稿料が入れば幸せなんだが。でも、いま書いている長編の受賞発表は来年の三月末だろう。そんなには待ってはいられないな。それこそ餓死してしまう」
「やっぱ、木版漫画の冊子を作ったほうが、少しでもお金が入るんじゃないかしら」
「そうだな、背に腹はかえられない。当面は日銭を稼ぐしかないかな・・・」
人生に、それほど名案はなかった。貧すれば鈍するである。資金がなければ、結局体裁のわるいシノギになる。土曜、日曜日にあてをつけて井の頭公園に行く。
公園の出入口の階段下は物売りの姿がなかった。ここは以前、私たちが風呂敷をひろげて物売りをしていた所である。あれは、もう16、17年前のことであった。あのときも食い詰めていたが、今は歳を取った分だけ
「大丈夫かしら?ここで売っていて?」
「ああ、たぶん大丈夫じゃないと思うけど、なんか言ってくるまで
無責任なことを言っていたが、元々公園内で物品の販売は禁止されていて、それを無視して以前も今も
風呂敷代わりのビニールシートをひろげて5分も経たないうちに、目が
「ここは、うちらみたいな、昔からやっている、資格のある人しかやったらいけないのよ。あなたたち資格ないでしょ」
一方的に、断定的に言っている女の顔に見覚えがあった。この女は、以前、私たちが公園で売っていた当時から公園にいた女で、女自身もやはり今のように紙にイラストを描いて売っていたのである。随分久しぶりに見たが、女は私たちには気がつかず、以前の精彩はなく、老けて醜くなった。まえも特徴のある嫌な感じのする女だと思っていたが、今の女は若さも無く、一見年老いた狂女のようであった。
私は、妻と顔を見合わせて無言でシートを片付けた。
ふたりして荷物を持って公園のなかを歩きながら、
「びっくりしたね、生きていたんだ。17年ぶりぐらいだね。俺らもだけど、むこうも、どうやって生きて来たんだろうね。でも、早かったね。すぐに飛んできたよ。マメだね。相変わらず」
「ほんと、嫌になっちゃう。ああ
「いや、権力じゃなくて、この場合は利権だろう。・・・利権と云っても露店じゃ、売り上げも、それほど上がらない利権じゃ、しょうがないのに、どうして人間は利権、利権と
私たちは、他の物売りのいない公園通路の日陰の隅にシートを広げた。
昨日製本したばかりの木版漫画の冊子三種類30冊ほどを並べたが、品数が少なくて貧弱な店舗であった。
通路を行きかう人々の
「これは、全部木版画で描いているんですか?漫画ですよね、凄いですね!僕もね、漫画描いているんだけど、なかなか連載がとれなくて、編集はいいって言ってくれるんだけど、どうも編集長がなかなかオッケーを出さないらしくて、早く編集長が代れば僕の漫画も認められて、ゆくゆくは印税で億万長者も夢じゃないんだけど、なにしろ頭の固い、時代遅れの編集長がいるばっかりに僕の未来は閉ざされているわけだけど、あなたたちも随分長いこと苦労しているんでしょう。わかりますよ。あなたたちの苦労。僕もね、今の編集長が
キチ×イは
また
やおら冊子を拾い上げて、しげしげと木版漫画に目を通していった。
「たいへんでしょう、これだけの物を作るのは」
「ええ、これは一冊作るのに、漫画で3ヶ月間、冊子で2ヶ月間ぐらいですかね」
「そうなんだ。私も仕事の
そう聞いて、
「ええ、結構です。うちの人の漫画は、感じのいい本に成らなくていいんです」
と、答えると、年配の男は
「お前ね、商売が
「だって、失礼じゃない。
「そりゃ、気分は良くないよ。しかし、せっかく売れるかもしれないのに、みすみす客を逃がしたようで、それのほうがよっぽど
冊子の木版漫画が単行本になっていないわけではなかった。
万優子が、公園をひと回りしてくると言い残して歩いて行った。
売り上げの金額を聞いて万優子が歓喜の声をあげた。祝杯を上げようと公園脇の焼鳥屋いせやに寄ることになった。途中、公園内の広場を通り抜けていると、野外舞台前の据え付けられたベンチに、知人の顔をみつけた。
知人とは10年以上前に音信不通になっていた。知人は、私たちに
知人も、その昔、80年代初期には現代バレエの世界で音楽家や詩人たちとコラボレーションをして名を
私たちは背後から知人の顔を
つまらぬ者を見掛けたと、万優子は私の
「今日は、どう
「ああ、でも××さんには
万優子は、体質的にアセトアルデヒドが酵素で分解されずアルコールは飲めないとテレビで仕入れた新知識を
万優子はウーロン茶で10本も焼鳥を食べている。私はひたすらビールを
「まえみたいに、古本屋に冊子を納品してみたらどうだろうか?中野のタコシェや新宿の
何度も繰り返し考えて、言ってきたことを、また言っていた。
「そうね、それしかないわね・・・・・」
即座に、万優子も同意はするが、内心自身の言葉も言い古され信じていないにちがいない。
「トンコ堂は、他のミニコミ冊子も扱っているから、もしかしたら木版漫画の冊子も扱ってくれるかもしれない。ここの営業を足掛かりにして、
私も話しながら、なんだか自己暗示でも掛けている気分になった。
此岸の日々 藤宮史(ふじみや ふひと) @g-kuroneko
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