河畔の葬儀

藤宮史(ふじみや ふひと)

第1話

 旅情りょじょうさそわない、閑寂かんじゃく園部そのべの駅舎を出ると、駅舎の東口は、まだ三月のなかばをすぎた頃なのに、白く乾いた砂埃すなぼこりが舞っている気がした。

 先程さきほど、閑寂と書いたが、しかし、駅舎えきしゃが小さいわけではない。むしろ無用に大きい。がらんどうの印象である。やけに大ぶりのつくりであるが、駅舎全体はあかじみていて、くすんでいる。

 私は、重い荷物を駅のコインロッカーに預けようと思うが、駅にも、駅前にもそれらしい所はない。それどころか開いている蕎麦そば屋、ラーメン屋のたぐい、飯屋めしやの一軒も見あたらず、狭いロータリーには、欠伸あくびをした客待ちのタクシーが、一台停まっているだけである。ここには何もない。駅前ではない町の中心部とうところがあるのだろうが、私は知らず、駅前では何も用をたせない。


 私は、旅のまえに、あらかじめ地図で葬儀会場をしらべていたので、半分自棄やけをおこした気になってタクシー代を節約して歩くことにした。しかし、歩きはじめて一町いっちょうも行かないうちに、たちまち後悔した。荷物が思った以上に重いのである。手に持つと、手がしびれるほど重く、かばんを肩でかついでみたが、今度は肩が痛くてたまらない。しかし、駅前のタクシーまで戻って、わざわざ散財するのもしゃくにさわる。もうすこし、もうすこしと歩いているうちに半分ぐらいは歩いてしまった。

 はばの狭い歩道をあるいているが、歩道の右側は幹線道路のようで、行き交う大型車輌は歩道近くを猛烈な速度でけぬけてゆく。私は黒い排気ガスに辟易へきえきしながら歩をすすめる。歩道の左側は、足許あしもとの下に半町はんちょうぐらいの川幅の河が、鶯色うぐいすいろの水を緩慢に流している。

 この眼前の風景は、私の、今の気持ちを代弁しているような風景で、これから寝不足のからだを引きずるようにして義理の葬儀に参列するかと、暗然の思いであった。それに心細い。葬儀はこれまでに、ほとんど出たことがなく、不慣れである。それに意欲もない。

 歩いて、しばらくすると葬儀会場の建物が見えてきた。地図で見たとおり河沿いである。きっと太い道路ができる昔は、河原のなかに建っていた感じだろう。これは葬儀をするには相応ふさわしいかもしれない。しかし、なんとも荒寥こうりょうとした精神風景でもある。

 私は、建物に入るまえに、白いコートをぬぎ、ハンチング帽子をとった。コートの下は喪服である。喪服で町なかをうろうろすることもなかろうとコートを着ていたが、ほんとうは黒いコートがなく、あれば急いで非礼の白いコートをぬぐこともない。

 建物の入口で、葬儀会社のかかりの人の指示で受付にむかい、記帳をする。見知らぬ受付係りの三、四人の年配の女性たちが立ち並ぶなか袋香典こうでんぶくろを三つ差し出すと、記帳を三人分書けと言う。しかし、あいにく兄の住所をはっきりと記憶しておらず手帖てちょうを見ながらたどたどしい文字で書くことになった。書きながら、実に情けないような気持ちになって父親の名代であることも忘れ、参列はなしにして帰りたい気にもなった。が、また、すこしして、見知った親族の顔を見つけると、それまでの弱気も一遍に消し飛んでしまった。・・・・・親戚であると云う親和性と緊張感の相半あいなかばする感覚のなか、やはり赤の他人の作家同士の会合や展覧会のパーティーなどとは違い、親族は離れて疎遠とっても作家のそれとは異なるものを実感した。冷遇でも敵対されているのではない。攻撃にさらされているのでもない。このちがいは大きい。

 会場の雰囲気に戸惑っていると、喪主もしゅのいとこにいきなり挨拶あいさつされ、私はしどろもどろの返答しかできず、恥ずかしい思いをした。

 所在なくひかえの和室で立っていると叔母から声をかけられた。叔母と、しっかり話をするのは四十年ぶりである。私が子供の頃は、幾度か叔母の家に泊めてもらい世話になった。しかし、茄子なす嫌いの私は、食事のたびに出てくる茄子の味噌汁、茄子の漬物には心底閉口した。が、それもはるか昔日のことである。目のまえの叔母は、若い頃の叔母ではなく、今は膝がわるく歩くのにも苦労する人になり、すでに老境、長兄の死をしずかにいたんでいる。

 定刻になって葬儀はしずかに始まった。葬儀会社の司会者の手慣れたアナウンスの声で、葬儀は粛々と進行してゆく。僧侶が二人入場し、霊前に坐す。そして、ゆっくりと読経をはじめた。こうきながら払子ほっすをふる。また香を火にくべる。読経どきょうはつづく。濛々もうもうと白い煙が僧侶のまわりにたちこめ、僧侶の近くにすわる親族たちはかわるがわる延々とせていった。

 僧侶は読経しながら、時折剃髪ていはつの頭に手をやり不思議な仕草しぐさを見せていた。小さな青葉を一枚手にとり、経机きょうづくえの上の小皿の水に、青葉の葉の先をつけ、頭頂部あたりに水滴すいてきをたらす仕草である。それを何度か繰り返した。厳粛で、張り詰めた重々しい空気のなか僧侶の仕草は余りに不可解、滑稽ですらある。しかし、あらゆる作法、仕来しきたりとうものは斯様かようなものかもしれぬ。

 弔問客ちょうもんきゃく焼香しょうこう、つづいて親族の焼香。そして、寝棺ねかんふたをあけて花を入れ、名残をしむ。私にとっては二十五年ぶりの葬儀の参列であり、はっきりした記憶のなかでは、二度目の人の遺体との対面である。兎や猫の死に目には嫌とうほど何度もっているが、人の死に接するのは久方ぶりである。父親の名代みょうだいうこともあり、二人分拝んで伯父の冥福めいふくを祈った。

 棺を親族が数人でかついで霊柩車に乗せる。私も担がせて貰った。車に乗せる直前まで手を添えていると、ずしりと手に重みがきて、伯父の伝言が私のからだにくるようで、私の父(弟)への惜別せきべつが無言で重くきているようにも感取された。

 火葬場は園部の小山の中腹にある。人里はなれていない。もっとも、園部の町が華やかな京都市内から遠くはなれた僻村へきそんの様相なので、何処どこが火葬場であろうが問題はないだろう。

 しかし、老人養護施設のよこが火葬場とは、あまりにも準備が良すぎる。町営であるからなのか設備は簡素で虚飾がなく、さっぱりしている。素朴と言えばいえるが、東京暮らしの長い私の感覚からすると、いささか寒々しい気もする。

 火葬が終り、骨をひろう。焼き台は、いまだ高熱を発して、手をかざすと熱い。火葬場の職員からやけどの注意をうけ、焼き台を気にしながら骨をひとつ、ふたつと拾ってゆく。

 今の火葬は技術が進歩したものか、昔のものと比べて骨の焼き残りの状態がいい気がする。しかし、考えようによっては、焼き台の上に人体の形があまりはっきり残っていないほうが親族の感情としては好ましいだろう。

 西日本では、収骨しゅうこつは半分程度骨壺こつつぼにおさめて残りの骨は地方の寺で合葬がっそうするそうで関東人としては奇異きいな感もあるが、分骨ぶんこつの仕来りも、その土地ならではのものだろう。

 骨壺を火葬場近くの菩提寺ぼだいじに運び、初七日しょなのかの法要をとりおこなう。そこでは僧侶の読経につづき、親族の焼香しょうこう合掌がっしょう。そして、僧侶の説法になる。

 しかし、この僧侶も今回の葬儀は、随分勝手のわるい、りにくいものだったろう。葬儀をして貰った伯父は、この寺の檀家総代とうことで、しかも僧侶が子供時分に伯父から字下書きを教わっていたそうで、考えてみるに親族であるおいである私より余程伯父とのえにしは深いものであった。

 葬儀、及び初七日の法要は午後三時半にすべて終わり、私は一番下の叔父おじの車で園部駅前まで送って貰った。

 香典返しを葬儀の当日に手渡すとう習慣は如何いかがなものか。これも、この地方の仕来りなのか。かく、車で来ていない私としては大きな荷物鞄二つに、香典返しの紙袋二つを提げて、うろうろしなければならず困惑した。しかし、葬儀の当初から不要な荷物は宅配便で送るつもりでいたので、実際は、すこし困惑しただけであったが。

 私は叔父の車を降り、親族との通り一遍の挨拶。それから車は無情に、なんの感慨もなく走り去り、ひとりきり、ぽつんと無人の駅前に、多すぎる荷物を足許あしもとにしている孤立感はなんだろう。そして、葬儀のあいだ中張り詰めていた気持ちが、すべての行事終了と同時に一度に緩んで、不慣れな土地にひとりきり捨て置かれたようなその場の淋しさは隠しようもない。

 園部駅の東口には、駅から随分はなれたところに一軒だけコンビニがあった。私は、そこの露天の駐車場に荷物をおろし、屋外で喪服もふくの上着を脱ぐ。黒のネクタイをはずし、鞄からセーターを出し、着て、ジャンバーを着る。即座に、礼装のかしこまった気分から労務者風のすさんだ気分に転落してゆく思いであった。

 あらかじめ、寝不足で、疲れきって動けないだろうと予想して、園部にホテルを予約していた。このビジネスホテルのチェックインは午後四時である。コンビニで荷物の発送の手続きをしていると四時近くになった。


 疲れと眠気ねむけで倒れこむようにホテルの受付に行くと、受付にあかりはなく無人であった。申し訳程度のロビーらしき所も無灯で、しかし、暗がりのソファーには人影がある。

 私に、受付は無人だと話しかけてくる人は、泊り客であるのか設備工が着る作業服で煙草たばこを吸っている。暗がりに赤い煙草の火が、不穏な印象である。地方の、僻地のビジネスホテルの利用客とはこううことかもしれない。

 深夜一時すぎ、ベッドにせながら、私は何故なぜ、この園部のホテルの一室にいるのかと自問してみる。この町は、静かである。深夜になると駅前は人影もなく森閑しんかんとしている。〔完〕



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河畔の葬儀 藤宮史(ふじみや ふひと) @g-kuroneko

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